4 落胤 - la princesse inconnue -

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4 落胤 - la princesse inconnue -

 誓書を交わす作業は、驚くほど簡単に済んだ。  オルフィニナの要求を、ルキウスが全て呑んだのだ。今後はエマンシュナから派遣される新たな支配者がこの地を治めることになるが、その際の増税や領民に対する不当な扱いは一切しない、オルフィニナの臣下は引き続きこの地で暮らすことを許され、戦に関わる罪に一切問われない、など、それぞれの条項の記された箇所にオルフィニナとルキウスの正式な署名が記された。 「この条件も呑むのか」  と、思わずオルフィニナが口に出してしまったのは、「オルフィニナ・ドレクセンの従者として騎士(リッター)クイン・ベルンハルト・アドラーを伴うこと」という箇所にルキウスが流れるような書体であっさりと署名をした時だった。 「これも君を俺の手元に置いておく条件なんだろ?別にいいよ。俺の命を狙いさえしなければ」  ルキウスは背後にまっすぐ立つクインを見てニヤリと笑った。今すぐにでも殺してやりたい。と、その騎士の暗い目が語りかけてくるようだ。 「それとも、呑んではいけない条件だったのかな」 「…問題ない」  と言いながら、ペンを持つ白い手が逡巡するように一瞬止まり、かすれた線を引いて名を記したのを、ルキウスは見た。  最後の条項は、オルフィニナに関することだ。「アミラ王国オルデン女公オルフィニナ・ディートリケ・ベアトリクス・ロウェナ・ドレクセンの身柄はエマンシュナ王国王太子ステファン・ルキウス・テオドリック・レオネ・エヴァン・アストルが預かり、本人の意思にかかわらず、その処遇の一切を取り仕切る」とある。オルフィニナはこの条項に平然と署名をした。  最後にクインとバルタザルが証人として署名をし、誓書は完成した。同じものが四部用意され、二つはオルフィニナとルキウスがそれぞれ持ち、一つはアミラ王府に、最後の一つはエマンシュナ王府に送られることになる。 「さあ、これで君は俺のものになった」  ルキウスは機嫌良く言った。いっそう殺気が強くなるオルフィニナの背後の男のことなど、歯牙にもかけない。 「何をして欲しい」  無表情で問うオルフィニナの顔を覗き込むように、ルキウスはテーブルに頬杖をつき、機嫌良く笑った。 「君のことが色々と知りたい。二人きりになれるかな」  オルフィニナは長い睫毛を伏せ、小さく息をついて顎を引いた。 「――人目につかないところで」  ルキウスが付け足すと、オルフィニナの背後でクインが足を一歩前に踏み出した。オルフィニナは後ろを振り返り、その強い視線でクインを制止すると、表情を変えず、ルキウスに向き直った。 「執務室に案内する」  オルフィニナは立ち上がり、暗く激しい怒りをその目に浮かべるクインの目を見た。 「挑発に乗るんじゃないよ。見苦しい」  アミラ語だ。二人のエマンシュナ人には理解できない。 「本当にただの挑発か?」 「お前の反応を楽しんでるだけだ。妙な真似はするな。ここであの従者どのと大人しく待ってて」  クインに怒りの形相で睨まれ、バルタザルは震え上がった。今交わされた二人の会話は理解できないが、ひどく不穏な雰囲気のままあの暗い顔の騎士と二人でこの場に残されてしまうことは分かる。 「愛想のない男で申し訳ないが、座って寛いでいてくれ。新しい茶を用意させる」  オルフィニナは大陸共通のマルス語でバルタザルに言うと、クインに向かって「いいな」と、強く念を押し、機嫌良くニコニコするルキウスを伴ってその場を後にした。バルタザルはもう帰りたくて仕方ないが、クインに向かって愛想笑いを向けて、恐る恐る今まで主の腰掛けていた椅子に座った。 「チッ」  クインの舌打ちでバルタザルは「ヒッ」と跳び上がった。 「取って食いやしねえよ。ビクビクすんな」 「は、はい…」  流暢なマルス語だ。しかも、恐ろしく口が悪い。 「あ、アドラーさんは、マルス語がお上手ですね」 「あ?」  クインが眉間に深々と皺を刻んだので、バルタザルは打ち解けようとするのをやめ、口を閉じた。  城主の執務室は、五階の最上階にある。  ボロボロの木の扉はこの地域の肌を刺すような寒さを遮断してはくれないし、大きな楕円形の窓も陽光を取り入れるには役立ちそうだが、脇にまとめられている薄い木綿のカーテンだけでは部屋の中の温度を保つことはできそうにない。