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8 ベルンシュタイン - Bernstein -
オルフィニナがルースへ来て驚いたことの一つに、ルース城で働く人々の寛容さがある。
居城と言うよりも戦のための要塞という特性の強い城ながら、城主であるルキウスを始め、敷地内の兵舎で起居する将校や兵士たちの身の回りの世話を焼く使用人が男女合わせて百人ほど働いている。彼らは皆オルフィニナとクインがどういう立場にいるのか詳しいことを知らないが、彼らが敵のアミラ人であるということを認識した上で、特に頼まれてもいないのにあれこれと世話を焼いてくるのだ。
夜が明けて日が昇ると、オルフィニナの寝室に老年の茶色いドレスを着た女中が現れて感じよくパンやスープの朝食を給仕していったし、オルフィニナから頼むまでもなく、老年の女中と同じような茶色のドレスを揃いで着た数人の若い女中たちによって、続き部屋の浴室にたっぷりの湯が用意された。オルフィニナが礼を告げると、女中たちは「お疲れでしょう」などと言って、ラベンダーやローズマリーのハーブを束ねて浴槽に浮かべてくれた。
疑問はあるが、ひとまずはこの厚遇を喜ぶべきなのだろう。そうなれば、ありがたく受け入れ、この状況に相応しくできる限り快適に生活を送るまでだ。オルフィニナには、そういう長閑さがある。
彼女たちが辞去するときにクインに向かって科を作るように微笑んだのも、オルフィニナには少し可笑しかった。確かにクインは無愛想ながらなかなかの美男で、精悍な体躯や表情の暗さも手伝ってアミラの女性たちはクインが近くを通るたびにうっとりしていたものだが、エマンシュナの女性たちも同じ感性を持っているらしい。
「勿体ないな。もっと愛想よくすればお前も人並みに恋愛を楽しめるだろうに」
ハーブの香る浴槽に身を沈めながら、オルフィニナが扉の外のクインに言った。
「充分楽しんでる」
「お前が言ってるのは寝るだけの関係のことだろ。わたしが言っているのは、精神的な繋がりだ。一人の女と信頼関係を築いて、楽しみを分け合いながら長く付き合うということさ」
扉の外からクインが鼻で笑うのが聞こえた。
「別に、そこそこ見た目が良くて寝れれば誰でもいい」
「うわ。お前、最低だな。そういうところだぞ。だからいつも続かないんだ」
「余計なお世話だ。だいたい、そんなことに現を抜かしていられる立場じゃねぇだろ」
オルフィニナが笑い声を上げた。
「確かに」
クインはますます不愉快になった。捕虜として敵の城に軟禁されているこの状況で、楽しそうに笑っていられるオルフィニナの神経こそ理解できない。
オルフィニナは浴槽から出ると壁のフックに引っ掛かっていた大きな浴布で長い髪をワシワシと拭い、クインの立つ扉の外に顔だけヒョイと出して機嫌良く言った。
「下着を忘れた。取ってくれる?」
クインは短く息を吐いて、まだオルデンで荷作りしたまま開けていなかったトランクを開き、丈の長い麻のシュミーズを取り出して、扉の隙間から浴室の中に差し出した。
オルフィニナが扉の外へ右腕を伸ばした時、クインは彼女の肩に赤い痣を見つけた。クインは咄嗟にオルフィニナの手首を掴み、何も身につけていないオルフィニナを扉の外へ引っ張った。
「何だ、これは」
ぶつけてできた痣ではない。これがどういう痣で誰に何をされたか、クインには明白だ。
が、オルフィニナは肩の痣に気づいていない。従者の突然の狼藉に憤慨した。
「お前こそ、なに。いくら兄妹同然でもこの振る舞いは――」
「これを見ろ!」
クインが声を荒げて右肩を指差した。痣を見つけたオルフィニナは怪訝そうに小首を傾げた後、何か思いついたように「ああ」と言った。
「お前が心配するようなことは何もないよ。そういきり立つな」
「あいつ、立場を利用してあんたを娼――」
クインに最後まで言わせず、オルフィニナは掴まれていない方の手でクインの胸ぐらを掴んだ。
「やめて、クイン。もうお前を殴りたくない」
この時、しばらく前から寝室の扉が開いていたことに二人とも気づかなかった。
「お邪魔かな」
声が聞こえて、ようやく二人は扉を見た。シャツの上にグレーのベストと丈の長い上衣を着たルキウスが腕を組み、戸口に肩を預けて気怠げに立っている。
