第五話 学生の夢

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第五話 学生の夢

「つまりは、人間の脳はニューロンと呼ばれる細胞の間を電気信号が伝わる事で側頭葉に記憶が作られていくという事だ」  電気の消された暗い部屋でスクリーンに映し出されるパワーポイントと教授の動かすレーザーポインターだけが光を放っている。 「ねぇ、起きて。起きてよ……」   小声でツンツンとボールペンの後ろ側で突いてくる同級生。 「分かってる。分かってるよ」  彼女はこちらを睨めつけながら少し怒っているようだった。 「テスト前になっても、ノートは見せてやらんからね?」  それは困る。こんな難しい講義なのだから眠くなって当然だ。 「そんな事言わずに頼むよ、咲貴」  手を合わせて頼む。 「だーめ。講義聞かずに寝てる方が悪いんだから」  そんなやり取りをしている時に終了のチャイムがなり、教室に電気がついた。 「今日の講義はここまで。では、スパイキングニューラルネットワークのレポートは来週中に提出ですからね。解散」  講義が終了して、教授は教室から去った。 「ああ、単位やばいなあ……」  教授の言っていたスパイキングニューラルネットワークが何の事なのかさっぱり分からないなぁと思いながらボソッと呟く。 「レポートの事はさておき、講義も終わったし取り敢えずお昼にしよ」  教室から出ようとする彼女の言葉に慌ててノートとペンを鞄にしまう。 「待ってよ……」  先に教室を出た彼女に追いつくと、交渉を持ちかける。 「今回のレポート全然分からなくてさ……学食でお昼奢るから教えてよ?」  彼女はため息をつきながら応えた。 「もう。仕方ないなあ、今回だけだからね」  交渉は成立のようだ。これで単位は何とかなりそうだなと一安心。 「言っておくけど、丸々写したレポートを出さないでよ?私まで評価が下がる」 「アハハ……分かってるって」  笑って誤魔化したが、丸写しするつもりだった事は彼女には黙っておこう……。  そんな事を考えながら二人で歩き、少しの沈黙があったかと思うと急に隣からそこそ大きな声がした。 「じゃあ、カツカレー」 「え?」 「学食奢るって言ったじゃない?もう忘れたの?」  急に言われて、何を言っているのか分からなかったが、先程の沈黙はメニューを何にするか考えていたようだ。  勿論奢ると言ったのは私だし、それを受け入れる事に何の問題もない。 「覚えてるよ、急に言うから何のこと?  と思っただけ。じゃあ私は何にしようかな……」  講義教室のある建物を出ると空は雲一つない快晴が広がっていた。 「今日は本当に良い天気だね、最近雨続きだったから久しく気持ちが良いわ」  彼女はとても機嫌が良いようなので、今なら初歩的な質問でも難なく答えてくれるかもしれない。 「脳科学って難しすぎない?ニューラルネットって何よ……ニューロンが何なのかすら分かっていないのに……」  彼女は少し呆れた様子でため息。 「はぁ、一から教えてあげるよ」  不出来な私にこんなに教えてくれるのは本当にありがたい。 「ありが……」 「サラダとコーンスープも追加だからな」  言葉をさえぎって追加オーダー。 「え、カツカレーにコーンスープ?」 「文句があるなら、食後のコーヒーもつけるけど?」  なんだか注文が可愛い。  口は悪いが本当に良い娘だと思う。適度に軽い注文を入れて、こちらが頼み辛くない空気を演出してくるのは彼女の優しさだ。 「はい咲貴先生、ホットでありますか?砂糖とミルクはいかほど用意いたしましょう?」 「んー千織君、今回はアイスにしょう。砂糖はガムシロップに変えてミルクと一つずつにしてくれたまえ!」  私がふざけた感じで聞いてみると彼女もまた同じ口調で返してくれたが、何だかそんな空気が平和で微笑ましい。  二人はお互いに相手の顔を見てクスッと笑った。  そうこうしているうちに学食に到着するが、午前の講義を終えた学生でごった返していた。 うちは総合大学なので理系文系の両方の学生がいる中、私達は工学部の脳科学専攻という訳だ。  食事を終わらせた学生を見つけ、鞄を置いて席を二つ確保してから長蛇の列に並ぶ。 「辻本教授、こんにちは。先程の講義はとても興味深かったです」  私達の前には学生に混じって学食の列に白衣のまま並ぶ見知った顔があった。 「こんにちは、どうもありがとう」 と会釈される。  辻本教授は脳科学研究の権威で、専門は人工知能とそれに伴う脳信号処理のシステムである。  記憶を制御する部位である海馬傍回に出入りする電気信号をコントロールする事によって、側頭葉に蓄積されるアナログ記憶データをデジタル化し、外部のHDDストレージへ取り出す事ができるという。  簡単に言えば、人間の記憶を外部のハードディスクに保存できるという事だ。  その技術が凄い事は分かるし、言っている事も理解できるが、論理はさっぱり理解できない。 「先程の講義で質問があるのですが、よろしいですか?」 「何でも聞いてくれていいですよ。私に分かる範囲であれば答えます」  彼女は好奇心旺盛で努力家、凄いと思う。今の私は何を聞いて良いのかすら分かっていないと言うのに……何かレポートのヒントになる様な事とか聞ければ良いのにそれすら分からない。  彼も咲貴の質問に笑いながら答えてくれているようだったが、私には単語すら意味不明で呪文の様にしか聞こえない。  前頭葉、側頭葉、海馬傍回、トップダウン記憶検索信号、脳核と側脳、大脳辺縁系。  取り敢えず分かった事は教授の人柄が良くて、質問すれば何でも優しく教えてくれるという事だ。  