6 対価 - le prix -

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6 対価 - le prix -

 拒絶しておけばよかったかもしれない。  オルフィニナは少なからず後悔した。  しかし、捕食者のようなルキウス・アストルが目の前に迫り、その両腕を檻にした時、オルフィニナは退路が断たれたことを悟った。  いや、そもそも退路など存在しない。拒絶もできない。誓約が交わされた時点で、オルフィニナの自由はルキウス・アストルのものなのだ。小さな動揺を自覚した瞬間、オルフィニナは反射的に自分を見下ろす暗い孔雀色の瞳から目を逸らした。 「ニナ(・・)」  ルキウスが酷薄な笑みを浮かべて呼んだ。今までアドラーの家族にしか呼ばれたことのない名だ。親しくもない人間にそう呼ばれるのは、変な感じがする。 「逃げるなよ」  言われて初めて、自分の脚が逃げようとしていたことを知った。 (だめだ)  オルフィニナは自分を奮い立たせた。自分が城主となった頃にはまだ子供と呼ぶべき年齢だった若者相手に怯んでは、一時でも領地を守ったオルデン女公という立場として面目が立たない。 「ねえ」  耳朶に触れそうな位置でルキウスが囁いた。吐息が熱く湿っている。 「あいつ(・・・)とは、どこまでした?」  何を問われたのか分からず、オルフィニナは顔を上げた。 「…?なんのこと――」  このとき唇に触れたものが、ルキウスの唇だと気付くまでに一瞬の間が必要だった。  自儘で、強引で、一方的な口付けだ。それなのに、嫌じゃない。むしろ、啄むように上下に吸い付いてくる唇の温度が心地よいと感じた。  いや、そんなはずはない。そんなのはおかしい。明らかに混乱している。  オルフィニナが身体を硬直させて唇を結んでいると、ルキウスが笑ったのか、或いは苛立ったのか、吐息が唇を撫でた。 「ニナ、口開けて」  声が低く掠れている。  オルフィニナはまた混乱した。混乱のあまり、正直な疑問が口から出た。 「何のために?」  フ、とまた吐息が掛かる。今度は笑っているのが分かった。ルキウスの真鍮色の睫毛に縁取られた目が、弧を描いている。 「それ、もしかして焦らしてる?」  ぬる、と舌が唇をなぞり、その奥へ割って入ってくる。 「ン、う…」  オルフィニナは身体の奥から何か得体の知れない感覚がせり上がってくるのを感じた。  ――温かい。  ルキウスの舌が、オルフィニナの舌に触れた瞬間、それを絡め取るように蠢いた。次第に息が上がり、頬が熱くなり、身体中の細胞がざわざわと騒ぎ出す。 「…っ、ん」  苦しい。  オルフィニナが身体を硬くしていると、ルキウスは顔の角度を変えて再びオルフィニナの舌をつつき、背中でひとつに結われた髪に指を挿し入れ、そっとそれを解いた。  ハラリと肩に落ちた髪を梳くように後ろへ払い、首の後ろを支えて、歯列をなぞるように舌を遊ばせてくる。吐息が熱くなるにつれ、首の後ろに触れている手の温度も上昇するようだった。その熱が、オルフィニナの体温も上げていく。  こういう感覚は、知らない。  だんだん熱くなる身体に戸惑ってオルフィニナは顔を背けそうになったが、首の後ろに触れるルキウスの手がそれを許さなかった。舌の根から先端へとルキウスの舌が這うと、背中をゾクリと大きな衝動が駆けていく。目の前の男にしがみつきそうになるのを、拳を握って耐えた。爪が手のひらに刺さるほど強く握っていた。  やがて唇を解放されると、オルフィニナは淡々と言葉を発した。 「…処罰はこれで終わりか」  ルキウスはふと我に返り、身体を離した。  おかしい。自分でも不思議なほど彼女との口づけに没頭していた。  いや、それよりも―― (処罰?)  不本意だ。