72 怪物の巣 - Monsternest -

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72 怪物の巣 - Monsternest -

 ギエリ城に軟禁されてからと言うもの、イェルクは毎日のように花やドレスを贈ってくる。オルフィニナに対しては敵意がないことと、敬意を払っていると示したいのだろう。  オルフィニナは全ての贈り物を固辞し、食事の誘いも拒否して、半月以上の日々を寝室に引きこもって過ごした。二日に一度は概ね手紙がついてくる。内容は、簡潔だ。概ね、顔が見たいとか、腹を立てているのは分かるが譲歩してほしいとか、オルフィニナを宥めるような言葉が記されていた。  黙殺を続けて十日が過ぎた頃、手紙の文面にはやや剣呑な色が滲み始めた。 「わたしがお前にそうしているように、お前もわたしを尊重すべきだ」  と、いつとよりやや乱雑な筆跡で記されている。イェルクに焦りが見え始めたということは、何か彼にとって不都合なことが起きたか、起きようとしているのかもしれない。  心が整うまで待つと言った手前、焦って怒りを露わにすることは、自尊心の強いイェルクにはできないはずだ。  一方で、オルフィニナにも苛立ちが募っている。外部の状況が分からないからだ。 (間もなく動きがあるはずだ)  オルフィニナは祈るようにして更に数日を沈黙のうちに過ごした。  この頃、ジギの指示で衛兵として紛れ込んだベルンシュタインが、監禁中のクインとビルギッテに密かに接触した。  これより少し前、首に手紙をくくりつけたエデンが古巣のオルデンへ戻ったことで、ジギはオルフィニナの動きを知ることになったのだ。  監視役の衛兵が食事とともにジギからの密書を忍ばせてきた日、オルフィニナは初めてイェルクからの花を受け取り、手紙の返事を書いた。 「一理ある。互いに譲歩が必要だ」  この日、上機嫌なイェルク本人が花を手にオルフィニナの寝室へ現れた。可憐な白いコスモスと、血のように赤いダリアだ。 「お前は昔から頑固で辛抱強い娘だったな。今でも手を焼かされる」  オルフィニナはイェルクから花を受け取った。ダリアの無数の花びらが、まるで人々が流した血のように見える。 「それならわたしが脅しだけで言いなりになることはないと知っているはずだ。そちらからも歩み寄る姿勢を見せてほしい」 「もちろんだ。だがわたしが歩み寄るのは協力が欲しいからというだけではない。お前を愛しているからだ。そうでなければとうに力尽くで言いなりにさせている」 「ふん」  乾いた笑いが出た。 「……気に入らない」  イェルクが眉を寄せた。 「笑い方がルキウス・アストルに似てきたな。少々深く関わりすぎたようだ」  穏やかな表情で取り繕うことをやめたイェルクの目は、オルフィニナの背筋を冷たくする。 「夫婦だから、不思議はないだろ」 「偽物のな。母后陛下とは心配せずとも会える。継母とはいえお前の家族だ。丁重に扱っているさ」  母后陛下――と口に出す時、イェルクの声には蔑むような響きが混ざっていた。  この夕、贈られた豪奢なドレスを纏って晩餐に赴くと、紳士らしく立ち上がってオルフィニナを待つイェルクの傍らにもうひとり女がいた。――スヴァンヒルドだ。  淡い灰色の目を、まるで仇敵に向けるようにこちらに向け、細身で長身の身体を鶴のように伸ばして直立している。 「わたしの妻がお前の侍女になる」  イェルクは拒絶など許す隙もなく言った。 (残酷なことをする)  スヴァンヒルドの表情を見る限り、彼女は夫がオルフィニナをどうするつもりなのかを知っている。  イェルクとの血のつながりなど知る由もないスヴァンヒルドにとっては、オルフィニナは夫を奪おうとする邪魔者でしかない。  その上、夫と夫が子を産ませるつもりの女が食事をする場で、自分は同じ席にさえつくことが許されないとは、貴族の令嬢として大切に育てられてきたスヴァンヒルドにとっては、これほどの屈辱はないだろう。  しかし、オルフィニナに拒否権はない。スヴァンヒルドのイェルクへの不信感を利用して、彼女を味方に付けることも、或いはできるかもしれない。 