1 オオカミの城 - le château des loups -

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1 オオカミの城 - le château des loups -

 ルキウスがエマンシュナ王国の西端に位置するこのルースの地へやって来たのは、一年前のことだ。  華々しい王都アストレンヌからいくつかの川と丘陵地帯と平原を超えて、馬で概ね二週間ほど西進した距離にある標高の高い土地で、すぐ西側には深い森に覆われた山々が連なっている。ケイモン山脈という。  このケイモン山脈の向こうに、アミラ王国がある。  面積で言えばエマンシュナ王国の三十分の一にも満たない小国で、その国土のほとんどが峻険な山岳地帯にあり、周囲の国々とは交流が少なく、人々は大陸の共通語とは異なる言語を話す。  その閉鎖的な国が、五百年ほど前からエマンシュナ王国と敵対関係にある。アミラ王国を治めるドレクセン家が、エマンシュナの統治権を主張し始めたためだ。  その根拠を語るには、千三百年もの昔に遡らなければならない。  エマンシュナとアミラは、かつて広大なマルス大陸全土を支配していた「エメネケア」という古代帝国の一部だった。エメネケア帝国解体以降アミラ王国を支配してきたドレクセン王家が、かつてエメネケア帝国を支配していた王朝の末裔であるために、彼らは我らこそがエマンシュナを統治するに相応しいと言うのである。  一方、エマンシュナにとっては、古代の血筋など知ったことではない。大昔に滅亡した古代帝国の末裔が何を言ったところで、千年もの間エマンシュナの王として国を守り続けてきたのはアストル家なのだ。更には、血統で言えば、アストル家こそ、神話の時代にエメネケアの地を創造した太陽神と月神の子孫であり、エメネケア人の祖、即ち、エマンシュナ人の祖である。これほどエマンシュナを治めるに相応しい血筋は他にない。と、彼らにはそういう自負がある。  エマンシュナは痴れ者の妄言を軽くあしらうような調子で、長期間に渡って繰り返されるアミラからの侵攻を防ぎ続け、時には総攻撃を仕掛けてアミラ軍を山の向こうへ退けた。  この戦が、百年ほどの間は沈静化していた。アミラ国王が外政よりも内政に目を向けた結果だ。  ところが、何がきっかけかは判然としないが、七年前から国境付近での小競り合いが目立つようになり、更にここ二年ほどはとても小競り合いとは呼べない程度まで激化している。峻険な山岳地帯で生まれ育ち、その厳しい地形に訓練された屈強なアミラの戦士たちが、本格的にエマンシュナへの攻撃を始めたのだ。  そういう事情があって、アミラとの国境にあるルース地方は、アミラ軍の侵攻を防ぐための第一の要衝なのである。  ここに、アストル家の嫡男ステファン・ルキウス王太子が二十歳の若き総督として着任した。  双方に大きな動きがないまま一年が経ち、暦の上では春を迎えた。が、標高の高いこの地にあっては、まだ雪が山肌を白く染め、漂う空気は肌を刺すほどだ。  そして、情勢は急転した。ルキウスの任務はもはや国境の防衛だけではない。 「くそ」  ルキウスは毒づいた。  天幕の外の冷たい暗闇の中で、エマンシュナ人の血が流れている。馬が嘶き暴れ、兵士たちが叫び、倒れていく。  劣勢だ。疑う余地もない。 (何故だ)  ルキウスが山々を超えて最初にあるオルデン城に目をつけたのは、諜報活動により、城には主らしき者がおらず、オルデン城下の民は武具などの装備もほとんど持たず、誰一人として戦に備えていないと確信を得たためだった。  その上で、オルデン城の目の前に聳えるツークリエン山の頂上に陣を張ったのだ。日が沈む前に受けた報告でも、城に動きはなかった。夜が明ければ、雪の残る山を下りて城を取り、平和的に領民を従わせて、この地を王都ギエリに進軍するエマンシュナ陸軍本隊の駐屯地及び補給線にするはずだった。  それが―― (何が起きた)  いや、何が起きたかはわかっている。夜襲を受けているのだ。  問題は、敵がいったいどこから出てきたのかということだ。 (いや、違う)  ルキウスは首を振った。  問題は、この状況からどうやって勝利へ転じるかだ。 「殿下、撤退を命じてください!あなたを先に逃がします!」  