第十三話 ストレス社会

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第十三話 ストレス社会

 降り止まない冷たい雨が私にとっては、なんだか暖かく感じられて心地良かった。  多くの人が行き交う交差点を傘もささずに裸足で歩きまわり、天から注ぐシャワーはストレスで汚れきった心を洗い流してくれているかの様にさえ感じている。  世界は残酷で低賃金長時間労働によるストレスの為もはや自分が何者なのかさえ忘れてしまったと言っても過言ではない。  将来不安などという言葉では言い表す事のできない何とも形容し難い気持ちに襲われている。絶望感から生まれる虚無だけが何処までも広がっているのが分かっていた。 「一寸先は闇」「未来は真暗」と言う人は多いだろう……。 「闇」や「真暗」という言葉は先が見えないからこそ用いられているが、見えないなら「幸せな未来という可能性」も少なからずあるはずだ。  だが、闇でも真暗でもなく目の前に広がる崖が鮮明に見えているのに我々は、前に進み続けなければならない。  現在の日本という国はそんな状態が長く続き、人は労働ストレスに支配されている。  先進国でも発展途上国でもなく、言うならば転落途上国?いや、転落先進国だ。 「働き方改革」とは名ばかりで、残業月百時間未満制や高度プロフェッショナル制度という名の残業代ゼロ政策によって労働者はどんどんと低賃金で長時間の労働に苦しむ様になっていった。  働けど働けど豊かになる事はない。だが、それは論理的に考えるとある意味で正しい。  破綻したとは言え、労働者が搾取され続ける事で日本経済は成り立っているのだ……。  私もそんなストレスに支配された労働者の一人に過ぎないが、もうその限界が近い事を悟っている。  大学を卒業し、はじめに就職した会社はいわいるブラック企業という奴だった。  ゴム製品を製造するメーカー。  周りの人間は「良い会社に就職できたな!本当に良かった」と心から喜んでくれたが、その有名な会社は世間体だけであった。  経営者は労働者をモノの様に扱い、人とも思っていない。  働く者の安全や健康状態よりも製造効率を重視する事から大きな労災が幾度となく起こり続けた。  機械に腕を巻き込まれた者、利き手の指を二本も切断した者までいた。  ゴムを溶かす工程で灼熱地獄と化す工場内は夏になると脱水症状を訴えて倒れる労働者が後を立たず、救急車の音を聞かない年はない……。  その会社はモノを製造しているのではなく、怪我人を製造しているのだ……。  そんな環境下で無事な訳もなく、熱によって腎臓を潰し、入院を余儀なくされた。  こんな死にそうな働き方をしていても決して給料が高い訳でも、豊かになれる訳でもない事を知った。  流石に身の危険を感じ、転職に踏み切るも次の会社は経営不振で倒産。  その後も自分に合う企業に出会える事はなく、ろくでもないブラック企業を転々とし、肉体も精神も疲弊しきっていた。  仕事を辞めて二週間が経つと殺される日本はもはや福祉国家として機能していない。  福祉国家の理念は国毎に差があれど、三本の柱によって支えられてきた。  完全雇用の達成を前提とし、一時的なリスクは事前に諸個人が拠出する社会保険で対応する。  それでも無理な時はセーフティネットとして生活保護などの公的扶助がある。  だが、その様な物は機能しておらず、日本において生活保護の捕捉率は五パーセント以下になっていた。 勿論、税金でまかなわれる生活保護の予算を増やす事は世論が許すはずもない。  二〇二〇年のウイルスパンデミックが引き金となって、ワーキングプアや路上生活を余儀なくされたホームレスが急増した。  高齢者、障害者などは「救済に値する貧民」であるのに対し、ワーキングプアを含む労働可能な貧困者は「救済に値しない貧民」だと言われ、ワークハウスと呼ばれる収容施設に隔離された。  そこで「怠惰」な性根を鍛え直すと言う名目の元、劣悪な環境下で奴隷の様に強制労働させられた。 「劣等処遇の原則」という言葉は昔からよく謳われてきたという事実はあれど、救済に値しない貧民が殺処分を受ける様になったこの日本は、海外から見ても異常なまでに狂っていると言わざるを得ない。  意識が朦朧とする中、目を覚すとボヤけた視界に最初に飛び込んできたのは真っ白な天井。  誰も居ない個室に一人、ベッドに横たわっていた。  手足が痺れていて思うように動かせない。 「こ……ここ……は?」  装着されている酸素マスクが邪魔で声が思うように出せず、腕には点滴用の針が刺さったままだ。  おそらくは病院の一室だろう……いや、これはICU(集中治療室)なのだろう……。  何が起こったのか、何故この様な状況になっているのか理解が追いつかない。  取り敢えずはおかれている状況を理解せねばならず、握らされていたナースコールのボタンを強く何度も押す。  カーテンは閉まっていたが、窓の外が明るいのは分かる。  会社からの帰り道、電車の中で労働基準監督官と名乗った彼等に襲われ、私という人間は死んだ筈だ。  本来の標的ではなかった様だが、殺されていく彼女に手を差し伸べる事も出来ず、ただ見ているだけというのがどうしてもできなかった。  彼女もおそらく彼等に殺されただろう。  ああ、私は又この労働ストレス地獄の腐りきった社会に戻ってきてしまったのかと心はそんな絶望でいっぱいだった。 「しくじった」  そんな重い言葉が私に伸し掛かる。  これ以上肉体と精神をボロボロにしながら働くくらいなら死んだ方が何百倍ましだろう。  死よりも辛い奴隷生活からやっと解放されたと思っていたのに……。  もう誰でも良いから私を殺してほしい。  こんな地獄はうんざりだ。  そう思った。
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