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65 道化師の議場 - le château des clowns -
王太子ステファン・ルキウス・アストルの正統性を問う評議会は、中立の立場を表明した国王が見守る中、アストレンヌ城の大広間を議場として、正午から行われた。
王国中の高位貴族を始め、王国議員やその子女が大勢詰めかけ、王城の内外には夥しい数の警備兵が配備され、王城のみならず王都中が物々しい雰囲気に包まれている。
内情を知らぬ市民たちが見ればすわ政変かと要らぬ恐怖を煽りかねないから、王都中の神殿に協力を仰ぎ、至る広場で祝祭の宴を催させた。これは、ルキウスの発案だった。
王国政府に内部分裂が起きているなどと広まれば、アストル王家への信頼が失われる。ここで言う「王家」とは、主に国王レオニードとその相続人であるルキウスのことだ。それこそヴァレルの狙いのひとつだった。ヴァレルは自身の派閥が民意に於いても優位に立つよう敢えてこの政変を匂わせる物々しさを舞台演出として用いようとしたが、ルキウスがそれに対して先手を打つ形になった。
オルフィニナは評議会が始まる前に、レグルス城の執務室で控えているルキウスを訪ねた。口論があって以来、三日ぶりに顔を合わせる。
ルキウスはバルタザルとその他の侍従たちを隣室へ下がらせ、ソファに腰を預けた。
「女王陛下としての訪問か?」
突き放すような口ぶりだが、最後に口をきいたときと比べれば幾分か和らいでいる。
「今は、妻」
オルフィニナは隣に腰を下ろして、封筒に入った書簡をひとつ手渡した。
「知っていたか?かつてダフネ王妃の母君の侍女だった婦人が、主人の死後に縁故を頼って今はアストレンヌ城の女中として働いている」
「いや」
ルキウスは首を振った。
知らぬはずだ。母方の祖父母として対面したことのあるコレル大公夫妻は母の実の両親ではなく、血の繋がりのある祖父母はその遠縁に当たる片田舎の小貴族に過ぎない。顔はおろか、名も知らないのである。
「お母上はあなたの実のおばあさまに手紙を送っていた。おばあさまの死後、彼女が最も信頼していた侍女が私信を全て預かったそうだ。日記よりも多くのことを語っている。あなたのことも、ここに」
ルキウスは書簡を見た。殆ど日焼けしておらず、状態がいい。大切に保管されていたのだろう。
書簡には、我が子を愛おしむ気持ちと、この国の相続人として王家に我が子の全てを委ねなければならない哀しみでせめぎ合う母親の苦悩が記されていた。
オルフィニナが最も有力な根拠になり得るものとして注目したのは、そのうちの一部だ。
――最初は母親のわたしに似ていた鼻の形も、成長するにつれお父君である国王陛下に似てきました。国王陛下は美男でおわしますからきっとルキウス殿下もお父君に似た美男に成長なさるでしょう。ですが、わたしがお父さまから受け継いだ鼻の形が息子から消えてしまうのは、なんとなく寂しくもあります。――
「はっきりとレオニード王が父親だと記している。政治的に何の影響もない故郷の実母に宛てた極めて個人的な手紙だ。誰にも見られる心配がないのに嘘をつく必要がない。論拠として十分だ」
オルフィニナは力強く顎を引いて、ルキウスの手を取った。
「あなたを信じている、ルキウス。誰もあなたの正統性を覆せない」
ルキウスはオルフィニナの手をグイと引き寄せ、その身体をソファに押し付けるようにして唇を重ねた。オルフィニナは、抵抗しなかった。
入ってきた舌を自分の舌でなぞり、髪に挿し入れられた指が結った髪を乱しても、乱されるままに許した。
「は…ニナ」
ルキウスの呼吸が熱い。オルフィニナはルキウスの頬に触れ、熱っぽく潤んだ緑色の目を直視した。この中に眠る感情が、正直すぎるほどにぶつかってくる。こちらの瞳が灼けてしまいそうだ。
