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23 王子の林檎 - la pomme du Prince -
重たい意識の中で、オルフィニナはシャリシャリと軽妙な摩擦音に耳を傾けた。
この音は――
「リンゴ…?」
と、自分の声を聞いて目を開けた。
窓から射す夕陽が、ベッド脇のスツールに腰掛け、リンゴとナイフを持つルキウスの姿を照らしている。いつも非の打ち所のない装いで人前に出るルキウスが、グレーのベストの下の白いシャツの袖を捲り上げてリンゴの皮を剥く姿は、何とも不思議だ。
ルキウスが皮を剥き終えてこちらを向き、「やあ」と言って目を細めた。
「食べるなら擦りおろすから待っててくれ」
オルフィニナはしばらくぼんやりとルキウスの顔を見つめた後、小さく頷いた。もはや文句を言ったり状況説明を求めたりする気力もない。
「ん、たべる…」
声がガラガラだ。
ルキウスがリンゴとナイフを盆の上に戻して立ち上がり、オルフィニナの額にそっと触れた。
「まだ熱いな。ちょっと起き上がれるか」
オルフィニナは肘をついて起き上がろうとしたが、枕から頭が少し離れただけでグラリと意識が傾いた。
「おっと、無理するなよ」
オルフィニナが体勢を崩す前に、ルキウスがその肩を支えて抱き止め、ふかふかのクッションを並べたベッドのヘッドボードに背を預けさせた。
「ほら」
とルキウスが手渡したのは、グラスに入った紅茶だった。輪切りのレモンが入っている。
オルフィニナがグラスに口をつけて一口飲むと、程よい濃度の紅茶の中にレモンのほのかな酸味と蜂蜜の甘さが広がった。温度は人肌程度に冷めている。
「…ぬるい」
「その方が飲みやすいだろ」
「うん」
オルフィニナは素直に頷いてグラス半分まで紅茶を飲み、サイドテーブルに乗せた皿の上でシャリシャリとリンゴをすりおろすルキウスをしげしげと眺めた。
おろし金と王太子とは、妙な組み合わせだ。まだ夢うつつの中にいた頭が次第にはっきりしてくると、なんだか笑いが込み上げてきた。
(王太子がリンゴを剥いてすりおろすって、何事だ?)
しかも、今までに見たことがないくらい真剣な顔だ。
「――ふっ…」
思わず笑い声をが漏れた。
ルキウスはオルフィニナの方に咎めるような顔を向け、すりおろしたリンゴが入っている花の形をしたガラスの小さなボウルを差し出し、オルフィニナから紅茶のグラスを受け取った。
「…あとの方がいいな。今渡したら君、辺りに撒き散らしそうだ」
ルキウスは苦々しげに言った。オルフィニナは膝を抱えて顔を隠し、身体を震わせて笑っている。
「俺だって食事の準備くらいできる」
「ふ…ふっ、そうだろう」
オルフィニナはなおも腹をひくひくさせている。
「いや、なかなか――」
言葉をつなげない。腹から込み上げる笑いが止まらなくなっている。
「くっ…、可愛い一面を見た。文字を覚えたての子供が一生懸命手習いしてるみたいな顔をするんだもの」
これには顔が熱くなった。看病する人間を笑うなど、なんとも失礼な話だ。しかし、ルキウスは普段と全く違ってあどけない言動を見せるオルフィニナが苦々しくもひどく愛おしくなった。
「思ったより元気そうだな」
「心配?」
ふかふかのクッションに背を預けたオルフィニナが、寛いだ様子で訊いた。
「心配してる、これでも。アドラーが薬を買いに出かける前から具合が悪かったんだろ」
「ああ」
オルフィニナは思い出したように言った。
「クインに頼んだのは、おんなの痛みに効く薬の調達だ」
「なんだ」
ルキウスが肩をすくめた。驚いたことに、本当に少し残念そうにしている。
「じゃあ子はできていないんだな」
「そうだ。幸いなことに」
ルキウスは気分を害したような様子は見せなかったが、小さく溜め息をついて苦笑した。
「…そのことについては、君が回復したら話し合おう、ニナ。今は養生してくれ」
「そうしよう」
オルフィニナは肩を竦めて、捲り上げた白い袖から覗く腕を見た。
