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20 剣の聖なる信仰 - l’esprit de l’ épée -
クインはバルタザルからビールの入った瓶を受け取った後、夜空に破裂音を響かせてコルク栓を抜き、一気に呷った。
暗い空には薄雲がかかり、星の輝きをその隙間から覗かせている。月の姿は見えない。
城郭の周りを囲む六本の塔の物見櫓から兵士たちがこちらを注視していることに、クインは気付いている。外から来るかもしれない敵よりも、王太子の住む城郭の屋上で堂々と酒を飲む敵の騎士とその隣で何かの獣の骨を囓るオオカミの方が警戒すべきだと思っているらしい。
が、クインは彼らの視線を気にすることなく空になった瓶を床に捨てて蓋のない木箱から新しい瓶を取り出し、またしてもコルク栓を抜いて吸い込むように飲んだ。
空になった瓶がコロコロと転がり、バルタザルが用意した大きな燭台の脚に当たって止まった。
バルタザルはちょっと迷惑そうに無言でクインの捨てた瓶を拾い、木箱にきちんと戻して腕を組んだ。
「自棄酒なんて、あなたでもするんですね」
「そんなんじゃねえよ」
「本当に?高いところで星を見ながら酒を飲むなんて、恋に傷付いた男がよくやりそうなことですけど」
クインが暗い殺人者のような目を向けた。いつもならビクビクと怯えるバルタザルは、今夜は平然としている。
「酔っ払いに絡まれても怖くないですよ」
「酔ってねえよ」
「十本も瓶を空にして酔わない人間がいるんですか?樽ごと運ばせなかったことを後悔してます。一応これ、兵士たちの宴会用に備蓄している分なんですよ。冷やしておくのも大変なのに…」
文句をつけるバルタザルの視線の先には、三十本余りの酒瓶がびっしりと並べられた木箱がある。そのうち十三本は、クインが空にして床に放り投げたものだ。クインが脱ぎ捨てた黒い軍服の上衣も、きちんと畳まれて木箱の隣に置かれている。上衣など捨て置けばよいものを、バルタザルの性分だ。
しかし、クインは不遜極まりない態度のままバルタザルを暗い目で睨めつけた。
「どれだけ飲んでもお前の喉を潰すまでに十秒かからない」
「またそんなこと言って」
バルタザルはやれやれと首を振った。
「あなたがオルフィニナ殿下の顔に泥を塗るようなことはしないとわかっています」
そう言って、バルタザルはクインの隣に腰を下ろした。
「酒だけ置いて帰れ。鬱陶しい」
「いえ。僕、あなたが嫌いなので、凹んで酔ってるところを楽しませてもらいます。この機会に」
「今日は随分と強気だな」
クインは眉根を寄せた。バルタザルはその眼光の鋭さにヒヤリとしたが、小さく息をついて気を取り直し、肩を竦めて見せた。
「あなたとは長い付き合いになりそうなので、僕なりに歩み寄ろうと決めた結果です。酒を持ってきて差し上げたのは僕個人の厚意ですから、感謝してください」
フン、とクインは鼻で笑った。肝の小さい男だと思っていたら、なかなか言う。オルフィニナがあれは侮れない男だと言っていたのを、この時思い出した。
「似合いの主従だ」
イライラと皮肉を言い捨てたクインに向かって、バルタザルは穏やかに目を細めた。
「あなたがたもそうですよ。オルフィニナ殿下もあなたも、頑固で、愚直で、悲しくなるほど献身的だ。自分のための欲がまるでない」
「馬鹿にしてんのか」
「まさか。高潔さを尊敬します。だから僕はルキウス殿下にはオルフィニナ殿下のような方が相応しいと思っています。良い方向へ導いてくださると信じていますから。まさか邪魔なんかしないと思いますけど、大人しくしててくださいよ。これ以上僕の面倒が増えるのも困るので」
クインは自嘲するように言った。
「ニナが望むことだ。もう従うしかない」
「その、‘ニナ’って呼ぶの――」
バルタザルが涼しい顔で言った。
「ルキウス殿下がひどく嫉妬なさるんですよね。めんどくさいのであんまり殿下の前で呼ばないでもらえます?」
「知ったことかよ」
クインは空になった瓶を放り投げた。遠くでガラスの割れた音が響いた。
「俺とニナの関係を変えようとしても無駄だ」
「…かわいそうな人だ」
バルタザルは心からの憐れみでもってこの騎士の陰鬱な顔を見た。もしも主君の仇になるようなことがあれば、いつでも斬る用意はある。
しかし、クインの心情は少し違う。と、少なくともクインは思っている。
「お前らは勘違いしてる」
