第5話 海

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第5話 海

「うわっ! さむっ」 「だろ? 海に入っちゃえばなんとかなるけどさ。出た時も寒い。まだちょっと早いんだよな…」  季節は七月初旬。夏といえば夏だが、日差しはまだ初夏のそれだ。海水温もそこまで上がってはいないらしい。  清ははるか彼方まで続く海原を眺めながら。 「今日はあまり波が立ってないから、乗るまでは行かないかもしれないけれど、ちょっと練習するにはいいかもな」  自分用のウェットスーツを着た清は、学校で見る、真面目で物静かな印象とはまったく違った雰囲気だ。  色は白いのだが、ウェットも着こなし、ボードを抱えた姿はしっかり様になっている。どこかおどおどした俺とは大違いだ。 「…これであんま、波が立ってない方なのか?」  俺から見れば、充分荒波に思えたが、清は頷くと。 「もちろん。一応、ウェット着てるから沈むことはないけど、無理はするなよ? じゃ、まずは準備運動から」  そう言って、コウ顔負けの丁寧な指導が始まって。  小一時間する頃には海にボードで浮かぶのが楽しくなっていた。  いや、ただ浮かんでいるだけなのだが、それでもゆらゆら揺れる感覚は楽しい。 「まだ、乗るのは無理か?」 「う~ん、途中まで良いところ行くんだけど…」  と、清が少し表情をしかめ。 「そろそろ、出よう。唇が青くなってる」  と、不意に俺の唇に清が触れてきた。揺れる波間で清の指先を熱く感じる。  昨晩のキスをつい思い起こし、頬が熱くなった。 「ん。てか触んなって」 「いいだろ? 減るもんじゃないしさ。ほら、もう上がろう」  笑った清は動じない。そのまま清にせかされ、海から上がると、急に体が重く感じた。 「なんか、引かれてる感じがする…」 「だね。海から上がると、俺もそうだよ。海の中は軽くなるから好きなんだ」 「へぇ…」  これも、初めて知った。目を細めて海を見つめるその横顔に、つい惹かれる。まるでドラマのワンシーンみたいだ。 「さ、タオルタオル。風邪ひくって」 「あ、うん」  すぐにいつもの面倒見のいい清に戻って、俺の頭にバスタオルをかぶせる。そんなやり取りをしていれば。 「なんだ。来てたのか」 「…進士さん」  清の声が途端にワントーン低くなる。  進士も海から上がってきた所らしく、ボード片手にこちらを見つめていた。  かき上げた前髪から大人の色気が漂う。こちらも清に負けじと、まるで映画のワンシーンの様な風情。周囲の女性陣もチラホラと振り返っている。  清の態度に進士は苦笑して見せ。 「そんな、嫌そうな顔すんなって。昨日だってまんざらでもない顔してたくせに」 「してない!」  近づいた進士は手を伸ばし、清の頬に触れようとしてきた。  その伸ばされた手を払い除け、ボードを拾い上げ、俺の腕を掴んでさっさと歩き出そうとすれば。 「強がるなって。そんなガキ相手に本気になったって、満足しないって」  すると、清はぴたりと立ち止まって。 「あなたには分からない」  きっと眦を釣り上げて睨みつけると、また俺の腕を引いて歩き出した。  そのまま、坂の上にあるコウの家まで無言で歩き。解放されたままのテラスに到着したところで、漸く手を放してくれた。  清と二人、ボードを軽く洗いながら。 「…清、進士さんに迫られてんのか?」  昨日も告白を受けていた。あれはやはり本気なのだ。  考えておけって言ってたな。  ピクリとこちらに向けた背が揺れる。 「向こうが勝手に誤解してんだよ。もう、なんとも思ってないのに…」 「本当に?」  問い返すと、清が驚いたようにこちらを見返してきた。 「本当って、なんだよ…」 「だって、俺のどうのこうのは置いといて…好きだったのは事実だろ? なんとも思わないのか?」 「昨日も言ったけど、進士さんのことは勘違いだったんだ。そりゃ、大人だし憧れがなかった訳じゃない。けど、今はもう、なんとも思っていないんだ」 「でも…」  端々に見る清の反応が、その言葉を信じさせない。すると清は俺の肩にかけていたバスタオル事引き寄せる。  清との距離がぐんと近づいた。 「俺の事を知りたいんなら、他に目を向けるな。俺だけを見てろ」  間近にある色素の薄い瞳に引き込まれる。 「分かった…」
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