3 女公の騎士 - la dame et son chevalier -

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3 女公の騎士 - la dame et son chevalier -

 オルデン城に戻ったオルフィニナを待ち受けていた人物がいる。  肩まで伸びた波打つ栗色の髪を一つに縛り、鎖帷子の上にフードのついた丈の短い黒の上衣を着て、細身の黒いズボンの裾を狩猟用のブーツに仕舞い込み、太い眉の下のハシバミ色の目を暗く光らせて、入り口のアーチの下で仁王立ちしている。ベルトには昨夜の夜襲で使った細く短い剣を差したままだ。 「騎士が主人を迎える態度にしてはずいぶん不遜だな、クイン」  クインは応えず、馬上のオルフィニナを暗い目で見上げた。オルフィニナは静かに言った。 「武装は解けと言ったはずだ」 「俺は承知してねえぞ」  オルフィニナは馬から下り、隣をくっついてきたエデンの白い頭をフワフワと撫でて城の中に入らせると、クインの目の前で立ち止まった。自分より三十センチ以上も背が高い相手を見上げるのは、なかなか苦痛だ。 「頭が高い」  文字通りの意味だ。クインは応えず、暗い怒りの表情のままオルフィニナを見下ろしている。 「俺なしで敵陣へ行ったな」 「お前が来ると話がこじれるだろう。あっちの王太子に斬りかかりそうだから連れて行かなかった。間違ってる?」 「俺が行けば、あの小僧の首を取ってた」  オルフィニナは深く息をついた。 「そういうところだよ。だからわたしが正しかったんじゃないか。ギエリが陥落した。もう終わりだ」 「本当に終わりか?」  クインは食い下がった。  随分前から、エマンシュナから斥候が様子を見に来ていることには気付いていた。オルフィニナは武装せず、交戦の意思を一切示さないことで穏便に済ませようとしていたが、クインからすれば甘すぎる。早晩衝突は避けられなかったはずだ。敵の王太子軍がツークリエン山の頂上に陣を張った時、鬱陶しいエマンシュナ人を一掃する好機だと思った。  が、あろうことかオルフィニナは敵を殺すなと下知した。敵を襲撃しておいて、殺さない方が難しい。寧ろ、こちらが殺される危険が高まる。それを承知で、オルフィニナは命令した。あのまま戦闘が続いていたらこちらが仲間を失っていただろう。  クインが主人の真意を理解したのは、王都からの急報を報せる遠吠えが聞こえた時だ。もともと、戦闘中に急変があれば、城に残してきたエデンに合図させることになっていた。あの時、クインは直感した。オルフィニナはアミラがそのうちエマンシュナに負けるだろうと踏んでいたのだ。夜襲で敵を痛めつけつつも死者を出さないことで、相手を牽制し、なおかつ敵意を削ぐことを狙った。 (だが、王太子の首を取ればこちらが有利になっていた)  クインにはそういう不満がある。  そして、オルフィニナにもそれは分かっている。が、今は領民の安全を最優先に行動するべきだ。 「どのみちドレクセンでは国を持たせられない。民を守るために、エマンシュナには多少なりとも恩を売っておいた方がいい。オルデンの開城もそのひとつだ」 「だからって、なぜあんたが犠牲になる必要がある」 「犠牲じゃない。対価だよ。わたしは価値が高いから」  オルフィニナは冷たく言い、馬の手綱をクインに押し付けた。 「この子を厩舎へ戻しておいて。部屋で話そう」  背後でクインが舌を打つ音が聞こえたが、オルフィニナは黙殺して薄暗い城内を進んだ。  オルデン城は千年以上も昔に建てられた石造りの小城だ。元々はささやかな神殿だったが、エマンシュナとの戦の最前基地にすべく、五百年前に要塞として増改築された。