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紀子たちが退院を果たしても、ひと月の間は床上げもせずに身体を労わることが務めになる。母子ともになるべく寝室で横になって過ごし、育児だけに専念できるように俺が主体となって、家事をこなさねばならない。
そんな意気込みの元、俺は父親として身の引き締まる思いで、玄関の扉を開いた。
「随分と遅かったのね」
玄関を開けた俺たちを待ち構えていたのは、俺の母であった。
「た、ただいま……」
仁王立ちのその姿に、どうしたことか意気込みが挫かれる。
「お母さま、いらしてくれていたんですね」
一方で紀子は、ぱぁと遣り手の営業マンさながらに、すかさず口角を上げていた。
母は紀子が腕に抱く孫を一目見るなり、目尻を緩めた。
「紀子さん、大役をお疲れ様でしたね。家を綺麗に整えて、今か今かと待ち望んでいたのよ」
確かに玄関も先へ続く廊下も塵一つない様子に磨き抜かれている。
「は、はい。お待たせいたしましたね」
母はいそいそと紀子の抱く赤子に手を差し出した。
「疲れたでしょう?赤ちゃんは私が預かるから、しっかりくつろいで頂戴ね」
くつろいでも何も、此処は間違いなく俺と紀子の居住まいである。
「はい。お心遣いをありがとうございます。嬉しいです」
紀子は従順に赤子を母に預けている。
「さぁ、悠真。お祖母ちゃまよ。よろしくね」
いそいそと赤子をリビングに連れ去って、もう紀子にはお構いなしのようだ。
頬ずりする勢いで口元を緩めている母を、紀子は微笑まし気に見送っていた。
「ったく、相変わらずのマイウェイだな」
「ふふっ、あんなお義母さま、初めて見たかも」
紀子は声を潜めて笑みを口に含んでいた。
「そうか?大翔の時もあんな調子だったぞ?」
お陰で由紀子さんにはさぞや疎まれたことだろう。
「なら、私の前では気遣われていたのね、きっと」
子供を望めなかった義娘を慮ってくれたのだろうと、紀子は笑みを深めている。
こうした考え方の出来る紀子を好ましく思うと同時に、俺は不思議に思わざるを得ない。
――疎ましいとかそういうのは、紀子には無いのだろうか?
普通は姑にこうも寛容にはなれないものだと思うのだが……。
悠真のこともすんなり預けていた。
母親の防衛本能として、ああもあっさりと我が子を手渡せるものなのだろうか?
「なぁに?」
今の俺を映したような顔付きで、紀子は不思議そうに俺を見上げた。
「いや、厭な気持になったりしないものなのかなと思って」
俺が何を言わんとしているのかを察して、紀子は肩を竦めた。
「お義母さまでなかったら、分からないわ。不慣れな私が抱くより、悠真は安全でしょう?」
ベテランの看護士で、心強く思わない筈がないと紀子は言う。
――まぁ、それは確かにそうだが……。
事実として、俺は悠真を自ら抱いていない。
まだ首が据わっておらず、捥げそうで怖い。
看護士に抱き方を習った時に一度だけ試みたが、心許な過ぎて音を上げた。
俺が悠真を抱く時は、紀子に俺の腕の形に沿うように悠真を置いて貰っているだけだ。
不甲斐無い父親で申し訳ないが、せめて首が据わってからにして貰いたいというのが切実な声だった。
しかしながら、あの母の強引さは軽く引くものがある。
いくら合鍵を手渡されているからと言って、何の了解もなしに上がり込んで来るものだろうか?
そしてそんな姑をあっさり受け入れている紀子には敬服する。
『俺でさえ身が縮こまるぞ?』
地獄耳を恐れてそっと、耳打ちする。
「最初のうちはね」
紀子は舌を出して、クスリと笑った。
「でも、触れたら触れただけ温かいと分かったもの。強引って、人に優しい人でないと本来は出来ないことだと思うもの」
紀子は少しだけ切なげに目を伏せた。
そんな紀子が何処か心許ない顔をしているように、俺の目には映る。
「紀子……?」
「へへっ、真司さんもありがとうね」
――っ……。
そうかと思えば不意に、はにかんだ笑みを覗かせるのだから堪らない。
「急に討ち取って来るなよ……」
しっかり者として定評のある紀子だが、たまにこうした甘えた笑みを覗かせる。
「そういうの、俺だけにしとけよな」
会社の上司なんぞに見せていたらと思うと、気が気でなくなる。
俺の精神衛生上によろしくない。
「へっ?なに、何の話?」
何でもないと首を横に振る。
「お帰り、紀子」
俺は紀子を労わるように、その温かい背を促していた。
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