と思ったが、すぐに思い直した。これを「処罰」と先に言ったのは自分だ。  オルフィニナが硬く両手を握りしめていることにも、この時気がついた。怒っているのだろうかと考えたが、どうも様子が違う。緊張か、或いは――信じられないが、もしかしたら怖がっているのかもしれない。しかし、そんなことがあるだろうか。未婚とは言え自分よりもいくつか年上の、しかもこれほどの美女が、せいぜい舌の触れ合うくらいのキスに恐怖するほど経験が浅いなどということがあるのか。 (ああ。でも、これは愉しいな)  ぞくぞくと暗い興奮が身体を走る。  ルキウスはオルフィニナの頬を両手に包み、その顔をじっくりと覗き込んだ。  頬が紅潮し、唇が赤く腫れ、琥珀色の瞳は蜜が溶け出したように潤んでいる。ルキウスの口づけがもたらした反応だ。そのくせ、こんなものはなんでもないと言うように毅然とこちらを見返してくる。――何かに耐えるように拳を握りしめながら。 「これは処罰とは呼べないな」  ルキウスは自嘲するように呟いた。罰と言うには、甘すぎる。 「…もし、クインが言うようにあなたがわたしを情婦として扱うつもりなら、別にそれも気にしない。厳しい訓練のおかげで痛みには慣れているし、辱めとも思わない。好きに扱ってもらって構わないよ」  ルキウスはひどく気分を害した。理由は自分でもわからない。わからないが、イライラする。 「別に、君を情婦にしたいわけじゃない」  これは本心だ。ルキウスはオルフィニナの頬から手を離した。 「そうだろうな。わざわざ(とう)の立った女を相手にしなくても、あなたなら若く美しい女に不自由しないだろう」  オルフィニナが言った。その目はもう熱に溶けてはいない。 「じゃあ君が差し出せるものは何だ?」 「多くはない」  大きな琥珀色の目が冷たい光を放ってルキウスの目を見た。 「だからあなたの望むものを差し出す。情報が欲しければ知っていることを話すし、小間使いでもしろというならそれもやる」 「で、性欲処理の相手をしろと言ったらそれもするのか。娼婦みたいに」  ルキウスは声色に苛立ちが混ざるのを止められなかった。こんな下品なことを女性に言うなんて、自分でも驚く。ルキウス・アストルはこんな男ではなかったはずだ。  が、オルフィニナの顔を見て苛立ちは疑問に変わった。 「別にいいが、本当にそんなものが欲しいのか?さっきと言っていることが矛盾してる」  オルフィニナは心底不思議そうな顔をしている。 「君、もしかして――」  小さく首を傾げたオルフィニナを見て、ルキウスは言葉を飲み込んだ。 「まあ、いい。今日はこれくらいで」  ふとルキウスの頭が右肩に落ちてきた。オルフィニナは足を踏ん張って避けないように注意した。  襟から覗いた肩に柔らかい唇が触れ、ちくりと微かな痛みを与えて離れた。  オルフィニナに向き直ったルキウスは、ひどく複雑そうに笑っていた。 「おやすみ、オルフィニナ。よく休むといい」  ルキウスが扉の外へ消えると、オルフィニナはふうぅ、と大きく安堵の息をついてベッドに身を投げ出した。 「びっくりした…」  思わず言葉がこぼれた。心臓がばくばくと脈打っている。  まさか本当に手を出されるとは思わなかった。「情婦にするつもりか」と怒ったクインの言葉も、どこか冗談のようにさえ聞こえていた。  だって、一体何の得があると言うのか。  ルキウス・アストルが自分の身体を手に入れたところで、得られるものはない。せいぜい一瞬の浅い快楽と、後味の悪さくらいのものだろう。経験があるわけでも、男を悦ばせる術を身に付けているわけでもない、花盛りを過ぎた年上の女相手に、あの美貌と王太子という地位を持つ若者の食指が動くとは、とても思えなかった。  それだけに、驚いた。  