「もしかして、茶もあなたが淹れたのか?」
ルキウスはちょっと得意げにニヤリとした。
「旨かっただろ。母の直伝だ」
「おいしかった。あなたにそんな特技があったとは、驚いた」
「特技と言うほどでもない。誰かのためにしたのは君が初めてだから」
ルキウスがまっすぐにオルフィニナの顔を見つめた瞬間、オルフィニナは突然のムズムズに襲われた。鳩尾のあたりがざわざわする。
「なら、お母上に礼を」
オルフィニナは微笑し、ルキウスが唇を吊り上げながら再び差し出したリンゴのボウルを取ろうとした。が、手に取る寸前でヒョイと取り上げられてしまった。
「やっぱり俺がやる」
「子供みたいに汚したりしない」
「いや。君、いつもより子供っぽいからダメだ。熱が回ってるんだろ」
「言っておくがわたしの方が五つ年上だ」
オルフィニナが憤慨すると、ルキウスは苦笑しながらこんもりとすりおろしたリンゴを小さな木のスプーンで掬った。
「正確には四歳と四か月だ。ほら、口開けろ」
ルキウスがスプーンを口元に持ってきたので、オルフィニナは素直に口を開けた。ルキウスの手からリンゴを食べることになるとは、変な感じだ。リンゴの果汁とほのかな酸味が、奇妙な感覚をいっそう深くした。
確かに熱が回っているかもしれない。
(この男をかわいいと思うなんて。それも、あの、真剣な顔――)
おさまっていた笑いがまた込み上げてきた。
「何をニヤニヤしてる」
ルキウスに咎められたオルフィニナは、ひくひくする唇の両端を指でぐりぐり押さえた。
「いや、…なんでもない」
「君は熱を出すとよく笑うんだな」
ルキウスは面白くなさそうに言った。人から笑われた経験は、あまりない。
「どうだったかな。前に熱を出したのはもうずいぶん昔のことだから、覚えていない」
不思議だ。
丸く開いたオルフィニナの珊瑚色の唇にリンゴを運びながら、ルキウスは思った。情欲とは違う。似て非なるものだ。一方で、恐らくは一種の性的な衝動とも思える。しかし、彼女の肌を暴いて中に入りたいと思うようなそれとは違う。そういう、何とも例えようのない感情が、ルキウスの身体を動かした。
四口目のリンゴを頬張るオルフィニナの顔をじっと覗き込んだあと、ルキウスはやおらボウルをサイドテーブルに戻し、まだ熱の残る白い手を握った。
「…君にキスしたい」
オルフィニナは驚いたようだった。琥珀色の目を大きく開いた後、頬を赤くした。熱のせいではないだろう。熱なら恥ずかしそうに目を伏せたりしない。
「…うつるからやめた方がいい」
長い睫毛の下で、琥珀色の瞳が戸惑うように揺れている。今まで経験したどの感情とも違っていた。この気持ちが何か、答えがわからないまま、ルキウスはその衝動に任せて行動を続けた。
「君のなら欲しい」
馬鹿な。――とは、言えなかった。
初めてルキウスのこんな顔を見た。孔雀石色の目が今までのどの瞬間よりも熱を孕んで、透き通って見えた。
「許可をくれ」
ルキウスが神妙な顔つきで言ったとき、オルフィニナは内心で可笑しくなった。二日前に怒らせたことを気にしているのだ。それなのに、笑えなかった。
オルフィニナがベッドへ身を乗り出して来るルキウスの頬にそっと触れると、ルキウスはオルフィニナの頬を両手で挟み、いつもより体温の高いその唇を自分の唇で覆った。
いつもの自儘で奔放な口づけとは違う。ひどく優しく、甘やかで、慈しむような口づけだ。啄むように触れられた唇を、オルフィニナは開いた。触れる舌が、冷たくて気持ち良い。
口の中の快い部分を探るようにルキウスの舌が這い、上顎をなぞり、舌に絡まる。
「――ん…」
唇が一度離れ、角度を変えてルキウスが舌を挿し入れてくる。
頭がクラクラする。鳩尾が苦しいほどに痛んで、速まる鼓動を身体に響かせた。
(熱のせいだ)
そうとしか思えない。
頬に触れる手が冷たくて気持ちよいのと同じだ。この身体の変化も、熱に浮かされているからに違いない。
「…きもちいい」
唇が離れた瞬間に溢れ出たオルフィニナの言葉を、ルキウスは確かに聞いた。
