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26 はじまりの旅 - le départ -
夜半、ルキウスがランプを手に書斎に立ち寄ると、甘やかな春の夜風が肌を包んだ。不意に鳩尾がざわざわと落ち着かなくなったのは、夜風の中にジャスミンに似たオルフィニナの匂いが溶けているからだ。
書斎の奥の開け放たれたアーチ型の扉の向こうに、オルフィニナはいた。
バルコニーの最も月が綺麗に見える場所に置かれた籐の長椅子をベッドにして横たわり、ふかふかのクッションを枕にして、こちら側に顔を向け、目蓋を閉じている。腹の上に開いたままの分厚い本を置いているから、きっと途中で眠ってしまったのだろう。
アプリコット色の寝衣の上に羽織った長いガウンがさらさらと風に靡き、訪れた春の暖気に似つかわしいカスミソウの模様がオルフィニナの足元を舞うように揺れている。
まるで絵画の中の女神が飛び出して来たようだ。
ルキウスは吸い込まれるようにバルコニーへ出、自分のガウンをオルフィニナにかけてやると、しばらく彼女の穏やかな寝息が胸を上下させるのをじっと眺めた。
多分、以前の自分ならこんな時間は無意味だと思うだろう。目的の地図も棚から出さず、薄着の寝衣のまま、女性の寝姿をただ見つめているだけなんて、滑稽なほど無益だ。
しかし、目を離せない。この瞬間は自分だけのものだ。自分だけのオルフィニナを見ていたかった。
(それにしても、よく寝るな)
オルフィニナの寝顔を見るのは彼女が熱を出した時以来だが、この短期間に再び彼女の寝顔を拝むことが叶うとは驚いた。
連日の勉強でよほど疲れているのか、それとも――
「心を許してくれてるのか」
意図せず声に出た。
夜風にふわりと舞って白い頬に落ちた髪をよけてやると、オルフィニナが長い睫毛をふるわせ、ゆっくりと目蓋を開いた。
「おはよう。まだ夜だ」
ルキウスが囁くように言うと、オルフィニナは波打つ長い髪をかき上げてのろのろと身体を起こし、ぼんやりとルキウスの顔を見上げた。
このしどけない仕草が、ルキウスの身体の中に風を起こした。頭突き事件以来、彼女の素肌に触れていない。多忙だったせいもあるが、あわよくば彼女の方から欲しがってくれないかと心のどこかで望んでもいた。
「調べ物か?」
と問われて、ルキウスはハッと我に返った。
「そうだ。地図を取りにきたら誰かさんが居眠りしてたから、そこから落ちないように守ってた」
ふふ。とオルフィニナが喉の奥で笑った。
「夜風が心地よくてつい眠ってしまった」
オルフィニナが伸びやかに言って、膝の方へ落ちかけたルキウスのガウンを腰の上へ引っ張り上げた。
「上着を貸してくれたんだな。ありがとう」
「ああ」
彼女は気づいているのだろうか。隙を見せてはいけないはずの相手に、そのあどけない寝顔を何度も見せていることに。
「地図は?」
「え?」
「取りに行かないのか」
「ああ…」
オルフィニナは首を傾げた。目の前のルキウスがなんだか呆けたようにこちらを凝視している。
あっ。と彼女が思い付いたのは、ルキウスにとってはとんでもなく的外れなことだ。
「もしかして、体調がよくない?やっぱりわたしの風邪がうつったんじゃないか」
これはいけないと思い、ルキウスのガウンを掴んで立ち上がった時、オルフィニナは男の緑色の目の中に暗い影を見た。
身体を引く間も無く、ルキウスの腕に抱き寄せられ、唇を奪われた。
次第に余裕を無くしていくように、ルキウスが舌を絡め、腰を強く抱き締めてくる。
オルフィニナはその性急さに呻いた。ざわざわと身体の内側から衝動が湧き起こり、ルキウスの身体から伝わる熱が自分の身体と同調を始めた。
「…君も欲しかった?」
キスの合間にルキウスが囁いた。濡れた唇に火を灯すように吐息が触れる。
「風邪がうつったようなものだ」
オルフィニナは身体の内側から甘やかな痺れが生まれる感覚に気付かぬふりをした。が、行動はそれを否定している。
