24 二つの書簡 - deux lettres -

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24 二つの書簡 - deux lettres -

 オルフィニナは頬を撫でる風と陽光の輝きで目を覚ました。しばしば寝ながらしがみ付く円柱型のクッションが、いつもの朝と同じように腕の中にある。くしゃくしゃのシーツや枕には寝ている間に自分が動き回った形跡があるが、不思議なことに、毛布が肩まできちんと掛かっていた。目の前のサイドテーブルには、レモンの入った紅茶がグラスに用意されている。  そういえば、喉が渇いた。おまけに寝ている間に汗をかいたせいか、身体がベタベタする。ひどく不快だ。しかし、身体は軽い。解熱したようだ。  オルフィニナは上体を起こして腕を上げ、ぐぅっと身体を伸ばした。ふと、視界の隅に人影が見えた。長いソファの上に横たわって脚を組んだまま眠っているのは、ルキウスだ。寝室の中央に置かれていたはずのソファがベッドのすぐそばにあるのは、近くで看病するためにわざわざ移動させたためだろう。  オルフィニナはズキズキ痛む腹とそこからどろりと血が出て行く不快感を無視してベッドから下り、金色のまつ毛を伏せて眠りこけるルキウスに自分が使っていた毛布をかけてやった。  いつもは隙なく整えているダークブロンドの髪に、強風に吹かれたような寝癖がついている。  こちらは病み上がりで髪がくしゃくしゃに乱れ肌も汚いままだというのに、ひどい寝癖がついたままの寝姿がこれほど美しいとは、どういうことだろう。まったく寝ている間も小憎らしい男だ。  オルフィニナはサイドテーブルに置かれたレモンの紅茶を一気に飲み干して喉を潤した。今度は蜂蜜は入っていない。きっと。起きて一番に飲むには甘くないほうがよいと配慮してくれたのだ。  これも先日オルフィニナがひどく腹を立てたことへの罪滅ぼしなのだろうかと思いつくと、ちょっとおかしくなった。 「ふふ」 「…まだ熱があるのか」  ルキウスが起き抜けの掠れ声で言った。 「起こしたかな」 「君が笑うから」  ルキウスはソファの上でごろりと横を向いて肘をつき、眠たそうな顔をオルフィニナに向けた。 「で、熱は?」 「もう下がったよ」 「よかった。また笑ってたから、まだ熱があるのかと思った」  オルフィニナは目を細めてベッド脇の籐の籠に用意されたポピーの柄の浴布を手に取ると、素足のままルキウスの寝そべるソファのそばへ歩み寄り、ピョンと宙に浮いた金色の髪を指に巻き付けて弄んだ。 「お陰で助かった。ありがとう」  ルキウスはまだ少し眠たそうな目を細めて唇に弧を描かせ、逆立った髪で戯れるオルフィニナの手をそっと握ると、自分の口元に持ってきてその白い甲にキスをした。 「光栄だ。俺の女王陛下(マジェステ・マ・レーヌ)」  オルフィニナはちょっと呆れたように笑って浴室へ足を向けた。  が、すぐに腕を引かれてソファに引き倒され、気づいた時には自分の身体の下にいるルキウスに唇を重ねられていた。 「…あ。キスしていい?」  ルキウスがオルフィニナの鼻に自分の高い鼻をくっつけながら、思い出したように訊ねた。 「もうしただろう。言動が矛盾してる」  オルフィニナは苦々しげに言った。しおらしく許可を求めておきながら、腰を強く抱き寄せてくる。逃す気など微塵もないくせに、口だけは殊勝だ。 「矛盾じゃない。君がキスさせてくれるって知ってるから」  ルキウスは悪戯っぽく笑って渋面を作ったオルフィニナの唇に触れるだけのキスをし、額にも啄むようなキスをして、乱れた赤い髪を優しく撫でた。 「ではもう許可しない」  そんなことを硬い声で言うくせに、離れて行こうとしない。ルキウスは奇妙な胸の閉塞感を覚え、心地よいオルフィニナの重さを身体で感じながら、そのしなやかな腰を強く抱きしめた。首筋に鼻を寄せると、甘やかなオルフィニナの香りが鼻腔をくすぐった。 「無理だ。病から目覚めたばかりの姿でさえ完璧に美しい人が目の前にいるのに――」  ルキウスはオルフィニナの香りを吸い込みながら、首筋に唇を付けた。強く吸わないよう自制するのに、思った以上の精神力が必要だ。 「――触れずにいられない」  ぐい。