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二人は斜向かいに用意されている席に座る。
それも感染対策の一環である。
他には消毒用のスプレーとティッシュ。
本来であれば消毒用アルコールが望ましいのであるがどこも品切れであり、次亜塩素酸水という早口言葉だと舌をかんでしまいそうなもので代用。
マスクも今は入手困難。大きい声では言えないが、ショウは毎日ではなく、こっそり3日に一回のペースで取り換えている。
「そういえばセンパイ、手作りマスクとかも今、流行ってるみたいですね」
「流行ってるっていうの、それ。買えないから仕方なくじゃないの」
「いやまあ、そりゃそうなんですけど。センパイはマスク、困ってないんですか」
「旦那が花粉症持ちだから。ストックは元々あったのよ」
「ああ」
ショウは納得した。
「旦那さんとはうまくいっているんですか?」
「モロチンよ」
「……旦那さんとはうまくいっているんですか?」
「モロチン」
「……ほんとに旦那さんとはうまくいっているんですよね?」
「だから、モロチンだって言ってるじゃない! なんべん同じこと言わすのよ」
リョーコは席を立ち、マスクをアゴに下げて抗議した。
「モロチンってなんですか、モロチンって! モチロンでしょう、モチロン! モ・チ・ロ・ン! モロチンなんて日本語はありませんよ!」
ショウも席を立ち、マスクをアゴに下げて抗議する。
「チとロが入れ替わってるだけじゃない! モロチンもモチロンも大した違いはないでしょ、意味は通じてるんだから通じなさいよ」
「おかしいですよ、リョーコさん!」
「全くもう、細かいことにこだわるなんてお姉ちゃん悲しい。弟くんならもっと広い心でお姉ちゃんの愛を受け止めてよ」
「今のやりとりのどこに愛があったんですか」
「全てに愛がこもってたじゃない。どうしてわかってくれないの、お姉ちゃん悲しい」
めそめそと泣くしぐさを見せるリョーコ。
「下ネタを受けるのが愛なんですか」
「だって私、女兄弟しかいなかったから、こういうやりとりにあこがれてたし」
下ネタを否定されなかったことがショウには悲しかった。
「センパイはボクの憧れの女性でもあったんですよ」
「ありがと。でもそんな偽りの姿は忘れて」
「はいぃ?」
「女はみんな下品な生き物なのよ」
リョーコはショウに堂々と宣言した。
「……それはうちの女衆でイヤというほど思い知らされてますよ」
ショウは席に座り込んで、机に肘をついて頭を抱えた。
「優しくてキレイでかっこよくて、仕事もできる。それが俺のセンパイのイメージだったのに……」
再会早々、そのイメージが崩されるなんて。その言葉は、ショウはグッと飲み込んだ。
「……ありがと。そう思ってくれてたのは、なんかすごくうれしい」
リョーコは席に座って、ぽつりとつぶやくように言った。
ショウとリョーコはかつて上司と部下の関係だった。
その頃は髪も長く、まさにテレビドラマの主人公のようなイケてる女性であり、ショウにとってまさにリョーコは理想の女性だった。
しかし、周囲からはリョーコは仕事に厳しすぎるという評もあり、最初はショウもそれに同感だった。
秋葉涼子は業務に私情を挟まず、常に非情な決断を下す。
それは事実だった。しかし、リョーコは誰よりも自分に厳しかった。
業務に対しては他人に責任を押し付けるような真似は一切せず、常に自分が前面に立ち、部下を守れるように振る舞っていた。
だが自分が傷つくこともいとわないその姿勢は、たびたび周囲に対しては誤解を招く行動、言動に映っていた。
自分はこの女性の力になりたい。
いつしかショウは異性としてではなく、純粋にリョーコに憧れるようになった。
だからショウはリョーコが突然退職して、その後結婚したと聞いても、周囲の人間が悪し様に言う意見には同意できなかった。
ショウはリョーコがそんな自分勝手な理由で辞めるとは思えなかったし、思いたくなかった。
だが久しぶりの再会で、ここまであまりにも違う姿を見せられると、その考えも揺らぎつつあった。
「はい、これ」
リョーコは身体を伸ばして、斜向かいのショウに白い何かを渡してきた。
リョーコは女性にしては背が高くて手足も長い。またショウも身長は高い方である。そのためお互い席を離れることなく、物の受け渡しが可能だった。
受け取ったのは、木の葉型の白と黒が入り混じった個包装されたお菓子。
ペリペリと包装をとって、ショウはお菓子を口にする。
もちっとした感触と口中に広がるのは素朴な甘さ。
「いいですね、これ」
「……むかしむかし、あるところに」
「はいぃ?」
唐突なリョーコの語りにショウは間抜けな応答をした。
「だから、むかしむかし、あるところよ」
いきなり何を言い出すのか、この人は。ショウはあっけにとられた。
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