「見ての通り、取り込み中です。殿下」
クインはオルフィニナの身体をルキウスから隠すように身体の向きを変え、眉間の皺を直そうともせずにルキウスを睨め付けた。
「安心しろよ、アドラー。ニナとは寝てない。まだ」
ルキウスはにこやかに言ったが、目は笑っていない。それどころか、激しく怒っているのがクインにはわかる。オルフィニナはクインの背に阻まれてその様子を目にしていないが、昨日や初めて会った時よりも二人の空気が険悪になっていることは明らかだ。
「何か用なら着替えるまで待っていて欲しい」
クインがルキウスを罵り始める前に、オルフィニナはクインの背中から顔だけひょいと出してルキウスに言った。
「じゃあ、アドラーを借りていいかな。バルタザルに訓練場の使用許可を取らせたから、案内したいんだ」
クインが不満げな顔を向けて来たので、オルフィニナは無言で小さく顎を引いた。王太子直々に訓練場へ案内するのは不自然な気がするが、この期に及んで騙し討ちということもないだろうし、昨日兵の訓練にでも参加させてやれと言ったのは自分だ。
「頼む」
クインの後ろで湯気のもくもくと立ち昇る浴室へ戻ったオルフィニナが短く言うと、ルキウスは唇を薄く吊り上げた。
「君とゆっくり話してみたかったんだ」
廊下を進みながらルキウスが言った。クインはその後ろを歩いている。
「敵国の人間の前を歩かない方がいいんじゃないですか、殿下」
「おや、今日は殊勝だな」
ルキウスは朗らかな声色で言って後ろを振り返った。目は相変わらず笑っていない。
「君は背後から襲いかからないといけないほど腕に自信がないのか?」
「試したいなら相手になります」
クインのヘーゼルの瞳が暗く光った。
「いいね。君たちの戦術がどういうものか体験させてくれるかな。武器は無しで」
バサッ。――と、音だけが辛うじて認識できた。
円形のロープに囲われた試合場で向かい合った直後、相手が視界から消え、わけもわからないうちに硬い砂の地面に倒されていたのだ。
「殿下!」
バルタザルが慌てて駆け寄ろうとしたが、ルキウスは手を上げてそれを制し、自分で立ち上がった。目の前のクインは丈の短い上衣を着たまま、いつも通り不機嫌な顔で立っている。
「見えなかった」
ルキウスが土に汚れた上衣を脱いで囲いの外に投げた。
「今のは最初に習います」
「君は何歳の時に習得した?」
「五歳」
「ニナは?」
ピクリとクインの目が細くなった。
「七歳」
「君は彼女のことを何でも知ってるんだな」
「妹も同然ですから」
「妹」
ルキウスはクインに獣のような足取りで歩み寄り、自分より十センチは背の高いクインを下から嘲るように笑った。
「彼女の方はそうだろうね。君の前で平然とドレスを脱げるのはそういうことなんだろ。君を、男として意識してないからだ。エデンと同じさ。でも彼女を見る君の目は――」
クインがルキウスの胸ぐらを掴んだ。ハシバミ色の目が怒りに燃え、今すぐに殺してやると言っている。
ロープの外でバルタザルが腰の剣に手をかけたが、ルキウスはそちらを見向きもせずに一言「やめろ」と言った。こういう茶々が入るから他の兵士たちを下がらせたのだ。バルタザルは渋々剣から手を離した。
胸ぐらを掴まれたまま、ルキウスは愉快そうに目を細めて続けた。
「――兄の目じゃない。言えよ。君、彼女に惚れてるよな。忠義なんかじゃない。だから全部捨ててまでついてきたんだ。飼い主の後を追う犬みたいに」
「てめぇ、ぶっ殺すぞ」
クインが唸るように言った。我慢の限界はとうに超えている。
「できないだろ。飼い主の命令がないと」
この時ルキウスはクインの脛を強かに蹴り上げ、後方へ飛び退いて再び踏み出し、よろけたクインに殴り掛かった。クインは素速く一歩下がって避け、ルキウスの腕を掴んで倒そうとしたが、ルキウスは身体を捻ってヒラリと身軽に躱し、クインの袖を掴んで自分の方へ引き寄せると、ものすごい力で肩に担ぎ上げ、一瞬のうちに地面へクインの身体を投げた。
――甘く見た。
クインは臍を噛んだ。怪我をさせては後が面倒だからと加減していたが、思った以上にルキウス・アストルは巧手だ。掴まれた袖が、中のシャツごと破けている。