と、今度こそオルフィニナはルキウスの身体を引き離して、その腕から逃れた。 「…入浴する。まだ寝るならベッドを使っていい」  それ以上ルキウスの透き通った緑色の目を見ることができず、オルフィニナはさっさと立ち上がって浴室に向かった。熱がぶり返したかと思った。顔が熱く、なぜか心臓が痛い。 (絆されてたまるか)  そうでなければ、目的を見失ってしまう。  しかし、既に温かく整えられた湯殿と積み重ねられた清潔な布、湯に浮かべられたラベンダーやマジョラムやローズマリーなどの草花を見たとき、心が揺らいだ。  見ればわかる。レモンの紅茶や、毛布や、ベッドのそばに移動したソファと同じく、全てルキウスの手配りだ。  オルフィニナは適度に温い湯に身体を預けながら、目を閉じた。  隣の寝室から聞こえてくるルキウスの衣擦れの音がやけに気にかかるのも、胸がざわざわと忙しなく騒ぐのも、気のせいだ。  オルフィニナの回復を見計らったように、この日、書簡が届いた。アミラ王名代フレデガル・ドレクセンからオルフィニナへ宛てたものだ。 「来たか」  スリーズから書簡を受け取ったオルフィニナは、寝室のソファにゆったりと腰掛けながら歪な笑みを浮かべた。書簡は、狼の紋章が刻まれた赤い蝋で封をされている。狼は、ドレクセン家の紋章だ。  オルフィニナは次に差し出された銀製のペーパーナイフを受け取ることなく、書簡を手に立ち上がった。 「開けないのですか?」  困惑するスリーズに、オルフィニナは無表情で言った。 「アミラ王府からの手紙を一人で読むわけにはいかない」  そう言っていつもよりやや重い足を向けたのは、ルキウスの執務室だ。  書類の山が積み上げられた執務机に、ルキウスはいた。  部屋の中は天井まで届く大きな書棚が四方を囲み、大きなガラス窓から西陽が射している。床は絨毯ではなく、美しい木目を生かした星型の幾何学模様の板張りだ。調度品はどれも寝室にあるものよりも装飾が少なく、基礎的なものに限られている。存外、職務に対しては実用主義なのかもしれない。  この政務に相応しい合理的な空間が、今朝から続いていたオルフィニナの奇妙な動揺をささやかなものにした。  書類の向こうにオルフィニナの姿を認めたルキウスは、羽ペンを机に置いて立ち上がった。眉を寄せ、険しい顔をしている。 「ああ、邪魔をしたか。出直そう」  オルフィニナは軽快に言って、踵を返そうとした。折りが悪かろうと思ったからだ。昨日から自分を看病していたから、仕事が溜まっているに違いない。多少の安堵もなかったと言えば、嘘になる。 「違う」  ルキウスがオルフィニナの背中を追いかけて、彼女が開こうとした扉の取っ手を掴んだ。 「君が来るんじゃなくて、アドラーでも使って俺を呼んだらいいだろ。病み上がりなんだから」  オルフィニナは背後のルキウスを振り返り、キョトンと目を丸くした。そんなことは自分でも思いつかなかったから、返す言葉が思い浮かばない。 「ほら、まだ顔色がよくない」  ルキウスがオルフィニナの頬に触れた。こちらを見つめてくる緑色の目が、本当に心配そうだ。胸がざわざわする。 「…気遣いはありがたいが、部屋を移動するぐらいは問題ないよ」 「だめだ」  断固とした口調で言い、ルキウスはオルフィニナの身体を横向きに軽々と抱き上げた。またしても心臓が奇妙に騒ぎ始める。 「ここまでする必要はない」  オルフィニナが抗議しても、ルキウスは知らぬ顔だ。 「俺にはある」  反論を諦め、大人しく執務机のそばに置かれた布張りのソファに下ろされた後、オルフィニナは持っていた書簡をルキウスに差し出した。 「あなたが先に開けていい。言葉がわからないだろうから読みながらわたしが訳す」  しっかりと封筒を閉じている赤い蝋の紋章を見たルキウスは、唇を吊り上げた。 「律儀なことだな。フレデガルからの手紙を君が先に読んだって、別に二心を疑ったりしないのに」 「政治的な目的で夫婦になるのだから、けじめが必要だろう」 「政治的、ね…」  ルキウスが独り言のように呟くと、オルフィニナは小さく首を傾げた。 「何か変か?」 「いや。――実は、俺のところにも書簡が届いた」  ルキウスが執務机から取り出して持ってきたのは、白い封筒に金色の封蝋が押されたものだった。