結婚の勧め

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 俺の異動の理由を知る水野は肩を竦めた。 「ああ、杉山代理ね。お前、ガチで喰って掛かっていたからなぁ」 少しばかり遠い目をして見せた。  水野は元来要領のいい男で、俺と同じ意見であっても巧く矛先を躱して、結果的に意見を通せる男だった。  一方で俺は押し通す方。 結果を示すことで反対派や保守派を黙らせるやり方が多い。 一目瞭然に事を進める方が百を説くより迅速だし、簡単だからだ。 水野のように風向きが変わるまで待ちの一辺倒ということが出来ない性質だった。 「従来のやり方に利点が無いならこだわるべきじゃない。反対する理由が分からなかった」 話の分からない代理を押し退け、内々で課長、あるいはその上役に談判して承諾を得たことが仇となり、俺は散々に目の敵にされたのだ。 とは言え、仕事は仕事だ。 感情論など挟む余地はない。 固めるために正式に立案書を出し、役員らから承認を得られさえすれば、代理の個人的な反対など通るものではなかった。 「反対した理由は、習慣的にやって来たことを今更変えたくないっていう心理だな」 「そんな後ろ向きな姿勢がまかり通せるかよ」 なのに――。 首を横に振っていた事案があくる日には通っていることに、代理は顔を潰されたとして激怒してきたのだ。  以来、俺は足を散々に引っ張られることになる。 厄介な仕事ばかりを回されることなど日常茶飯事。 タイミングを見計らっているのかと疑うようなところで、トラブルの事後処理を任せられ、契約寸前まで漕ぎ付けた新規顧客を奪われたこともある。 それに当然の如く俺の事案は通らなくなった。 多分、一度でも俺が謝罪を口にすれば丸く収まったのかもしれない。 「結局、意固地になっていたのは俺も同じなんだよな……」 俺は代理の指示を仰がずに済むよう多方面で顔を売ることにした。 面倒な仕事も快く請け負うなどして、コツコツと外堀を固めたお陰で取引先や上層部からは信頼というプライスレスを勝ち取り、結果として代理は益々地位を落とすことになったのだ。 それを当然の結果だと思えていたのはそこまでだった。 「この会社に俺の居場所はないよ」――代理は辞表を提出すると俺に告げたのだ。 定年まではまだ五年あった。 早期退職に追い込んだのは俺だ。 ――返って来たのは自己嫌悪しかなかった。 「割と最低だったな……俺」 「最低ではないさ、売られた喧嘩を真っ向買う馬鹿だっただけで。お前、あの頃はマジで仕事の鬼と化していたよな」 水野は肩を竦めた。  あの頃――それは、紀子が妊娠したばかりの頃でもあった。  仕事がそんなこんなで立て込んでいたので、まるで家庭を顧てはいられなかった。  家庭でもごたつくことを恐れて、俺は何となくのままにやり過ごすばかりで、父親になることに向き合おうとはしなかったのだ。  紀子もそんな俺を察しているのか、何も言って来ようとはしなかった。 ――だってそうだろう? 実質として俺の為すべきことなど無いのだ。 子供が出来た。実感は無かったが、それは喜ばしいことだ。 だからと言って、今日明日に産まれてくるというものではないし、俺にとって当面、先送りしてもいい事項だったのだ。 もしもあの時、偶然にあの夜、あの刻限に帰宅していなければ――? ぞっとする。  あの日、帰宅した俺は、紀子が独りで泣いていることを知ったのだ。 何でもないと、慌てて笑おうとしていたあの姿を見ていなければ、俺はずっと紀子を不安にさせたまま、何食わぬ顔で『ただいま』を言っていたのかもしれない。  頭にすぐさま過ったのは紀子の親父さんの言葉だった。 『家内ならば、大抵のことを呑み込んでくれると甘んじていた結果が三行半だった。気付いた時には遅いってのが、女の遣り口だよ』 これは不味いと、一息に焦燥感にかられた。  紀子は滅多なことでは弱音を吐かない。 大抵のことは事後処理報告が常で、そのほとんどを俺に頼ってなど来ない。 そんなことはとっくに知って随分だと言うのに、それに甘んじてしまっていた。    言葉に明確に表せない『何となくの不安』を、差し迫ったことではないとするのは、早期発見を見逃す行為に他ならない。  それは十分に見逃せない、話し合うに足る事項なのだと俺はようやくにして気付かされたのだ。
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