「苦労をかけるが、よろしく頼む。ゾルガ夫人」  スヴァンヒルドは表情を変えず、黙したまま膝を曲げた。  イェルクは食事の間、昔話でオルフィニナの心を開こうとしていた。ルッツに内緒で剣術や体術の稽古をつけてくれた頃のことを思い出すと、オルフィニナの胸が痛くなる。今のオルフィニナをつくったもののひとつは、間違いなくその頃のイェルク・アドラーなのだ。  本当に今の関係性があるべきものなのかと、疑いさえ感じてしまう。 (ばかだな)  オルフィニナは奥歯を噛み締めた。  どうにかしてかつて家族だった頃の関係に戻れないかとオルフィニナに僅かにでも望ませることこそ、イェルクの策謀だ。  オルフィニナはこの男を、手玉に取らなければならない。 「イェルク、わたしがお前に望むことは、捕らえられているわたしの家族と忠臣たちが無事に解放されることだけだ。それさえ叶えば、わたしはお前の望む通りに女王として戴冠し、お前を宰相として宣言し、彼らがお前の脅威になり得ないことを約束する」 「もうひとつ大切なことを忘れていないか、ニナ」  イェルクは淡々と言った。 「わたしの子を産む覚悟はできたか。そろそろアストルの種が実を結んだかどうかわかる頃だろう」  この無遠慮さに、オルフィニナは思わず傍に控えるスヴァンヒルドの顔に視線を移しそうになった。が、躊躇を見せるべきではない。今は、イェルクと対等な立場になるべく女王として振る舞うべきなのだ。 「まだ判然としない」  事実だ。まだ月のものはない。 「だが、イェルク。女王の胎を借りようというのに、見返りが家族の安全だけというのは割に合わないと思わないか」 「意外だな。お前にとってはそれが全てだと思っていた」 「もちろんだ。だが、ドレクセンの血を引く自分の後継者が欲しいのだろう。それなりの代償を払うべきだ」 「まあ、道理だな」  イェルクはどこか満足そうに唇を綻ばせ、ワインに口をつけた。 「何が欲しい」 「女王として相応の扱いだ」  オルフィニナは強い口ぶりで言った。 「囚人のようにわたしを扱うのはやめろ。わたしの臣下もだ。お前がわたしを生かしている理由は、わたしの血と地位が必要だからだろう」 「違う。お前を愛しているからだ、ニナ」  背後に控えるスヴァンヒルドの放つ空気が、明らかに冷たくなった。が、オルフィニナは黙殺した。 「なら行為で示せ。ドレスも花も必要ない。権力などくれてやる。(まつりごと)も好きにしたらいい。だがわたしは子を産むだけの人形になるつもりはない。わたしを女王にするというのなら、お前は女王の男らしく愛を乞え」  イェルクはワイングラスを置いて立ち上がった。  オルフィニナは内心ヒヤリとしたが、靴底を床にくっつけて立ち上がりそうになるのを耐えた。怯んだら負けだ。 「女王陛下――」  イェルクはオルフィニナの足下に跪き、手を取った。 「わたしの目に狂いはなかった。それでこそわたしの女王だ」  オルフィニナは親指に嵌められた国王の指環にイェルクの唇が触れるのを見下ろしながら、不気味に速く打つ脈を悟られないかとひどく不安になった。  不安は、こちらを見上げたイェルクと目が合った時、その暗さを増した。 「お前の夫が大軍を率いてルースまで進軍しているぞ」  オルフィニナの心臓が小さく跳ねた。待っていた事態が、起きている。 「オルデンに兵を配備するよう女王として下知してくれ、ニナ。エマンシュナからルースを奪い、ついでに王太子に離縁状を渡してきてやる」 「お前はルキウスのわたしへの愛を利用してエマンシュナを懐柔したいのではなかったか。攻めれば逆効果だ」 「いや、ニナ。ルースを取られたぐらいでは王太子はお前を諦めないだろう。わたしにはわかる。領地と愛する女が交渉材料になれば、我々に有利になる」 「残念だが下知はできない。わたしはまだ正式に女王として戴冠していない」 「では戴冠式を急ごう」  イェルクはオルフィニナの手の甲に口付けし、ギラリと目を光らせた。 (始まった)  オルフィニナはこの夜、衛兵として紛れ込んだベルンシュタインに手紙を持たせた。
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