六十四、厭わしき恐怖 - la peur -

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六十四、厭わしき恐怖 - la peur -

 オルフィニナは夜半、レグルス城の西側にある客間を訪れた。音を立てないよう布の靴で床を踏み、蝋燭一本だけの手燭を持って奥へ進んだ。  賓客用の大きなベッドの上で、赤い髪の少年が眠っている。眠りを邪魔しないように少し離れたところから顔を照らすと、目元が赤く腫れていた。  聞いた話では、どうやらクインにしがみついて泣いた後、湯浴みの最中に意識を失ったらしい。イゾルフを介抱した侍従たちが大いに慌てて医師を呼び、それが評議会に備えて調査をしていたオルフィニナの耳に入った。  五時間前に慌てて様子を見に来たときには眠っているだけだと聞かされて安堵したが、未だに深く眠り込んでいるところから見ると、相当に衰弱していたのだろうと思われた。 (スープから摂らせた方が良さそうだな)  砂を噛むように、ざらざらと不快な感情が胸に(わだかま)っている。  イゾルフは意識を失う前に、クインに経緯を全て話していた。  計画通りビルギッテはイゾルフを伴い、ワルデル・ソリアの港へ抜けた。小国の小さな港ながら、商船団が多く行き交う場所だ。逃亡のためにベルンシュタインが買収したルメオ共和国の商船は、他の船に紛れて出港し、いくつかの港を経て数日後には北エマンシュナのグリュ・ブラン港へ停泊する。そこから陸路を進めば、もはやアミラからの追っ手は追跡できない。  港では男爵夫人であるエミリアが庶民の格好で待機し、ビルギッテとイゾルフを商船へ誘導した。異変は、その直後に起きた。  最初に不審な貨物に気付いたのは、ビルギッテだった。積み荷の木箱の蓋に、僅かな血痕を見つけたのだ。エミリアとイゾルフを帆柱の影に隠れさせ、蓋を開けた瞬間、中から大きな影が躍り上がってビルギッテの袖を裂いた。獲物は短剣だった。  男の顔は――ビルギッテの血の気が失せた。男の顔は、頬は痩せて髭が生え、双眸は狂気に鈍く光り、ひどく汚れて一瞬誰だか判別できなかったが、間違いなくイェルク・ゾルガだった。 「クソ!なんでここにいんのよ!」  イェルクが血走った目でビルギッテを見、ニヤリと笑った。 「わたしの配下を誑かしたな」  顔を覚えられている。――無理もない。相手はあのイェルク・アドラーなのだ。  ビルギッテは後方へ飛び退き、腰から護身用の短剣を抜いてイェルクに飛びかかった。痩せ細って消耗した様子のイェルクなら、或いは倒せるかもしれない。  が、やはり簡単にはいかない。  振り下ろした剣は最も簡単に躱され、すぐに下方から打撃が来た。まともに食らえば肋骨が折れるだろう。  ビルギッテは木箱の角を蹴って宙へ跳び、すでに木箱の外へ飛び出したイェルクの首に脚を巻き付けて締め上げた。  ブーツの踵を勢いよく擦り合わせて暗器の刃を突出させると、ビルギッテはイェルクの喉元めがけて蹴り下ろした。イェルクはそれを歯で受けた。驚く間もなく目にも止まらぬ速さで腕が伸びてきてビルギッテの顎を砕いた。 「ギッテ!」  飛び出そうとするイゾルフを、エミリアがしがみついて制した。 「だめです、殿下。ご自分の役割を弁えて」 「でも――」  イゾルフが振り返った時には、エミリアは既に飛び出していた。  エミリアが走りながら外套を脱いでビルギッテと揉み合うイェルクに突進し、外套を首に巻きつけて締め上げた。  アドラー家の養子であるエミリアもベルンシュタインの訓練を受けている。イェルクを倒すことができなかったとしても、ビルギッテに気を取られているイェルクを船から落とすことはできる。  震える足を呪わしく思いながら立ち尽くしているイゾルフが次に見たものは、船の舳先から落ちていく三人だった。 「ギッテ!エミリア!」  叫んだ瞬間、船が港を離れ始めた。 「ダメだ、戻して!まだ二人が――」  ルメオ人の船長が首を振った。 「俺たちの役目はあんたを安全にエマンシュナへ運ぶことだ。悪いが他の人間の救出までは請け負えない」  イゾルフが最後に見たイェルクは、意識を失ったビルギッテの首に短剣を突きつけて人質にし、エミリアを牽制していた。  