結婚の勧め

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 研修課目が部署ごとに分かれての対抗戦だったことが功を奏しているのか、二日目の夜ともなれば、同じ釜の飯を食った仲とは何とやらで、会話は弾んでいた。  勿論、研修期間中は夜であろうと酒は出ない。 社会人とはそう甘いものではないのだ。 それでもプライベートな話はチラホラ聞こえてくる。 「親がそろそろ結婚のことも考えろって、煩いんだよねぇ」 「うちも。でも、やっと仕事が面白くなってきたっていうのに、何かねぇ」 「分かる、でも婚期は逃したくないし」 「就活終わったら、今度は婚活かぁ」 社会人三年目の女性ともなれば、そんな話がだろう。 「俺なんか、学生の時から付き合っている遠距離の彼女にせっつかれててさぁ」 「うへぇ、まだ結婚なんて俺は考えてねぇよ」 「付き合い長いと責任感じて来るし、――今は無いならって、俺は先週別れたばっかだ」 「こっちは仕事のことでも(続くか)悩んでんのに、今はまだ――ってなるよなぁ」 こっちは、男性ならではのあるあるだ。  色恋沙汰の話で盛り上がるどころか、結婚となればトーンダウンしたところで、何やらこちらに気配が動いた。 「よし、此処は大先輩である立原、水野、両主任から、深良(フカイ)いプロポーズの話でも聞かせて貰って、今後の参考にさせて貰おうじゃないか」 研修ノートをメガホンのように丸め、茶化した眼で指名される。  既婚者に向けて、こうしたお鉢が回って来るのも、まぁ、あるあるだろう。 「おうっ!いいぜ。俺の話は長いぞ。朝まで寝かさんからそのつもりで聞く覚悟があるなら、話してやらんでも無いな」 ふんぞり返って、巧いこと躱すのは水野。 「や、巻きでお願いします」 「ざけんな、巻きで俺の愛が語りきれるか」 ポンと水野に肩を叩かれ、これまた丸投げされることもざらにあるあるだ。 俺は一斉に注目の視線を浴びた。 ――何を期待しているのかは知らないが……。 水野ように面白い返しが出来ない性質である。 「十年以上も前のことを覚えているかよ」 肩を竦めて終わる筈だった。 「じゅ、十年以上!?って、主任今、幾つなんですか?」 どうやら墓穴を掘ったみたいだ。 「……三十三」 「くくっ、立原は学生結婚だからな。崇めとけば、ご利益の一つでもあるんじゃねぇの?」 婚期ばかりが早かっただけだ。 「あるかよ」 そう言うも、皆は従順に手を合わせた。 それが水野の意味したような御利益祈願ならば、まだいい。 ――ご愁傷様です。 結婚観の低い者らからは、そんな声が漏れ聞こえている。 『結婚は人生の墓場』――そう譬えたのは誰だったか、記憶に薄かった。 「違うわよ、それ」 紀子が振り返って、ひとさし指を左右に振っていた。 懐かしいボロアパート、それに今よりも少しばかり若い紀子の姿に、それはまだ結婚する前だったことを思い出した。 「フランスの詩人、ボードレールの残した言葉が誤訳されて認識されているの」 「ボジョレー?」 「ボードレールだってば、ワインじゃないのっ!訳した人は酔っぱらっていたのかもしれないけどね」 紀子は腕を組んで憤慨する。 「で、本当は何だって?」 「愛する人と生涯を終える場所だって、本当は言いたかったのよ。当の本人は恋多き男性だったようだから、結果としてそういう結婚観を抱くに至ったのかもね」 「ふぅん、だから墓場な訳ね。そういう墓場なら喜んでって、俺は思うけど紀子はどう?」 「ふふっ、良いんじゃない?楽しそうで」 深く考えたようで、その実で心の導くままに出した婚姻届けだったように思う。  そんな記憶を手繰り寄せ、俺は『理想の上司』らしく、らしい言葉でこの場を締めくくることにする。 「就活では散々に試されて来ただろうけどさ、婚活は相手を試す気になるもんだろう?」 この相手で本当に良いのだろうか? そう、自問自答しながら、相手を値踏みする。 「多分、そうしている内は踏み込めない。手を取り合わなきゃ、墓場なんて怖くて踏み込めねぇよ」 結婚は勢いが大事――これはそうした話だ。
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