オルフィニナへの感情は、恋情とか憧れとかいう言葉で括れるものではない。オルフィニナのそばに居続けることがクインの揺るぎない矜持であり、唯一の存在意義だ。彼女が君主であろうが、妹であろうが、それは死ぬまで変わらない。例え誰かの妻になったとしても、同じだ。仮にオルフィニナの進む道が破滅に向かっているというのなら、自分も同じように破滅するだけだ。
もはや信仰と言っていい。オルフィニナという存在に対しては、自分の下劣な感情も、命でさえも無に等しい。無からは何も生じないように、オルフィニナへの恋に破れるなどと言うことは起こり得ないのだ。
「俺はニナの剣だ」
と、クインはそういう言い方で自分の感情を表現した。
「だから俺がルキウス・アストルに害をなすことはない。だがニナが剣を振り下ろす時は、違う。命令があれば主従まとめて殺す。せいぜいニナに見限られないよう努力しろとお前の主に伝えておけ」
「いやですよ。ご自分でどうぞ」
バルタザルが軽快に微笑して言った。
「フン。クソガキが」
クインが上衣を拾って立ち上がると、それまで大人しく鹿の骨を噛んでいたエデンがクインよりも前に出てクンクンと鼻を動かしながら階下へ向かう階段へ近付いた。
暗く狭い階段にエデンが鼻を突き出した時、「ひゃっ!」と女の短い悲鳴が聞こえた。
「誰だ」
クインの問いかけにおずおずと顔を出したのは、小綺麗な青いドレスの若い女だった。手燭の火が消えてしまいそうなほどに震えている。
「ピュジェ家のスリーズ嬢じゃないですか」
眉を寄せて仁王立ちするクインの後ろから、バルタザルが顔を出した。
スリーズは王太子の従者の温厚そうな顔を見て多少ほっとしたようだったが、なおもフンフンと身体の匂いを嗅いでくる大きな狼と人相の悪い大男に怯えきっている。
「そいつは攻撃されない限り噛まないから怖がらなくていい」
クインが無表情でエデンの白い頭をふわふわ撫でながら、女中に言った。
「エデン、そろそろやめてやれ」
エデンはスリーズの小さな手に鼻を押しつけてペロリと舐めると、クインの言いつけ通りスリーズから離れてクインの隣に行儀良く尻を下ろし、長い尻尾をパサパサさせた。
「スリーズ嬢、美味しそうな匂いがしてたんですかね」
バルタザルが朗らかに笑った。
「あ…王太子殿下と女公殿下の給仕をするところだったので」
スリーズは薄い唇を開いて細い声で言った。
「それならば、なぜここにいるのですか?」
バルタザルの声色は穏やかだが、どことなく詰問するような響きを含んでいる。実直すぎるほどの男だから、給仕係が今食事をしているはずの主人のそばを離れて城内をうろついていることにはどういう理由があるのか確かめずにはいられないのだ。
「あの…」
スリーズはバルタザルとクインの顔を交互に見上げ、ひどく気まずそうに顔を赤らめた後、もう一度口開いた。
「お食事は、しばらく必要でないと仰せでした。わたくしは少し風に当たりたくて、ここに…」
「ああ」
二人ともその言葉で何が起きているか理解した。
「なるほど」
バルタザルは切れ長の目を細めてチラリとクインの顔を見た。ひどく機嫌が悪そうに見えるが、普段からそういう顔をしているから痩せ我慢かどうかまではわからない。
「では、夜が更けてしまう前に女公殿下の騎士どのがお屋敷までお送りしますよ。しばらくの間なら、殿下二人の護衛はわたし一人で十分です。ね、アドラーさん」
クインはギロリとバルタザルを一瞥すると、無言でスリーズを通り越し、階下へ降りた。クインの後をエデンがしゃなしゃなと付いて行く。
バルタザルが首をキョロキョロさせて戸惑うスリーズにクインの後についていくよう指で合図すると、スリーズは膝を曲げてお辞儀し、パタパタとその後を追った。
「あの、閣下…」
スリーズはさっさと螺旋階段を降りていくクインの背中に呼びかけた。狼と一緒に長い脚でヒョイヒョイと一段飛ばしで降りて行ってしまうから、小柄なスリーズはついて行くのに必死だ。
クインは無言で後ろを振り返った。
「閣下は、女公殿下の騎士さまなのですよね」
「だったら何だ」
にベない返事だ。スリーズは気持ちが萎んだが、先ほどよりもクインがゆっくり階段を降りてくれていることに気付いて、自分を奮い立たせた。
「じょ、女公殿下は、王太子殿下とご結婚なさるのですか」
「そうらしい」
抑揚のない声だ。
「で、では、近いうちに王都へ行かれますよね」
「俺は聞いていない」
「でも、きっとそうなります。お妃さまになられるのなら、こんな田舎にいつまでもいらっしゃるはずありません」
「言いたいことがあるならさっさと言え」