「ん…っ、地図は」
「うん。もう少し…」
ルキウスの両手がオルフィニナの頬を挟んだ。舌が奥まで触れ合うほどのキスだ。腹の奥が疼き、欲望が溶け出し始めている。
「…!こら」
オルフィニナはルキウスを引き剥がした。腹に触れているルキウスの身体の一部が硬くなっている。
「なんだよ」
ルキウスが不満げに抗議した。
「明日出発だろう。こんなことをしてる場合じゃない」
「そうだな。今始めたら朝まで離せなくなるから、次の機会に取っておくよ」
オルフィニナは不覚にも顔色を変えた。暗いのが幸いだ。こんなところで主導権を握られては堪らない。
暗がりに表情を隠したのはオルフィニナだけではなかった。ルキウスも、奥歯を噛んで彼女の奥に触れたい衝動と葛藤している。しかし自分ばかりがそうさせられているのは不公平だ。オルフィニナにも欲しがらせたい。
ルキウスはオルフィニナの頬に触れ、誘惑するように微笑んで、首筋に吸い付いた。
「…っ!」
オルフィニナがルキウスの身体を押し返したときには、もう遅かった。自分では見ることができないが、痕を付けられたに違いなかった。
「それが消えるまでに抱くから、覚えておけよ」
とんでもない狼藉だ。一、二発殴ってもまだ足りないぐらいなのに、動揺がオルフィニナの身体を動けなくさせた。この狼藉を受けて、全く怒りを感じない自分に対する動揺だ。
それどころか、この男の体温を心地よく感じている。そんなのは、矛盾だ。政治と個人的な感情を混同することは、倫理に反する。ルキウスとの関係は、感情に左右されることのない、政治的なものであるべきだ。友好的か、非友好的かだけでいい。
ルキウスが形の良い唇に弧を描かせた。これがどういう感情なのか読み解こうとしたが、オルフィニナにはわからなかった。表情も見えないほどに顔が近づいたためだ。
ルキウスはオルフィニナの頬にキスをして、柔らかく笑った。
「明日、ルドヴァンに立ち寄って二、三日滞在する予定だ。そこからはガイウス街道を進んで王都に向かう。どこか行ってみたい場所はある?」
「海」
オルフィニナは即答した。
「ずっと山に囲まれていたから、海を見たい」
ルキウスが破顔した。多分、これが気取らない彼の本当の笑顔なのだろう。
「じゃあ、今度こそ地図を持ってくる。二人で簡単に旅程を決めよう」
オルフィニナは差し出されたルキウスの手を取った。
翌朝、オルフィニナとルキウス、その麾下の兵士たち三十名余りが騎馬隊列を組んでルース城を発った。
凱旋の隊列にしてはあまりに少なすぎるが、まだギエリの正確な状況がわからない以上、ルースの兵力を減らすことは避けたかった。
馬車は三台のみで、うち二台は荷馬車だ。残りの深緋色の豪奢な馬車には、侍女として同行を許されたスリーズが乗っている。列の真ん中で馬車と並んで馬を進めるオルフィニナのそばでは、エデンが不在の騎士の代わりに闊歩している。クインとはルドヴァンで合流する手筈だ。
ごく小規模な行軍ながら、衣装や武具の壮麗さは、道行く人がみな魂を抜かれてしまったような顔で目を見張るほどだ。
オルフィニナは白を基調とした絹の生地に金糸や鮮やかなガラスビーズで植物の文様が描かれたドレスを纏い、ルキウスは深い緑に銀の糸と金のビーズで獅子の文様が装飾された上衣を着て、陽光がきらきらと彼らの衣装を輝かせる様は、辺境の民の目には殊更神々しく見えたことだろう。
オルフィニナが首に付けられたルキウスの狼藉の痕跡をごまかすために波打つ赤い髪を結わずに下ろしているのも、春の太陽の下ではいっそう美しく映えた。
ルースの東隣に位置するルドヴァンまでは、それほど時間はかからない。馬を急がせればせいぜい三時間程度の距離だが、今回は病み上がりのオルフィニナを気遣ってルキウスが遅めの行軍を指示したために、倍程度の時間を費やした。
