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私、立原紀子は十年の結婚生活の末に一児の母になった。
女は一生のうちに三度変わると言う。
思春期、母親期、熟年期がその転換期。
つまり、私は二度目を迎えたということだ。
「変わったのかしらね……」
自分では良く分からないけれど、確かに羞恥心は色々と落っことしてきたように思う。
出産とはそうしたものだった。
想像をはるかに超えて、なりふり構ってなどいられるものではないと知った。
私の場合はお姑に乳房をしこたま揉みしだかれるなど、滅多とない希少な体験までを果たしていた。
授乳マッサージ――授乳が上手くいかず、母乳がパンパンに張り詰めた結果として、授乳初期に起こりがちだという乳腺炎にならない為にも必要な処置だった。
これがめちゃくちゃに痛い。
マッサージと言えば聞こえはいいかもしれないけれど、あれは拷問に近い。
乳房に青痣が浮かぶほどの代物で、カチコチに凝り固まった乳房の血流を促すにはそれくらいに激しく揉みしだかないことには意味がないという。
乳房にいくら母乳が張り詰めていようと、回路が通じていないことには出るものも嘘のように出ない。
そしてうまく飲めない赤ちゃんの為に、哺乳瓶に母乳を搾乳する。
まさに牛の乳絞りと同じ要領なのだが、これも痛いほどに張り詰めたままの乳房では、苦悶に顔を歪めるほどに痛いのだ。
これまで、ほんわか、微笑ましいものだった授乳する母子の図とは、なんと上辺だけの見方だったのかと、私は激しく痛感した。
あれは優雅に水辺を漂う鴨と同じだ。
水面下では必死に掻き泳ぐ足がちゃんとあるのだと、見ているだけの者にはまったく分からない。
痛みと苦悩の背景の末に、あの温もりある美しい図が成り立っていることなど、世の多くの男性陣は元より、経験のない女性陣だって知らないことだ。
『世のお母さま方、そして赤ちゃん、よく頑張りましたね』と、全力で讃えたい。今後、授乳している母子を見れば、どこかしら後光が差して見えるだろう。
そして、何も讃えたいのは母子だけではない。
自身ではどうしても痛みに耐えきれずに力を込められないので、他人にして貰うのが一番なのだけれど、する方もかなりの労力なので大変なのだ。
私は脂汗だが、お姑は額に玉の汗を浮かべて頑張ってくれた。
それもこれも赤ちゃんが上手く飲めるようになるまでの辛抱、母親の乳腺回路がスムーズに開拓されるまでの辛抱だが、私の場合はおよそ一カ月を要するものだった。
けれど、その努力の甲斐あって、悠真は殆どを母乳で賄うことが出来た。
それに私は乳腺炎を起こして、高熱に浮かされるなどと言うことも無く済んだのだ。
そんな厳しくも愛ある授乳マッサージを私に施してくれたお姑には、感謝の言葉しか浮かばない。
何度も夫である愚息に施して貰いなさいと叱られたのだけれど、そこの羞恥心は落っことすことが出来なかったもので、私はその度にお姑に泣きついていた。
「真司さんは絶対に(お姑と違って)ヘタクソです!!!」
うっかりそんな暴言まで吐いてしまっていた。
なりふり構ってなどいられなかったのだ。
そこはあくまでも授乳マッサージとしての話だと聞き流して貰いたい。
それに事実として、あんな拷問のようなことを夫は私に施せないに違いない。
そこは経験豊富なお姑をおいて他に、頼れるものではなかったのだ。
悠真と遊んでくれているお姑を見遣って、私は拝みたい心地であった。
――本当に拝んでいたら絶対に叱られるけどね……。
季節の移ろいを楽しむことも無く春は過ぎ、夏があったことも気付けば過ぎ去って、秋などは瞬くほどの間だった。
そして、気を引き締めて迎えた冬も日に日に終わりを告げていた。
桜の時季がもうそこまでやって来ていると、私はしみじみと感じ入る。
産後は授乳との闘いだったと言っても過言では無いけれど、離乳食も本格的に入った悠真は、そろそろ卒乳を迎えようとしていた。
――なくなったらなくなったで、何だか寂しいものね……。
「真司はまだ残業続きなの?」
決算期を迎え、夫の帰りは常々遅かった。
「ようやく目途がついたみたいで、今朝は早く帰れそうだと零していましたよ」
伝い歩いて来た悠真を私は抱き上げた。
頬ずりを交わして、最後に頬にキスをするのが一連の流れである。
互いに笑みを交わして、また下に降ろす。
彼はまたリビングを伝い歩いて、次の目的を探す旅に向かった。
男の子であるせいか、彼の場合は言葉数より行動が多くを占めていた。
伝い歩きをするようになって、部屋中どこにでも行っては一人黙々と遊んでいる。
――後で散歩に公園に連れ出そう……。
小さな命はエネルギーの塊のように力が漲っている。
「後ろにひっくり返った時に頭を打ちそうで怖いですよね」
子供は石頭のようだけれど、ヘルメットを被せておきたくなる。
「そうね……。角にはどこもかしこも保護テープを貼ってあるから大丈夫だと思うけれど、高いところによじ登って落ちないように気を付けてね。それに、ハサミとか特に物の管理はしっかりして頂戴」
お姑からの的確なアドバイスの一つ一つを怠った時の、最悪の結果に頭を巡らせ、ぞっとする。
「はい、十分に気を付けます」
育児に慣れて来た今こそ油断大敵だと、私は身を引き締めた。
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