67 イェルク・ゾルガ - Jörg Sorga -

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67 イェルク・ゾルガ - Jörg Sorga -

 レグルス城から遁走したイェルク・ゾルガは、深い絶望の淵にいた。  説きさえすれば、オルフィニナは当然こちらにつくと思っていた。国王の血を引く彼女は、イェルクにとってかけがえのない存在だ。幼い頃から本当の妹のように慈しみ、愛してきた。彼女は利発で素直で、ケイモンの山々の神が遣わした希望だった。  そのオルフィニナが、牙を剥いた。この世で最も自分と似た精神を持つはずの弟と共に。  アストレンヌからの脱出は、容易ではなかった。運河と水路を伝ってドブネズミのように港へ出、船を選んだ。その中で密航船らしき船を見つけたのは、まさに僥倖だった。見た目はルメオの商船だったが、イェルクの目にはそれが偽物であることは明白だった。ルメオほどの貿易大国からやって来たにしては船員も積み荷も少ない。それも、船員の話を盗み聞きしたところによれば、船は西のワルデル・ソリアを目指していた。  イェルクは積み荷の中に身を潜め、着岸を待った。  そして着岸前夜、船員たちの会話からこの船がイゾルフ王太子の脱出のために用意された船であることを知った。  果たして、イゾルフが現れた。  この時のイェルクの取るべき行動は、イゾルフを「保護」して王都へ連れ帰り、自らの監視下に置いてイゾルフ派の恭順を得るか、イゾルフの首を持ち帰り、彼らの戦意を削ぐかのどちらかだった。後者は、時期尚早だ。  が、どちらもうまくいかないだろうという予感はあった。ベルンシュタインの手練れを護衛に付けていることが、容易に想像できたからだ。  それが配下の兵と深い仲にある女中であったことまでは読んでいなかったが、大した問題ではない。  最大の誤算は、ここにエミリアがいたことだ。  ベルンシュタインの女の顎を砕いて昏倒させた直後、突進してきたエミリアをもろとも船から落ち、結果、王太子を取り逃がした。  イェルクは、怒り狂った。  海水に足を捕られながらベルンシュタインの女を捕らえ、エミリアを牽制して、女二人を制圧した。そのままエミリアを殺すことは容易いが、手に掛けることはできなかった。情けをかけたのではない。  エミリアを殺せば、オルフィニナはもう二度と手に入らない。  イェルクは自分がオルフィニナに何を望んでいるのか、この時悟った。 「やめてイェルク。彼女を傷つけたらニナが黙ってない。解放して。そうすればあんたを追いかけないから」 「残念だ、エミ」  イェルクは首を振った。 「お前までエマンシュナ人に感化されてしまったとは」 「感化なんてされてない。あんたこそ、一体どうしちゃったのよ」  エミリアはほとんど泣き出しそうな顔で叫んだ。 「わたしは何も変わっていないさ。変わったとすれば、ニナだ。わたしは彼女の目を覚ましてやらねばならない」  イェルクは意識を取り戻さないビルギッテを荷物のように担ぎ上げ、エミリアに背を向けた。エミリアは瞬時に跳躍して飛びかかったが、イェルクはビルギッテを担いだまま子供をあしらうように避け、エミリアの鳩尾を蹴り上げて、肘でこめかみを強打した。エミリアはそのまま昏倒し、浅瀬に身体を投げ入れた。  全てはあっという間の出来事だった。商船の影で起きたこの異変に港で働く人々が気付いたのは、イェルクが立ち去った後のことだ。  イェルクは捕虜となったビルギッテに縄を打ち猿轡を噛ませ、奪った辻馬車に荷駄のように乗せて、この日の夜半に国境を越えた。国境付近の自軍の駐屯地で装備を整え、二日後、ギエリへ戻った。  敵国で急襲され死亡したという噂が出回り始めていた将軍の堂々たる帰還に、兵たちは大いに沸いた。  指定の日付を過ぎても帰らなければ、死亡説を流布するよう予め配下の者に言い含めてあったのだ。これもイェルクが用意したいくつかの策謀の一つだった。死の淵から生還した者は、英雄となる。  フレデガルに失望していた貴族たちの多くが、イェルクの帰城にひどく安堵した。ゾルガの軍を率いる将であり、不安定なフレデガルの参謀としてその手綱を握っているイェルク・ゾルガ将軍に、彼らは深く敬服している。  同時に、ミリセントを始めとするオルフィニナ・イゾルフ派の貴族たちは、危機を悟った。 「城から落ちるのです、妃殿下」  忠臣が再三願い出たが、ミリセントは首を縦に振らなかった。 「わたくしがこの城から出て行けば、玉座をフレデガルにただでくれてやるも同然です」  この時点で彼らが想定する敵は、あくまでフレデガルだった。フレデガルがイェルクの人望と軍を利用し、中立派の支持を再び得て王冠を被り、玉座に座ろうとするだろうと考えていた。  アストレンヌに急報がもたらされたのは、事が起きてから五日後のことだった。  オルフィニナはギエリへ凱旋すべく、軍備を整えていた。  未だに軟禁状態のヴァレル・アストルとその一派を警戒して、国王軍の兵力を多く割くことができない。そのため、途中ルドヴァンでコルネールの助力を得ることになった。  