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終了のチャイムが鳴り、静香は無言のまま、後片付けをすまし、私に挨拶もせずに入口に駆け出し始めた。私は静香に厳しい口調で注意した。
「こらっ。静香、ちゃんと挨拶して帰れ。いつも元気にサヨナラしとるやないか。」
静香は、泣き出しそうな顔をしながら、か細い声で
「さようなら。ありがとうございました。」
と答えた。元気のない様子に私はつい意地悪を言ってしまった。
「静香、全然聞こえへんぞ。ちゃんと先生の前で挨拶せえ。」
静香は、恐る恐る私のすぐ目の前まで戻ってきた。私は報告書をまとめながら、ワザと静香と目線を逸らし更に言葉を付け加えた。
「挨拶キチンと出来ない子は、先生嫌いや。」
そう話したと同時に、いきなり私の鼻先にまた花の香りがした。私の右頬に何か柔らかい小さなものが触れたのを感じた。そして、さっきよりも更にか細い声で静香が私の右の耳元で確かに言った。
「先生大好き。さようなら。」
静香はそのまま外に駆け出した。私は何が起こったか理解出来ず、授業終了の慌ただしい子供たちの声の中で、漸く静香が私の右頬にキスをして帰ったことを理解した。それから静香は塾に来なくなった。後に、塾長の叔父から、静香が父親の転勤の都合で塾を辞めた事を知らされた。私は、静香が小さな唇でキスをした右頬を撫でながら、静香に対して自分の取った態度を悔やんだ。
「静香。ごめんね。」
何度も頭の中で繰り返した。小さな恋心を弄んだ罪悪感だけが膨れ上がるだけであった。
それから、月日は流れ、私の淡い恋物語が記憶から薄れ始めた頃、私と静香の関係は予期せぬ展開を迎えることになる。
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