第三話 労働社会の傷

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第三話 労働社会の傷

「お疲れ様、じゃあまた明日ね」  そんな普通の挨拶を同僚の千織と交わし、会社最寄りの駅改札で別れた。  いつもと同じ様に十六番線の階段を上り、電車の到着を待つ。  ホームでは「まもなく最終電車が到着します。おのり遅れのないようにお願いします」と次の電車が最終である事をアナウンスしている。  終電と泊まり込みの繰り返しで家と会社の往復だけの生活だが、こんな人生で本当に良いのだろうかと疑問に感じている。  今日は金曜のはずなのに、明日も休みな訳ではなく会社へ向かう。  最後に休んだのはいつだったのか思い出す事すら困難で、労働によるストレスは限界寸前だった。  電車がホームに到着する前に線路に降りれば、この終わらない労働ストレス地獄から解放されるのだろうかとさえ思う程に肉体も精神もボロボロにされていたが、今日も又思い止まる事ができた。  こんな労働ストレス社会にいつまで耐えられるだろうかと毎日続くギリギリの気持ちは行き場を失っている。  最早生きているのでは無く、ただ死んでいない状態が続いているだけだと言ってもほぼ間違いではない。  生きる為に働くのか、働く為に生かされているのか分からない。  そんな不安定な精神状態がもう何年も続いている。  少しして到着した各駅停車の車両に乗り込むと、切れそうな蛍光灯がチカチカとフラッシュし、壊れかけのエアコンからは生温かい風が吹き出ている。  車内は混んでいる訳ではないにせよ、それなりに乗客は多いと言えるだろう。  たまたま空いていた席に腰をかけると、目の前の席には自分よりも五つ程歳上ではないかと思うスーツ姿の綺麗な女性が座っていた。  彼女は目を真っ赤に腫れ上がらせながら静かに泣いている。  車内を見渡すとストレスに飲み込まれる寸前であろう労働者ばかりだ。  彼等は自分のメンタルを守る為に必死であり、人の事を気にしている余裕などある訳が無い。  流石に気になり、目の前に座る女性に声を掛ける事にした。  こんなストレス社会だからこそ何か人の力になれるかもしれないと思っている自分がいたからだ。 「あの、大丈夫……」  言葉をかけようとした瞬間だった、彼女は急なえずきと共に大量の血を吐き出した。  私のスーツジャケットとカッターシャツは彼女の血を吸って真紅に染まってしまったがそんな事を気にしている暇もなく、ポケットから出したハンカチを彼女に渡す。 「大丈夫ですか?」  再度確認すると、彼女は私のハンカチで口を拭き、謝罪した。 「ごめんなさい。本当にありがとう。  ハンカチは洗って返します。」 「いえ、それは構いませんが、本当に大丈夫ですか?何かあったのですか?」  むせ返り、再度血を吐きそうになる口元をハンカチで押さえながらつぶやく。 「もうこんな生活は私には無理なのよ」  ジャケットとカッターシャツも血まみれになってしまっているのにハンカチにしか気が回らない彼女は相当余裕がないのだろう。  無言で右の袖を肘くらいまでめくり上げて私に見せたそれはシルバーに輝く機械仕掛けの腕だ。 「私の身体は義体なんです。  腕も脚もほとんどが機械でできている。  唯一生身なのは脳を含む首より上と臓器だけ。  就職した企業がブラックで労災地獄。  最初に失くしたのがこの右腕だった……大手メーカーの製造ラインで働いていたのだけど、安全管理の整っていない工場だったし、製造効率優先の危険な場所だった。  多くの同僚が命を落とし、私もそこで機械に腕を巻き込まれた……。  こんなにボロボロの身体になっているのに働け働けというこの国の労働観は狂っていると思わない?  転職続きだったけど、過労とストレスで血を吐く程に内臓ももう限界なようだし、私ももう終わりだわ」  そんな話を聞いて、何も返してあげられる言葉が出てこなかった。  レベルは違うにせよ、この人は私と同じく国の政策によって人生を潰された一人なのだ。  何か力になれるなんて思っていた自分が恥ずかしい。  そんなものはただの思い上がりだ。  自分の事が精一杯で、こんなにも苦しんでいる彼女の為に何もできない私は無力な人間なのだと実感した。  こんな話をしていても周りの乗客は無関心で、自分の事だけで精一杯。  彼等は明日の仕事の事を考えているに違いない。  そんな時にポケットが振動している事に気が付き、確認すると「千織」と表示されている。  目の前で吐血している人がいる状況であった為に電車を降りてからかけ直そうと、その時は取らずに放置する事にした。  二〇一〇年代、低賃金長時間労働やサービス残業によって過労死が急増した。  