僻地のルースとは違い、古くから陸上貿易で栄えてきたルドヴァンは豊かな地だ。この豊かな地を、ルキウスの再従兄に当たるアルヴィーゼ・コルネールが領主となってから更にその貿易事業を拡大し、これまでそれほど重視されなかった領内の産業にも力を入れて、その才知溢れる妻と共に大いに発展させている。
ルキウスの黒鹿毛馬に続いてルドヴァンの街の壮麗な城門をくぐったオルフィニナは、その隆盛ぶりに目を見張った。
ルースからの道程は代わり映えのない荒涼とした土地や牧草地だったが、この先はまるで違う。道は広く、煉瓦やタイルで舗装されていて、中央は馬車専用、両端は人専用といった具合に段差を付けて分けられている。舗装路にはゆるやかな傾斜があり、雨の日には道路脇の排水路に流れていくようになっているようだ。これを、領内すべての道に施しているというから、その経済力と技術力は途方もない。
その豊かさを表すものは、道路だけではない。街のあちこちに水路が引かれ、海上貿易に関係する物資や人夫をその運河で運び、効率的に港まで動かしているようだった。人々は活気に溢れ、果物や野菜を売る市場から、嗜好品や舶来品の珍しいものを扱う商店、庶民向けの飲食店や居酒屋が軒を連ね、領内を奥に進んでいくごとに建物は壮麗になり、商店や飲食店の高級感も増していく。
最も驚くべきは、こうした豊かな領地には必ずと言ってよいほど存在する貧民街や浮浪者が一切無いことだ。領内全体が豊かであり、貧しさに苦しむ領民がいないことを示している。
「美しい街だ。人も道も素晴らしい」
オルフィニナは心から感服して言った。同時に、悔しさが言葉に滲み出た。本当なら、オルデンもこうした街に育てて行きたかった。自分の手で。
「だよな。俺も嫉妬する」
ルキウスがオルフィニナを振り返って笑った。
(嫉妬?)
とんでもない。あの顔は、敬服と野心の顔だ。オルフィニナにはなぜか、この時のルキウスの感情が手に取るように解った。その心の内では、いつしか王国をあまねくこのようにしてやると言っているに違いない。
「あなたのそういう野心的なところ、けっこう気に入ってる」
オルフィニナは王太子とその一行に歓声を上げるルドヴァンの領民たちに手を振りながら、ルキウスに向かって柔らかく笑んだ。
ルキウスが口を半開きにして呆けた顔をしていることにオルフィニナが気付く前に、彼らの前に領主一族の迎えが現れた。
領民の歓声と花吹雪の中、雄々しい青毛馬の上で彼らを待つ先頭の男を、オルフィニナは知っている。
「ルドヴァンへのお越し、心より歓迎申し上げる。ルキウス王太子殿下、オルフィニナ・ドレクセン女公殿下」
ルドヴァン公爵アルヴィーゼ・コルネールは艶やかな黒髪を靡かせ、王太子とその婚約者に向けて上品な笑みを浮かべた。
「やあ、ルイ」
ルキウスは気軽に挨拶を返し、咎めるように眉を上げたアルヴィーゼに向かってニヤリと笑った。
続いて公爵の後ろから小ぶりな鹿毛馬に跨がって進み出てきたのは、大人と同じ正装の五、六歳ほどの男児だった。面識のないオルフィニナから見ても、一目で父子と分かる。公爵と同じ黒髪で、利発そうな切れ長の目もそっくりだ。大人と同乗せず、一人で騎乗している。その後ろには、暗い栗色の髪をした穏やかな顔つきの紳士が芦毛馬に騎乗している。公爵の弟ユーグ・コルネールだ。
黒髪の公子が父親の顔を緊張気味に見上げると、アルヴィーゼは目を優しく細めて先を促した。
「りゅ…ルキウス王太子殿下、オルフィニナ女公殿下。わが城へごあんないもうしあげます」
男児が言うなり、ルキウスは破顔した。
「頼りにしてるぞ、オクタヴィアン」
主君と臣下というよりも、叔父と甥のような雰囲気が、ルキウスとこの子供との間にある。
「わたしからも感謝を申し上げる。ルドヴァン公爵。公子どの、ご立派な挨拶だった。痛み入る」
オルフィニナはアルヴィーゼと嫡子オクタヴィアンの顔を交互に見て言った。オクタヴィアンはオルフィニナの顔をじっと見て頬を赤らめ、恥ずかしそうにはにかんで笑った。
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