いや、もっと驚いたのは、それに嫌悪感を持たなかった自分だ。  もしかしたら、ルキウス・アストルの狙いはこれかもしれない。心まで支配下に置いてその自尊心を満たそうとしているのではないか。  クインが知ったら激怒するかもしれない。それどころか、今度は王太子に殴りかかることも有り得る。 (いや、殴られるのはわたしかな) 「ふぅ…」  オルフィニナはもう一度息を吐いた。熱くなった身体が、夜気に冷やされていく。  疲れた。 (もうやめよう)  考えるのを、だ。  考えを巡らせるのにも体力が要る。五日前から昼は挨拶回り、夜は領民たちの家を渡り歩いて夜通し酒宴に出ていたから、ほとんど眠れていない。その上、オルデンからルースに向かう山道を越えてから休みもほとんど取らずに一日中移動していたのだ。体力はある方だが、さすがに疲労の限界を超えている。  オルフィニナはランプの灯りがユラユラと揺れる天蓋の天使たちをぼんやり眺めながら、オルデンの白い空を思い浮かべた。  眠りに落ちるまで、十秒とかからなかった。  ルキウスは自室へ引き取って夕飯を取った後、続き部屋の浴室で湯に浸かりながらバルタザルの報告を聞いた。内容は、アミラの王都ギエリで起こっていることについてだ。  ギエリは陥落したものの、ドレクセンの王族はギエリ城に留まることを許され、エマンシュナ軍への恭順を対価にそれなりの自由を与えられているらしい。  そして、この期に及んで未だにエギノルフ王の死は公表されていない。 「どういうことだ。ギエリの同胞はまさかまだエギノルフが生きていると信じてるのか」 「その可能性もあります」  バルタザルが濛々と立ちこめる湯気の中で答えるのを聞き、ルキウスは大理石の浴槽の縁に頭を預けた。浴槽の隅では妖精たちの小さな像が呑気にニコニコ踊っている。 「必死すぎて呆れるな。オルフィニナがオルデン領主に任命された経緯については?」 「七年前、‘王命’でエマンシュナへの攻撃を決定した王府に対してオルフィニナ女公が猛抗議したらしいです。誰も国王名代のフレデガルに反論できない中、たった一人‘愚行だ’と非難し、議会招集の度に根気よくエマンシュナへの攻撃をやめて休戦か和睦を申し入れるよう説得していたそうです。ですが、年末の議会で爆発して、フレデガルに面と向かってとうとう‘無能’と罵り、その奥方を‘ク’…えー、もっと汚い言葉で罵倒したと。で、年が開けると同時に雪の中オルデンへ移されたそうです」 「権力者に噛み付いて左遷か。なんとなく想像できるな」  ルキウスは思わず笑い声を上げた。議会で叔父夫妻を口汚く罵るオルフィニナは見てみたかった。 「ただの左遷ではないようですよ。オルデンは今でこそ町として機能していますが、オルフィニナ女公が着任するまでは領主もなくただの荒れ地同然で、あらゆる犯罪の巣窟だったそうです。とても住める場所ではなかった上に、我々の攻撃があれば全滅まで数時間と持たなかっただろうと言われていました」 「それは捨て駒どころじゃないな」  殺意があるとしか思えない。胸糞悪い話だが、それを六年であの豊かな町に造り変えたオルフィニナ・ドレクセンは、やはり相当な切れ者だ。それに、彼女は間違いなく領民に愛されている。きっと昼夜問わず領民のために働き、休むことなく奔走したのだろう。 「…彼女らしい」 「何と仰いましたか?」 「何でもない」  ルキウスは目を閉じた。  表情の少ない、凛としたオルフィニナ・ドレクセンの姿が思い浮かぶ。  きっと彼女は自分の功績については多くを語らないだろう。聞きたいことには答えると言いながら、彼女の口から語られる情報は必要最小限だ。まだ知らないことが未知数ある。
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