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常々思うが、俺の母はいつだって先手必勝で打って出て来る。
「産後のケアこそ大事なの。紀子さんがきちんと休めるように、何でもかんでも仕事の所為にしていてはダメよ。今どきの男は仕事も家庭もしっかり勝ち取っていかねばね」
例によって、例の如くのっけからこれである。
どうやら俺が素直に頷くまで、お帰りいただけそうにない。
「分かっているよ。俺も育児休暇を取れるように申請しておいたから、今日からひと月の間は仕事を休める」
どや顔で俺は腕を組む。
「えっ!?そ、そうなの?」
驚いて俺を見上げたのは紀子だった。
「ん、紀子の会社はそういうのは進んでいないのか?」
育児休暇は企業によって随分と扱いに差があるのが実情だ。
俺の会社ではようやく男性陣の間でも、育休取得者がチラホラと臨めるようになっていた。
そうした動きを途切れさせずに次代に続かせるためにも、率先して取るように推し進める働きが見え始めていた。
勿論、その皺寄せは幹部クラスを始め、残された者らで担わなければならないから、賛否は別れている。
今回、主任クラスの俺が取ったことで、一層に若手は続きやすくなる筈だった。
――助けられた者は、きっと今度は助ける担い手になる。
『男が育児休暇なんて取るなよ』
『まったく、今どきの若い奴らは仕事に向かう姿勢がなってないよなぁ』
助けられて来なかった者らほど、男性の育児休暇を辛らつに批判している。
だからこそ、俺たち助けられた者は、より良い環境であってこそいい仕事に繋がるものだと、示していかなければならない。
母の言うように、勝ち取っていかねば、何ら得られるものではないのだ。
紀子は俺の立場を慮り、心配する顔をしていた。
「うちでは女性がかなり優遇されていて、その分、男性にはまったく浸透していないの」
紀子は申し訳なさそうに肩を竦めた。
「そうか、でも紀子は優遇される立場で良かったよ。保育園を見つけるのも大変だと聞くからな……」
紀子は出来ることなら仕事を続けたいと俺に申し出ていた。
少子高齢化に伴う人材確保の懸念から、育児や介護を理由に職場を離れざるを得ない環境を変えていこうとする動きは、企業側でもチラホラと見られるようになってきている。
紀子の勤め先では、未就学児を持つ親はノー残業が課せられているらしい。
「それもまだまだ女性だけに限定されているのだけれど、有難いことよね」
あまり遅い時間帯の電車に紀子が独りで乗ることがなくなるのも、俺としては嬉しい措置だった。
「問題は預け先だな」
俺も、それにバリキャリの母も紀子の気持ちを汲んで、互いに協力する心構えではあるものの、預け先がきちんと定まらないことには復帰の見通しは立てられない。
「ようやく、今どきの男どもは話が分かるようになってきたというのに、政府は何をやっているのかしらねぇ」
認定こども園なども増えてきているが、やはりまだまだ遥かに需要の方が多い。特に乳児クラスは切実だった。
俺は眉根を寄せて、紀子の額に手を掲げた。
「それよりお前、少し熱っぽくないか?」
「んー。そうかも。でも、病気ではないと思う」
紀子は頭を振って、大丈夫だとする。
「病気じゃないなら何?」
「多分、その、血が滞っているのかもね」
肩も凝っている様子で、紀子は肩や首を回した。
後で何とかするという。
「何とかって?」
俺は訝しんで益々眉根を寄せた。
「えっと、その……まぁ、何とかよ」
紀子は言葉を濁すように、はっきりと言わない。
「私が何とかしてあげるわよ」
紀子の様子を見かねて動いたのは母だ。
母は母子の仮寝室としている和室に紀子を誘った。
紀子は紀子で、僅かに顔を引きつらせているが、何だか心得た様子である。
訳が分からないまま、俺もその後に続こうとすると、鴨居の下で母が通せん坊のように立ち塞がった。
――またしてもこの下りをするのかよ……。
お次は何を言ってくるのか、俺は身構えた。
「あなたは夕飯の準備ね。そうね、香辛料の多いカレーとかはダメ。それに辛いもの、こってり油の多いものもね」
俺は買い物にでも行って来いと、命じられてしまった。
更には注文も多いと来る。
「フム……」
――これは、鍋だな。
湯豆腐と豚しゃぶ。
それに春菊と水菜浮かべておろしポン酢ってやつにしよう。
美味そう……。
「……日本酒かな」
それも冷酒で決まり。
紀子と悠真のことは母に任せておけば良いだろうと、俺は台所からエコバックを取り出してきて、最後にもう一度和室に向かって声を掛ける。
「んじゃ、行ってくるけど。他に何か買ってくるものはあるか?」
開かずの扉と化した和室からは、何ら返事は返らなかった。
――ったく、何だってんだよ。
紀子の体調が悪いなら、俺にも分かるように説明しろよな……。
仕方なく、そっと聞き耳を立てようとすれば、母のどやした声が鋭く飛んできた。
「取り込み中なんだから、あんたはさっさと行ってきなさい。詳細は後で紀子さんから聞けばいいから」
何をしているのか、母は何だか息を上げている。
なんだか柔軟体操でもしているかのようだ。
「えっ!?そ、そんな、し、真司さんは、知らなくていいです」
そして、紀子の慌てる声。
「何を言っているのよ?あんたたち夫婦なんだから、しっかりやってもらいなさい」
何やら俺を介入させるか否かで揉めているようだ。
「ふぇっ!やっ、いえっ!む、無理ですっ!」
こうも母に反抗する紀子など珍しいが、声音は必死を呈している。
「ぜ、絶対に……くぅ、お、お義母さま、お、お手柔らかに……ったぁあ」
そして、紀子の悶絶する声が漏れ聞こえてくる。
「だ、大丈夫なのか……???」
俺は襖越しに狼狽えるしかない。
「おい、開けるぞ?」
何をしているのか、何だかよく分からない。
「ひっ、だ、大丈夫!大丈夫だから、い、行って……くぁ……もう、行って!!!」
まるで陣痛を遣り過ごしているかのような、悲鳴に近い声音は不安でしかなかったが、俺は必死に訴える紀子の意志を優先させることにした。
鬼気迫るような声には逆らえない。
ただ、推測するに人の子の親となることの大変さを思う。
そして、俺は心底男で良かったと思うのだった。
後に、それが乳の出をよくするための授乳マッサージだと明かされた時は、俺はどう反応すれば良いのか非常に困ったことは言うまでもない。
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