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用意してあったワイングラスを台所に仕舞い込み、私は菜穂さんの為に遅い夕飯を手早く整えていく。
シミひとつない春色のランチョンマットの上に、コトコトと所定の位置に器を据え置くその瞬間が、割と好きな時間。
何処かお茶を点てる時のように、慎ましやかな気持ちになるのだ。
――お茶なんか点てたことないけどね……。
『こちらへどうぞ』と、言うよりも早く彼女はその様を覗き込みに来た。
「うわぁ、美味しそうじゃん」
栄えるよう、彩を整えることは、それなりに得意とすることだった。
フードコーディネーターの資格を有する訳ではないが、仕事柄その方面の目が肥えているのだ。
私は広告代理店営業部門に所属する社内スタッフの一員である。
営業部門は細かくチーム編成されており、私は三上チーフの傘下に属している。
チームは小さな一つのカンパニー。
その中で私は営業補佐を担当し、チーフの手足となって動く秘書の役割にある。
社内の制作部門(フードコーディネーターやインテリアコーディネーターの資格を有するクリエーターが多く所属する)との橋渡しをする業務が多い為に、次第にそうした目が養われてきたのだ。
菜穂さんは合掌して、ふんわり出汁の効いた──意外にも牛肉から頬張った。
やっぱりお肉は最強。
「う、美味っ……」
私は緑茶を淹れながら、どや顔を向ける。
「ふふっ、和牛です。工場直送肉専門店が一駅先にオープンしたんです」
昼間に、散歩がてら悠真を連れて行ってみたのだ。
足を延ばした甲斐あり、手ごろな価格で大満足できる味だった。
「あんた、子供のうちからこんな美味いもの食べさせて、そのうちドカ食いされたら貯まらんよ?」
「おお、座布団一枚ですね。でも、肉そのものより、味の評価をくださいよ」
「ん、素材最高!味も薄味だけど、コクがある。でも、これくら良い肉じゃないと、この味では物足りなくないか?」
「そうなんです。流石は菜穂さん、食通コメントですね」
妊娠中は散々、『減塩』『減塩』を唱えられて、私は今やすっかりその呪中に嵌り込み、随分と薄味に慣れてしまったのだ。
お陰様で体重増加は阻まれ、今ではすっかり身体は元の体形に戻っていた。
糖分より塩分を抑えた方がダイエットに繋がるなど、目から鱗のことだった。
半信半疑で取り組めば、嘘のようにみるみる体重は減って驚いたものだ。
「でも、ガッツリ働き盛りの旦那さんは物足りないかもね」
「気を遣ってくれているのかもですが、文句を言わない人なんです」
夫は文句も言わないが、特にコメントもないのが常だ。
私のように百面相もしてくれないので、そこはよく分からない。
でもいつも綺麗に食べてくれているので、私もそれを不満に思ったことは無かった。寡黙な父を持つ身なので、それで構うことは無かったのだ。
「へぇへぇ。でもさぁ、出張中って心配じゃないの?」
「へ?」
「不倫とか、浮気とか。出張の醍醐味っしょ?今頃、若い女性社員と絡んでいるとか」
目を弓なりに、意地悪な物言いをする。
上げた座布団はすぐさま取り下げだ。
「夫はそんなことしません」
「――って、大抵の妻が信じているものだけどね」
菜穂さんは夫の浮気が原因で離婚した口だった。
「……」
給仕を終えた私は、向かいの席に腰を落ち着ける。
手元のお茶を啜りながら、私は見るともなく、菜穂さんの食べる様を眺め見ていた。
熱いみそ汁を啜って、菜穂さんは深く息を吐く。
「はぁ、臓腑に沁みるなぁ」
お酒はやっぱり、控えさせて正解だった。
何だか、元気がないように思う。
「……何かありましたか?」
少し煮崩れ気味のじゃが芋を危なげに箸の上に乗せて、彼女は一息に頬張っていた。
「新じゃがに、新玉の最強コンビが叶うのも今の時期だけだねぇ」
頷きだけで応じて、私は先を促すでもなく話を待っていた。
「セフレがね、結婚――しないかって。そんなけ」
セフレ――セックスフレンドの略。
その衝撃的な言葉が持つ威力ほど、重く思わないのは相手が菜穂さんだからだろう。
「どうして、恋人じゃダメなんですか?」
「そこぉ?」
茶化した目を向けられたが、私は真顔で頷いた。
「だって、菜穂さん。ちゃんとその方をお慕いされていますよね?」
さばさばした性格の、加えて少々、いや、大いにズボラな菜穂さんだが、しっかり女であることを押えた綺麗な熟女である。
出勤時、私にヒールのある靴を履くように勧めたのも、実は菜穂さんだ。
「女の格が上がるから、履いた方が良いわよ。口紅を綺麗に挿した女よりも、高いヒールをものともせずに歩く女の方が、男は舐めて掛からないから」
履いた女の方も視線が上がる。
上がった分だけ、男は一歩退くと教えられたのだ。
そんなカッコイイ憧れの上司は、セフレに身を預けるような人ではないと思うのが、私の普通だった。
「恋人なら、行きつく先が『結婚』って言うのが普通でしょうが」
菜穂さんはバツが悪そうに小さく息を吐いた。
「そこはもう、生涯に一度で十分だって割り切っていたのなら、セフレが正しい語彙よ」
もう一度踏み込む勇気が持てないと、菜穂さんは小さく零していた。
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