第十一話 脳科学修士

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第十一話 脳科学修士

「ところで一つ疑問だったのだけれど、千織はどうして全てを知った訳でもないのに私を訪ねてきたの?」  奏様は私に質問した。 「私の幼なじみが厚生労働省にいるのですが……」  そう言いかけた時 「須藤ね?」  とすぐに返ってきた。  やはりここには色んな情報が集まるのだろう。  まあ咲貴が見守ってくれていたのなら、私の情報なんてほぼ筒抜けだろうけども。 「ご存知なんですか?」 「ええ、知っているわ。それで?」  何故知っているのか?とか、彼はここにとってどの様な存在なのかとか……色々教えて欲しいところだが、それは後で聞く事にしよう。 「咲貴と朱美が執行された日、外務省の金原という人間が協力しないかと彼に接触してきました。  外務省なら無職落ちした元労働者を殺さずに助ける事ができるからと……」  奏は何かを考えている様だった。 「それで彼は何と返事したの?」  真剣な顔で問われる。 「考えさせて欲しいと……。  それで、金原の言っている事が信じるに値するか情報を集める為に非労働者を支援するコミュニティに接触しようと、ここへ来ました。  最初は何故彼も来ないのか?と思いましたが、佐藤の件を考えると監督官である彼は来ない方が正しかったと思います」  彼女は私の話に納得してくれている様だった。 「あの時は無職落ちした人が殺されないなら素敵な事だなって思っていました。  でも実際彼等は死んでなくて、強制的に監督官になっているならストレスを抱えて死ぬまで働かされるという外務省の考え方と何が違うのか?  と今は疑問に思います」  監督官に捕まれば自分も監督官になり、無職落ちした非労働者を殺す。  逆に外務省に捕まれば死ぬまで奴隷の様に強制労働させられるという事なのだから、実際ほとんど違いはない。  他者を傷付けないという意味では外務省の方が少しマシなのかもしれないけど……。 「そうね……。  仮に生かされている事を知らなかったとしても、殺されるか死ぬまで働かされるかの二者択一になってしまう。  どちらを選んでも未来は地獄に違いないわ」  彼女の話す内容は我々日本人にとって最もストレスの原因になっている事なのかもしれない。  ずっと奴隷の様な労働が続くならば、もはやそれは死と同義に位置付けるべきではないのだろうか? 「そんな深刻そうな顔をしないで」  肩を叩かれ、正気に戻る。 「その為に私達がいるのよ。  このポステリタスは未来の為に第三の選択肢を用意する」  意味が分からなかった。 「それって……?」と言いかけると、彼女はその言葉をさえぎって話す。 「千織が一番分かっているでしょ?  ベーシックインカムで生活維持の為の労働を止めるって事よ」  それが理想だ。  でも、そんな事が本当に可能なのか?  と少し考える。 「確かに今はまだ無理ね。  でもストレスを軽減する技術はある……。  あなたの脳にインストールした戦闘スキルもその一つで、他にも色んなスキルがデータ化されている。  将来的には欲しい能力を一瞬にしてネット上からダウンロードできる様にするつもりよ。  人は知識や技術を得る為に勉強をしなくてもよくなり、自分の能力不足で糞みたいな仕事を選択しなくていい時代がくる。  すぐにスキルを習得できる事で、自分には才能が無いからといって夢を諦めなくてよくなるの……。  才能の有無問題で言えば、有能な人間に長時間労働のストレスが集中する事が無くなり、皆がある水準のスキルを手に入れる事で労働力の底上げが可能になる。  働いても豊かになれないワーキングプアが存在するのは生活維持の為に働いているからよ……。  自分が欲しいスキルを一瞬にして習得できて望む仕事をし、さらに生産性を上げて高収入になれる世界って素晴らしいと思わない?  そうする事で人間は自分の為や社会の為に働き、生活維持の労働から抜ける事ができる。  これなら「金をもらったら人は働かなくなる」という反対論者にもベーシックインカムの素晴らしさをアピールできる」  彼女の話す内容はまさに私が思い描いた理想そのものだった。  