木目の目立つ古びた机にはアミラ語の分厚い本が積み重なり、羽ペンやインクがきちんと机の隅にまとめられている。  広さは、とても快適とは言えない。王都にあるルキウスの居城で比較すれば、衣装部屋よりもこの執務室の方が小さいくらいだ。しかし、この狭く薄暗い空間にあっても、石の壁は剥き出しにされずに柔らかく淡いクリーム色の布地が張られ、日当たりの悪い奥の壁には植物文様の織物のタペストリーが掛けられていて、草花の描かれた絵画や、神話に登場する女神の絵などが美しく額装され、ささやかな温かみが感じられる。  ルキウスは壁に多く掛けられた額縁の中に、子供の描いたような小さな絵がいくつも混じっているのを見つけた。どれも白い犬のような動物や女性を描いたものらしい。 「もしかして、これ、君?」  執務室へ入って初めてルキウスが発した言葉はこれだ。描かれた女性はドレスや髪型は様々だが、どれも赤い髪をしている。 「そうだ。領民の子供たちが描いてくれた」 「じゃあこっちの白い犬は、君のオオカミか」 「そう。エデンだ」  オルフィニナの表情は変わらないが、少しだけ目元が柔らかくなった気がする。ルキウスは意外に思った。 「子供が描いた絵を執務室に飾る領主には初めて会ったな」 「…あなたが許してくれるなら、それも持っていきたい。どこにわたしの身柄を送るのかは知らないが」 「勿論、いいよ。俺が拒否する理由はない」 「恩に着る」 「それから、君は俺の城へ連れて行く」  ルキウスは形のよい唇を吊り上げ、執務室の中をぐるりと見回し、窓際に立つオルフィニナにゆっくり近付いた。昨日と同じ、獲物を狩る獣のような足取りだ。  オルフィニナはひどく居心地が悪くなった。自分よりも四つか五つは年下の――それも昨日雪の上に転がして痛めつけた男が、今は主導権を握り、捕食者の目をしている。が、誓約がある以上何をされても抵抗してはいけない。何かの弾みで相手の鼻を折ってしまわないように注意しなければならないのは、なかなか難儀だ。  ルキウスは肌が触れ合いそうなほど近くまで歩み寄ると、カーテンを引き、陽光の差す窓を覆った。オルフィニナの緊張を肌で感じ、ぞくぞくと愉悦がせり上がってくる。  壁際に追いやったオルフィニナの腰をスルリと撫でた時、オルフィニナは今にも殴り掛かって来そうな目でこちらを見上げた。必死で動くのを我慢しているのだ。 「そんなに緊張しないでくれ。最初に俺の上に乗ってきたのは君だろ」  ルキウスの低い声が耳に触れそうな位置で直接響く。柔らかい髪が首筋をくすぐり、そこに唇が触れた時、何か得体の知れない感覚がオルフィニナの肌を伝った。 「…君は花の香りがする。ジャスミンみたいな」 「あなたが知りたいことはわたしの匂いじゃないだろう」  動揺で声が震えないよう、オルフィニナは喉を絞った。ルキウスからは麝香のような甘い香りが漂ってくる。 「フ、そうだね」  ルキウスはオルフィニナの首筋に唇で触れながら笑った。細い腰から背中へ手のひらを滑らせると、ドレスの下で僅かに肌が跳ねた。ルキウスは彼女の身体を抱き寄せ、その退路を断った。 「ねえ、君は誰なんだ?オルフィニナという姫はドレクセンにいない。俺の情報が間違ってるのかな」 「わたしはエギノルフ王の三女だ。唯一の婚外子だから正式に王女とされていない。ドレクセンを名乗ったのも、十五で成人してからだ」 「じゃあ、それまでは何て名乗ってた?」 「オルフィニナ・アドラー」  背中を伝う手がピタリと止まった。 「アドラー」  あの騎士と同じだ。 「クインの両親が物心つく前からわたしの親代わりだった。クインとは家族も同然だ」 「道理で、騎士にしては君への態度が大きすぎると思った」  ルキウスが身体を解放したので、オルフィニナはほっと息をついた。ルキウスは彼女からゆっくり離れると執務机の椅子に腰掛け、オルフィニナにも部屋の隅のソファに座るよう促して、深く思案するように両手を組んだ。 「…君の話を続けようか、オルフィニナ。俺は今回のギエリ陥落はなんだか腑に落ちないんだ」  オルフィニナは眉を寄せた。 「腑に落ちない?」 「早過ぎるだろ。敵の俺が言うのも何だか変な話だけど、アミラは小さいながら手強い相手だった。エマンシュナ軍がギエリへの攻撃を試みて成功したことはない。五百年の間、一度もだ。それが今回、王都への侵攻を許しただけじゃなく、瞬く間に陥落した。今朝受けた報告では、ギエリは一日と持たなかったって話だ。