クインはスリーズに冷たい目を向けた。オルフィニナの選択は受け入れたが、「妃になる」など、聞くのもいやな言葉だ。
しかし、スリーズは青い目をいっぱいに開いてクインに訴えた。
「わっ、わたくしを、女公殿下の侍女にしてくださいませんか。わたくし、片田舎の爵位もない小貴族の娘だからといって馬鹿にされないよう、両親から厳しく教育されました。一般教養よりも多くのことを身に付けています。マルス語や社交マナーだけでなくて、声楽や詩、ピアノも針仕事も、あっ。それから、数字の計算も、一通りはこなせます」
「ニナに言えよ」
「そ、それから――」
スリーズはめげない。クインはちょっとうんざりして天を仰いだ。
「壁に釘を打つのも、覚えます」
「何だそれは」
黙殺しようとしていたが、これには聞き返さずにいられなかった。
「女公殿下はご自身で壁に釘をお打ちになるので、それもわたくしがします」
「ああ…」
クインは階段の壁でユラユラ揺れるランプの灯りに照らされたスリーズの少女のような顔を、この時ようやく見た。
(気に入った女中がいるとか言っていたな)
「あんたが‘キルシェ’か」
スリーズは顔をぱあっと輝かせた。まさか女公殿下に覚えていてもらえたとは思わなかった。
「はい!あ、いえ、スリーズ・ピュジェです。閣下。で、ですが、女公殿下がそう覚えてくださったのならキルシェとお呼びください」
「とにかく、ニナに言え」
「もちろん、わたくしからも申し上げます。ですが、閣下からも推挙してくださればと…。女公殿下は侍女をお付けになっていませんし、王太子殿下とご結婚されるのなら、身の回りのお世話をする者が必要ですよね。騎士さまが四六時中ついているわけにはいきませんもの」
クインの足がピタリと止まった。既に階段が終わり、一階の冷たい石の床に足をつけている。
「何のために?」
クインは一段上で立ち止まったスリーズの目を見た。
スリーズはじわじわと顔を赤くした。こんなに近くで男性と顔を見合わせたのは初めてだ。それも、強面だと思っていたのに、よく見るとこの偉丈夫はひどく端正な顔立ちをしている。
物憂げで冷徹な目に、高く通った鼻梁、それに、真一文字に引き結ばれた唇が、この男性の暗い魅力を匂い立つものにしているようだ。つい、見惚れてしまった。
一方、クインはスリーズの沈黙の理由など知る由もない。
「出世のためか。王太子妃の侍女なら贅沢な暮らしができるとでも?それともニナに近付いて王太子に取り入ろうとしてるのか」
オルフィニナが王の娘だと公表されて以来、私利私欲のために近づこうとする厚かましい者たちを大勢見てきた。そういう輩がオルフィニナの耳を汚すより先に排除してきたのは、他ならぬクインだ。時には脅しもしたし、痛めつけることもあった。
しかし、この暗殺者の目に、スリーズは怯まなかった。
「ど、どちらかというと出世です!」
堂々たる宣言ぶりだ。クインは目を丸くした。
「わたし、ルースの町を出たいんです。本当は、王太子殿下に気に入られて恋人になれたら王都に行けるなぁなんて思いもしましたけど、それよりも女公殿下の侍女になる方が現実的ですし、それに、女公殿下はとても素敵な方です。身分が高いのに偉ぶったところがなくて、お美しくて、お声も涼やかで、格好良くて――」
スリーズはうっとりと両手を組み、目を細めた。
「それから、烏滸がましいですけれど、放っておけないと申しますか…。どうせ田舎を出るなら、女公殿下について行きたいのです。精神力も体力もこの田舎で鍛えられてきましたから、王都の気取った令嬢たちよりも役に立てる自信があります」
クインは珍妙な生き物を目の当たりにしたような気分になった。これほどオルフィニナに近付く目的を明け透けに言い放った者は、今までいなかった。それも、恐らく全て本心だ。
(ニナが気に入るわけだ)
「馬には乗れるか」
冷たい声色のまま発せられたこの問いかけに、スリーズは顔をキラキラと輝かせた。
「勿論です。乗馬は基本的な教養の一つですから。今だって、馬を貸してくださればわたくし一人でも帰れます。お手は煩わせません」
「いや、いい。送る」
夜道を令嬢一人で返したなどとバレたら、オルフィニナに大目玉を食らわされるに決まっている。
「侍女の話はニナに言え」
クインが三度目に言ったとき、スリーズはニッコリと笑った。少なくとも女公殿下の騎士が反対しないと判断したからだ。
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