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第六話 追跡者
ポケットに入れたスマホが先程から何度も鳴っている。
通話拒否ボタンを押しても、しばらくして再度振動と共に着信音が鳴り響く。会社からだ。
無断欠勤しているのだから、何度も鳴らされて当然だろう。
しかし何度鳴らされたとて、もう戻るつもりはない。
友人を二人も殺され、この腐った法によって恐怖を煽る労働ストレスの限界を感じ、絶望の真っ只中に立たされている。
二週間働かなかったというだけで厚生労働省に追われ、犯罪者として殺処分の執行対象になる。
又、そんな非労働者を庇う事で公務執行妨害として殺される。
こんな社会は本当に狂っていると言わざるを得ない。
退職願を出す場合は辞める一週間前が社会人としての常識だと人は言うが、馬鹿げていると言わざるを得ない。
退職願を出した時点で辞めたとみなされる為に正規の手続きを踏むなら自由になってから実質執行されるまでに一週間しか猶予がない。
それを踏まえると次の職を決めてから辞めるしかないが、基本的な労働者は残業漬けで転職活動をする余裕などあるはずがない。
更に言えば、即日解雇になった瞬間に二週間後の死が迫り、法は待ってなどくれない。
その点を考えると過労死する前に無断欠勤を行ってでも引き伸ばした期間を使い、転職先を探すのが妥当な判断だ。
労働者は辞めた二週間後には殺されるという理不尽な対応を受けるというのに、何故雇われる側は常識等というくだらない概念に囚われなければならないのだろうか……。
またしても、スマホが着信によって振動する。
「すみません」と軽く頭を下げたが、前の席に座っている女性は「うるさい」と言わんばかりにこちらを睨んでいる。
周りの視線から目を背けるために握りしめていた名刺を見る。外務省の金原利典、コレこそが職場のある大阪を離れ、バスに乗って長距離を移動している理由である。
「次、上高地に止まります」
アナウンスが流れ、下車ボタンを押すと車内に音が響きわたる。
新大阪から「のぞみ」に乗り、名古屋経由で新島々のターミナルからバスに乗り換える長旅だ。
*
彼の手を振り払い、階段を降りようとしていた時だった。
「俺の為なんだろ?」
そう思うならわざわざ聞かないで欲しい。
おそらく彼の祖父が殺害された事件はこの二〇二〇年のオリンピックに関係している。
証拠は何も無いにせよ、彼にそれを伝えるには抵抗があると考えていた時、急な銃声がしてとっさに自分の身を庇おうとした。
「俺が教えてやるよ」
そんな声と共に、階段を登ってくる一人の足音。一気に緊張感が高まる。
須藤の方に振り向くと彼は右脚から流血し、うずくまっているのが確認できる。
「大丈夫?しっかりして!」
慌てて駆け寄るが、弾は抜けており軽傷の様で少し安心した。
「大丈夫、急所を外してある。かすり傷だ」
二人で奴の方を睨み付ける。
「そんなに怖い顔をするなよ。
君は無職の人間を殺し回っているのだから、死体も怪我人も見飽きている筈だろ?
多くの人を殺しておいて、よもや死や怪我が自分には関係のない事だなんて思っている訳でもあるまい?」
緊迫状況が続く中、ハンカチで脚を縛り、止血させる。
「お前は何者だ?」
須藤は腰のホルスターから銃を抜こうとるが、足元に威嚇を一発撃たれる事で行動を規制される。
「動かないでくれよ」
奴は銃を私達の方に向けたまま話し始めた。
「須藤、聞きたがっていたオリンピックの話をしてやろう。
お前は二〇二〇年の東京オリンピックの頃何が起こっていたのか知っているか?」
少しの沈黙の後、須藤は激痛に耐えながら口を開く。
「実際には分からない。
新型のウイルスが世界で大流行し、経済が混乱していたと聞いた事はある。
でも、その経済損失を回復させるためにオリンピックでインバウンドに力を入れたのでは?」
その返答に奴は声を上げて笑った。
「もっと歴史を勉強したまえよ。
そんな無知でこの労働ストレス社会を変えたいなんてよく言えたものだな?