厚生労働省や外務省の様に働けない人間が殺されたり、死ぬまで一生奴隷の様に強制的に働かされる事なく生活できる自由こそ本来人間のあるべき姿だと言えよう。 「そのお考えは、本当に素晴らしいと思いますし、私も凄く賛同できます。  しかし、いくつか疑問に思う事があって……質問してもよろしいですか?」  彼女は何でも聞いてちょうだいといった感じで頷き、私が思う問題点について質問する。 「権利の問題についてです。  それって脳の一部にAIを入れるって事ですよね?  私も脳科学をやっていましたから少し分かるのですが、著作権や肖像権を過度に規制しすぎたせいで人工知能の権利はほぼ海外に抑えられました。  AIは今や日本で普及させる事が出来ず、権利の問題でみた時に無許可でそのシステムを作れば外交問題に発展するのでは?」  え?そこなの?という顔で彼女は言う。 「あなたが一番分かっているはずよ?  逆に聞くけどAI……人工知能の定義とは何?  将棋のプログラムや家電の制御プログラムも大きい意味ではAIと呼ばれている。  けれど、あなたはそれも含んで人工知能と呼ぶつもりなの?  私が言っているのは制御工学やシステム工学の話ではないのよ?」  お前は修士で何を勉強してきたのだ?今更そんな事を聞くのか?と嘲笑われている様にさえ感じた。 「まさか……」 「そのまさかよ……」  にわかには信じ難かった。 「ホールブレインエミュレーション……」  私の呟いた言葉が嬉しそうだった。 「やっぱり分かってるじゃない……正解よ。  まあ、あなたはずっとその研究をしてきたのだから分からない訳ないわよね?」  彼女は何処か子供じみた口調で話す。  人工知能には二つの考え方がある。  現段階で人工知能と呼ばれ、世界で活躍しているもののほとんどが「トップダウン方式」である。  それは人間が作ったプログラムをビッグデータによって学習させたもの。  しかしそれは権利の問題により日本ではそれほど普及していない技術である。  そしてもう一つの「ボトムアップ方式」は人間の脳をコンピュータ上で人工的に再現したものである。  その為に人間の脳データをコンピュータ上にアップロードする技術がホールブレインエミュレーションである。  日本語では精神転生とも呼ばれている。 「待って、そんな事が本当に可能なのですか?  学生時代、私は何度も実験しました。  でも、どうしても上手くいかなかった……何十人分ものデータをコンピュータ上にアップロードし、検証しましたが自分がコピーであるという認識に耐えきれずにデータは起動直後に消失したのです。  それにチタン合金で作った機械のボディに人格を入れてみても拒絶反応が起こるのです。  研究してきたからこそ難しさが分かります……」  彼女は否定する私をみて更に微笑んでみせた。 「もしあなたが卒業して仕事に就いてからも研究が継続されていて、その問題が既に解決済だとしたらどうかしら?」  こんな短期間でそんな大きい問題が本当に解決できると言うのか……。  実際にそれができていると言うのなら私の理想社会は実現できるのかもしれない。  いや、待て……これは私をもう一度その道に戻すための都合の良いスカウト術ではないのか?  だとしたらブラフ?  黙り込む私に彼女は言う。 「まず問題なのは、人格データ全てを起動させようとするからデータが大き過ぎて容量オーバーで動かないのよ……そのスキルが必要とする記憶毎にカテゴライズし、圧縮データをつくる。それをユーザーの脳にインストールするのよ……」  何故彼女にそんな事が分かる?  彼女も脳科学者なの? 「でもその場合だと、トップダウン記憶検索信号はどう解釈するのですか?記憶にアクセセスする時は前頭葉から側頭……」 「まあ、待て待て……落ち着いて……」  彼女は私の質問をさえぎり、人差し指を唇の前に立てた。  ずっと研究してきて無駄な知識がたくさん入っているからこそ疑問に思う事もたくさんある。 「千織の質問に答えてあげられない事は申し訳ないけど詳しい事は私には分からない。  今のはうちの研究員の受け売り。明日香ちゃんを助けて、西田との事を精算した後で彼をちゃんと紹介するわ。まずは問題を解決して一歩ずつ前にすすみましょう……」
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