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2 オルデンの女城主 - Orfinina Drexen la duchesse d’Oldenn -
「オルデン女公、オルフィニナ・ドレクセン――」
ルキウスは長い指を顎に当て、その官能的な発音を一音一音確かめるように舌の上でその名を転がした。
「…信じられないな」
オルフィニナは目の前で尊大に座す美貌の王太子を見下ろした。ひどく不愉快な話でも聞いたように、鼻に皺を寄せている。
「女性をたった一人で敵陣に送り出すなんて、有り得ない」
オルフィニナは不思議に思った。
この若者は一体何を腹を立てているのだろう。城主が敵の責任者と話を付けることのどこに腹を立てる必要があるのか、まったく意味が分からない。ところが、次の一言で謎が解けた。
「妻を自分の身代わりに敵の群れに放り込むようなやつは男じゃない。君はもっと大切にされるべきだ」
オルフィニナは目を丸くしてルキウスの顔を見た。どうやら大真面目に言っているとわかると、ひどく冷え冷えとした気分になった。
目の前の年若い王太子は自分を城主ではなく、城主の妻だと思い込んでいるのだ。敵軍の人間に対して見上げた思いやりだが、オルフィニナにとってはこの勘違いこそが侮辱だった。
「オルデンは六年前からわたしの城だ。わたしは誰の妻でも名代でもない。オルデン領主であるわたしが、わたし自身の権限でここへ来た。あなたがわたしを城主の名代だと判断したのは、わたしが女だからかな。もしそうであれば、あなたの浅慮を残念に思う」
思わず、機嫌の悪さが口に出た。
男ばかりが城を持ち民を治めていると思っているのならば、思い上がりも甚だしい。ここが敵陣でなければ高くまっすぐに伸びたきれいな鼻をへし折ってやるところだ。
ルキウスは驚いた様子で孔雀色の目を見開いた後、すぐに穏やかな微笑を浮かべた。
「君を城主の妻だと思ったのは、多くの場合は城主が男か年寄りか未亡人だからだ。城と領地を自ら所有する若い女性を他に知らない。それから、君ほどの美女なら当然夫がいると思った。先入観があったのは認める」
認めるが、謝罪するつもりはない。と続きそうだ。
オルフィニナは不快感を隠さなかった。
「では夜襲の指揮を執ったのもわたしで、あなたを蹴り飛ばして落馬させたのも、雪の上で気絶させたのもわたしだと言ったら、少しは女のわたしが城主だという事実に信憑性が出てくるかな。ここでもう一度再現しようか」
「その必要はないよ」
ルキウスは挑発的なオルフィニナに愉快そうな笑みを向けた。
「気に障ったなら謝る。実は、君に夫がいないと知って嬉しいんだ」
「…これからの話をしよう、ルキウス・アストル」
よくやった、と自分に言ってやりたい。大人げもなく悪態をつくことを我慢しただけ立派なものだ。
「ああ、いいよ。話をしようか」
ルキウスは誰もがうっとりする高貴な笑顔を作り、魅力的だと自覚のある声で言った。これまで自分が誘惑して虜にならなかった女性はいない。が、今目の前にいる女性がそんな誘惑に簡単に落ちてくれるとは、無論思っていない。これは誘惑である前に、挑発なのだ。昨夜屈辱を味わわされた意趣返しであるとも言える。
(今、主導権を握るべきは俺だ)
ルキウスにはそういう肚がある。
天幕の隅っこで居心地悪そうに二人の対話を見守っていたバルタザルに貴人用の席をもう一つ設けさせた後、ルキウスは天幕内の人払いをし、オルフィニナと向かい合った。
昨晩のように強い光を秘めた大きな琥珀色の目で、こちらをまっすぐに見つめてくる。無遠慮に値踏みするような目だ。
「ギエリが陥落し、王府がエマンシュナに掌握された以上、わたしたちに交戦の意思はない」
オルフィニナは淡々と口を開いた。
「無抵抗で俺たちを城へ迎え入れるということかな」
「そうだ。ただし、条件がある」
「聞こう」
ルキウスは権力者らしく椅子の背もたれにゆったりを背をつけ、長い脚を組んだ。まっすぐ背を立てるオルフィニナの表情は変わらない。
「オルデンでの略奪行為、領民からの搾取、増税は禁じる。領民がこれまで通りの生活を送れるよう宰領すること。そして、わたしの臣下の捕縛、及びわたしの臣下に対してこれまでの戦の責任を問う行為や不当な扱いは一切認めない。わたしの臣下もオルデンの民もみなエマンシュナに従う準備ができている。あとはあなたたち次第だ」
ルキウスは金色の睫毛を伏せて少し思案した後、怪訝そうに言った。
「君は?」
オルフィニナは何を問われたのか分からずきょとんとした。
「君の処遇について触れられていない。希望を言えよ。話し合いに来たんだろ?」
「特にない」
今度はルキウスがきょとんとした。
「ないってことはないだろう。君、王族だろ?戦に負けた国の王族がどんな扱いを受けるか予想できるよな。こんなことは言いたくないけど、特に女性は失うものが多い」
「だから、わたしの処遇についてはあなたに全て任せる。処刑されるならばそれも覚悟の上だし、兵士の慰み者にするとでも言うならばその野蛮極まりない刑にも耐えよう。まさかエマンシュナほどの大国が敗戦国の王族に対してそんな下劣な扱いをするとは思わないが。どちらにせよ、それで領民の安寧が保障されるのならば、抵抗するつもりはない」
「へぇ」