かつては真っ白で美しい姿だった城郭は、今は所々黒ずんでいて、古い石壁には何百年も昔に受けた石矢や火矢、投石の攻撃の痕が無数に残り、表面はひび割れ、外壁には城の姿を隠すように蔦が這っている。人の出入りがなければ廃墟に見えることだろう。  オルフィニナは六年前、十九歳でこの古城の主になった。  それまでは何百年も居城として使われた形跡がなく、ただの武器庫や食料庫、或いは牢獄として使われていたらしい。オルフィニナがオルデンへ来た当時は既にそれらの役目も終え、城など名ばかりの、カビ、悪臭、害虫、害獣など、あらゆる不快なものの巣窟だった。とても十九の若い娘が住むような場所ではない。  土地も、酷いものだった。  標高が高い寒冷地で、一年のうち三分の一は雪に覆われていて、作物の育ちも悪く、何代もろくに統治者がいなかったために、役人の横領が相次ぎ、少しでも金のある領民は他所の土地へ移り、そうでない者は困窮して盗みや詐欺に走り、治安はとにかく最悪の状態だった。  これを、オルフィニナはわずか三年で立て直した。  城の改修工事のために領民を集めて給金を出し、改修が終わるまでの数か月間は貧しい領民の家に十分すぎるほどの報酬を払って転々と泊まり歩き、彼らと友誼を結んだ。更に、他の地域から植物学者や農学者を集めて領民と共に農地の開拓やこの地に適した農作物の生産を行い、横領の相次いだ役人たちは全員罷免して新たに行政に携わる人間を自ら選び、道を整備し、井戸を掘り、新しく水路も引いた。  当初はオルフィニナを王族と知らず、相続か何かの都合でこの地を得た世間知らずのご令嬢としか認識せずに、どちらかというと敬遠していた領民たちは、彼女の聡明さと献身に感激し、この若く美しい領主を敬愛するようになった。  領民も、オルフィニナと共に王都からこの地に送り込まれた臣下たちも、よく協力し合い、よく働いた。みなそれぞれの努力でこのオルデンを豊かにしてきたのだ。  オルフィニナは城の最上階の窓から町を見下ろした。小さな子供たちが高らかに笑い声を上げながら、雪の残る城の敷地内でボールを蹴って遊び回っている。その周りをふさふさの白い尻尾を振りながら、エデンが走り回っているのも見える。  硬くなっていた口元が自然と緩んだ。  この六年でオルデンが得た至上のものは、子供たちだ。子供が笑い声を響かせ遊び回る町を作ることができた。それこそ最も誇らしいものだ。  そして、明日からもそれが続く。  自分がいなくなった後も、続いていく。素晴らしいことだ。 「ニナ」  執務室と呼ぶには狭く暗い部屋の戸口に、クインが腕組みをして立っている。オルフィニナは外套を脱いでクインに渡し、金の首飾りを外して古びた執務机に積み重なった本の上に乱雑に置き、擦り切れた布張りの椅子に腰掛けた。 「オルフィニナ殿下と呼べ。クイン・ベルンハルト・アドラー」  オルフィニナは為政者の威厳を持って言った。今は兄妹同然に育った幼馴染みではなく、主君として話をしなければならない。  クインはオルフィニナの外套を続き部屋のワードローブにしまい込んだ後、行儀よく両手を前に揃えてオルフィニナの前に立った。 「オルフィニナ殿下。話の続きを」  オルフィニナは腕を組み、脚を組んでクインの顔を見上げた。 「わたしはドレクセンだ。出自がどうあれ、その名を持つ以上、この不毛な戦の責を負うべき人間の一人でもある。明朝、エマンシュナの王太子が来る。公的な書面で誓約を交わした後、城を開け渡す。領民と臣下の安全を保障させるし、破らせない。そのためには、クイン、お前も従いなさい。主君の決定だ」 「あんたが投降したとして、向こうが誓約を守るとは限らないだろ」 「守るよ。ルキウス・アストルは――まあ、いけ好かない男だけど、あの男には大国の王太子としての矜持がある。