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泣いてなんか、いない。
別に、清が誰を好きになったって。俺との思い出が一番じゃ無くたって。
俺は──。
溢れそうになった涙をぐいと手で拭って、家から続く坂道を走った。
俺は──別に、気にしない?
いや。違う。俺が清の事が一番であるように、清にも一番であって欲しいんだ。
ずっと、自分だけを見ていて欲しい。
でも、それは俺の我が儘だ。
俺は、清の思いにさえ答えていないのに、そんなふうに思うなんて。
自分勝手だ──。
急に走って逃げ出してきた事が恥ずかしくなって来た。
家は民家の少ない小高い丘にあった為、道中、街灯も少なく人も歩いてはいない。
でも、バス停からの道は一本道で迷うことはなかった。
坂道を下りきると、チカチカと眩しいネオンが目に入る。行きのバスでは気づかなかった。
なんだろ? これ──。
思わず足を止める。ホテル名がライトに照らされ、その横に光る看板が設置されていた。そこには。
「二時間、四千円から…って?」
安い──のか? でも、ニ時間だけで四千円はどうなんだ? 確かに部屋は広いし綺麗そうだけど。
じっと看板前で立ち止まって覗き込んでいると、背後で男の声がした。
「君、なにしてんの? まさか──誰かと待ち合わせ?」
驚いて振り返ると、スラリと背の高い、体躯のがっしりした男が、肩にザックを背負い立っていた。
長めの髪は栗色で肩に掛かるくらい。目付きはやや鋭いものの、モデルでも通用するようなひと目を引く精悍な容姿だった。
男は訝しむ様にこちらを見下ろし。
「まだ高校生くらいだろ? こんな事してちゃ──」
男が俺の腕を掴んだ所で。
「すばる!」
鋭い清の声音。こちらへ駆け寄ると、男の肩に手をかけた。
「こいつ、俺の連れなんで。離して貰えますか?」
言いながら、一方の手で俺の腕も捉える。
しっかりと掴まれたそこは、絶対逃がさないと物語っていた。
しかし、男から返された返答は、予想をしなかったもので。
「おまえ──。清?」
男の顔がハッキリ見えていなかったらしい清は、首を傾げたあと。
「進士…さん?」
「ああ、やっぱり清か。久しぶりだな? コウはいるか?」
「う…うん」
「そうか。暫くお邪魔させて貰おうと思ってな? また後でな。てか、こんな所で堂々と待ち合わせすんなよ?」
にっと笑うと、清の肩をポンと叩いて、今俺たちが降りてきた坂を登っていく。
清は暫くポカンとしていたが、気を取り直して。
「進士さん…! 帰って来たの?」
「そ。今さっき、成田に着いたばっか」
こちらには振り向かずず、ひらりと右手だけ上げて去っていく。
清は意味ありげにじっとその背を見つめていた。
そんな清を見ているのがなんだか嫌で、その隙に腕をほどこうとしたが、それで我に返ったのか清は振り返ると腕を強くつかみ直す。
「どこ行く気だよ?」
「…帰る」
「どうして? 泊まってくって言ったろ?」
「いいだろ? 別に帰ったって…」
そっぽを向く俺に、清はため息をつくと。
「行こう」
無理やり腕を引いて、来た方向、コウの家へ歩きだす。
「って、清、どこに──っ」
「今から駅に行ったって、もう無いよ。終電終わってんの」
「ええっ!? まだそんな時間じゃ──」
「ここ、田舎なんだって。だいたい、すばる、危なっかしくて放っておけない」
「別に危なっかしくなんか──」
「さっきのホテル。ラブホだよ。入った事無くても聞いたことくらいあるだろ?」
「あれが──」
ちょっと派手で安価なホテルかと思っていた。清はチラとこちらを見やった後。
「あんな所でうろうろしてたら、ろくな目に合わないよ。会ったのが進士さんだったから良かったけど…。帰りたくなった理由は聞かないけど、もう今日は泊まってけよ?」
「…分かった」
清は俺の腕を掴んだまま離さない。離せば逃げるとでも思っているのだろうか。
清はなにも言わず黙々と歩き出す。何事か考えている様子。俺は続く沈黙に我慢出来なくなって、話題をふった。
「あの人さ。さっきの…知ってる人?」
俺の問いにふと視線を揺らした後、
「コウ叔父さんの友達。…それだけだ」
真っ直ぐ前を見つめたままそう口にした。
横顔には遠いなにかを思い出す様な表情が浮かんでいたけれど、それ以上、聞くのを躊躇った。
なんだかつついてはいけない気がしたからだ。
いや。聞きたくないんだ。なんだろう。触れたくない。
何となく、二人の間に何かあるような気がしたからだ。
俺と清はコウの家に着くまで、ひとことも話すことはなかった。
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