隠し事の勧め

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 春の細い雨が、紗を降ろしたように吹き荒れ始めていた。 さわさわと騒いだ音がアスファルトの地面を打って、次第に雨足は強まっていく。 ――たとえ傘があっても濡れるかもしれないな。 俺は内心で舌打ちながら、紀子らの凱旋を快く迎え入れてくれない天候を呪っていた。  本日、紀子と悠真(ゆうま)――俺と紀子の子は、晴れて退院を迎えたのだ。 「傘を持って出るのを忘れたから、少し待っていてくれ」 車を出ようとすると、紀子が俺の袖を引いた。 「ずっと、心に折り合いを付けていたの?」 紀子は痛ましげに瞳を揺るがせていた。 その妙に意味深な顔付きに、俺はハッとする。 ――まさか紀子は気付いたのか? 俺が、俺たち兄弟が、父の血を引いた兄弟ではないかもしれないことに……。 俺はごくりと息を呑む。    先程、退院を前にした検診結果を告げる医師に、俺は尋ねていた。 どうして新生児の血液型を調べないのかと――。 それで紀子は気付いたのかもしれない。  医師からは、新生児の血液型は母体の影響を受けて、まだ不安定である為に、しっかりと判定できないからだと説明を受けた。 そして血液型の判定には、4才以降が望ましいと告げられる。 「そんなに先になるのか……」  落胆もあったが、判定を先送りされたことに、少しばかりほっとしている自分もいた。  今更、俺たち家族の間に波風を立てる必要があるのか、俺には分からなかった。 「まだ、俺は心の整理がつかない」 紀子には、正直な心境を口にした。 「なら、そうやって気遣ってくれているのも、仕方が無いからなのね」 紀子はハラハラと涙を零し、下唇を噛んだ。 「お、おい、紀子……?」 何をそんなに泣くのか分からなかった。 ――それともそんなに泣くほどに哀しいことなのか? 俺は狼狽えた。 俺の母にかつて過ちがあったのかもしれないが、それでも俺たち兄弟の母親には違いないのだと、紀子には分かって貰いたかった。 「誰でも過ちはある。そうだろう?」 「過ち――?過ちだって言うの?」 紀子は口元を抑えて、嗚咽を何とか堪えようと必死だった。 「お、おい、ショックなことは分かるが、落ち着いてくれ」 紀子の肩を擦ろうとするも、その手を振り払われてしまった。 「私のこと、何も信じてくれていなかったのね」 紀子のことはこれ以上に無いほど信じているし、大抵のことは意思疎通できていると自負もあったというのに、今、何が起きているのか俺にはまるで理解できなかった。 「何を思って、この子の血液型にそうもこだわるの?」 真実を知りたい。ただそれだけだ。 俺は母を悪戯に傷付けたいわけでは無かった。 「あなたと私の子供ならA型でしかない筈よ。なのに、どうして敢えて調べる必要があるの?」 それが疑わしいからだ。 ――って、え? 紀子は気付いたのではなかったのか? 「この子は私とあなたの子で間違いないもの……!」 ようやくにして、俺は紀子が何を疑っているのかが分かった。 紀子は俺に不貞を疑われていると思っているのだ。 「私を……信じられないなら、もうあなたの妻ではいられないわ」 紀子が、今、この時、俺との間に線を引いたことが分かった。 『さよなら』――紀子の瞳が、それを意味して哀しみに歪む。 震える唇が、俺にそう告げようと、今にも開かれようとしていた。 ――誰が、言わせるかよっ……! 俺は紀子の唇を塞いでいた。 そんな否応無しの強引なキスにも、紀子は抗わなかった。 悠真をその手に抱いていたから抗えないと言った方が正しいが、俺はそれを逆手に取って、動けない紀子の唇を丹念に味わった。 ――すまないが悠真、此処は黙って父さんを応援していてくれ……。 紀子はただひたすらに俺を拒んで身を縮こませ、きつく目を閉じていた。 それでも俺を感じていることは知っていた。 その証拠に喉元が震え、上気する息遣いが漏れ出ている。 「……はぅ……ぅん……」 引き結んでいた唇が遂に僅かに開いた。 隙を突いて深く、吐息を絡めることに成功する。 「――ゃ……だ」 可愛らしい悩まし気な声音は、何ら抵抗しきれていない。 ――紀子、俺から逃れられる筈ないだろう? 涙を拭う代わりに、キスで舐め取る。 「疑ってない」 紀子は目を開けた。 その瞳を見れば、一目瞭然に心が揺らいでいた。 「嘘つき」 紀子は精一杯の抵抗に俺を睨み据えているが、もうグダグダであることは明白だった。 「そんなに疑うなら何度でも慈悲を乞うけど?」 俺はまた紀子に顔を近づけた。 怯んだ紀子の瞼にキスを贈る。 「悠真は間違いなく俺と紀子の子だよ。宇宙人の子でもなかった」 真顔で言えば、紀子は耳を疑うように目を瞬いた。 「う、宇宙人?」 俺は言い訳を並べ立てた。 恥ずかしさのあまりに少しばかり早口になる。 「十年だぞ?十年もの歳月、紀子を抱き倒して出来なかったんだ。不意に現れたならそう思うさ」 馬鹿らしくて明かせなかった秘密を打ち明けた。 「不貞なんて最初から疑っていない。紀子が俺に溺れていることは知っているから」 違うのか?と、俺は完全に開き直った。 「もう、もう!本当に大馬鹿じゃないっ!!!」 顔を真っ赤にするも、紀子は泣き笑っていた。
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