「なあ、アドラー。オルフィニナは何故今まで夫を持たなかった?王女なら、十代のうちに嫁ぐのが自然だろ。まさか君が彼女欲しさに邪魔してたってことはないだろうし」
ルキウスはしゃがんでクインの顔を覗き込んだ。
「本人に訊けよ」
クインが上体を起こして破れた上衣とシャツを脱ぐと、よく鍛えられた胸筋とゴツゴツした腕が現れた。肌の上には、随分前に治ったような古傷がいくつも見える。――が、最もルキウスの目を引いたものは、古傷ではない。
刺青だ。右の上腕から肘にかけて、口を大きく開けて牙を剥き出しにしたオオカミが彫られている。それも、変わっている。横を向いたオオカミの全身像の中に描かれているのは、ひどく複雑な幾何学模様のような、細密な文様だ。文字のようにも見える。
しばしそれを観察した後、ルキウスは再び口を開いた。
「…いや、君の方が詳しいんじゃないかと思ってね。オルフィニナの耳に入らないことも、君なら知ってそうだ」
図星だ。クインの眉間に皺が寄った。
「そんなことを知ってどうする」
「それは君が知る必要はない。ただ俺の質問に答えてくれればいい。勿論自分の立場は分かってるだろ」
クインは舌を打った。
「…ニナの縁談は、あいつの知らないところで全てエギノルフ王が握り潰してきた。理由は知らない」
「なるほど」
と、立ち上がったルキウスが言い終わる前に、クインはルキウスの脚を払い、その身体を地面に倒して、肩を押さえ、人差し指を首に突きつけた。
「これであんたは死んだ」
「迅いな」
ルキウスは感心して上体を起こした。
「君たちは剣や弓を扱うより接近戦で手足を使う方が得意なようだな」
「小型の武器も使う」
ルキウスは夜襲部隊の持っていた小型の細い剣を思い出した。
「夜襲のあれか」
「あれはほとんど使わない。主に標的を確実に殺すための得物をそれぞれの特性に合わせて持つのが普通だ。言っておくが、夜襲で全員同じ武器を持っていたのはニナの命令だ。一番殺傷能力が低いものを選んだ。あんたらは全員ニナに生かされたんだよ。それを忘れるな」
「…覚えておくよ」
ルキウスは立ち上がって土を払い、クインに手を差し出した。が、クインは握手に応じず、ルキウスを睨め付けている。
「ニナを傷つけてみろ。あんたを殺してから、俺があいつを連れてここを出る」
「君は――」
ルキウスの顔から笑みが消え、瞳が剣呑に光った。
「何様のつもりかな。たかだか従者風情が、主君を自分の女だとでも思ってるみたいに聞こえる」
「俺は国王直属の特殊部隊‘ベルンシュタイン’の長ルッツ・アドラーの後継者だ。二歳のニナがうちに来た時から、あいつの安全を守るのは俺の役目だ。それから――」
フ、とルキウスの目の前からクインの姿が消えた。
いない。――と認識した次の瞬間には、いつの間に後ろを取られたのか、背後についたクインの右腕に首を押さえられ、すかさず伸びてきた左手に頭を掴まれて、首を固定された。抜けようとしても、首を動かせない。
「俺は大抵、素手で殺す。これであんたが死ぬのは二度目だ」
ハシバミ色の目が冷たくルキウスを見下ろした。
「そうかよ」
ルキウスは吐き捨てるように言った。
「そこまでです。それ以上は命令がなくてもあなたを斬ります」
バルタザルが言った。クインの背後でバルタザルが剣を抜き、その首の後ろに切っ先を向けている。
クインはルキウスから手を離すと、冷淡に言った。
「手合わせにご満足いただけましたか、殿下」
「充分に」
ルキウスは忌々しげに目を細めた。
クインは後ろを向いてバルタザルに剣を下ろさせると、袖の破けたシャツと上衣を拾ってロープの外に出た。
「縫うから針と糸をくれ」
「用意させます」
バルタザルはそう言ってルキウスの上衣を拾い、黙って頭を下げ、不機嫌極まりないルキウスを残してその場を辞去した。多分、相手を必要以上に挑発し危険に身を晒した主に腹を立てているのだろう。
(怒りたいのはこちらの方だ)
ルキウスは内心で憤慨した。
何もかもが気に入らない。
オルフィニナを気安く呼ぶクイン・アドラーも、自分がオルフィニナに生かされたと言う事実も。
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