黒い甲冑に身を包んだ側近のバルタザルが叫んだ。ルキウスは指揮官の椅子を蹴って憤然と立ち上がった。 「部下を死なせて、俺だけ尻尾を巻いて逃げるわけないだろう」 「あなたの名誉は、わたしが守りますから。王太子ですよ。こんなところで死んでよいお人じゃありません」  切に訴える側近の目を見て、ルキウスは頭に血が上った。何を言わんとしているか分かっている。  バルタザルはルキウスと髪の色や背格好がよく似ている。有事の時には身代わりになるよう王府から命じられているのだ。 「君は、俺の代わりに王太子のマントを着て、獅子の兜を被り、俺の馬に乗るつもりか」  ルキウスが暗く怒りを滲ませると、バルタザルは鼻白んだ。 「必要があれば…」 「恐れ多いだろ。君が俺の代わりなんて」  ルキウスは最後まで言わせずに冷たく言った。  そうだ。誰にも王太子の名誉を守ることはできない。自分以外には。 「ですが――殿下!」 「うるさいな。俺が出る」  なおも食い下がろうとするバルタザルの腕を振り払い、ルキウスは毅然として言った。 「松明を増やせ。同士討ちを避けろ。指揮官を探して潰すよう下知しろ。兜を持て」  バルタザルは応えない。まだ王太子を逃がす算段を諦めてはいないのだ。しかし、この主君に聞く耳を持ってもらえるとも思えない。当然、窮した。 「兜を持て!下知をしろ!仲間を見殺しにするつもりか!」  ルキウスは激昂した。バルタザルは従わざるを得ない。王国の紋章である獅子の頭が眉庇(まびさし)に彫られた兜を白木の台座から取り、ルキウスに差し出した。  天幕の外は、まさに大恐慌だった。夜陰に紛れて急襲されたために誰が味方かも分からず斬り合っている者もいた。不気味なのは、陣形などは無く、歩兵、騎兵が味方の陣形の中に紛れてどこからともなく攻撃してくることだ。しかも、彼らは剣や槍を持たず、何か得体の知れない小型の武器を扱っている。闇に潜んで獲物を狩る――まるでオオカミの群れのようだ。  その不気味さが兵士たちを更に混乱させ、恐怖させた。 「怯むな!エマンシュナの戦士たち!敵は闇に紛れて襲いかかる卑怯者に過ぎない!だがそなたたちは太陽神(ソラヒオン)月神(リュメウリア)の子、誇り高き本物の戦士だ!」  ルキウスは甲冑の上から羽織った(テン)のマントを翻し、馬上叫びながら松明を掲げて剣を抜き、乱戦の中を駆けた。  兵士たちは王太子の姿に奮え、士気を取り戻したが、未だ苦境にある。  相手は兵士ではない。と確信したのは、敵の騎兵が木々の間を縫うように接近し、馬から黒い人間の影だけが跳び上がってきた時だ。明らかに特殊な戦術を専門としている。  驚いたルキウスは反射的に身体を低くし、兜の鉢に鈍い衝撃を受けた。避けなければ兜と鎧の隙間から刃で貫かれていたかもしれない。  ルキウスは馬の背にしがみ付きながら尚も首を狙ってくる敵の顔目がけて松明を振った。炎がその顔を焼いて敵が仰け反った隙に、もう一方の腕で剣を振り、胸を突いた。敵は落ちた。肉を裂く感覚はなかったから、多分命を奪うには至っていない。  追従しながら奮戦するバルタザルが必死に自分を呼ぶ声が聞こえるが、構っていられない。今度は闇からもう一人が躍り上がってルキウスの目の前に迫った。今度はその姿がはっきり見えた。  装備は、異様だ。  鉄甲も兜もなく、全身を闇に溶けるような黒装束で包み、頭からフードを被っていて顔も分からない。  ビッ、と空を裂いて飛来した何かを、ルキウスは仰け反って避けた。その隙に首めがけて振り下ろされた短く細い刃を必死で薙ぎ払い、防いだ。目の前に血飛沫が飛んだ。恐らく相手の腕を斬ったが、暗くてよくわからない。  いつの間にか貂のマントもどこかへ落としてしまった。 (指揮官はどいつだ。指揮官を倒せば、統率が崩れる)  ルキウスは松明をかざし、周囲に目を凝らした。が、常緑樹の鬱蒼と生い茂る雪山での乱戦では、誰が誰とも判別できない。 「指揮官を討て!」  周囲に向けて声を振り絞った時、ドッ――と、背後に何かの衝撃を感じた。愛馬が激しく嘶き、狂ったように駆け始める。  背中を雪よりも冷たい死の予感が走った。こんなことは生まれて初めてだ。  後ろを振り返らなくても分かる。同じ馬の背に、もう一人乗っている。  