おにいちゃんと猫

5/7
前へ
/7ページ
次へ
 おにいちゃんの唇が、開いて、閉じかけて、そのまま開きっぱなしになった。  私に何かを言いたいようで、でもすぐに口を閉ざしてしまう。  視線が、ひらがなと、私の顔とを何度も往復する。  どうしたらいいのか分からない。そんな、途方に暮れた子供の顔をしていた。  おにいちゃんは黙り込んでしまった。まるで、ヒトの言葉を忘れた私みたいに。 『──おにいちゃんがいやなら、むりにおねがいしないです。わたしひとりでしぬか、おうちにかえります』  ヒトを死なせることは罪になるけれど、動物を死なせてもおまわりさんには捕まらない。だからいつでもお前を殺せるんだよとママに言われた。野垂(のた)れ死んだって誰も悲しまないんだよ。  ねぇ、どうしてあんたは生きてるの? 『──どうしてわたし、いきてるんだろう』  言うつもりはなかったのに、気づけば下手なひらがなが並んでいた。おにいちゃんの瞳が、今度ははっきりと揺らいだ。 「そんなこと言うなよ……!」  私の手を掴む。声が、指先が、唇が震えている。  不思議に思って見上げる私から視線をそらして、もう一度おにいちゃんは「そんなこと、言うな」と呟いた。    おにいちゃんの嫌がることをしちゃったみたいだ。私はごめんなさいの気持ちで、おにいちゃんの手のひらにそっと頭を押し当てた。おにいちゃんはなんだか泣きそうになって、私を撫でてくれる。  しばらく、猫を可愛がりながら、おにいちゃんは考え事をしていた。  ふと、おにいちゃんがため息をつく。  心臓に詰まった悪いものをすべて吐き出して、諦めたようなため息。乾いた唇が(かす)かに緩む。  自分で自分を傷つけるようにして、おにいちゃんはぽつりぽつりと語り始めた。 「……疲れた、か。……分かるよ。痛い、怖い、もう嫌だ、なんでみんなみたいに幸せになれないんだって、普通の子供になれないんだって。恨みながら生きていくの、疲れるよな。俺もそうだよ。お前と一緒」  ──昨日の朝、起きたら親がいなかった。  置いてかれたんだ、俺。とても返せないくらいの借金だけ残されて、独りぼっち。  もうすぐここを出て、怖い人たちから逃げて、普通じゃないとこで働かなきゃいけないんだよ。  ……なぁ。怖い人に捕まったら、どうなるのかな。  痛いことされるのかな。何も悪いことしてないのに、殴られるのかな。  親父にもよく痛いことされたんだ。俺って、殴られて当然の人間なんだって。馬鹿で、役立たずで、ボロ雑巾みたいなんだって。  俺、どうなるんだろう。  なぁ。こんなこと、お前に()いていいのか分からないけど──。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!

7人が本棚に入れています
本棚に追加