国は「働き方改革」などと言って対策を打ったが、残業月百時間未満制や高度プロフェッショナル制度の導入により、実質問題として残業代が無くなり、労働者は時短ハラスメントに悩まされた。  結果、短時間で業績だけ伸ばす事を強いられ、肉体や精神を無視した働き方を続けている。  そのせいで労働者はボロボロになり、過労死する者や自殺する者は年々急増し続けている。  労災数、労働環境あるいは人間関係によるストレスの増加は止まる事を知らない。  日本人は勤勉であると海外の人からは褒められ続けてきたが、社会は皮肉を心得ていたのだと言わざるを得ない。 「失礼ですが、大森朱美さんでしょうか?」  そう聞かれ、私達は声の主に目線を上げると、スーツ姿の男が二人立っていた。  男は警察手帳の様な物を開いてこちらに見せ身分を明かすが、よく見ると警察関係者ではない。 「わたくしは、厚生労働省労働基準監督官の西田と申します」  彼女はその名を聞いた途端顔を真っ青にして叫んだかと思うと、捕まえようとしてのばされた彼の手を振り払って走り出す。  次の瞬間銃声と共に金属が当たる様な爆音が車内に響いた。  連結部の扉を開き隣の車両へ逃げようとした彼女は男に右脚を撃たれている。  機械でできているソレからは出血はない。おそらく痛覚もないのだろうが、バランスを崩し倒れ込む彼女からはしっかりと恐怖が読み取れる。 「もう勘弁してください。  お願いします……。  私は普通に生活していたいだけなんです」  命乞い以外の何物でもなかった。  気が付けば私の脚は彼女を庇おうと勝手に動き出し、男の前に立ちはだかっている。 「何のつもりですか?」 「彼女はどうしてこんな事をされなければならないんですか?」  こんな無力な私には何もできない事くらい理解していたが、ただ彼女を助けたかった。 「彼女は体調を崩し、働ける肉体ではありません。使い物にならなくなった事で解雇され、二週間たちましたが未だに再就職の目処は立っていないために執行対象として手配されています」  社会は残酷だ。この労働ストレス社会は狂っていると言わざるを得ない。  誰もが知っている通り、この国は経済破綻を起こして以来、二十歳以上八十歳未満で学生以外の働かない者は犯罪者とみなされる。 「ソレを庇うと言うならあなたも公務執行妨害で殺処分の対象になりますが、それでも良いのですか?」 「構わない……。  こんな腐り切った日本で自由を奪われて死んだ様な生活をするくらいなら、いっそ死んだ方がマシだ」 「そうですか……」  男の言葉はそれだけだった。銃を持つ方とは逆の拳で顔面を殴られ、衝撃で窓に頭を打ち付けられると座席に倒れ込む。  痛みに悶ている隙に男は彼女に近付き、銃を構える。 「やめろー!」  私のそんな言葉も虚しく、彼女は銃弾を浴びた。マガジンに弾が無くなり、ブローバックしなくなるまで何発も何発も……。  こんな社会は間違っている。  彼女を救えなかった無力な自分を責めた。 「西岡咲貴さん、あなたは公務執行妨害により執行対象となりました。  悪く思わないでください」  そんな声と共に一発の銃声が聞こえた。西田と名乗った男と一緒に来たもう一人の監督官に撃たれた事に少ししてから気が付いた。  激痛で胸を押さえると手は血で真赤に染まり、朦朧とする意識の中で二人の遠ざかる足音だけが頭に響いていた。  考えてみるとこれで良かったのだと思う。  転職続きの人生だったが過去に働いたブラック企業の数はもう分からない。  労災で身体を切り傷や火傷でぐちゃぐちゃにした同僚達、ストレスで首を吊った親切な先輩。  彼等は毎晩のように夢に登場し、私に助けを求め続ける。顔を一日でも忘れる事が出来たなら心はどれほど救われただろうか。  亡くなった仲間が無事に成仏し、安らぎにつける事を心から祈るくらいしかできない。  毎日目が覚めると涙と寝汗でベッドがぐっしょりと濡れ、荒く乱れた息を整えるだけで一苦労だ。次は自分の番だ!という言葉が頭の中で何度もリピートされる恐怖と戦い続けてきた。  俗に言う心的外傷後ストレス障害の類だ。  私は限界を迎えようとしているストレスによって、生死の狭間をさまよってきた。  知りもしない誰かを助けたくて殺されるというのも必死に自分という人間を作る為、人に厳しくあたってきた贖罪なのだろうか。  こんな糞なストレス社会であっても耐えて生き長らえたいと感じてきたが、労働者を庇って殺されるとは皮肉なものだ。  働きながら生きる限界を感じ、それでも自殺に踏み切れなかった私にとってはちょうど良い機会だったのかもしれない。  人間にとって「働く」ということがそんなにも正しい事なのかが疑問でならない。肉体や精神を壊してまで苦痛に耐えなければならない程のものだとは到底思えない。
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