「君の隣に相応しい男は俺だけだ」
「では勝って、証明して」
「俺の勝利は全て君に捧げる」
「捧げられた勝利の半分は、わたしからあなたのお母上に」
オルフィニナはルキウスの金色の髪を分け、露わになった額にキスをした。
評議会が始まって早々、ヴァレル・アストルはダフネ王妃とジバル・アストル大公が交わしたとされる熱烈な手紙を根拠として提示した。
「これこそダフネ王妃とジバル大公の姦通の証である」
と、ヴァレルは声を高くし、彼に賛同する中央の領主たちはそれに同調した。みな武勇を誇る家門だ。
これを皮切りにルキウスの正統性を覆すに値するジバルの屋敷に仕えていた使用人の証言や論拠となり得る書面が次々に提出され、議会の流れを引き込んだ。
中には明け透けにダフネ王妃への恋情を綴ったジバルの手記や、彼女がいかにジバルに信頼を置いていたかがわかる二人のやり取りを日常的に目にしていたという侍従の証言もあった。
議場には、英雄ヴァレル大公こそ相続人に相応しいという声が大きくなっていた。
「そうだったかもしれない。ふたりの真実はもはや誰にも知る術はない」
ルキウスが声を上げると、ルキウス派の諸侯が色めき立った。
「お認めになるのですか!あなたのお母上の不貞を」
「認めはしない。しかしもはや真実は二人にしか分からない。だが、考えてみてくれ。今論じているのはわたしの父親が誰かであって、母とジバル大公の関係を明らかにすることは問題ではないはずだ」
「愚かなことを」
ヴァレルは嘲笑った。この場で自らの優勢を確信しているのだ。
「王妃と我が兄に不貞の罪があったことに変わりはない。この王国に嫁いできて間もなく二人が深い関係になったことは分かっている。なおかつ兄はルキウス殿下と同じく金色の髪に緑色の目をしていた。あなたが国王陛下の御胤であるという確証はない」
「だが、当の母が実の親に宛てたかなり個人的な手紙でわたしをレオニード王の子だと認めている」
ルキウスは書簡を開いて掲げ、議場の諸侯に向けた。にわかに諸侯がざわついたのは、この書簡を根拠として認めるべきか否かを判じかねているためだろう。
「母によればわたしの鼻は国王陛下に似ているそうだ。諸公はどう思う?この鼻は陛下と大公どちらに似ているかな」
ざわめきと、笑いが起きた。玉座のレオニード王の笑い声に気付いた者は、少なくない。
「わたしからも根拠となるものを提示したい」
と声を上げたのは、ルドヴァン公爵アルヴィーゼ・コルネールだった。
アルヴィーゼは王宮の侍医が記録していたダフネ王妃の日々の体調の変化や食事などを分析させ、ダフネ王妃がルキウスを身籠もった時期を割り出した上、その時期のジバル大公の行動記録を照らし合わせていた。
「ジバル大公はその頃狩りに夢中で一年の殆どを領地で過ごしていた。その後の二人の関係がどうあれ、少なくとも王妃が大公の子を身籠もるのは現実的に不可能だ」
「そんなものはいくらでもごまかせる」
ヴァレルは余裕ありげな表情を崩さなかった。が、声色には僅かに動揺が滲んでいる。忘れられたも同然の存在だった王妃の過去に関して、ここまで詳細な調査ができるとは想定していなかったのだ。
「こちらには、兄が受け取った王妃からの手紙がある。罪の意識に苛まれ、業深き運命に慄いていると。これこそ彼らが道ならぬ関係を結んだ証ではないか」
「…それはいつの手紙だ?ヴァレル大公」
ルキウスの声は怒りを孕んでいる。アルヴィーゼが挑発に乗るなと視線で諫めたことには気付いたが、取り繕うほどの精神的余裕はない。
「二人の死の直前です、殿下。彼らは長いあいだ親密なやり取りをしていた。兄はすべて遺しているんですよ。愛する人との記録を」
「では俺が生まれた日にはどんな記録を残した?ジバルはさぞ俺の誕生を喜んだだろう。自分の息子だと思っていたならな」
ヴァレルは表情をなくした。
