キャンプをしたいだけなのに

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2 「車でちょっと進む」と言っていたが、途中からアスファルトではなく木の枝や落ち葉が散乱する砂利道になったので、中古のミニクーパでは時間がかかった。ガタガタと車体をゆらしながら山道を登ると、古びた石造りの建物が見えた。電灯が一本脇に生えている。ここが管理人の言っていたトイレだろう。言われたとおりにそこで車を止める。 降りて中を確認すると、くみ取り式の和式便器が一つあるだけのこじんまりとしたものだった。特に匂いもなく、虫の死骸を気にしなければ問題なさそうだ。手洗いは外側の壁に取り付けられており、くすんだシンクの割と大きなものだった。これならここで洗い物もできそうだ。試しに蛇口をひねって見ると、数秒のタイムラグの後、勢いよく水が流れ出した。久しぶりの出番だったらしい。 ポケットからもらった地図を取り出し、サイトの場所を確認する。このキャンプ場はなだらかな勾配のある山肌に、棚田の用にサイトが設けられているようだ。このトイレを中心に、上方にサイトが2つ。下に3つ。地図を見ると、トイレより下の3つのテントマークは×されているので、実質、選択肢はトイレより上の2つだ。地図を片手に2つのサイトに向かう。 手洗い場から一分ほど坂道を上ると、一つ目のサイトが見えた。5メートル四方にうまいこと木々が切り開かれており、なるほど。ここでたき火をしながら夜空を眺めればさぞ絶景であろう。 もう一つのサイトを見つけるのは手間取った。地図上ではこの絶景サイトのすぐ隣にあるはずだが、その場所には一見、雑木林のような木々の集まりしかなかった。無理矢理かき分けると、3メートル四方あるかないかのこぢんまりとした平地が現れた。周りは天然の土の壁に囲まれている。土壁の上は雑木林のようだ。どうやら、小山を無理矢理にコの時に削り取ったかのような地形らしい。試しにサイトの真ん中に座りこむと、土の壁に囲まれる形になった。私が切り開いた入り口以外の方向は、木の根が張った土壁か、絡み合うように生えた木々しか見えない。 二つのサイトのどちらでキャンプをするかと聞かれたら、十人中九人が絶景サイトを選ぶだろう。だが私が選んだのは雑木林のサイトだった。 理由は2つ。 まず、私は夜空にも開放感にも興味がなく、何なら閉鎖空間のほうが落ち着くから。 次に、トイレの電灯だ。あの電灯が正常に機能するのかはわからないが、もし常夜灯だった場合、キャンプ場全体を一望できる絶景サイトからは電灯の光が一晩中視界に入ることになる。それは看過できない。私は景色に対しての興味は薄いが、景観が損なわれていいと思っているわけではないのだ。景観が何でもいいのであれば、どこかのガレージでも借りてコンクリートの上にテントを張ればいい話だ。せっかくキャンプ場に来たからには、できるだけ周りは自然で囲って、目に入る人工物は最低限にしたい。その点、この雑木林サイトは木々の間からわずかにトイレの壁の一部が見えるだけなので、そこまで電灯の影響は受けないですむはずだ。 サイト選びを終えると、車に戻り、トランクを開けてキャンプ道具を取り出す。大容量ザック一つと、カゴ二つ分。このキャンプギアたちは私がここ数年でこつこつと、一つずつ揃えたものだ。あまたの選択肢の中から自分のスタイルに合うものを日々厳選し、選び抜かれたギアたちだ。実に愛おしい。 「ほっ」と気合いを入れて、一気にザックを背負う。テントと寝袋が入っているので結構な重さだ。両手でカゴを一つずつ持ち上げる。中の調理道具やガスコンロ、焚き火台がガチャリと音を立て、重さに手が軽く痙攣しそうになる。これでも、キャンプを始めた頃の装備に比べると格段に軽くなってはいるのだ。 キャンプを始めた当初は、機能性があれば何でもいいと手当たり次第に安価なものを買いあさっていた。が、あまりの重量とかさばる荷物量に閉口し、徐々に軽量なギアに買い換えていくことになった。ただこれも単純に軽いギアを買いあさればいいと言うわけではない。単に軽いだけで使い勝手が悪ければ意味がないし、軽くなれば軽くなるに反比例して値段が重くなっていくのがキャンプギアの常だ。