隠し事の勧め

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 お姑はどこか遠い目をして、私を見つめていた。 「良かったわね」 何の脈絡もなく、ポツリとそう不意に零して微笑んだ。  ソファでくつろぐお姑の前に、私は淹れたばかりのコーヒーを据え置いていた。簡易なものだが、ドリップした上質な香りが鼻孔を擽る。 そろそろ卒乳なので、こうしたものも飲んでも構わないかと思ったけれど、やっぱり私には白湯にしておいた。 「今日は久しぶりに美容院に行けて助かりました。お義母さまのお陰で、良い気分転換になりました」 お姑のお休みに合わせて、私は午前中に美容院に行かせて貰ったのだ。 今回は少し時間を掛けて、ヘアパックも施した。 指通りの滑らかになった艶髪が嬉しくて、この日の私は随分と浮かれていた。 これまで髪質のケアなど随分と疎かにしていたので、本当に有難かった。 「お義母さま、お礼に少しマッサージでもさせてください」 長い時間を預けていたので、きっとお疲れのことだろうと申し出る。 「いやぁね、年寄り扱いをする気?それとも、嫁のゴマ擦りかしら?」 ツンデレなお姑らしい言葉である。 「あら、魂胆がバレてしまいましたね」 私は舌を出しながらも、骨ばったお姑の肩に手を伸ばした。 「私が上手いのはもうご存じでしょう?」 得意げになって私はお姑の肩こりを揉み解していく。  最初は軽く柔らかく、馴染んだ頃に少しばかり指先に力を込めてツボと思われる箇所を押す。  先ほど美容院でして貰ったように、首筋は指の甲を使って引き上げるように揉みしだいた。 「確かにね……」 気持ちよさげに、お姑は目を閉じながら口角を上げていた。  触れ合えば触れ合うだけ温かいと感じた最初は、いつだっただろうか?  まだ、結婚したばかりの頃だった。    早く心の距離を縮めたくて、いつも威厳たっぷりな雰囲気のお姑が崩れるところを探っていた。  そんな悪戯心もあって、私はマッサージを申し出たのだ。  させてくれないほどに心が頑ななら、私はまだそれほどに信用ならない嫁ということ。けれどさせてくれたのなら、その逆に、ある程度の信頼をされているという証。  お姑は難なく私の申し出を受け入れてくれたのだ。 内心で私が万歳三唱をしていたことは言うまでもない。 加えて、マッサージの腕にはそれなりの自信もあった。 掴みどころのない寡黙な父を相手に、その心を推し量りたくて、私は同じような手を使っていたのだ。 ――だって、威嚇する猫だって、次第にゴロゴロ喉を鳴らすでしょう?  お姑を猫と一緒にしている訳では無いけれど、油断したように身も心も解されている人に、私は身構えることは無くなった。    掌から伝わった体温は、温かくて愛おしい母のものだった。  いつまでも私の頭の片隅に残る母親――私を捨てて蒸発した母とは違う。 それでも、思い出す温もりは同じであった。 ――元気にしているのだろうか? そう穏やかに思い返せるようになったのは、子を産んだ経験からなのかもしれない。  あるいは、お姑のお陰なのかもしれないと思う。  私を義娘として迎え入れ、隔てることなく支えてくれている。 お姑の強引さはおそらくそうした愛情の裏返しだ。 何処までを計算し、母として私に心を砕いてくれているのかと私は思うのだ。  骨ばった血肉に触れて、人生の大先輩であるお姑の軌跡に私は勝手に思いを馳せていた。私がこれまで歩んで来た道、そして、これから歩む道を歩んできている方だと心強く感じ入る。 「あなたを見ていると、昔を思い出してばかりよ」 ポツリとまた、お姑が不意に口を開いた。 「昔――ですか?」 「そう、私には妹がいたの。若い頃、早くに死んでしまったのだけどね」 私は揉みしだいていた手の力を弱めて、聞き入った。 「妹さん……病気ですか?」 「そう。いえ、あれは事故ね」 「?」 「妹は子宮癌を患っていたの。その病院の帰りだったわ。足元をふらつかせて、事故に遭って……あっけなく逝ってしまった」 大きく嘆息し、お姑は私の手をやんわりと制して儚く微笑んだ。 「もういいわ、ありがとう」 話しはそこで打ち切られてしまう。 「あなたちゃんと母親になれた。良かったわね」 先ほどの、『良かった』は、此処に繋がるのだと分かった。 妹は子宮癌だったのなら、妊娠は見込めなかったということなのだろう。 よせば良かった。 よせば良かったのに、つい私は口を吐いてしまったのだ。 「尊さんは妹さんの子だったのですか?」 私が不妊治療にクリニックに行っていなかったら、おそらくは思いつかなかった発想だっただろう。 どうしたことか繋がってしまって、本当にどうしたことかお姑にシンクロしてしまったように理解できてしまって、口からまろび出てしまったのだ。 お姑は話す気など無かった筈だ。 無かった筈なのに、私が訊ねてしまったことで話さざるを得なくなってしまった。 『余計な気を回さなくていいからな』――真司さんの声が木霊した。
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