その後、ルースに留まっているルキウスの兵を集め、オルデンに残っているベルンシュタインと合流し、ギエリに潜伏している自らの兵とルキウスの兵を引き連れて入城するという算段だ。  これで手勢一万を越える。軍事衝突はできる限り避けたいが、フレデガルの軍と衝突したとしても、充分に戦える見込みがあった。  ギエリへの出発を二日後に控えた夜。  真夜中に急使としてレグルス城へ現れたのは、ベルンシュタインの少年だった。ジギの隊の者だ。オルフィニナは寝衣の上にガウンを纏い、ルキウスと共に寝所で急使と会った。  急使の少年がアミラ語で短く話し終えた後、オルフィニナはみるみる顔色をなくし、込み上げるものを堪えるように口元を手で覆った。 「何だ。彼は何と言った」  ルキウスはオルフィニナの手を握った。そうしなければ、今にも崩れ落ちそうだった。  オルフィニナは、震える唇を小さく開いた。 「イェルクがフレデガルの首を刎ねた」  聞くなり、ルキウスは動いた。  バルタザルを呼んでオルフィニナ凱旋に動員する国王軍及び王太子軍の増員を指示し、その他ルキウスを支持する領主たちから軍の支援を要請した。 (狂ったか、イェルク・ゾルガ)  そうとしか思えなかった。  イェルク・ゾルガが早晩ギエリに戻るだろうとは予想していたが、これは予想を超えている。  国王に押し上げようとしていたフレデガルをその手で殺したとなれば、考え得る次の一手は自らの戴冠だ。  ギエリに駐屯しているエマンシュナ軍を殲滅し、そのままエマンシュナ侵攻を始めてもおかしくはない。こうなっては、今後何が起きても不思議ではないのだ。オルフィニナとの婚姻でまとまりかけていた和平に、みしみしとひびが入っていく音が聞こえた。  翌朝、ギエリから仰々しい軍装の使者が現れた。ベルンシュタインではない。イェルク・ゾルガ将軍からオルフィニナ個人へ向けた使者だ。  オルフィニナはスリーズが不安げな様子で取り次ぐのを聞き、深く寝入っているルキウスの腕からそっと抜け出して、寝室を後にした。  使者と接見するのに相応しいドレスに着替えていると、黒い騎士の装束に身を包んだクインが音もなく現れた。 「俺も同席する」 「わたし一人で会う。扉の外で待て」 「だめだ、ニナ」 「誰にものを言っている、クイン」  オルフィニナはスリーズが後ろの留め具を付けやすいように背を伸ばし、目だけをクインに向けた。気高き女王の目だ。 「扉の外で待て」  クインは忌々しげに舌を打ち、引き下がった。  オルフィニナが応接間へ向かうと、煌びやかな軍装の死者が待っていた。 「女王陛下、お迎えに参りました」  使者は恭しく跪き、オルフィニナを見上げた。  オルフィニナは表情を殺し、胸に迫る不気味さを隠した。 「イェルク・ゾルガは何がしたい」 「将軍のお心のうちを一介の兵たるわたくしなどが図ることは恐れ多いことでございます。これに、将軍よりお預かりしたものをお持ちいたしました」  使者はアミラ伝統の幾何学模様が織り込まれた織物の包みを開いた。中から真新しい木箱が現れた瞬間、どういうわけかオルフィニナの肌にいやな空気が這った。  なんだか、開けてはいけないものの気配がする。  オルフィニナは権高に顎を上げて立ったまま、使者から差し出された箱を受け取ることができずにいた。腕が鉛のように思い。音もなく息をゆっくりと吐いて腕を上げようとしたとき、広間の扉が開き、完璧な王太子の装いを整えたルキウスが現れた。  ルキウスと共に、オルフィニナを息苦しさから解放させる風が舞い込んできたようだった。 「ルキウス…」  オルフィニナは自分でも滑稽になるほど安堵した。 「優しいな、ニナ。俺を起こさないよう気を遣ってくれたんだろ」  ルキウスは微笑を作ってオルフィニナの頬にキスをした。使者に向けた目は、刺すように鋭い。 「使者どのを丁重にもてなせ」  ルキウスが扉の外に向かって言うと、クインがアミラ語で何事かを使者へ呟き、外へ連れ出した。  それから間もなくして、顔を蒼白にして膝から崩れ落ちたオルフィニナを、ルキウスは抱き止めた。  オルフィニナは、ルキウスの腕の中で蹲り、身体を震わせた。 「ニナ。ニナ…大丈夫だ。俺がついてる」  人払いをして正解だった。  他の誰かがこの場にいようものなら、感情を押し殺して壊れてしまったかもしれない。  ルキウスはオルフィニナの背をあやすように撫でながら、床に散らばった木箱の残骸を一瞥し、木綿の布に包まれたものを手に取った。 (よくもこんな真似ができるな)  怒りでどうにかなりそうだ。が、オルフィニナの苦しみの方が遙かに深い。今すべきことは、張り裂けそうな彼女の感情を受け止めることだけだ。  布は、茶色く変色した染みで汚れている。中に包まれていた一見なめし革の切れ端のように見えたものには、青い墨でひどく複雑なオオカミの紋様が記されていた。  なめし革などではない。まだ乾燥しきっていない人の皮だ。 「ルッツ…」  オルフィニナが顎を震わせた。  ――かつてルッツ・アドラーの首の後ろに彫られていたベルンシュタインのオオカミは今、ルキウスの手の上で虚しく咆哮している。
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