「えっ」
ルキウスは驚きの余り、柄にもなく狼狽えた。幻聴ではなかったという確信欲しさにもう一度聞き返そうとしたが、遅かった。
オルフィニナは既にクッションに頭を預けて、安穏そのもののような表情で寝入っていた。
「くそ」
病人を叩き起こすわけにはいかず、ルキウスは臍を噛んだ。次に起きたときは覚えていないかもしれない。
何かの気配を感じたのは、その直後だ。
ルキウスが後ろを振り返ると、扉の前にエデンが座っていた。いつの間に扉を開けて入ってきたのかは分からないが、いつも通り扉を開けたあと自分で閉めたらしい。いつも通りでないことと言えば、口に血だらけの野ウサギを咥えていることだ。白いエデンの口の周りも、血で汚れている。
「なんだ、おい。ここに持ってくるな。ニナは病気なんだぞ」
と口に出して初めて、エデンの献身に気が付いた。エデンは何かを訴えるように、琥珀色の目をじっとルキウスに向けている。
「…そういう時は、ここじゃなくて厨房へ持っていけばいい」
と、病気の主人への見舞いとして滋養のある獣肉を持参したエデンの意図を汲んで教えてやったところで、自分が何だか滑稽に思えてきた。
ルキウスは立ち上がってエデンの後ろの扉を開け放ち、部屋の中のオオカミに向かい合って腕を組んだ。
「いいか、一階の厨房だ。外から行けよ。お前を見たら厨房の人間が驚くから、突然入ったりするな。だいたいの人間はオオカミに慣れていないんだ」
エデンは利発そうな目でじっとルキウスを見上げ、大人しく話を聞いている。
「いいな。ほら、行け」
この時、エデンが腰を上げて扉の方へ鼻を向けた。
ルキウスがエデンの視線の先に目をやると、これもまたいつからいたのか、クインが黒い外套を纏ったまま扉の外に立っていた。
「…俺が連れて行きます」
いつも通り、不遜な表情だ。しかし、息を切らせている。オルフィニナ急病の報せを聞いて急いで戻ったのだろう。
「医師には診せた。風邪だそうだ」
「そうですか」
クインが大きく息をついた。
「エデンを連れて行くついでに、女中に命じて清潔な布をできるだけたくさん用意させてくれ。水桶も」
「そんなに熱が高いのか」
つい、慇懃な喋り方を忘れた。が、ルキウスは別段気にする素振りもなくいつもと同じ冷淡な調子で言った。
「身体を冷やすための水じゃない。あと、シーツをすぐに替えられるように言っておけ」
ルキウスが言うと、クインは「ああ」と納得して顎を引いた。寝ている間に月の触りで汚れた下着を素早く変えられるように配慮してのことなのだ。
正直、この男がこれほど細やかな心遣いをオルフィニナに対して見せるとは思わなかった。クインは寝室の奥のベッドで眠るオルフィニナの姿とサイドテーブルに置かれて茶色く変色を始めたリンゴらしきものの残骸をチラリと見、ルキウスに手のひら程度の大きさの革袋を手渡した。
「シロヤナギの薬。ニナは月のものがひどい時はそれで痛みをやり過ごすから、常備しておいてください」
「わかった」
「苦味が強いから、蜂蜜と一緒に出してやってください。ニナは苦いものはそれほど好きじゃないので」
「覚えておく」
廊下に出たクインを、エデンが野ウサギを咥えたまま見上げた。
「…別にあいつを許したわけじゃない」
エデンはなおもクインを静かに見上げている。
「お前こそ、ルキウス・アストルに心を許したみたいじゃないか」
クインが詰ると、エデンはそっぽを向いてさっさと前を駆けて行ってしまった。
最も驚くべきは、王太子が甲斐甲斐しくオルフィニナの看病をしていたことでも、エデンの馴れた様子でもない。
オルフィニナだ。
いくら体調を崩していても、どれだけの睡魔に襲われていても、オルフィニナが心を許していない相手の前で熟睡するなど有り得ない。寧ろ、弱っているときほど周囲の人間を遠ざけたがる性質だ。
本人に自覚はないのだろうが、変化が始まっている。
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