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66 ギエリの政変 - Der silberne Thron -
評議の結果、ステファン・ルキウス・アストルは国王レオニードの実子であると結論づけられ、ヴァレル・アストルの王位継承権は剥奪された。
国王は議会に向けてヴァレルを奸臣であると非難し、大公としての地位及び軍の指揮権を奪った。ただし、未だに輝かしい軍功を誇るヴァレルを信奉し「確たる証拠がない」として擁護する有力貴族が少なくなかったために、罪人として投獄することは叶わず、結局王都の私邸で国王軍の監視下のもと、謹慎処分となった。
正統性を巡る評議はルキウスの勝利とは言え、更に面倒な事態に陥ったことは間違いない。
逆臣となったヴァレルが堂々と王家に牙を剥くのも時間の問題だ。その前に、大義名分を得て処分しなければならない。
ルキウスはレグルス城に戻るなりオルフィニナを抱き竦め、そのまま雪崩れ込むように寝室へ担いでいった。
「拒まないで、鎮めてくれ」
ルキウスはオルフィニナの手首をきつく掴んで寝台に押し付け、懇願するように言った。
オルフィニナには、ルキウスの苦悩が分かる気がした。
後見人と母を死に追い遣ったヴァレルへの憎悪と悔恨で理性が崩れそうなのだろう。それならば、妻たる自分が器になってやらねばならない。
声もなく唇が重なり合った瞬間、ルキウスが我を忘れたようにオルフィニナの肌を暴き始めた。胸の留め具が乱暴に外され、ドレスがバサバサと床に落ちる。
オルフィニナはルキウスのベストを脱がせ、憤怒を押し殺すように噛み締めたルキウスの唇に触れて、そっとひらかせた。
ルキウスの唇が赤くなり、形のよい眉の下が憂鬱げに暗くなっている。
「…あなたは今日、ヴァレルに勝利した」
「思ったほどいいものじゃなかった」
オルフィニナは、甘えるように胸に落ちてきたルキウスの頭を両腕で包んだ。
「それでも勝利だ。あなたの王国への忠誠心が議会を味方に付けた。次の王はあなただ、ルキウス」
ルキウスが顎に触れ、唇を重ねてくる。オルフィニナは舌を触れ合わせてそれに応じ、身体の上にいるルキウスのシャツをめくり上げて、ルキウスの頭から抜き取った。
「勝者たるあなたは、今宵わたしを好きにしていい。次はわたしの番だな。とにかく、今取るべき手段は――」
「もう黙って、ニナ」
ルキウスの目に柔らかい光が戻った。
オルフィニナはルキウスの熱に任せて身体を開き、恍惚の中で男を迎え入れた。
同じ頃、ギエリで変事が起きている。
イゾルフが姿を消してからというもの、フレデガルは輪を掛けて神経質になっていた。
「イェルク・ゾルガはいつ戻る!」
と、常にイェルクを探し、戻るはずの時期をとうに過ぎても便りの一つもないことに激しく動揺した。
ギエリから逃げ出したイゾルフがオルフィニナと共謀して命を取りに来ると思い、寝室から出ることさえも嫌がり、政務も手につかなくなった。
城内の誰もが敵に見え、女中の足音を聞くだけで怯えるような有様だ。
事実、オルフィニナの命でジギがギエリ城内に内通者を何人か潜ませているから、すべてがフレデガルの妄想ではない。が、ジギはベルンシュタインの仲間と共に、静かにオルフィニナの凱旋を待っている。
発狂とも言えるフレデガルの醜態に業を煮やしたのは、妻ヒルデガルトだった。
ヒルデガルトは侍医に鎮静薬を煎じさせ、毎晩夫に飲ませ、そのたびに「王冠をおかぶりあそばせ」と囁いた。
「国王になればみなあなたに従います。あの厚かましい私生児がどこにいるのです?あの目障りな子供も、この城にはおりませんわ。この城に居座っているのは気の触れた兄嫁だけ…。あなたに刃向かうものなど、いるものですか」
「いや。いる」
フレデガルの猜疑心も恐怖も、すべては兄を毒殺した罪が膿のように広がって生じたものだ。
「では尚更即位して王権を強化なさいませ。逆賊としてあの私生児を討伐なさるのです。指輪を奪い返し、名実ともに玉座につけば誰もあなたに手を出すことなどできません。この城にいる者は、みなあなたの味方です。ね、陛下」
このヒルデガルトの言葉が、毎晩鎮静薬で落ち着きを取り戻すフレデガルの脳に轍のように刻まれていった。
とうとうある日、フレデガルは赤く血走った目で近習に言った。
「議会を招集する」
程なくして始まった議会では、アミラの高位貴族が顔を合わせ、これまで座ることのなかった銀色の玉座に堂々と腰を据えたフレデガルの異様な表情を、固唾を飲んで見た。
かつてエギノルフ王に忠誠を誓った者たちは額に青筋を浮かべて奥歯を噛み、フレデガルの凡庸さを利用しようとする者たちは薄ら笑いを浮かべている。
「王亡き今――」
フレデガルは白々と言った。エギノルフ王の暗殺と死の隠匿は、もはや議場の誰もが暗黙のうちに知っている。
「――我が王国は危機に瀕している。わたしはこれまで偉大なる兄の影に隠れ、兄の名の下にこの国を率いてきた。我が身の拙さゆえである。しかし、もはやそれも終いにする。後継者なき今、国王として相応しいものは、このフレデガルしかいない。わたしが、フレデガル一世として即位する」