老練なエギノルフ王らしくもない。王国の弱体化が急激に進んだとしか思えない。それなのに七年前から戦争が激化したことも、理由が分からない」 「それが、わたしの身の上話を聞いて解決すると思うのか?」 「さあね。でも君は王族だ。で、俺は君が知ってることを知る権利がある」  オルフィニナは小さく息をつき、擦り切れた布張りのソファの硬い背もたれに背を預け、ゆったりと脚を組んで、花びらのような唇を僅かに吊り上げた。 (この男は馬鹿じゃない)  と思った。もし自分が口を閉ざしたところで、早晩真実に辿り着くだろう。それよりも今従順に口を開いてやった方が、今後のことが容易になるかもしれない。 「いいよ。わたしの話を続けよう」  オルフィニナが生まれたのは、王国の最北端に位置する小さな港町で、記憶にはないが、二歳まで母親ゲルダと父親違いの姉エミリアと三人でそこに暮らしていたらしい。その地を離れるきっかけとなったのが、母親の死だ。 「エミ――姉が言うには、肺の病だったそうだ」  オルフィニナは淡々と続けた。  エミリアの父親はオルフィニナが生まれる三年ほど前に落馬事故で死に、看護師だった母親が生計を立てていた。彼らの暮らす港町に王都から軍が派遣されてきたのは、二十七年前の夏のことだ。軍港の視察と海上の演習のために滞在していた将校と、軍の臨時の医療係として働いていた未亡人が男女の仲になるまでにはそれほど時間は掛からなかった。半年後、将校は王都へ帰還する前に、恋人とその娘を共に連れて帰りたいと申し出た。が、将校に妻子がいることを知った彼女はそれを拒絶した。しかも、この男がただの将校ではなかったことも、この時になって知った。 「それがエギノルフ王?」  執務机に頬杖をついて訊ねたルキウスに向かって、オルフィニナは頷いて見せた。 「相手が国王なら、愛人になった方が楽に暮らせるのに、君の母上はなぜそうしなかったんだ」 「楽な暮らしより大切なことがあったんだろう。賢明だったと思う」  オルフィニナは皮肉な笑みを浮かべた。 「これもエミから聞いた話だが、別れ際に‘二度と会わない’と怒鳴ったそうだ。相手が国王だと承知の上で」 「やるね」  ルキウスは笑い声を上げた。 「別れたひと月後に、妊娠に気付いた」 「それが君か」  オルフィニナは頷いた。  母親を病で亡くした後、当時十歳だった姉のエミリアは、母親の遺言通り、少ない遺産を路銀に使い、二歳の妹の手を引いて王城を目指した。頼るべき親戚もおらず、生まれ育った小さな町では、父親の分からない子供を産んだ未亡人とその子供たちへの風当たりは厳しかった。  ギエリの王城へやって来た幼い姉妹を、当然、門番は追い払おうとした。物乞いだと思ったのだ。が、国王が母に贈ったドレクセン家の狼の紋章のついた指輪を見せられた時、門番はさすがに不審がって家令を呼び、更にオルフィニナの顔を見た家令が動転して国王の元へ姉妹を連れて行く事態となった。 「家令が動転するほど君がエギノルフ王に似てたってこと?」 「そうだ」  オルフィニナは眉の下を曇らせた。 「嬉しくないんだ」 「あまり」 「ふうん」  ルキウスは敢えて興味なさそうに相槌を打った。これに興味を持ったと知られたら、口を噤んでしまうのではないかと直感したからだ。 「わたしとエミは父の側近だったルッツ・アドラーとその妻に預けられた。父が王妃に遠慮した結果だ。エミは十年前に外国へ嫁いで、わたしは同じ頃にドレクセンの姓を与えられた」 「…君を訓練したのは、アドラー一家なのか」 「そうだ」  オルフィニナはあっさり認めた。ルキウスがこれを一番知りたがっていることは、分かっている。 「じゃあ、君の部下たちも同門ということになるね」 「そうなる」 「夜襲には何人で来た」 「わたしを含めて十二人だ」 「ハッ」  ルキウスは失笑した。 「十二人」  ルースから連れてきた自分の部隊は、百人いたはずだ。それを、いとも簡単に攪乱された。それも、一割程度の人数に。怒りを通り越して、おかしくなってくる。 「そのルッツ・アドラーっていうのは何者なんだ?王の娘に危険な訓練を課して、特殊部隊を率いさせるって、普通じゃないよな」 「ルッツは、わたしを実の子と同じように大切にしてくれた。だから訓練をした。命を狙われても自分を守れるように」 「継承権も持たない王の婚外子の命を狙うのって?嫉妬に駆られた王妃か?」 「ミリセント王妃はそんな人じゃない」  ルキウスは注意深くオルフィニナの顔を見た。語気に棘があるのは、本心で言っているからだろう。 