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踏み込む勇気を得たいのは、踏み込む気が既にあるからに他ならない。
――そう思っていたのだけれど……。
その実で踏みとどまりたいのかもしれないと、私は身構えてしまった。
「よし、始めようか」
菜穂さんは完全に仕事モード。
事案は『結婚』、賛成派と反対派に分かれてのディベート決戦。
何処からともなく、合戦時の法螺貝の音が聞こえてくるような雰囲気になる。
――えっ!?ナニコレ?
おめでたい話の筈が、どうしてこうも緊張したものに変わるのか?
なんだか大きくズレ始めていた。
菜穂さんは色恋を仕事に置き換え、現実逃避する気なのだろうか???
「お、お相手の方は菜穂さんと生涯を共にしたいというのに、嫌なんですか?」
質疑される前にドシドシこちらからすることにした。
心の整理は他人に幾ら聞いたところで無駄だ。
私は就活でそれを学んだ。
面接官はそれこそ脅しのように訊ねて来る。
そうやって相手から本音を引き出し、自己啓発を促すのだ。
「別に結婚せずともそれは出来るでしょうが」
一刀両断。
「しても出来ますけどね」
戦いの火蓋が切られた。
バチバチと互いの間に火花が散る。
――だ、だめだ。これは完全に菜穂さんのペース。
分かっているのに止められない。
「四六時中一緒に居れば、お互いの粗が見えて来る。これまで通り、良い時だけ会っていれば、お互い気持ちよく付き合える。違う?」
親しき中にも礼儀ありを失わずに済むと、冷ややかに菜穂さんは告げた。
これは完全に意固地になっていらっしゃる模様。
『セフレ』の言葉にしても、ドライでいようとする為に敢えて使っているように思えてならない。
「では、お相手の粗を菜穂さんはご存じないのですか?」
それほどに浅い関係性で、結婚の話が出るだろうか?
「いや、大抵のことはもう……」
――知っているし、知られている。
そう続けられずとも、菜穂さんの顔つきで分かった。
「互いの粗を知っていて尚、一緒に暮らしていきたいと思うのなら、それは素敵なことじゃないですか?」
やっぱり、おめでたい話だと、私はにっこりと納得に頷いていた。
なのに、当の本人はまだ納得できない様子である。
「いいね、楽天家は……」
ふぅうと、額を押えて頭を振られてしまった。
菜穂さんの傷は深いのだ。
経験の薄い私の声では届かないのかもしれない。
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