誓約を交わした以上はそれを大義なく破棄するような真似はまずしないだろう。夜襲で散々な目に遭わせた張本人が一人でのこのこやって来たのに、無傷で返した。それが証拠だよ」 「根拠はそれだけか?」  何か心当たりがあるような問い方だ。オルフィニナはクインの目をまっすぐに見つめて顎を引いた。 「そう」  クインは眉の下を暗くして少し思案した後、口を開いた。 「じゃあ俺もあんたと行く」  オルフィニナは眉を寄せた。 「だめだ」 「俺の主人はあんただ。国じゃない。俺はドレクセンでも貴族でもないから国民に対しての責任はない。あんたが俺をクビにするなら俺を縛るものは何もなくなる。俺は俺の自由意志で王太子を殺しに行くぞ」 「クイン」  オルフィニナは静かに怒声を放った。 「身勝手が過ぎる」 「それは殿下も同じこと」  クインはにべなく言って、眉間に皺を寄せたオルフィニナを見下ろした。 「わたしに付き合ってお前まで捕虜になることはない。家族の元へ帰れ」 「あんた一人を敵の捕虜にして故郷へ帰れば、俺は親父に殺される。それより捕虜の従者として俺を伴うことも誓約の条件に加えろよ」 「捕虜の従者?」  オルフィニナは苦笑した。そんな馬鹿げた内容をエマンシュナが承服すると思えない。 「まあ、いい」  拒否されればそれまで、クインは故郷に帰せば良いだけのことだ。 「さあ、客人を迎える準備をしよう。領民にも周知するようみなに伝えてくれ。領内に立ち入るエマンシュナ人を恐れる必要も、攻撃する必要もない。礼を持って遇せよと」  クインは頷いて戸口へ向かい、辞去する前に一度オルフィニナを振り返った。 「なあ、ニナ。領民はみんなあんたを慕ってる。支配者が変わることを大人しく納得する者はいないぞ」 「わたしを慕えばこそ、従ってくれると期待している。それもわたしの言葉として伝えて」  クインは小さく息をついた。納得していないが、騎士の立場で言えることは、もう何もない。物心つく前から一緒に育ってきたのだ。何があっても心を変えないと腹を決めた時の彼女の顔は、もういやと言うほど見てきた。 「…承知した」 「ありがとう、クイン」  オルフィニナは笑った。笑うと、真夏の太陽が似合う陽気な少女だった頃の面影が蘇る。 「あんたに何かあったら俺がアストルの(せがれ)を殺す」 「自分の身は守れるよ」  オルフィニナは無言で立ち去るクインの背を見送った。  そうだ。みすみす犠牲になるつもりなどない。オルフィニナは琥珀の耳飾りを外して机の隅に置いてある小さな陶器の箱に入れ、花模様の蓋を閉じた。  翌朝、ルキウス・アストル王太子は時間通りにオルデン城を訪問した。  甲冑姿ではなく、王族の正装だ。  丈の長い深い緋色の上衣に貂のマントをつけ、鞘までが美しい葉綱模様の彫金が施された剣を差し、ダークブロンドの髪は、魅力的な緑の目を隠さないよう、軽やかに後ろへ流している。供連れは、従者のバルタザルのみだ。  単騎敵陣へ乗り込んだオルフィニナに敬意を払っているとも言えるし、単純に彼女の挑発に乗ったとも言える。  領民たちは敵の王族に冷ややかな視線を送りながらも、オルフィニナの命令に従って特に反発する様子はなく、穏やかに彼らの日常を過ごしている。  ルキウスが最も驚いたのは、その城の粗末さではない。警備の薄さだ。若い女性の領主が居住しているにもかかわらず、門番がいない。少女とも呼べるほど若い女中や、まだ頬にあどけなさの残る年頃の男が数人荷物を運んだり給仕したりして働いている他は、使用人らしき人間が見当たらないのだ。彼らの服装も王族に仕える使用人にしては身なりがあまりに庶民的すぎるし、周囲には武装している者もいない。  