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『紀子さん、ありがとうな』
そう私に零したのは、今は亡きお舅だった。
――ああ、これは夢だ。
ただの記憶の欠片。
それでも孫の誕生に、きっと会いに来てくれたのだと、私は心の何処かでそう感じていた。
そう、それはお舅の入院が明日に差し迫っていた日のことだ。
何ら染めていないままのお舅の髪に櫛を通し、私は髪を切っていた。
「紀子さん、ありがとうな」
切り終えた後に、お舅は私にそう零してくれた。
「どういたしまして」
そんなお舅に、私も笑みを覗かせていた。
明日は、お舅にとって再入院となるものだった。
取り除いた筈の胃癌が、二年を経て肺に転移していることが判明したのだ。
自覚症状は無く、誰もが信じられない心地であった。きっと早期発見に違いない。きっと、またよくなる筈だと誰もが願っていた。
検査を重ね、治療の方向性を病院と話し合い、放射線治療のために明日から入院することが決められた。
お舅はすっかり気落ちして、近頃ではすっかり塞ぎがちになっていた。
伸びるままに櫛を通さなくなった髪を見かねて『私が整えましょうか?』と、申し出たのが始まりだった。
「どうせ薬物療法に入れば、全部抜け落ちるって聞くよ?」
気乗りせずに、お舅は首を横に振った。
「どうせ――と、言われるものなら、私に切らせてみてはどうでしょうか?」
こんなこともそう無いことだと言えば、お舅は頷いてくれたのだ。
美容室ごっこ遊びのようで、私はなかなかに楽しんでいた。
それに懐かしかった。
というのも、私は祖母の髪も同じように切っていたからだ。
当時の私はまだ中学生だった。
学校から帰ると、施設に入った祖母に会いに行く。
最初はほんの風邪だと思っていたのだ。
それがあれよあれよという間に不調を来たし、祖母はウイルス性脳炎と診断された。
身体はある程度に回復しても、私のことはおろか自分のことも朧気になっていた。
「お祖母ちゃん、紀子です」
毎回、自己紹介から始まる成り立たない会話に、次第に虚しさを覚えていく日々。
――どうせ会いに行っても、分からないもの。
次第に億劫に思うようになっていた。
そんな私に、お世話になっていたソーシャルワーカーの指導員さんは、介護の心得を教えてくれた。
「『どうせ――』を心に作り始めるとキリがないの。だから、その言葉に抗い、抗わせることが『正しい介護』なの」
どうせ寝たきり。
どうせ誰にも会わない。
どうせ何もできない。
どうせ――死ぬだけ。
『どうせ――』そんな、投げやりな想いが重なれば、行きつく先は人権をごっそり奪い取った、失うだけの介護になると教わった。
「介護は何重苦と言われるだけあって、どんなに綺麗ごとを言ったところで、楽しいことは少ないの。だからね、少しでも面倒な時間だと思わない方法を、自分なりに編み出しながら、折り合いを付けてお世話をさせていただくの」
「私が此処に来る意味があるのでしょうか?」
施設は完全看護だ。
「それはあなた次第。あなたは何をしにお祖母ちゃんに会いに来ているの?」
「……」
「目的がはっきりしないなら、作らなきゃね」
「目的……」
私は祖母を見遣った。
何も分かっていない様子で、自分の指先を持てあまして遊んでいる。
昔の祖母は、しゃんと背筋の伸びた凛然とした人だった。
――最後まで、ああした祖母であって欲しい。
私は祖母を身繕いすることを始めた。
髪を整え、綺麗にしてあげると祖母が何処か溌溂として見えた。
それに、そんな祖母に話しかけて来る人も増えていた。
「あら、おばあちゃん。綺麗にして貰って良いわね」
「お化粧までして、どちらにお出かけ?」
周囲からのそんな声が次第に誇らしくなる。
私は祖母を着飾らせて、「どう?素敵な祖母でしょう?」と、ひけらかしていたのだ。
少々時間は掛かったが、我ながらなかなか格好良く切れたと、満足に頷く。
「どうですか?」
「巧いね。お陰でスッキリしたよ」
そう零して、お舅は鏡を眺め見ていた。
「お義母様に会いに行くのですから、格好良くしないとさまになりませんもの」
お舅の入院先はお姑の勤める総合病院だ。
「それはまた……斬新な捉え方だね」
「斬新も何も事実ですし、それにどうせならば、そう思うことにしませんか?」
これから闘病に入るという不安でしかない状況で、無神経なことを口にしているのかもしれない。
それでも、少しでも前向きに捉えて欲しかったのだ。
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