船はそのままイゾルフをエマンシュナのグリュ・ブラン港まで運び、イゾルフは終ぞ誰にも言葉をかけることなく船を下りた。ビルギッテに言われた通り、口をきけない憐れな子供の振りをして王都への街道を進む馬車に乗せてもらい、郊外からオルフィニナのいるレグルス城を目指し、城に辿り着くとマルス語が分からない振りをした。そうすれば門前払いされずにクインかオルフィニナと会えるはずだというビルギッテの助言は、正しかった。  オルフィニナは頭を抱えた。絶えず冷たい恐怖が胸に迫る。もしかしたら忠実な臣下と愛する姉を同時に失ってしまったかもしれない。 (いや、イェルクはエミリアを殺さない)  家族として過ごした情があるからなどと、おとぎ話のような期待をしているわけではない。エミリアにはオルフィニナの姉として利用価値があるからだ。ビルギッテも同じ理由で恐らくは生かされているだろう。オルフィニナに近しいものはみな交渉材料になり得る。  であれば、近々イェルク・ゾルガから何らかの連絡があるはずだ。 (その前に、評議会でヴァレルを片付けないと)  このことをコルネールの屋敷に泊まり込みで評議間の準備をしているルキウスに知らせるべきか悩んだが、やめた。口論になってから数日経つが、顔を合わせる機会も少なく、殆ど会話もしていない。何よりも今は、ヴァレルの対処に集中すべきだ。 「ニナ」  戸口でクインが小さく声を掛けた。 「キルシェが戻った」  スリーズがアストレンヌ城から情報を持ち帰ってきたのだ。オルフィニナはまだあどけなさの残る弟の寝顔をそっと撫で、客間を出た。 「エミもギッテも賢い。あいつらは大丈夫だ」  クインは労るようにオルフィニナの肩に手を置いた。 「そうだな」  硬く強張った声しか出ない。オルフィニナはクインの手を握り、肩に頭を預けて、小さく息をついた。クインも同じ気持ちのはずだ。主君たる自分が恐怖心を吐露するわけにはいかない。 「…このことはまだルキウスに言わないで。少なくとも、評議会が終わるまでは」  顔をあげたオルフィニナの顔は、女王の顔だった。クインは無言で顎を引いた。 「既にジギに向かって鳩を飛ばした。警告が届く頃にはイェルクは帰還しているだろうが」 「ジギに情報が渡ればルキウスの配下にも伝わる。警戒させるには充分だ」  こちらに計画が露見した以上、イェルクがすぐにギエリで派手な行動を起こすことはないはずだ。アストレンヌでの不調法によりフレデガルとの間に亀裂が生じたかもしれない。そうなれば、信頼を回復するべくしばらくは内政を整えることに注力するだろうと考えるのが妥当だ。  しかし、今やその限りではない。  イェルクが暴挙に及ぶことはあるまいと考えることができるのは、聡明な兄だった頃の姿が記憶にすり込まれているからだ。もはや、当時の面影を頼りに行動を予想することはできない。  更に、これまで常にイェルクを頼りその策謀に乗っていたフレデガルがイェルクを見限り一人で暴走を始めるようなことがあれば、それこそ無駄な血が多く流れる。今はギエリ城で軟禁状態のミリセント妃も、真っ先にその犠牲となるだろう。ベルンシュタインの同胞がギエリに潜伏しているとは言え、王都中が恐慌状態に陥れば統率は乱れる。 「スリーズに会う前に、グラッパをくれ」  酒でも飲まないと余計なことを考えてしまいそうだ。顔に出るなら感情よりも酔いの方が余程ましだ。 「大丈夫かよ」 「多少酔っても思考能力に問題はない」 「そういうことじゃねえよ。大して酔えねえくせに」 「地に足を付けるためだ」  こんな時にルキウスの顔を見たいと思ってしまう自分が呪わしい。自分の国を崩壊へ導こうとしている名ばかりの女王が、名ばかりの夫に慰めを求めるなんて、滑稽ではないか。  この夜、スリーズは思いがけない報せを持ち帰っていた。 「女王陛下、わたしお役に立てたでしょうか」  オルフィニナは土産の書簡から顔を上げ、酒のために紅潮した頬にゆったりと笑みを上らせて、緊張した面持ちのスリーズを抱擁した。
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