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長い沈黙を挟んで、ようやく口を開いたのはこの別れを持ち出した張本人である東風だった。
「水月なら今からでも頼めば音大の寮へ入れるだろ。だから、悪いけど水月が出てって」
東風は水月の顔を見ることもせず、リビングに敷いた毛足の長い絨毯へ視線を落としたまま淡々と告げる。
「何で俺なんだよ。別れるって言い出したのはお前なんだからお前が出ていけよ。俺はこの部屋が気に入ってるし、今更生活変えるつもりないから」
「俺だってここでの生活に慣れてるのは一緒! それに、ここにある家具も家電も殆ど俺が選んで揃えたんだ。誰かさんはバイオリンに忙しいばっかりでさ!」
「金は折半したろ、文句言わないって約束でお前の好きなインテリアに揃えさせてやったろ?」
「揃えさせてやった? どの口が言ってんの? 全部俺に押しつけといてなんで上からなんだよ!」
「押しつけてなんかねぇだろ! お前楽しそうに色々選んでたろうがっ、アレも全部芝居だったのかよ、だったらマジ引くわ」
慣れた手つきでジーンズの後ろポケットから煙草を取り出して来た水月に向かって東風は「この部屋で吸うな」と同棲を始めた時の約束事を荒々しく口にする。水月は東風をキツく睨んでローテーブルへ煙草とライターを叩き置いた。
天井に残響が跳ね、重苦しい沈黙が再び二人を包む。
──ああ、全く居た堪れない空気だ。
仲の良い時は呆れるほど引っ付いていた二人だったというのに、喧嘩をすると小さな私からすればまさに巨人たちの戦争。大きな声と物音を立てて互いを罵り合う。昨日までは愛を語っていた同じ唇で相手を扱き下ろす。
大きな音が何より嫌いな私は二人の寝室へ逃げ込んで毛布に潜り、その音が止むのをひたすら待ったものです。
最後にはいつも東風が一言も話さなくなって、水月がそれを延々と静かに宥める。そんな時に私が毛布からそっと顔を出すと、大抵二人は昨日と同じ優しい顔と声色で寄り添い合っているのだから本当に訳がわからない。
呆れた私が寝室から大きな鳴き声を上げると、二人は一瞬驚きつつも笑いながら私の元へやって来て、うるさくしてごめんねと、謝りながら優しく撫でては胸に抱く。
その後は大抵高級な美味い飯が出るので私にとってはこの戦争も、より良い飯を手にするための試練なのだと仕方なく毎回受け入れました。
それでも時々私が二人の争いに巻き込まれる事もあって、さすがの私もその時ばかりは参りました。しつこく何度も私の名を呼び、どちらがより私に愛されているか、懐かれているかと、実にくだらない争いを二人が始めるのです。
そもそも私の愛を試そうだなんて、実に舐めたマネをしてくれるもんです。
いいですか、私は人間のように惚れた腫れたみたいな刹那の愛なんてのはそもそも持ち合わせちゃいないんですよ。近所に住む犬っころみたいに無性の愛を与えるほど出来ちゃいませんけどね、それでも寒く凍える中、二人に拾われた恩は今でも忘れませんし、愛想を尽かせてここを出ていくような愚かな真似をする気もさらさらごさいません。
安全な場所で日向ぼっこしながら延々と眠るという、至極最高な日常を手放そうなんてこちとら一ミリも持ち合わせちゃおりません。
だから私の名を呼び、互いに引っ張り合うのはもうやめてください。本当にあれは疲れます。
ある時いい加減腹が立ったので、そばにあった水月の手を思い切り引っ掻いてやりました。すると今まで私を取り合っていたはずの東風が自分ごとのように辛そうな声を出して水月の傷を心配しはじめるではありませんか。
見ると水月の手から赤いものがすうっと流れて、思わず私は怖くなり、走って隠れました。
その時私は、水月が手に怪我を負わないようにと、普段から東風が包丁を持たせていないことを思いだしました。
確か何かの楽器を弾くんだそうで、いつだったかテレビ画面の中にいる水月が、木で出来た何かを肩に担いでいるのを見たような気もします。
えらく物騒と言いますか、なんとも不思議な音のするものだと首を傾げてそれを眺めていたら、私の隣に座る東風が幸せそうに実にうっとりと、テレビの中の水月を見つめていたのを思い出します。
そんな時の東風はたまらなく穏やかで、膝に乗ると幸せのお裾分けみたいによく私の頭や体を何度も優しく撫でてくれたものです。
あの東風の大切なものに何かしてしまったのだと、私な恐る恐る扉の影から水月を覗くと、彼は明るく笑って「怒ってないよ、ごめんな、キャロル。おいで」と呼んでくれました。私は水月の足元へ目一杯体を擦り付けると、彼は優しく私を撫で、東風も「嫌な思いさせてごめんね、キャロル」と一緒になって謝ってくるのでなんだか余計に私の中で悲しみや後悔が大きくなったのを覚えています。
──だけど今夜はまったくいつもと違いました。
東風が辛そうな顔をして黙っても、水月は必死に宥めないし、それどころか大きな怒りすら感じる。
私はそれが酷く寂しくて、辛い──。
二人が笑い合っている時こそ私の安住の証だった。明日もこうしてこの穏やかで暖かな生活が続くのだと、毎日幸せな思いで眠りにつけたから──。
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