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東風は興奮して赤くなった瞳から涙が溢れてしまわないように、ぎゅっときつく唇を噛んだまま再び視線を絨毯へと落とす。
「別れるって気持ちは変わんないんだな」と水月は口にするのもおこがましいのか、面倒そうに早口で言い放ち、東風は声も出さずに静かにただ頷く。
ぐしゃぐしゃと伸びた茶色の髪を掻きむしり、水月は大きく肩を落としながらため息を吐ききった。
「意味わかんねぇよ、なんで急に別れ話なんだよ。俺への不満が爆発したか? ベッドは別にしようって言ったのにお前がヤダって言ったんだぞ」
「……水月の寝相の悪さなんてもう慣れた」
──ええ?! 思わず私は耳を疑いました。
水月の寝相の悪さに慣れれる人間が、生き物が、この世にいるなら会ってみたいと思いましたが、思ったよりもこんな身近にいたとは……。
私がこの家に来た時からすでに水月の寝相は酷いもんでした。私も何度下敷きになりかけたことか……。いや、実際何度か下敷きになったりもしたのですが、この素晴らしく柔らかい体のお陰でどうにか無事で済みました。
国が国なら訴訟問題の一つでも起こしてるところですが、そこは食わせて頂いてる身でありますから、思い切り爪で肩を掻いたくらいで穏便に済ませてやりましたよ。
まあ、何よりこちとら猫だもんで、訴訟なんて端から出来ないんですけどね──。
「じゃあ何だよ、禁煙できねぇことか」
「……それは、少し、ある」
「お前やキャロルの前では一切吸ってなかっただろっ、匂いが気になるって言うから空気清浄機2台自腹で買ったし!」
「……煙草だって、もう諦めたよ」
「じゃあバイオリンか」
核心をつかれたのか、東風は一度開いた唇を再びきゅっときつく結んだ。
「バイオリンじゃあ将来食えないって、そういうことだろ? 普通に就職して、平均的に安定した収入を得れる大人になれってことだろ?」
「……違う。水月にはバイオリンが必要だし、これからも続けて欲しいと思ってる……」
「だったら……」
「──丁度、いい機会だと思った」
東風は眉根を寄せた顔をあげ、苦しそうに開いた唇からハッキリした声でそう告げる。
「二人でいる必要がなくなった今が、丁度、いい機会だって……」
「……は?」
「俺は就活、水月はこれからもバイオリンを続ける。俺たちの未来はここが分岐点。社会に出れば俺たちは大学なんて場所とは比べ物にならないほどの色んな年齢や価値観の違う人たちと出会って、人間関係を築く。そうなる前に、この狭い世界にいる間に、別れた方がきっと傷も浅くて済むから……」
東風はようやく言いたかった全てを口にすることが出来たのか、眉間の皺が少しだけ緩まった。
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