その上凄い研究をしている……それが脳科学専攻の学生達の憧れの理由なのかな?と思えた。 「ありがとうございました」  質問が終わって彼女はお礼を言っている。 「いや、君は優秀な学生だし探究心があってとても素敵だと思いますよ。  また分からない事があったらうちの研究室にきてください。  今度お茶でも飲みながらゆっくりお話しましょう」 「ありがとうございます。是非うかがわせてもらいます」  辻本教授はソースカツ丼を注文し、学食の人混みに消えていった。 「おばちゃん、カツカレー二つ。一つはサラダとコーンスープ付きで」  と注文し、レジへ進む。食後のアイスコーヒーは後で……。 「あ、会計は二人分一緒で」  席に着くと周りもちらほら空席になり始めていた。  私達は次の講義が休校になっているのでゆっくり話していても問題はない。 「では、いただきます」  彼女はプラスチックの皿に手を添えてスプーンをカツに刺すと、切断した衣を纏う豚は口へと運ばれていく。 「水を取ってくるね」  セルフのウォーターサーバーから二人分の水を汲み、席に戻ると彼女はお礼を言って一気に飲み干した。  再度水を汲みにサーバーへ戻る。  私が食べ始めた時、彼女は半分くらい食べ終わっていたが、美味しそうに食べているので何も言えなかった。  教授にどんな質問をしたのかと聞きたかったが、どうせ説明されても理解できないだろうからと聞くのをやめた。  一旦中のものを飲み込み、空になった口が開くと、質問が始まる。 「千織はさぁ、どうして脳科学専攻に?」  彼女とは大学に入学してから知り合った事もあり、そんな話はした事がなかったなと思い返していた。 「私はどうしてもこの理不尽な現状を変えたいんだ」  こんな大きい夢は誰にも語った事はなかったけど、どう思うだろうか?  と彼女の方を見るとスプーンを咥えたまま興味津々に聞いている。 「詳しく教えて。理不尽な現状って?」  意外そうな顔で質問を重ねてくる。 「どうにかしたいのはアレだよ」  そう言って顎で学食中央にあるテレビモニターを指した。お昼の番組ワイドショーの中で特集されているのは最近世間を騒がせている大企業の謝罪会見。  働かせ過ぎで従業員が過労死したりストレスによって自殺者がでている事に対して責任者が記者からバッシングを受け、頭を下げている。 「アレって、長時間労働による過労死の労災裁判?」  スプーンにのったカレーを口に運びながら無言で頷く。  それが脳科学とどう繋がるのか?と彼女の頭の上にハテナマークが飛んでいる。 「うちはさぁ、数年前に父さんが仕事のストレスと激務による過労で亡くなったんだ。最後の方は家にもほとんど帰ってこなくなってさ、それまでは皆んな笑って仲の良い家族だったのに生活は一変。  理由は覚えていないけど父さんが亡くなった日の朝、喧嘩してしまってそれっきり。  葬儀の後、生活のために母さんも働き詰だったけど、どんどん笑顔も無くなって、久しく親子で食事もしていない。  残業月百時間未満制、高度プロフェッショナル制度。  本当に日本人の労働価値観は狂っていると思わない?」  目の前の彼女は真剣にこちらの話を聞いてくれた。 「日本の働き方が間違っているのは私も感じている。  働けなければ殺されるし、仮に仕事があっても残業月百時間って事は土日除いて月二十日間で考えると合計で一日十三時間働くって事よ?  こんなドギツイ法律は地獄でしかない……でもそれが何故脳科学に?」  謝罪会見の中継が映し出される中でモニターの上の方に「過労によるストレスで六名が集団自殺」というようなテロップが流れた。  毎日普通に起こっている事なので今更誰も気にすらしない話である。 「ベーシックインカムですね?」  食事を終え、食器を返却口に返えそうとしている辻本教授が話しかけてきた。  私は驚いて急に話に入ってきた彼を見る。 「すいません、少しお話が聞こえたもので」 「はい、よく言おうとしている事がお分かりですね?」 「いえ、私も同じ事を考え研究しているからですよ。  多くの人が死に、毎日の様に流れる過労やストレスの労災ニュースにうんざりしているんです。  それが自分の研究でどうにかならないか?と考えない日はありません」 「どういう事ですか?」  目の前でスプーンを咥えていた咲貴は質問した。  彼女は「私だけ話に置いていかれている」というような顔をしていた。 「第四次産業革命を知っていますか?」  彼はその問いに質問で返した。 「えーと、AIとIoT ……それから、フィンテックですかね?」と答えてみせた。 「そうですね、フィンテックは一旦置いておいてAIとIoT を考えてみてみてください。  人工知能は今格段に進歩しようとしています。  今までと違うのはIoTインターネットオブシングス……パソコンや携帯だけではなく、あらゆる物がインターネットに接続される時代になり、ビッグデータを作る事ができるようになりました。  その多くの情報を活用する事で人工知能はさらにハイレベルな知性となって、色んなビジネスの場に使われる様になりましたね。  彼女は人工知能が生み出す収益を国民全体に生活資金として与える事で生活するための過酷な労働地獄を脱却し、生活の為では無い……意味のある働き方、あるいは豊かな働き方に変えようと考えているんだと思います」  私が言おうとしている事を全部言われてしまった。  でも、私と同じ考えを持った人がこんな近くに居る事に驚いてもいる。
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