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菜穂さんは、難しくないことを、難しく考えすぎて、身動きが取れなくなっていた。
その様に、妊活をやめるか否かで思い悩んでいたかつての自分を思い起こす。
「ねぇ、菜穂さん……」
私はゆっくりと、穏やかな声音を意識する。
声とは不思議なもので、意識するだけで不思議とリラックス効果のあるα波を出せるのだと、何かの本で読んだことがある。
この案が如何に素晴らしいか、首を横に振ってばかりのクライアントを頷かせる時にも有効な手だと、私自身が実証済みでもあった。
「結婚は、互いに手を取り合って頑張りましょうとする契約書です。そもそも、怖いものではありませんよ」
結婚自体はそうした意味合いのものに過ぎない。
「『一緒に頑張ろうね』なんて、子供でも良く使うでしょう?」
それが確約になるだけのことだと、私は至極あっさりと事実を述べる。
「浮気や不倫、それらは結婚ありきではなく、その人ありきの事柄で、別問題ですよ」
結婚しようがしまいが、する人はするものだ。
「それともその方、そうも浮気性の方なんですか?」
少しばかり挑発してみる。
「あんた、私がそんな男と七年も付き合うと思うわけ?」
ほら、この程度のことでカチンときたでしょ?
やっぱり本気で好きなくせに、本当に素直じゃない。
「じゃあ、何ですか?ああ、まさかこれ、菜穂さん流の惚気か何かですか?」
手を打って、悪戯な笑みを忍ばせた。
「はぁあ!?何言って――」
「毛嫌いする理由がないのに、そんな約束くらいすればいいじゃないですか。減るもんじゃなし」
有無を言わせる隙など与えず、私は口を尖らせてお道化て見せた。
「あんたって子は……」
菜穂さんは降参を示して諸手を掲げた。
どうやらディベートは幕を下ろしたようだ。
「立原と話していると、私がどうも馬鹿みたいに思えて来るんだけど?」
「分かります。難しくないことを難しく考えていた時って、そういうものですよね」
私のせいではないというのに、菜穂さんは大いに顔を顰めた。
「好きなら手を取る、嫌いなら手を取らない。なら、答えはもう出ているじゃないですか」
私は微笑んで、腰を上げた。
結婚とは、己の心に従うこと――これはそうした話である。
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