松明を振って相手を振り落とそうとしたが、背後から腕を強かに打たれ、松明が手から落ちた。その時見えた襲撃者の姿は、白いフードに頭を包んだ軽装備の小柄な戦士だった。ルキウスは辛うじて握っていた剣を振ろうとしたが、白いフードの戦士が甲冑の隙間からルキウスの首にナイフを突きつける方が速かった。ルキウスは動くのをやめた。 「撤退しろ」  と聞こえてきた声は、意外にもさらさらとせせらぐ清流のような柔らかさだ。少年かもしれない。しかし、その声色に似つかわしくない、アミラ訛りの、断固とした口調だった。 「エマンシュナ人が山を下りるならこちらも城へ帰る。さもなければ今あなたの首を取り、最後の一人になるまで殺し合うことになる」  ルキウスは舌を打ち、馬の手綱を引いて急停止させた。馬が両前脚を跳ね上げた反動で襲撃者の手が緩んだ隙に、ルキウスは後ろへ剣を払った。  信じられないことに、襲撃者はこれを跳躍して避け、宙に浮いたままルキウスの肩を蹴り飛ばして馬から落とした。一瞬、何が起きたのか理解できなかった。戦士と言うには小柄すぎるその体躯から繰り出されたとは思えないほどの重い衝撃だった。  襲撃者は雪の残る地面に着地し、ルキウスが体勢を整える間も無く掴みかかって馬乗りになり、獅子の兜をルキウスの頭から掴み取って放り投げた。  ルキウスは兜を取られて初めて、木々の向こうに見える空が白くなっていることに気付いた。もう夜が明けている。震える喉から吐き出される息が白く、溢れ出る魂のように空中へ霧散していく。 「俺を誰だと思ってる」  自分よりずっと小柄な襲撃者にいいようにされたのでは、面目が立たない。怒りと屈辱ではらわたが煮えくり返る思いがした。  フ。と白いフードの下で相手が笑ったように見えた。 「あなたが誰かは知っている。ルキウス・アストル」  襲撃者はルキウスの鳩尾に膝をつき、顔を隠しているフードを外した。  空も地も、そしてその肌も雪のような白一色の中、緩く編まれた長い髪だけが燃えるように赤く輝いていた。目は、まるでオオカミだ。琥珀色の虹彩が鈍く光っている。 (おんな――)  これが、何よりもルキウスを動けなくさせた。  女だ。それも、若い。  年の頃は自分と同じくらいだろうか。暗くてよく分からない。 「さあ、ルキウス・アストル」  女はルキウスの首に刃を突きつけて言った。この女の柔らかい声は神経をひりひりさせる。 「山を下りると言え。王の子はここで死ぬべきじゃない」 「どうかな」 「今すぐ他のエマンシュナ人を連れて山を下りると誓え。無駄な殺生はしたくない」 「夜襲を仕掛けてきたのはそっちだろ、卑怯者」  女の目が剣呑に光った。が、声は冷静そのものだ。淡々と言葉を発した。 「卑怯はどちらだ。わたしたちは戦闘の意思がないことをはっきりと示していた。領民だけでなく、オルデン城に出入りする者も全て武器は持たず、国境にも近付いていない。にも関わらずあなたたちは山の上に陣を張った。明らかな宣戦布告だ。今夜の急襲作戦はわたしのオルデン(・・・・・・・・)を誰にも奪わせないためだ。わたしにはオルデンの城と領民を守る義務がある」 「わたしの(・・・・)、オルデン?」  ルキウスは眉を寄せた。まるでオルデン城と領民が自分の庇護下にあるような言い方だ。  そして、ルキウスが次に口を開こうとしたとき、遠くから遠吠えが聞こえた。幻聴かと思ったが、間違いなくオオカミの声だ。これに呼応するように、女は顔を上げた。  ルキウスは女の顔色が変わるのを見た。そして女も、もう一度ルキウスの顔を見た。淡く色付いた唇が張り詰めた様子で小さく開き、何かを発した。 (美しい)  と思った。まったくそんなことを考えている場合ではないのに、意志の強そうな大きな琥珀色の目が見開いて自分だけを見つめているこの状況に、ルキウスは一種の高揚を感じていた。  そして、その琥珀色の目から敵意が消えた瞬間、ルキウスは昏倒した。  目を覚ました時、既に空は青く晴れていて、目の前には今にも泣き出しそうなバルタザルの少年のような顔があった。 「ルキウス殿下!」 「…泣くなよ」  ルキウスは辟易して言い、身体を起こした。声はガラガラだし、喉が鈍く痛む。多分、首を絞められて失神させられたのだ。  だんだんと怒りが湧いてきた。あんな女に身体の自由を奪われたなど、あまりに屈辱的だ。 