初陣の勧め

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 俺がそんな悶々とする日々を送る中でも、紀子は溌溂(はつらつ)と美しかった。  今日は月一回の定例会議があるとかで、紀子は土曜出勤だという。 ドレッサーの前で鼻歌を唄いながら髪を纏め上げていた。  俺に性欲が無いままだと勝手に勘違いをして、すっかり安心しきっているのかもしれない。  求めているのは俺だけかと、少しばかり、否、大いに凹んでしまった。 「どうしたの?そんなところで突っ立って?」 鏡越しの俺に気づいて、笑みを覗かせる。 「どうしてそんなに嬉しそうなんだ?」 「……嬉しそうだった?」 「ああ」 「そう?ふふっ、でもそうかもね」 これまた鏡越しに俺と目線を合わせ、紀子は何やらはにかむような笑みを零した。 ――くそ、可愛い。 大丈夫なのか?こんなので。 何だか心配になって来る。 「何時に帰るんだ?」 「多分いつもと同じで定時だと思うわよ」 休日出勤に残業は無い筈だと、紀子は俺の言葉の意図を問う顔を向けた。 「なんにせよ黒っぽいスマートな服で行けよ」 俺の乏しい発想力では、地味な色味の服と言えば黒か茶色と相場は決まっていた。 「どうして?春らしく、明るい色で行こうと思っていたのに」 紀子は口を尖らせた。 ハンガーに掛けてあったクリーム色のジャケットは、確かに紀子に似合うだろう。 「雨が降るかもしれないだろう?」 そんな苦しいやきもちを妬いてしまう。 「雨!?嘘っ!お洗濯、外に干しちゃったわよ」 慌てて紀子は窓際に駆け寄った。 「降りそう?」 雲一つない五月晴れの空を眺めて、紀子が首を傾げていたことは言うまでもない。
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