第八話 監督官

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第八話 監督官

「千織、あなたは労働基準監督官がどういう存在なのか知っている?」  そう聞かれて、私はハッキリと答える事ができなかった。 「無職落ちした元労働者を二週間後に殺しにくる死神。強制的に国民に労働をさせるための抑止力?」  少しの沈黙の後彼女が答えた。 「半分正解といった所かしら……」  半分?  という事はまだ何かあるというのだろうか?  良い面も持ち合わせているなら聞いてみたい……。  無職落ちした彼等を処理する事で治安を維持しているとか……?  いや、そもそも殺処分されるのだから治安維持など破綻している。  ではいったい何が後半分と言うのか? 「質問するけど、何故彼等は無職落ちした労働者の所にキッチリ二週間で現れる事ができると思う?」  そう問われてみれば、確か疑問に思う所はあった。  そもそも個人が情報を公開している訳ではないのに何故彼等は職を失った事をそんなにも早く知る事が出来るのだろうか? 「分かりません……」  考えても、彼等の情報が何故そんなにも正確なのかは分からない。 「それはね、マイナンバー制度よ」 「マイナンバー……?  それって国民一人一人に当てられる個人番号のアレですか?」  個人の収入や貯蓄額を正確に把握し、税金を取りそびれない様にする為に存在しているものだと思っていた。 「ええ、マイナンバーは今や個人情報の多くが紐付いていて、データはほぼリアルタイムで更新される仕組みになっているのよ。  学歴や職歴、もっと言えば雇用契約を結んだり、解雇扱いになった場合は数十秒でデータが反映されるわ。  勿論経営者の話で言えば会社の倒産情報等がそれに当たるわね」  私の知らない所でそんな事になっていたなんて……。 「でも個人情報の保護は?」 「そんなモノは国民がそう思っているだけ、実際は政府によって徹底管理社会が出来上がっている。  それを隠蔽する為に大規模な情報統制が行われているのよ」  考えただけでもゾッとする話だった。  そして、私の中でどうしても納得のいっていなかったもう一つの疑問について彼女に問う事にした。 「そうやって早く情報を手に入れられる事は分かりました。  でも、人数の比はどう説明するんですか?  監督官より無職落ちした元労働者の方が多いはずです。  全ての件に対応なんてできない筈ですよね?」  良い質問だね?  といった感じで彼女は私の顔を見て頷いた。 「それは医療技術と延命装置の向上から話さないといけないわ」  彼女の言葉の意味が分からなかった。 「と言いますと?  医療って?」 「二〇二〇年のパンデミック騒動で医療崩壊が起こった。  その反動で、より多くの命を助けたいという意識がたかまって医療技術が飛躍的に向上したの。  かなり大きい肉体的な怪我や重傷でも適切な処置をすればすぐに回復できるのよ」  ん?  彼女が言いたい事とは……。 「まさか?」 「そのまさかよ。  殺処分を受けたと思われている非労働者の身体は死亡が確認される前に回収され、回復処理をされて洗脳プログラムを脳にインストールされるの」 「つまり、彼等に捕まったら労働基準監督官になるって事ですか?」  彼女は無言のまま頷いた。  ゾンビやヴァンパイアの様に増え続けるという事か、今まで相当な数が捕まった筈だ。  それならすぐに対応できる事にも納得できる。 「一度監督官になってしまったら元に戻す事はできないんのですか?」 「いいえ、その洗脳プログラムをアンインストールする事ができれば元の正常な人間に戻す事ができるわ。  ただしそれを行うには脳科学の専門知識が必要よ」  脳科学?  AIで人を豊かにする為に、今まで勉強し続けてきたつもりだ。  監督官に悩まされる人達を助ける為に私にも何かできる事があるのではないか? 「ご存知とは思いますが、脳科学に関しては私も修士です。  何か力に慣れる事があるかもしれません」  そんな発言をした時一つ疑問が生まれた。 