機能性と重量、そして値段の3つのバランスの整うギアを見つけることのなんと難しい事か。このザックと両手のかごの中には私の数年の努力が詰まっている。そりゃあ愛着も湧こうと言うものだ。 愛しいギアを背中と両手で支えながら雑木林サイトまでの坂道を上る。首からぶら下げた一眼レフが腹の前で振り子のように揺れる。なぜさっきの下見の時についでにこれをサイトに置いて来なかったのかを悔やんだ。しかし、一眼レフを差し引いても今日の荷物はいつもより少し重い気がする。装備は毎回ほとんど変わらないはずだが。理由を考えながら坂を登っていると、ようやく雑木林サイトにたどり着いた。そのタイミングでちょうど思い出した。そうだ。あのスキレットだ。 サイトの真ん中にドサリと荷物を下ろすと、ザックを開ける。寝袋とテントの間に挟まれるように収納されていた鉄の分厚いフライパン、所謂スキレットを取り出して、私はため息をついた。このただ重いだけのスキレットは私が今日持ってきたギアの中で唯一、愛着を毛ほども持っていないギアだった。そもそもこれは私が買ったものではない。職場でもらったものだ。 先週、私自身も覚えていないような誕生日を職場の同僚一同にお祝いされた。まあ、確かに私もすべての同僚の誕生日にささやかなプレゼントを送ってはいた。実際は誰の日取りも覚えておらず、年度初めに全員分をカレンダーアプリに登録しておき、数日前に届く通知に従って機械的にこなしていただけの事務作業だったのだが。まあ、何にせよ、人間関係を円滑にしようという目的は果たせたようで、お返しにと同僚皆さんでサプライズを企画してくれたというわけだ。昼休みに職場近くのお菓子屋さんのケーキを出され、「え、なんですか? え、わたしに? うそ!」と懸命にリアクションする私に、プレゼントも贈呈された。記憶にはないが、どうやらどこかで誰かにキャンプが趣味だとうっかり言ってしまっていたらしい。 ナツさん、キャンプするらしいよ。じゃあ誕プレはキャンプ道具がいいね。せっかくみんなで買うんだから、ちょっと高くても本格的なものにしようよ。いいねいいね賛成。ということで、キャンプで映えるギアとして今人気のスキレットが斉藤ナツさんには送られました。同僚一同より。まあ仲がいいことで。 黒光りしているスキレットを両手で持ち上げて眺める。正直、鉄製のフライパンは手入れが面倒だ。そして何より重い。しかも「彼氏と一緒に使って」と言うことでご丁寧にファミリーサイズだ。この大きさに関しては私の責任なのだろう。数年前に一瞬だけいた交際相手について、面倒だからと今も継続している体にしていたのだから。何にせよ、ちょうど軽量コンパクトなフライパンを購入したところだったのも相まって、本当にいらない。今日もできれば持って来たくはなかった。でも、さっそく喜んでキャンプで使用している写真が週明けには一枚は必要であろうから、渋々ザックに入れてきたのだ。 スキレットを無造作に地面に放ると、サイトの整備を始めた。ついでにたき火用の枝を拾う。サイトが片付いた時には、片隅に小枝のちょっとした山ができていた。これでたき付けに関しては問題なかろう。次は太い薪がほしい。 太い枯れ木を求めて、土壁を登って上の林見ることにした。ザックから折りたたみ式のノコギリを抜き取り、尻ポケットに差し込んだ。斧や鉈は重いために持ってきていない。薪割りはナイフでもできないことはないが面倒なので、手頃な太さの木を見つけなければ。土壁を眺め、登りやすそうな場所を探す。土壁が私の肩ほどの高さの場所を見つけ、上に生えている木の幹に手をかけた。土壁からはみ出している根に足をかけて体を持ち上げる。身軽さには自信があるので、特に苦労もなく上がることができた。土壁の上はそのまま外側に向かって緩やかな下りの傾斜になっており、木々が五十センチ間隔で生えている。薪になりそうな木を探して地面を眺める。少し降りたところに手頃な太さの枯れた木が倒れていた。ノコギリを取り出し、運びやすいように切り分けていく。いい感じに乾燥している。幸運なことに広葉樹だ。クヌギの木だろうか。広葉樹は火持ちがいいから、たき火では重宝する。 