「敵は」 「夜が明けきる前に全員退いたようです」 「なぜ」  不機嫌極まりないルキウスにビクビクしながらバルタザルが言った。 「じ、事情はよく分かりませんが…死人は出ていません。怪我人は大勢ですが、みな手当てを受けています」  ルキウスは辺りを見渡した。ちらほらと負傷した自軍の兵士が他の者の手を借りて収容されていくほかは、誰の姿も見えない。 「くそ!」  ルキウスは悪態をついて雪を掴み、地面に叩き付けた。 (あの…女――!)  王太子の首を取ることもなく、山頂の陣を奪うこともせず、ただ狩りそのものを楽しむかのように引っかき回すだけ引っかき回してさっさと帰って行くなど、嘲弄されているとしか思えない。 「ああ殿下、立ち上がらない方が…」 「大丈夫だ」  ルキウスはうるさそうに言って立ち上がった。  そして山頂の陣に戻って間もなく、ルキウスをますます不機嫌にさせる急報がもたらされた。  エマンシュナ軍本隊がアミラ王都ギエリを陥落させたという報せだった。父の従弟で陸軍指揮官のヴァレル・アストル将軍が部隊を率い、ギエリのドレクセン一族には死者を出すことなく、既にその監視下に置いていると、羊皮紙の書状に記されている。 「ご苦労だった。よく休んでくれ」  と、ルキウスは王族の気品をもって使者に笑いかけ、使者が天幕を出て行った後、人が変わったように使者の持ってきた書状を破り捨てた。書状の隅には、エマンシュナ王府の獅子の紋章が刻印されている。  いい面の皮だ。  簡単な任務だったはずだ。ろくに守られてもいない城を落とし、領内を占拠してこれからアミラ王都を攻めに入るエマンシュナ軍本隊の駐屯地にするだけの任務だった。  それが、知らぬ間にアミラ国内に侵攻した本隊がさっさと王都を陥落させ、同じ時に自分たちは夜襲を受けて右往左往していただけだ。 「何のための任務だ。俺は何のためにルースへ派遣された!」  くそ忌々しい。誇り高きエマンシュナの王太子が、何の役目も果たせず捨て置かれるとは。 「まだ戦後の処理が残っています。これからは戦闘よりそちらの方が重要ですよ」  バルタザルがルキウスの甲冑を脱がせながら諫めた。 「オルデンも我々の支配下に置かれます。彼らに恭順を誓わせなくては」 「それは楽しそうだ。存在するかも分からないオルデンの城主とようやく対面できるのか」  ルキウスは皮肉たっぷりに言った。脳裏に琥珀色の目をした女の顔が思い浮かんだが、女の言葉がどういう意味か、未だによく分からない。  ‘オルデン城主’を名乗る人物がルキウスの陣営を訪ねて来たのは、この日の夕刻だった。  城主だというのに供もなく、自ら馬に乗って山を登り、敵陣へ現れた。その上、目を見張るほどの盛装だ。厚みのある織物の長い外套は光沢のある真珠色で、巧緻な幾何学模様の刺繍が施され、その下に覗くドレスの裾も同じく真珠色で、煉瓦色の花の刺繍が施されている。  燃えるような赤毛は金や真珠、エメラルドなどの髪飾りに彩られ、ひと束に編み込まれて背へ垂れ、細い首にはいくつもの真珠が散りばめられた金の首飾りが輝き、その虹彩と同じ色をした琥珀の耳飾りが風にユラユラと揺れている。球状の琥珀が繊細な彫金の施された石座に取り付けられているものだ。  ルキウスは天幕の中の椅子に腰掛け、脚を組み、その貴婦人と対峙した。  女。というだけではない。つい数時間前に雪の上に自分を組み敷いて昏倒させたあの女が、美しく着飾って目の前に立っている。  小柄で、肌が雪のように白く、丸みのあるアーモンド型の目をしていて、オオカミを思わせる琥珀色の虹彩は大きく光をよく取り込んで輝き、花びらのような珊瑚色の唇はそれほどおしゃべりが好きではなさそうに結ばれていて、鼻梁はやや狭い。  成熟した女性と言うよりもどちらかというと少女っぽい容姿だが、この落ち着いた佇まいや敵に対する冷静な態度から見て、恐らくは自分よりいくつか年上だろうと思われた。  今も、恐れ多くもエマンシュナ王国の王太子に、挑むような視線をまっすぐ向けている。  不思議な気分だ。 「オルデン女公オルフィニナ・ドレクセンだ」  女がルキウスの神経をひりつかせる声を発した。
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