隠し事の勧め

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 哺乳瓶に粉ミルクを秤入れて、お湯を注ぐ。  ゆらゆらと揺らせて、ひと肌になるまで冷ます。 ――ひと肌って、40度ないなら随分と(ぬる)いよな。 給湯器の表示温度は42度。 「ひと肌になったら哺乳瓶の色が変わるとか、そういう機能があったらいいのにな」 よく分からないから、少しだけ掌に出して舐め取った。 予想以上に甘かった。 プリン液のそれほどには甘く感じなかったが、脱脂粉乳より濃い。 「まぁ、熱くは無いかな」 ほど良い感じだ。 「あまり冷えていると赤ちゃんが下痢になることもあるみたいよ」 紀子が俺の後ろから顔を出す。 ほかほかと温かい蒸気を纏っているのは、風呂に入っていたからだ。 「やっと湯舟に浸かれて幸せです」 こちらはこちらで甘そうな笑みを零している。 紀子は出産から一カ月を経て、晴れて入浴の許可が下りたのだ。それまでは、シャワーだけで済ませていた。 「ん、でもちゃんと温かい恰好をしていろよ」 梅雨を迎えた今、朝からずっと降り続けているため少しばかり肌寒かった。  俺はいそいそと悠真にミルクを運ぶ。 今や悠真を抱くのも手馴れたものだ。 「ははっ、ごきゅごきゅ凄い勢いだな」 粉ミルクは母乳よりも飲みやすいと聞くが、一気飲みのように減りが早い。  三時間おきに夜中も起きて授乳しなければならない紀子は大変なのだろが、俺はこの時間が楽しみだった。  最初の頃はともかく、今となっては母による(地獄の)授乳マッサージなるもののお陰で紀子の乳の出は良く、粉ミルクに頼る必要は無いのだが、日に一度、紀子は俺と悠真のふれあい時間を設けてくれていた。 「産みの苦しみって聞くけれど、すっかり忘れてしまうから不思議。二人目、三人目なんて、とんでもないわって思っていたけれど、もう身体は次に向かっているの。ふふっ、母親って逞しい筈だわ」 まるで他人事のように紀子は言う。 まぁ、うちは一人目も奇跡と呼べるものだ。 二人目、三人目など他人事には違いない。 ――流石になぁ……。 十年で一人なら、三人目の時には俺たちは五十代だ。 『無い、無い』とは、強がりだろうと、やはり言わないでおく。  それでも、そんな大口を叩いている紀子に苦笑する。 「ついこの前まで、痛みとの闘いにすっかり疲弊していたくせに……」 ホルモンバランスの影響もあるのかもしれないが、紀子はポロポロと涙を零して授乳に挑んでいた。  飲み手の悠真も新米、母である紀子も新米。新米同士では授乳一つとっても試練であったようだ。  悠真は上手く飲めずに泣き喚くし、そんな悠真に嚙り付かれた紀子も泣いていた。  そんな二人の姿に俺も可哀想になって、粉ミルクで良いのじゃないかと提案したのだ。 『だって、母乳の方が免疫力は高いって言うもの』 出ないと言うならまだしも、痛みに負けてだとあっては、母親として怠慢ではないのかと、いつの間にか紀子の内で強迫観念が渦巻いていた。  育児書なんかには確かに母乳の効果を謳っているが、粉ミルクで育った者も母乳で育った者も結果、違いなんて分からないと言えば、紀子は半べそを掻きながらも頷いていた。  母親とは大変だと、脆くてか細い背を撫でているうちに、紀子は俺の腕の中ですっかり爆睡してしまったこともある。  脆さの原因は睡眠不足によるものだと腑に落ちた。 「ん、真司さん。その節は色々と助かりました。ありがとうね」 ニヘラと完全に油断した笑みを零す紀子は、素っぴんというのも手伝って、まるで少女のように愛らしい。 これは完全に反則だろう。  俺の禁欲生活はまだまだ先が長いというのに、まるで夫を顧みてくれていない。  これでは何だか割に合わないと、少しだけ俺も我を出すことにする。 悠真が眠ってくれたことをいいことに、ソファに座る紀子の膝に俺は転がった。  思えばこうしたことも、およそ一年ぶりかもしれない。 ――しでかした手前だが、何だか妙に緊張してくるな。 「へへっ、可愛いです」 お前がな……。 嫌味なくらいに俺は目を眇めた。 そして、勝手に決める。 今日は俺が猫でも文句は言わせない。
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