ほかにもいくつか手頃な枯れ木を拾い、薪は両手いっぱいに抱えるほどになった。これだけあれば、今晩の分はまかなえるだろう。土壁の上から薪をバラバラとサイトに落とし、自分も飛び降りる。さっさとテントを立てて椅子に座ってコーヒーでも沸かそう。 テントの組み立てに入った。テントを固定するペグを打ち込むためのハンマーも、極限まで軽量化されたお気に入りだ。重さがない分、打ち込み方にコツはいるが、慣れれば簡単だ。何度もやってきた作業なので、椅子の組み立てを含めても三十分もかからなかった。 ガスコンロでお湯を沸かしている間に、テントとギアが出そろったサイトを一眼レフでパシャリとやった。椅子に戻って、確認すると薄暗い林にカーキ色のテントがなんとも映えている。大枚をはたいて買ったテントだけのことはある。画像を見ながらにやりとする。 この一眼レフは、初めてのソロキャンプの直後に衝動買いしたものだ。 数年前、初めて予約したキャンプ場は、このキャンプ場に負けない山奥の立地だった。買ったばかりのキャンプギアをうれしそうに車に積め、おっかなびっくり受付をしてサイトにはいった。偶然休みが取れた平日だったので、客も多くなく、静かに過ごすことができる環境だった。しかし、火起こしすらも初めてだった私の初キャンプは、なかなか火はつかないわ、食材の買い忘れに気づくわ、テントは傾いているわ。リラックスする余裕など全くなかった。結局明かりが足りず薄暗い中でよく見えないよくわからない味の料理を食べ、重くてかさばるだけの大して暖かくもない寝袋に潜り込んで早々に眠りについた。その頃は地面に薄いマットを敷いていれば快適に眠れると信じ込んでいて、朝の4時頃には背中を痛めて覚醒するはめになった。 キャンプ場はまだ薄暗く、濃い霧が漂っていて十メートル先も見えない。寝ぼけ眼でテントの前に座り込み、ぼーと霧を眺めていると、霧の向こうから影が近づいてくるのに気づいた。 鹿だった。それも立派な角を生やした牡鹿だ。霧の中からぬっと顔を出した牡鹿は、私に気づく様子もなく、私のいるサイトの前をゆっくりと横切っていく。霧に濡れた毛皮が呼吸で揺れるのが見えた。牡鹿の重い息づかいがかすかに聞こえた。 私はそれまで自分は動物が嫌いなのだと思っていた。誰かの飼い犬やペットショップコーナーで見かけるガラスの中の猫には一切魅力を関しなかった。むしろあまり見ていたいものではなかった。だが、目の前を横切る野生の鹿にはただならぬ胸の高まりを感じた。美しい。素直にそう思った。特に美しいのは目だった。その黒い瞳は、ガラスの中の猫には見いだすことのできない光を放っているように感じた。まるで自らの生に輝いているようだった。 あまりにも生々しい生命の迫力に私は固まっていしまっていたが、我に返って、こっそりと上着のポケットを探った。カメラはないが、せめてスマホで写真をとりたい。この出会いを残したい。探り当てたスマホを細心の注意を払いながらゆっくりと取り出し、カメラモードにすると牡鹿に向ける。 カシャリ。指で押さえたつもりだったが予想以上に大きな音が響く。牡鹿ははじかれたように踵を返した。土が飛び散り、その一粒が頬をかすめる。すると霧に隠れて見えなかったのだろうか。牡鹿に続いて牝鹿が数匹、霧の中から甲高い鳴き声を上げて現れ、ドドドと大きな蹄の音を響かせながら一瞬で走り去っていった。 あまりの出来事に呆けてしまい、その朝は日が完全に登るまでテントの前に座り込んでいた。 その日辛うじて撮影できたピンボケの牡鹿の横顔は、1年近くスマホの待ち受けになった。 その次の日には全く関心がなかった一眼レフをフリマアプリで購入した。Nikonのハイクラスシリーズで中古でも3万円したが、あの感動を高画質で納められるのなら高いとは思わなかった。私は同じキャンプ場を3週連続で予約し、同じサイトで早朝にカメラを構え、まんじりともせず鹿を待った。 「株を守りて兎を待つ」ということわざがある。昔々の農民が、畑の木の株に偶然うさぎがぶつかって倒れるのに出くわし、幸運にも兎を得ることができた。それ以来、農民は同じ幸運がまた起こると思い込んで、後生大事に、来る日も来る日も切り株のそばでうさぎを待ち続けて笑いものになったという故事だ。 