「王妃はわたしを自分の子供たちの姉妹として尊重してくれている。わたしにドレクセンの姓を与えるよう父に進言したのも王妃だ。長年わたしを王家に迎えられないことを気に病んでいた父も、王妃に感謝した。わたしも高潔な彼女を尊敬している」 「それなのに君は危険な土地に追いやられた。六年前って言ったよな?情勢が悪化した後だ。わざわざ王家の名を与えた娘を敵国との国境にあるド田舎の領主にするなんて、君を捨て駒として利用しているとしか思えない。最悪の親だ」  ルキウスは冷ややかに言った。 「わたしをオルデン領主にしたのは父じゃない」  オルフィニナの声も同じくらい冷ややかだった。 「七年前、何があったのかと言ったな。戦が激化した理由がわからないと」  オルフィニナの琥珀色の目が暗く翳った。ルキウスは無言で肯定し、その先を促した。 「エギノルフ王は、その年死んだ」 「…は?」  ルキウスは耳を疑った。容易ならぬことだ。エマンシュナや他の同盟国が把握している情報と違う。  エギノルフ王は数年前に病を発したため公の場に出ることが困難になったが、その指示のもと王弟のフレデガルが名代として表に立ち、依然として実権を握っているのはエギノルフ王であるという話だったはずだ。  アミラの継承法に基づけば、国王は病床にあっても存命中に退位することができない。そして国王が死亡したとしても、一位の継承権を持つ男の相続人が未成年の場合、十五で成年となるまでは相続はされず、政務を行うことが認められないため、その間の臨時の国王として第二位の継承権を持つ者が王位に就くことになる。  現段階では、アミラ王国は国王が存命しており、嫡男が未成年で政務を行うことが認められないために、王弟が宰相の役割を担って表に立ち、エギノルフ王主導の下で政務に勤しんでいる。――はずだったが、王の娘は今、全く違うことを言っている。 「アミラには今、国王がいないんだよ。王府はそれを国民や諸外国に死に物狂いで隠している。王弟のフレデガルが先導してね。急にエマンシュナへ喧嘩を売り出したのも、国民の目を王府から逸らすためだ。とんだ愚策だと言わざるを得ないが、新たな権力者となったフレデガルに逆らえる者は今の王府にいない。エギノルフ王の名のもとに、みな粛清されたから。ミリセント王妃も王都に残された王太子を守るのに必死だから、口を噤んでいる。外国に嫁いだ娘たちに助けを求めることもできないまま」  ルキウスは混乱した。  これが真実であれば、由々しき告発だ。 (信じていいのか?)  わからない。誓書に‘真実のみを話す’という条目も入れておけばよかった。 「…それが、真実だとして」  喉が乾く。何かとんでもないことに首を突っ込んでいるような気分だ。 「フレデガルは何故国王の死を公表して自分が王位に就かないんだ?王太子は確か十二、三だろ。子供だっていう理由で王位を継げないんだから、順当に行けば次に王位継承権を持つ自分が堂々と王冠を被ればいいじゃないか」 「できない理由がある」  オルフィニナは言った。フレデガルを嘲笑しているような言い方だ。 「アミラの王位を継ぐためには、三つのものが必要だ。血統、王冠、指輪。――」  と、オルフィニナは指を折った。 「――この三つが揃っていなければ、アミラ王として法的に認められない。通常は先代の王から引き継がれるが、残念ながらフレデガルはそのうちの一つを持っていない。だから、あの男はエギノルフ王の死を秘匿して時間を稼いでいる」 「持っていないものって?」 「指輪だ。父の臨終に際して、どこかへ消えた」  なんだかひどくいやな予感がする。とんでもない話だ。更なる情報を探ろうとすれば、エマンシュナがアミラの継承を巡る内乱に巻き込まれるのではないか。  が、ルキウスは訊かずにいられなかった。  理由は、オルフィニナだ。重大な秘密を剣にして、主導権を握ろうとしているのが分かる。捕虜という立場にいながら、まだ自分を屈服させようとしている。その澄ました顔を乱してやりたい。そのためには、もっと彼女の中に踏み込まなければ。―― 「エギノルフはなぜ死んだ」 「脳の病」  オルフィニナは表情を消して言った。 「――と、王府の人間は信じている。でも違う。毒殺だ。フレデガルが殺した」  琥珀色の目が暗い怒りを湛えている。  ルキウスの背をぞくりと暗い愉悦が這い上がった。
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