まさに今ルキウスとバルタザルを城内へ案内している緊張気味の少年も、絵に描いたような庶民の子だ。最初は軽侮されているのかと思ったが、どうやら違う。  大人たちは農地を耕し、家畜の世話や家屋の普請、そこかしこで走り回る小さな子どもたちの世話などに追われて忙しく働いていて、城仕えの宮廷人らしい者はどこにも見当たらない。  それがオルフィニナの意図なのか、必然的にそうせざるを得ない事情があるのかは分からないが、城仕えの者は置かず、用があるときにその都度手の空いている領民を雇っているのかもしれない。  ルキウスの案内にも、そこら辺の暇な子供に駄賃を払って手伝いをさせているような感じだ。本当ならこの子供は王太子の姿を近くで拝める立場にない。 (斥候が城主不在と判断するわけだ)  とても貴人がこの地に住んでいるとは思えない。これがあの若く美しいオルフィニナ・ドレクセンの居城であると知った今も、俄には信じられない。  ――俺ならもっと良い場所に住まわせてやるのに。  と、無意識のうちに有り得ない考えが頭をよぎって、ルキウスは混乱した。女性と色事に耽ることは勿論好きだが、自分を殺そうとした相手への庇護欲を掻き立てられるとは、なんとも節操がない。  だが、疑問がある。  あの‘狼の群れ’は一体、何だったのか。そもそもオルフィニナ・ドレクセンは何者なのか。ドレクセン家の情報はいくつか耳に入っているが、オルフィニナという名の姫については聞いたことがない。 (まあ、いいさ)  オルフィニナに喋らせればいい。誓書を交わせば、その時点で彼女の自由はルキウスのものだ。彼女に拒否権は与えられない。  ルキウスは少年に導かれるまま、一階の中心部にある中庭に足を踏み入れた。外は肌を刺すほど寒いのに、ここは暖かい。春のような暖気の中に、生花の柔らかい香りが溶けている。この庭園のあちこちで赤やピンクのバラが咲いているのだ。隅にはオオカミを連れた女神像のある小さな噴水があり、高い天井はガラス張りで溶け始めた雪の隙間から陽光を明るく取り入れ、このこぢんまりした空間を春の野のように美しく照らしている。  中庭の中央には花や果実のモザイク画が描かれた円形のテーブルがあった。その上に茶器が用意され、中央には紙の束と羽ペンとインク壺が置かれている。  そしてそこに悠然と腰掛けているのは、正装のオルフィニナ・ドレクセンだ。  今日は濃い青の地に月桂樹の葉が刺繍されたドレスを纏い、燃えるような赤毛は結わずに背へ波打ち流れている。琥珀色の瞳は相変わらず、まっすぐにこちらを見つめてくる。  背後に立つ背の高い男は、城に出入りしている他の者と違い、白いシャツにグレーのベストと丈の長い上衣を着、波打つ栗毛を一つにまとめ、いかにも上流階級らしい洗練された出で立ちだ。  オルフィニナは賓客を迎えるために立ち上がり、右手を差し出した。ルキウスは唇を吊り上げてその手を取り、オルフィニナの意図とは違う形で挨拶を返した。手を握るのではなく、その白い手を口元に持っていって甲にキスをしたのだ。  この時、彼女の後ろで騎士が殺気を放ったことに、ルキウスは気付いていた。 「今日もきれいだね、オルフィニナ」  これは社交辞令ではない。ルキウスは本心でオルフィニナを美しいと思っている。そして、今まで容姿を褒めた女性にうっとりされなかったことはない。が、目の前の貴婦人は鼻の頭に皺を寄せ、ひどく迷惑そうにその可愛らしい唇を引き結んでいる。  危うく笑い出すところだった。こんな反応をされたのは初めてだ。 「さあ、じゃあ、誓いの儀式を始めようか」  ルキウスはオルフィニナが椅子に腰掛けるのを待って、自分も椅子に座った。
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