まあ、結論を言えば私も愚かな農民と同類だった。鹿は毎日キャンプ場を訪れる訳ではなかったのだ。むしろあの日がなんとも珍しい幸運な朝だっただけだ。あの朝、鹿たちは偶然キャンプ場に迷い込み、これまた偶然私のサイトを通りかかっただけなのだ。そのことに気づいたのは3週目の朝だったし、うさぎのことわざを思い出したのもその日の帰り道だった。 さすがに同じキャンプ場に通うことはなくなったが、自分の浅はかさに気づいてからも、私は一眼レフをキャンプには必ず持ち歩いている。ギアの軽量化を図り始めた後も、スキレット並みに重いこの一眼レフは決して持ち物から外さなかった。株を守っていると言われようが、一度幸運を経験した人間はどうしても2回目を期待してしまうものなのだ。 コーヒーを入れて一段落し、読書にふけっていると、いつの間にか周りが薄暗くなり始めていた。林の中と言うこともあって、あっという間に真っ暗になりそうだ。焚き火台を組み立てて、集めた小枝で火をおこし、徐々に太い薪を加えていく。木々はよく乾燥していて、すぐに安定した炎となった。ただ、空気も乾燥しているのが気になる。山火事が心配だ。乾燥注意報など出ていないだろうか。スマホを取り出して調べようとして圏外であることを思いだした。見事なまでにアンテナ0本だ。山奥のキャンプ場ではよくあることなので、特に驚きはしない。 いったんサイトを出て車に向かった。サイトの外ももうすっかり暗くなっていた。空を見上げると管理人の言っていたとおり、隙間もない分厚い曇天だった。暗くなるのが早かった原因でもあったのだろう。車に着くと、トランクからバケツを取り出す。トイレの横の電灯は予想通り白い光を放っていた。その光を頼りに手洗い場でバケツに水をくみ、サイトに戻った。 たき火のすぐそばにバケツを置く。いざという時に一瞬で火を消化させるにはバケツの水が一番確実だ。椅子に腰を下ろしてトイレの方を見ると、木々の間からかすかに電灯の明かりが見えた。これぐらいならば全く気にならない。自分の判断に満足して、目を離した隙に弱まった火に薪を追加する。いい具合に熾火もできたので、夕食の調理を始めることにした。 カゴの中のクーラーケースから、スーパーで購入したステーキ肉を取り出す。火のそばにしばらく置いて常温に戻すと、塩こしょうを降って下味をつける。焚き火台には五徳をはめ込み、スキレットをおく。スキレットのメリットは、熱伝導がいいため、肉を美味しく焼けるところだという。試させてもらおうじゃないか。 スキレットが完全に温まったところで少量の油でニンニクを炒め、頃合いを見てステーキ肉をゆっくり投入する。水分が弾ける音とともに香しい匂いが漂った。 頃合いを見て、スキレットを地面に下ろし、肉をスキレットにのせたままナイフで切り分ける。いい具合にミディアムレアに仕上がっており、一人にんまりとする。食べる前に、忘れずに一眼レフをパシャリとする。一枚目は自動でフラッシュがたかれてしまい人工の明かり感が否めなかったので、フラッシュ機能をOFFにした。フラッシュはオプションパーツの外付けタイプなので取り外してしまってもよかったが、もし、夜間に動物が現れたら、組み立てている間に取り損ねてしまう。フラッシュなしでたき火のそばで撮り直すと、火の柔らかい光でまさにキャンプ料理といった写真になった。 撮影が済んだところで、ど真ん中の肉片からバクリと頬張る。ほどよい脂がたまらなかった。一口食べると止まらなくなり、ステーキ肉はあっという間になくなってしまった。さて、では2品目いきますかとカゴを探っていると、サイトの入り口に気配を感じた。動物か? とっさに一眼レフを引き寄せた私は、前方を見て面食らった。 人間だった。私と同年代の女性だ。土汚れのついたパーカーにジーンズ。細見なスタイルだった。彼女はしばらく林の入り口に立ってぼおっとたき火の方向に顔を向けていた。そのわずかにうつむいた状態のまま、にこりともしないで言った。 「あたらせてもらってもいい?」  私は断り方を思いつかなかった。
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