オルフィニナはやおら立ち上がったルキウスを見上げ、その挙動を静観した。ルキウスは獲物を狩る獣のような足取りでオルフィニナの目の前まで歩み寄ると、木製の硬い椅子に背筋をピンと伸ばして座る彼女の顎を掴み、その顔を覗き込んだ。
「俺が君をどう扱ってもいい?」
「先ほど言った通りだ」
オルフィニナはルキウスの青緑色の目を見返した。なるほど、ぞっとするほど端整な顔立ちの青年だ。エマンシュナの王太子の美貌については、いやと言うほど耳に入っている。いかに敵国の王太子と言えど、姉たちを始めとするアミラの女たちも例に漏れず、美男子の噂話が大好物だ。エマンシュナのルキウス王子が数え切れないくらいの貴婦人たちと数々の浮名を流していることも、ひと目見たらどんな女性も恋の奴隷にしてしまうなんていう話も有名だ。噂の真偽はどうあれ、これほどの美貌を与えられて生まれてきては、無理もない。
頬が高く、高くまっすぐな鼻梁に、どこか翳りのある深い青緑色の瞳、唇は官能的に引き締まり、触れたらどんな甘やかな感触だろうと夢想させる。背も高く精悍な体付きで、まさに理想的な肉体だ。黄金よりも暗い真鍮色の髪がかえって男振りを上げている。
しかし、オルフィニナは純粋にその造形にときめくことができるほど簡単な立場にない。
「じゃあ、君の処遇は俺が決める。まずは君のことを教えてくれ」
つ、とルキウスの親指が冷たい頬を撫でた。ざわざわと肌を何か得体の知れない感覚が走る。
「それは条件のうちに入っているのかな」
「そうだと言ったら?」
指が頬を滑り、唇に触れた。まるで手に入れた新しいおもちゃでどうやって遊ぼうかと思案しているようだ。
「であれば、わたしは是非を決める立場にない。あなたが聞きたいことには答える。ただし、それは――」
オルフィニナはルキウスの手首を掴んで顔から離し、立ち上がった。
「公式な誓書を交わしてからだ。それまでは誰の指図も受けるつもりはない」
「いいよ、お姫さま」
ルキウスは艶然と微笑み、オルフィニナが掴んだままの手首を突然強く引いて、その弾みでよろけたオルフィニナの腰を抱き、頬にキスをした。
愉しい。
こういう愉悦を感じるのは初めてだ。
こちらを見上げるオルフィニナの琥珀色の瞳が剣呑に光り、その怒りが肌をじりじりと伝ってくる。今にも牙を喉元に突き立ててきそうだ。むしろ、きっと頭の中ではとっくにそうしているのだろうと思うと、心の底から暗い悦楽が湧き上がってくる。
オルフィニナはルキウスの手を振り払い、唸るように言った。
「次、断りなくわたしに触れたら、その鼻を――」
「へし折る?君は領民と臣下の安全のために自ら捕虜になると言ったんだぞ」
「誓書を交わすまでは違う」
オルフィニナは愉快そうに笑むルキウスを睨めつけた。ルキウスは彼女の不機嫌さを気にも留めないどころか、ますます上機嫌になっている。
「じゃあ、すぐに用意しよう。少し待っていてくれるかな」
「いや。わたしは城へ帰る。明朝八時に城へ来てくれ。心配なら配下の部隊を連れてきてもいい。誓書を交わそう」
ルキウスは天幕の出口に足を向けたオルフィニナの前に出て、その退路を阻んだ。
「おっと。だめだよ。雪の山道を女性一人で帰すわけにはいかない」
それに、単騎敵陣に乗り込んできた城主をみすみす帰すつもりもない。
そういう意図を、オルフィニナは分かっている。
「心配には及ばない。迎えが来ている」
オルフィニナは淡い珊瑚色の唇を少しだけ吊り上げて上品に微笑むと、ルキウスから目を逸らさずに後ろへ足を引いた。
この時、天幕の外が急に騒がしくなった。兵士たちが何か叫んでいる。「オオカミだ!」という叫びに、ルキウスは耳を疑った。もっと驚いたのは、間を置かず獣の吠える声が聞こえたことだ。短く太い声――オオカミの声に違いない。
「迎えだ」
オルフィニナは驚きに身動きも忘れたルキウスに向かって、にやりと笑いかけた。
「明朝会おう。城の門を開けて待っている」
オルフィニナが天幕の外へ出た後、我に返ったルキウスはその後を追った。
目の前には、雪のように真っ白な狼がいた。それも、オルフィニナが白馬に乗るのを馬前で守るように行儀よく座って待ち、その金色の目を光らせて呆気に取られる兵士たちを注意深く観察している。
それも、大きい。白いフワフワの毛に覆われた頭の高さが、馬の首ほどまである。
「彼女は攻撃されない限り牙を剥くことはないから安心して欲しい」
オルフィニナは周囲の兵士たちに朗らかに言うと、オオカミに「エデン」と呼びかけ、あとはアミラの言葉で何事か優しく話しかけて、オオカミと共にその場を去って行った。
「お、大きなわんちゃんですね…」
天幕の入り口でその様子を見守っていたバルタザルがへらっと笑って言った。もう笑うしかないといった感じだ。
「馬鹿野郎。オオカミだ、あれは」
ルキウスは忌々しげに吐き捨て、天幕の中へ戻った。
誓書など、すぐに準備してやる。あのオオカミ女に主導権を握られたままでは済ませない。
「料紙を用意しろ。アストルの紋章が刻印された公文書用のやつ。あとペンとインク。今すぐ」
「はっ、はい!」
バルタザルが天幕を再び出て行った後、ルキウスは沈黙して椅子に座った。
白一色の景色の中、揺れる炎のように遠ざかっていく赤毛が目の奥に残っている。
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