笑わせるのも大概にしてくれ」
二〇二〇年の東京オリンピックはかなり昔の話になる上に、国が判断を誤った事で公文書の改竄や誤情報による撹乱が横行し、大規模な情報統制が行われた。
インターネットなどで真実を知る事は難しく、須藤同様誤認識の国民が大半をしめるだろうと思われる。
「何がおかしいんだ?」
奴の態度は呆れているのか、ただただバカな答えが面白いと思っているのか読み取るのが難しい。
「では、そこの彼女に聞いてみたらどうだい?」
彼は私の方を見て話し始めるのを待っている様だった。
仕方がない、重要な部分は隠して話そう。
「オリンピックは……オリンピックは……新型ウイルスのパンデミックの直後に行われた。
世界に感染が拡大し、経済危機で混乱が広がっていった。
アメリカ、韓国、香港、シンガポール……世界のあらゆる国が都市封鎖と共に大規模な経済対策を打つ中で、日本は法律上都市封鎖できぬままお願いベースの「自粛」という言葉に頼り切った結果、大規模な経済的ダメージを受けた。
当時の担当がどんな考えだったかは分からないが経済政策の金額は世界と比べても、あまりに少なく国民への支援もほとんどなかった。
何としても回復させなくてはならない経済危機に直面し、要とも言えるオリンピックを強行した結果、更に感染が拡大し、収拾不能となった。
オリンピックを延期した場合の経済損失はGDPベースで三兆二千億円とも言われ、交通、娯楽・レジャー、インバウンド客を含む宿泊・外食の消費を失うのだから判断が難しかったのかもしれない……が、強行した事は良い結果を生まなかったと言える」
奴は私の発言に拍手しているが、それをさえぎって話し続けた。
「それだけじゃない。
世界中で中小企業の倒産に伴って労働者の解雇が広がった。
多くの人が職を失い、生活苦で自殺者も激増した。
特にヨーロッパでの感染拡大が酷く、オリンピックは開催したものの、国の感染レベルによって選手の入国規制を導入した。
そのせいで人種等による差別を主とする外交上の問題を生み、各地でテロが起こり、止める事のできない程の大規模な暴動による混乱が経済損失に拍車をかけた。
語り手によっては第三次世界大戦の一歩手前まで行ったとも言われている。
日本人は真面目に働くと世界から評価されてきたが、その真面目さがあだになり景気を取り戻すために労働促進のムードが高まった挙句、経済破綻を引き起こし、今の労働ストレス社会を作り上げた」
奴はうなずき、私の話を聞いてくれた。
「その通りだよ。
オリンピック開催国に感染者を多く出す訳にも行かず、国はできる限り感染検査をしない方向で動いた。
そのおかげで、数字上の感染者はほぼゼロ。
しかし実際はその対応のせいで日本には爆発的に感染が拡大した」
奴は私の答えに満足している様に微笑んでみせた。
「ここまで話を聞いて、須藤に質問だ。
お前は何のために戦っている?
世の中を変えると言いながら、実際は無職の人間を次々殺しているだけだ。
その矛盾がお前という人間を殺そうとしている」
彼は奴に返す言葉が無く、黙り込んでしまっている。
「お前が個人的な理由で厚生労働省に入ったのも知っている。
しかし、他人ならまだしも幼馴染で一緒に育ったその娘が仮に無職になっても引金を引けるのか?
庇うならばお前こそ公務執行妨害で殺される事になるんだぞ?」
辛い現実を突き付けられて反論できない。
考えなかった訳ではないが、言葉にされるとリアリティが増す。
「俺と協力しないか?」
意外な提案だった。
「断る。
何者なのかも分からない上に、いきなり撃ってくる奴をどうやって信じろというんだ?」
それもそうだなと、名刺を二枚取り出し私と彼にそれぞれわたした。
「外務省だと?」
各省庁は敵対し合い、裏で繋がっていれば大問題だというのがこの時代の常識であり、プライベートで友人だと言うだけでもスパイ疑惑に悩まされる。
「確かに、脚を撃ったのはすまなかった。
急所を外して軽傷なのだから許してくれ。
それに、俺が外務省の人間だと知っていたら話を真面には聞いてくれないだろう?
特に厚生労働省と外務省は労働者を巡って意見が異なるため頻繁に銃撃戦だって繰り広げている。
俺は無職の人間が殺処分をうけるのを救いたいだけなんでね、お前と殺し合っている場合ではないんだ」
確かに外務省の人間だと言うだけで、話を聞こうとしなかったのは事実だろう……それに、脚を負傷していなければ撃ち合いになっていたのも奴の言う通りだ。
急所は外され弾も抜け、この会話中に血もほぼ止まる程の軽傷だ。
「少し考えさせてくれないか?」
「いいだろう。良い返答を期待している」
そう言って奴はこの場を立ち去ろうとした。
「一つ聞いてもいい?」
去りゆく彼に今度は私が疑問に思っている事を聞こうとすると、立ち止まってくれた。
「何だい?」
無職の人間を二週間で殺すというこの理不尽な法をどうやって抜けるというのだろうか?