「問題がありますな、フレデガル殿下」
声を上げたのは、白髭の老臣だ。故エギノルフ王に最も忠実な南部の領主である。
「後継者なら、おわします。前オルデン女公オルフィニナ殿下こそ、玉座に相応しい。現に彼女は国王の指環をエギノルフ陛下より継承し、自らをアミラ女王とお認めになった」
これに、フレデガル派の貴族が反発した。
「信じるのか?あの私生児は奸賊だ。指環を盗み、隠し、我々の承認も得ずエマンシュナの王太子と結婚したのだぞ!」
「オルフィニナ殿下は私生児ではない。十年も前に王妃陛下の後見も得て正式に王女となられた。そしてエマンシュナとも和睦を結んだ由、みな承知しておる。和睦の証しとして王族同士が婚姻を結ぶのは理に適った政略ではございませぬか」
「それでその女王とやらはどこにいる!君主として祖国の土も踏まぬものなど、国王とは呼べぬ!」
そういう貴族たちの意見は、いかにも理に適っていた。オルフィニナがいかに人望厚くとも、自らの兵と共にギエリへ凱旋し、戴冠しないことには女王として認められることはない。ルキウスの兵とヴァレルの兵は未だギエリに駐屯して互いに牽制し合っているものの、長く故郷に帰れない彼らにも疲弊が広がっている。
議会は、荒れた。
中立の立場にいたものたちもフレデガル派に傾きかけた時、大広間の扉が開き、白い陽光を背に受けて、ミリセント王妃がひとり現れた。臣下に謁見を許す際の豪奢な菜の花色の正装で、かつて偉大なる国王の隣に気高く座していた王妃の姿そのものだった。この瞬間、彼女を乱心したと思う者は誰もいなかった。
「フレデガル」
ミリセント王妃は義弟を呼び捨てた。フレデガルは屈辱と怒りで顔を蒼白にした。
「そなた、誰の許しを得てこのような愚かしい評議を開いているのです。夫エギノルフの国葬が成されていないのですから未だ我が国の王はエギノルフ、わたくしは王妃です。国事は、法に則り、王妃であるたくしが裁量すべきこと。王の名を騙り権力を恣にしてきたこと、もはや許しません」
「なんという戯れ言!これまで誰が国を守ってきたと思し召すのだ、義姉上!次はあなたが王冠をかぶると仰せか」
フレデガルは嘲笑った。が、憎しみと焦りがその声に滲んでいる。今まで幽霊のようにこの城で起居するだけだった兄の妻が、これほどの威厳を持って議会を揺るがしにくるとは予想もしていなかったのだ。
「わたくしはそなたのような奸賊とは違います。エギノルフ国王陛下は確かにオルフィニナに指環を託しました。わたくしはオルフィニナの凱旋を待ち、彼女に王冠を被せるつもりです」
「女!」
フレデガルが甲高い声で叫んだ。
「慎め!所詮、王が死ねば王妃などただの女!自分に国事を裁量する権限があるなど、勘違いも甚だしい!」
フレデガル派の諸侯が顔色を変えて席を立ち、オルフィニナとイゾルフを支持する諸侯も色をなして剣に手をかけた。
「みなお聞きなさい」
ミリセントは声を張り上げた。
「わたくしたちの敬愛するエギノルフ王は、国民を愛し、王国に富をもたらすべくエマンシュナとの永世に渡る和平を望んでいました。わたくしたちは王国の子らのためにその遺志を継がねばなりません。今、それを実現できるのはオルフィニナです。聡明な彼女は今、エマンシュナ王国で、これまで敵であった人々に囲まれながら、我々のために尽力しているのです。わたくしは彼女ほど勇敢で、我らが国王に相応しい者を知りません。今こそ、よい変化をこの国にもたらすべきときなのです」
オルフィニナを信奉する諸侯が歓声を上げた。手を叩き、足で床を叩いて、ミリセントの演説に賛同した。ミリセントは表情を変えず、玉座のフレデガルを見上げた。
「そなたは王ではない。そなたは我が夫を暗殺した後、エマンシュナへ攻撃を始め、戦乱を招き、この崇高なる王都ギエリに、エマンシュナのヴァレル・アストル大公を招き入れました。どんな密約を交わしたのです、フレデガル?大公を出し抜き、エマンシュナを見せかけの和平で大人しくさせた後、侵略を始めるつもりであることは、わたくしにはわかっています。そなたの謀略は、我が王国を滅ぼす大罪であることがわからぬのですか!この愚か者!」
間髪入れず、誰かが「玉座から引き摺り下ろせ!」と叫び、それを皮切りに乱闘が始まった。幸い死者は出なかったが、血気盛んな臣たちが剣を抜いたために、大広間は血で汚れた。
彼らを鎮めたのは、ミリセントの一声だった。
「何をしているのです、フレデガル」
みながフレデガルを見た。
何もしていない。顔面を蒼白にして、この乱闘騒ぎを傍観しているだけだ。
「この程度の混乱をおさめる器量のないものが国王になろうなどと、よく言ったものです。諸卿もよくお考えなさい。この臆病者の器に、わたくしたちの王国はおさまりますか」
フレデガルは、襲いかかってくる臣下の手から逃れるように玉座から下りた。
フレデガルは、中立派の支持を失った。
イェルクがギエリへ戻ったのは、その三日後のことだった。
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