紋章は、獅子と星だ。こちらもまだ開封されていない。 「あなたも同じ考えじゃないか」  オルフィニナが可笑しそうに言うと、ルキウスは肩を竦めて首を振った。 「少し違う。俺が書簡を開けなかったのは、君を尊重していると態度で示したかったからだ」 「そうか」  オルフィニナは琥珀色の目を穏やかに細めた。 「それじゃあ、見せ合おう」  言いながら、ルキウスは父王の署名が書かれた封筒をオルフィニナに手渡し、オルフィニナの手からフレデガルの書簡を受け取って、銀のペーパーナイフで封を開けた。オルフィニナもそれに倣い、ルキウスのペーパーナイフを受け取ってレオニード王の書簡を開けた。 「ハッ。ニナ、君、脅されてるみたいだ」  書面に目を通しながら、ルキウスが喉の奥で笑った。オルフィニナは意外に思った。 「アミラ語の文が読めた?」 「少しだけ。時々本を見て勉強してるんだ。君の育った言葉を理解したいから」  これには驚いた。もしや冗談かと疑いもしたが、本気で言っていると気付いた途端、またしても気持ちが落ち着かなくなった。 「律儀なことだ」  オルフィニナは抑揚のない声で言い、唇を吊り上げて見せたが、無意識のうちにルキウスの目から視線を逸らしていた。何かに迫られるような気分でルキウスから書簡を受け取り、サッと文面に目を走らせた時、その口元から作り笑いも消えた。 「…あなたの言うとおり、脅しだな」  書面には、フレデガルの直筆でこうある。  ――聡明なる我が姪オルフィニナ・ドレクセン女公。そなたの英断と勇気に心より敬意を表する。ギエリはエマンシュナのヴァレル・アストル大公の寛大なる理解と協力のもと、一族、国民が心やすく過ごしている。唯一の気掛かりはイゾルフ王太子殿下のことである。敬愛する姉上であるあなたがエマンシュナへ移って以来、あなたを心配し、恋しがっている。その心痛はいかばかりか、わたしと妻の心も痛むばかりである。しかしながら、気丈な王妃陛下をはじめ、我が義理の姪の夫であるイェルクや、その父ルッツ・アドラー、更にはその妻女が王太子殿下の心を慰めるよう努めているから、女公におかれては心安んじられたい。女公のエマンシュナでの安全を願っている。――  オルフィニナは全文をマルス語で読んだ後、ルキウスの手に返した。 「弟とアドラー一家は自分の手中にあるから大人しくしていろと言いたいんだろう」 「いい機会だ」  ルキウスは眉を開いた。 「俺と結婚することを返事に書いて送ろう。どんな反応をするか楽しみだ」  悪巧みに夢中な悪童のような顔だ。オルフィニナは苦々しげに頷いた。 「遅かれ早かれ知れることだ。牽制としても丁度良いかもしれないな。ただし、それをフレデガルが真に受ければの話だが」 「信憑性を持たせればいいさ」  悪童の顔を探るように見つめ、オルフィニナは嘲るような笑みを浮かべた。 「魂胆はわかるよ」 「どんなふうに?」  ルキウスはオルフィニナの隣にゆったりと腰掛け、身体を彼女の方へ向けて、髪に触れ、そこにキスをした。オルフィニナの目は冷たい。 「そういうのを、外でもやると言い出すんだろ。馬鹿げてる」 「そういうことこそ、やる価値があると思わないか。事実、俺たちは相性がいい」  オルフィニナは鋭い視線でルキウスを見た。 「残念だが比較対象がないから相性がどうとかはわからない。何度か寝たぐらいで調子に乗らないで」  ふ、とルキウスの唇が吊り上がった。何故か満足げだ。 「君だって俺の身体で気持ち良くなってるだろ。それが証だ」  オルフィニナは髪に触れるルキウスの手を忌々しげに払いのけると、ピンと背を伸ばして居住まいを正した。 「…フレデガルには婚姻の件を書いて送る。それで、こっちだが――」  と、オルフィニナはレオニード王からルキウスに宛てられた書簡を広げて見せた。 「王都に呼ばれてる。わたしたち二人とも」  ルキウスはソファの背もたれにしどけなく肘を置き、ゆったりと目を細めた。 「いいね。楽しみだ」  ルキウスは身を乗り出してオルフィニナの唇に触れるだけのキスをし、また悪童のように笑った。
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