「殺処分をうけるのを救いたいって言ってもどうするつもり?あなただって庇えば公務執行妨害でしょ?」
何だそんな事かといった様子で奴は言った。
「我々外務省は、無職になってしまった国民を厚生労働省から守り、彼等よりも先に確保する。
そして、職業訓練を実施した後、社会に戻す。あるいは海外に労働力として派遣するのさ。
我々も一応公務として行っている以上、公務で公務を妨害しても罪には問われない。
故に厚生労働省と撃ち合って負傷する事はあっても法的に公務執行妨害で殺される事は免除されている」
なるほど、それなら彼等を庇っても自分達が殺処分になる事は無いのか。
「ではもう一つ。
確保した国民はどうするの?
職業訓練と言ったって雇用されていないなら、厚生労働省に襲撃を受けて皆殺しなんて事もあるんじゃないの?」
「その点もちゃんと考慮されているよ。
職業訓練施設は領事館あるいは大使館の敷地内に設置してある。
治外法権区に当たるので一度確保すれば日本の法律は適応されないために二週間を過ぎても殺処分は受けない」
なるほど、よく対策がうたれている。
彼に協力して労働者を助けられるならこんなにも良い事はない筈だ。
他に質問がないなら、良い返答を待っていると言い残して彼は去った。
「あの外務省の金原利典という男は正しいと思う部分はあるが、信用するにはまだ早い気がする。
もう少し調べないと……」
須藤がそう言った。
「そうだね、でも人を助けられるのが本当ならそれは凄い事だよ。
こんな法は間違っていると思うから……」
彼はハンカチで縛った脚を押さえながらゆっくりと立ち上がった。
私はそれに肩を貸し、改札の方へ向かう。
「千織、一つお願いを聞いてくれないか?」
説明によれば、彼の掴んでいる情報として非労働者のコミュニティがあるとの事。
山岳要塞を拠点とし、無職に落ちた人間を厚生労働省から守るために活動しているらしい。
そのコミュニティの調査のために長に接触して欲しいとの事。
彼等が持っている情報から共存の可能性を模索するためで、決して攻撃の意図はない。
また、先程の金原の話を検討する材料にもなりうると彼に提案された。
その場所が槍ヶ岳である。
飛騨山脈南部にある標高三一八〇メートルの日本で五番目に高い山、日本百名山の一つとして知られている場所だった。
*
バスをおりて、川沿いの遊歩道を進む。
これから目指す場所は標高三〇八〇メートル地点の山小屋宿泊施設。
そこで彼等の情報を探ろうと思う。
初めてな上に須藤に渡された登山用の装備はかなり重く、登山口にさえ着いていないと言うのに既に心が折れそうになっている。
お前が掴んでいる情報ならば自分で行けば良いのではないか?
何故私が代わりに行かなければならないのだろうか?と疑問だ。
午前五時、彼から渡されたメモを確認する。
登山をしない私は良く知らないが、山では決して早い時間ではないらしい。
因みに逆算すればバスの車内で会社から電話がなっている事自体おかしな事ではあるのだろうが、麻痺している為労働者である私達にとってはそれが普通なのだ。
この社会では働く事が何より大切で、二十四時間如何なる時であれ会社から電話があったら対応しなくてはならない。
そりゃストレスで肉体や精神をぶっ壊す事は容易に想像できる。
そう言う意味では、この登山も緑を見ながら行う森林浴というストレスケアである事に違いはなく、それを提案した彼には感謝すべきなのだろうか?
彼のメモに一通り目を通し、今から登るルートや登山の細かい注意事項を頭に入れる。
労働基準監督官に跡を付けられるな!等と言っていたが、まだ仕事を辞めた訳ではない私を追ってくるとは考えにくく、可能性があるとするなら目的は非労働者コミュニティの捜索だろう。
私が彼等に接触する前に戦闘になる事はありえない。
それに、須藤以外の監督官がそんな情報を掴んでいたならば、最近聞かされた私などより有益な情報を持っているはずだ。
そんな彼等がわざわざ私を追ってくるだろうか?
