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親の意に沿い、大人しく眠ってくれていた我が子に、俺は目を細めた。
「悠真が父さんを支持してくれて助かったよ」
『ありがとうな』と、稚い悠真の小さな握り拳に指の甲を当てた。
「男同士で結託するなんて、狡いわよ」
口を尖らせるも、紀子も穏やかに微笑んでいた。
「そもそも紀子が俺を疑うからだよ」
目尻に残る涙を指の腹で拭ってやる。
――また俺が泣かせることになったじゃないか。
俺は小さく嘆息して、紀子の薄い耳たぶを摘まんだ。
昔、ピアスを開ける、開けない問題で言い争ったことのある耳だ。
勝者は俺、紀子の耳を飾るものは全てイヤリングである。
代わりに俺はイヤリングをプレゼントする羽目になった訳なのだが……。
そんな遠い昔を思い出しながら、不服を口にする。
「まったく、俺を切り離そうとするなんてどういう了見なんだ?」
「あのね、そもそも真司さんの言葉が至らないから、私に勘違いをさせているのよ?」
「だからこそ態度で示したろう?ちゃんと伝わったのか?」
尊大な笑みを零す俺に、いつの間にか紀子は真顔を向けていた。
「な、何だよ?」
こうした顔をする紀子をからかうことは、もう出来ないと知っている。
「はぐらかさないでちゃんと教えて欲しい。でないと私──」
また不安になると、紀子は小さく零した。
紀子は俺の顔色を窺い見る。
「真司さんはずっと、何かを気に病んでいるみたいだったもの」
紀子には俺の杞憂が見えていたようだ。
下手に隠し事をしていたがために、随時と不安にさせていたようだと反省する。
「何をそんなに気にしているのか、私には話せない?血液型に何があるの?」
こうなってはもう誤魔化しは効かない。
「俺が不貞を疑っているのは、俺の母親だよ」
俺は紀子に白状するしかなかった。
「お、お義母さま?」
意外な名に紀子は目を瞬いた。
最初におかしいと思ったのは、俺の弟――尊の息子、大翔がO型だったことだと明かす。
「保育園で給食が始まるからと、フードアレルギーを調べていたことがあったろう?」
大翔は喘息に加えて、卵と小麦にアレルギーがあったので、その証明書提示が保育園に必要なのだと、由紀子さんは零していた。
正月に帰省してきた折りしのことだ。
一緒に食卓を囲むことが多い俺たちにも気に留めて置いて欲しいと、検査結果を紀子に見せていた。
「ええ、そう言えばそんなこともあったわね」
鶏肉や乳製品にも僅かに反応があり、多くは食べない方がいいかもしれないと、大翔の食べるものに二人で気を配っていた。
「その時、母子手帳から血液型の判定書が一緒にまろび出てきたんだよ」
俺は何気なく拾い上げて、それを彼女に手渡していた。
保育園の手続きの書類に、子供の血液型を書く欄があったから、ついでに受けて来たのだと言っていた。
「判定を見ても、俺もすぐには気付かなかったよ」
そして、それは由紀子さんもだった。
『大翔はO型のくせに細かい作業が好きでね。ふふっ、そこはきっとお義父さまの血を受け継いでいるのね』
だからこそ、由紀子さんはそんな言葉を口にしていたのだろう。
単純にB型とO型の掛け合わせならば、O型であっても不思議はないから無理もない。
けれど、尊はABの両親を持つB型。
となれば、O型との掛け合わせであれば、産まれてくる子はB型でしかない。
「尊さんは気付いているの?」
「分からないが、おそらくは気付いていない。気付いたなら、尊は黙っていられるような奴じゃないよ」
何だって騒ぎ立てずにはいられないタイプだと言えば、付き合いの長い紀子も納得するところがあるように、頷いている。
「由紀子さんに至っては、そもそも知らないのかもしれないわね」
義理の両親の血液型など、話題に上った記憶は薄い。
二人に気づいたような節は特に見られなかった。
俺の話を聞き終えた紀子は、少しばかり思案して、考えを纏めるように口を開いた。
「大翔君の血液判定が時期尚早だった。あるいは、お義父さま、もしくはお義母さまが新生児の頃の誤った判定のままで、自身の血液型を認識しているとは?」
当時の大翔はまだ三歳と数カ月――あり得なくはないのかもしれないが、可能性は低い。
父や母にしても、あの年齢まで血液型を間違って認識しているとも考えにくい。
健康診断など、これまで目にする機会は往々にしてあった筈だ。
「弱いよな」
どちらも低い可能性だと、俺は頭を振った。
「それでも、お義母さまに限って――という話よりは、ずっと高い可能性に私は思う」
そう小さく零した紀子は、心許なく俺を見遣った。
「弱いかもしれないけれど……そう思うことにしておかない?」
母が墓場まで持って行こうとしている隠し事であるなら、胸の内に仕舞っておくことが、きっと優しさなのだろう。
俺たち家族が、あるべきところにきちんと納まっているならば、それが賢明な選択であるとも思う。
だけど、俺は――。
真実を知りたいとする我を抑え切れずにいる。
頷くことが出来ない俺を、紀子は窺い見た。
「そうするのは無理な話みたいね」
「ん、波風を立てることになるのかもしれない」
寛容に済ませる選択を俺はやはり選べなかった。
紀子はそんな俺を非難するでもなく、俺の気持を酌むように頷いた。
「大事なことだもの。真司さんには知る権利があるし、気付いてしまったのなら、お義母さまはきちんと話してくださると思うわ」
俺は同意に相づちを打つ。
「でも、尊さんたちが何も気付いていないのなら、私たちはお義母さまの意に沿って、隠し通さなければならなくなる。きっと、お義母さまも誰も傷付けたくないと思ってのことの筈だから」
弟夫婦には悟らせてはならないと言うのだろう。
「ああ。俺もそのつもりだったよ」
俺だけの胸に秘めておくつもりだった。
そもそも紀子にも話す気はなかったのだ。
寝た子をわざわざ起こす必要は無いとする俺に、紀子は口を堅く引き結んで頷いた。
──意を固めてくれた紀子に水を差すようだが……。
「ああ、でも、紀子は余計な気を回さなくていいからな。今は自分の身体と悠真のことだけを考えてくれ」
その為に黙っていたというのに、夫婦の間で隠し事をする難しさを俺は痛感する。
もしも、母が父にも黙していたことだとするのなら、その負担とは如何ばかりのものなのか、少しばかり畏敬の念を抱いてしまった。
紀子は口を尖らせた。
「あら、いいのかしら?そんなことを言って」
俺は紀子のことを労わっているだけだというのに、何故か急にむくれた顔をしている。
「?」
「此処は『はい』と、素直にあなたの意向に沿うけれど、妻が夫を想うのに余計なものなんて一つもないと心に書き留めて置いてね」
胸元を小突かれ、ようやく俺の何がいけなかったのか思い至る。
どうやら、俺はまたしても言葉の至らない夫であったようだ。
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