「それほど母を愛していたなら何か記しているはずだろう。禁断の愛について憚らず日記に書き残すような男が、子の誕生を黙っているはずがない。そう思わないか?」
「兄の古い記録は、どこにあるかわかりませんから。隠しているかもしれませんな。誰の目にも届かぬ場所に」
「ふん」
ルキウスは嘲笑った。
「なあ。どうもおかしいと思わないか、諸公。そんなに熱烈にジバルが母を愛していたにしては、母は手記にも手紙にもジバルへの愛について何も書いていないんだ。ただ、親身になってくれるから信頼していると書いていただけだ。あとは、期待させたかもとね。深く情を通じた男に普通そんなことは言わないだろ」
議場で誰かが「所詮いい人止まりってことか」と笑った。これが波のように広がり、議会の見解をルキウスの方へ向けた。ヴァレルに与していた派閥も、揺らぎ始めている。
「二人の間に愛があったとしてもそれはジバルの一方的なものだ。ちょっと無謀じゃないか、ヴァレル大公。愛の何たるかを知らない貴公が男女の愛を語るなんて。だが先ほど言った通り、これはわたしの父が誰かを確かめるための評議会だ。男女の愛や不貞は問題ではない」
ルキウスは議場の諸侯を見回し、中央に立った。王太子たるに相応しい、威厳に満ちた佇まいだ。
「わたしのこの国への愛はもっと深い。月神と太陽神に賭けて誓う。わたしの父は国王テオドール・レオニードであり、この王国の正統なる相続人である。もし違うというなら、わたしは命を諸公に差し出そう。エマンシュナの王太子として、誇り高き神々の子たるそなたたちが賢明な判断を下すことを信じている」
エマンシュナの諸侯は、見違えた王太子の姿に目を奪われた。放蕩の限りを尽くして荒れていた若者ではなく、かつて彼らがこの方こそ次に仕えるべき君主であると信じた聡明な王の子の姿が、そこにあった。
「若造」
ヴァレルは激昂した。
「王妃と兄が関係を持っていたことは間違いない!事実、あの二人は共に死んだではないか!それほどの情を通じた相手が――」
静寂が議場を包んだ。ヴァレルの目が凍り付いたように見えたのは、ルキウスだけではなかっただろう。
「…何故そなたが知っている」
口を開いたのは、レオニード王だった。
「何故そなたが知っているのだ、ヴァレル!」
常に冷静な国王がこれほどの大声を上げた姿を、誰も見たことがなかった。議場は凍り付き、諸侯の動揺が空気に満ちた。
ダフネ王妃とジバル大公が共に離宮の塔から落ちて死んだことは、ルキウスとレオニード王の他は離宮で働く使用人のうち三名しか知らないことだ。厳しい箝口令が布かれ、王家の者でさえ知ることはなかった。当事者の弟であるヴァレルも例外ではない。
しかし、ヴァレルはそれを口にした。
ルキウスの後頭部にざわざわと不快な感覚が走った。まったく根拠のない思いつきだ。しかし、王に詰問されたヴァレルの顔には、ルキウスをしてそう思わしめるに足る、邪悪さが滲んでいた。
「…お前が唆した」
全身の血が引いた。
「王太子殿下」
ルキウスの顔色に気付いたアルヴィーゼがそっと近付き、耳打ちして諫めた。が、ルキウスの口は既に次の言葉を発しようとしていた。ヴァレルがどんな顔をするか、確かめたかったのだ。
「ジバルを唆して母上を道連れにさせたな!」
「やめておけ、リュカ」
アルヴィーゼが今にもヴァレルに掴みかかりそうなルキウスの袖を引いて阻止した。が、ルキウスがするまでもない。反ヴァレル派の諸侯が怒号を放ち、血気盛んな者が何人も議場の中央へ飛び出してヴァレル目がけて突進し、ヴァレル派の貴族がヴァレルを守ろうと応戦した。
「控えろ、愚か者ども!国王陛下の御前だぞ!」
中央部の領地を治める老公の一喝でその場は鎮まった。
――が、既に火種は枯れ野に落ちた。
ヴァレルは、笑っていた。
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