「まさか、咲貴も生きているかもしれないという事でしょうか?」  あの日、少し電車に間に合わなかった事で彼女は朱美を庇って殺された。  でも今の話を考えると、奴等に身体を回収されているかもしれない。 「いえ、かもしれない……ではないわ。  咲貴も監督官になって元労働者に刑の執行を行なっている」  何という事だろうか、亡くなったと思っていた友人は生きて加害者になっていようとは思いもしなかった。 「私に行かせてもらえませんか?  彼女に助けられていたのなら、今度は私が彼女を助ける番な筈です」  彼女はクスッと笑い、こたえた。 「全て理解した上でそれを伝える為にこんな山奥まで私を訪ねてきたのだと思っていたわ」  そう言われると何も知らずにここに来た事はなんだか悔しかった。 「でも、その覚悟は分かった。  娘の事をお願いするわ」  そう言って置いてある受話器を取る。 「彼女をここへ」  しかしながら、この世界は本当に残酷だ。  働けなくなった人は殺処分というだけでも狂っていると思い続けてきたが、そんな肉体も精神もボロボロになった人達を今度は刑の執行人に変えてしまうなんて人権も何もない。 「三日後、咲貴は執行人として大阪の寝屋川に現れる。  奴等は基本的に二人一組、もう一人は西田。  あなたがここにくる途中で殺した佐藤と組んでいた男よ」  西田?  佐藤?  それって朱美と咲貴を殺した監督官?  加害者と被害者がバディとなって今度は別の誰かを殺しに行くなんて本当に狂っている。 「そう言えば、佐藤は?」  医療技術がそんなに発達していると言うなら、回復していても不思議ではない。 「彼は私達が駆けつけた時、既に亡くなっていたわ。  医療と延命の技術が発達したと言っても既に亡くなっている人間を蘇らせる事は不可能よ」 「そうですか……」  何だか複雑な気分だ。  これだけ憎んできた監督官は人を殺してはいなかったという事実を知った上で、正当防衛とは言え私が殺人者になってしまうなんて皮肉極まりない。  彼女も私の気持ちを察知したのか少しの沈黙が続く。 「脳科学の研究ばかりしてきたあなたに戦う術はないだろうから、武器の使い方とちょっとした体術のスキルを脳にインストールしてあげるわ。  あまり多くを入れると脳に負荷がかかってしまうから、自分の身を守れる程度のものだけど……」  そんな事ができるのかと少し驚いた。  同じ脳科学でも私の専門とは少し違う。 「ありがとうございます。必ず咲貴を助けてみせます」  咲貴にこれ以上辛い思いはさせたくない。 「失礼します。お呼びでしょうか奏様」  ノックと同時に扉が開き、女性が入ってくる。 「千織、貴方の相棒よ。彼女と共に……」  顔を見た瞬間、涙が溢れて止まらなかった。 「朱美……。どうしてここに……。」  彼女を抱きしめた。 「良かった……。生きてて本当に良かった……」 「私達は彼女を救う為の作戦行動中だった。  でもまさか咲貴が彼女を庇うのは予想外の行動だったのよ。  助ける事は出来なかった。  それも奴等の洗脳のせい……」 「洗脳?」 「いえ、何でもないわ……」  朱美が生きていたなんて本当に嬉しい。 「あの……そろそろ離れてくれないと、せっかく助かった命も窒息でまた奪われるんですが?」  朱美は少し意地悪に笑いながらそう言った。 「あ、ごめん」  私は慌てて彼女から離れ、涙を拭いた。 「私はあの時、完全に意識を失って死んだと思っていた。  でも次に気が付いた時はここのベッドの上でこれを握りしめていたのよ」  彼女はポケットから何かを取り出すと、広げて私に見せた。  血がべっとりと染み込んだハンカチで、端の方にはサキという刺繍がされている。 「見知らぬ私を庇ってくれた彼女を助けたいって、この作戦に志願したの。  そこに千織が来た」  やはり咲貴と朱美に接点はなかったのか。  咲貴はこのストレス社会を憎んでいたし、優しい子だった……。  でも、自分の命を掛けてまで見知らぬ人を庇うなんて……。
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