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『乏精子症』――精子の数が通常の半分以下であると判明する。
生殖機能が満たないのは俺の方だった。
何となく始めてしまった妊活は、とどのつまり、男として欠陥があると言い渡されることから始まった。
──俺は……。
そんな覚悟などまるでしていなかったと、此処へ来て知る。
何の根拠も無く、大丈夫だと、またしても思い込んでいたのだ。
──そうか、そういう検査だもんな……。
己の馬鹿さ加減に呆れる。
「大丈夫ですか?日を改めてご説明いたしましょうか?」
少しばかり、頭が真っ白になってしまったせいか、医師の話がまるで聞こえていなかった。
「あ、あなた……」
紀子に気遣われながら、袖を引かれて我に返る。
――ふっ、何て顔をお前がしているんだよ。
紀子の今にも泣きそうな――否、今にも吐きそうなほど蒼褪めた顔に、妙な話だが吹きそうになった。
お陰で心が少しばかり持ち直した。
大丈夫だ――。
俺の方だったのだから。
そう思うとまだ幾らか救いに思えたのだ。
おそらく、あの母のことがあったから、俺にもそう思えたのだ。
『あなた、私も癌だったって言ったら、どうする?』
胃癌を宣告され、絶望に打ちのめされた顔をして過ごしている父に、ある日、母はそう訊ねたのだ。
『もう、昔の話よ』
母は肩を竦めた。
そして、40代の頃に大腸癌を患っていたことを父に明かしたのだ。
俺は、それに弟も、知っていたことだ。
寧ろ、父が知らされていなかったことの方が驚きだった。
ちょうどその頃、父は仕事で思い悩んでおり、今よりも随分と取っ付きにくい存在だったと振り返る。
『あの頃は、色々大変なことが他にも重なっていたもの』
俺や弟の反抗期とか――と、俺たちは槍玉に挙げられた。
唖然とする父に、母はあっけらかんとした笑みを零した。
『私ね、私で良かったって思ったら、まるでたいしたことじゃないって、思えたのよ』
癌を患う確率は1/2と言われている。
親が癌を罹ったと知って、重苦しく思わない子供などいない。
当時、患ったのが私で良かったと母は闊達に笑い飛ばして、俺たち兄弟の頭をかなぐり撫でたのだ。
しょぼくれた父の背にそっと手を当て、母は儚く笑う。
『たいしたことないと思うことにしない?こういう時はクヨクヨしたら良いことないの。無理にでも笑った者こそ勝てるものよ』
経験豊富の看護士で、しかも勝者の母の言葉は重く、俺の胸にも響いていた。
「大丈夫です。すいません、もう一度お願いします」
「自然では非常に妊娠しにくい状況ではありますが、無精子症ではないので体外受精ならば問題ないとも言えます」
体外受精の術ついて詳しく説明を受ける。
理科の実験のように、机上では随分と簡単なことのように思えるが、それでも安易に楽観視は出来なかった。
リスクの全ては、妻である紀子が背負うものだからだ。
体外受精によるリスク――卵巣過敏症候群についての説明の途中で、俺は気分が悪くなって眩暈を覚えた。
リスクばかりを上げ連ねれば、おそらくキリが無いのだろうけれど、何ら問題のない身体の紀子に、リスクを背負わせる行為自体が生理的に受け付けなかったのだ。
――俺の所為で、もしも、もしも、万が一にそんなことになれば……?
考えただけでもぞっとして、指先が冷えてくる。
「し、自然に任せての行為で成り立つにはどうすれば?」
「漢方療法で体質改善が見込めれば、今よりも精子量を増やせることもあります。その上で、奥さんの排卵周期に合わせて性行為に及んでください」
既に紀子は基礎体温を記す習慣があったので、何ら戸惑うことなく受け入れていた。
「その程度のことでいいのなら……」
俺は安堵に息を吐き、それで様子を見ようという話で落ち着いたのだった。
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