念には念を入れると言う意味では、熟練の登山客とでも仲良くなって、ガイドをしてもらえば良いのではないだろうか?とは思う。
仲間と山を楽しむ登山客になりすますという事だ。
まあ、チャンスが有ればといった程度の話で、こんなにまばらな客しか居ない所ではそれも難しい訳だが。
七十代、いや八十代くらいの夫婦と中年女性の団体が前を行く。
私の方が若いというのにこちらの方がバテている様に見える。
やはりこのような場所は若さなど関係なく、経験の違いがものを言うと考えるべきか。
良く見れば、皆使い込んだリュックを背負い、足取りはかなり軽い。
そもそもまだ出発してほとんど時間が経っていないというのに私はこんなにバテている。
足手纏いにしかならないというのにガイドになってくれる様な人などいる訳がない。
ガイドを見つけようなどという先程の考えが間違いであった事を訂正しておく。
そうこうしているうちに明神と言われる場所に到着するも、ほぼデスクワークしかした事のなかった私はこんなにも体力がなかった事に気付かされる。
リュックを開けて水分補給をしようとしたが、貴重な水をこんなに早くから大量に消費する訳にはいかないと、飲むのをやめた。
こんな調子で果たして目的地にたどり着けるのだろうか……。
この場所にはツアー客と思われる団体が複数、人が多いという印象をうける。
私も一応は急いでいる、この人達の後ろを歩くのはペースを乱される等と生意気に休憩はそこそこに出発する事にした。
そう言えばあの日、須藤は私のストレスチェックでの基準値が大幅に越えている事を指摘し、メンタルケアする事をすすめていた。
それは登山と森林浴を行ってこいということだったのか?
いや、ただ彼に来れない理由でもあったのか……どちらにせよ良いリフレッシュにはなっているのでよしとしよう。
ただ自分自身の体力の無さにも気付かされた訳だが。
そんな事を考えながら一人で歩き続けた。
「ここがメモにあった徳沢か?」
息を上げて、ゼーハー言いながらでも声が出てしまった。
樹林を抜けたキャンプ場……彼に渡されたマップ情報にも一致するように見える。
「大丈夫かい?かなり疲れている様だが」
そう声をかけてくれたのは四、五十代の男性だった。
「ありがとう……ござい……ます」
普通に会話できない程に体力を消耗している事が確認できる。
「水分補給はしっかりした方が良いよ、辛そうだ。登山は初めてかい?」
失礼だとは思ったが、荒い息で声が出てこないので無言で頷いた。
「少しここで休んでいくといい」
糖分も大切だよと言って飴とチョコレートを二個ずつ差し出された。
お礼を言って、いただく事にした。
彼はお先にと会釈して出発したが、私はここで休憩する事にした。
多めに水を飲み、いただいたチョコレートを口に放り込む。
彼の言う通り糖分は必要不可欠で、身体が甘さを喜んでいる感じがした。
少し休むと、登山を楽しむ為にこんな所まで来た訳ではないという事を思い出した。
自分が生き残るのは勿論の事、日本での労働環境の改善、ベーシックインカムの普及。
その為に非労働者コミュニティとの協力関係の締結、私にはやる事がたくさんある。
大森朱美、西岡咲貴、二人の友人の死を経験し、これ以上犠牲者を出したくないという気持ちこそが原動力だ。
そう思い始めてからは歩くスピードが少し速くなった気がした。
勿論無理をしてはいけない事は分かっているし、自然をナメている訳では決してない。
だが、ゆっくりとしている暇がない事も分かっている。
スマホを確認すると圏外になっている事から、山の外に通信できない事が分かる。
もし、須藤の言う様に労働基準監督官に襲われる様な事があったとしても外界に助けを求める事はできないという不安はある。
だが、いくら山だからと言ってこのご時世に通信できない場所があった事に驚いている。
あるいは、非労働者コミュニティによる侵入者を防ぎ外部からの連絡手段を断つ為のジャミング……通信妨害技術の一種だったとしたら、彼等は予想以上に大きい組織なのかもしれない。
「やぁ。元気になったかい?」
そう言って手を振ってくれたのは先程の男性だった。
どうやら追いついた様だ。
「先程は飴とチョコレートをありがとうございました。
おかげさまで少し元気がでました。
真面に会話も出来ずにすいません」
彼はニコニコと笑いながら、回復して良かったと言ってくれた。
息が上がり全く話せなかった徳沢とは違い、今は普通に挨拶ができる程には回復している。
「謝る事はないさ、誰だって最初から速く歩ける訳ではないし慣れるまで時間はかかるものだよ。
山は初めてなんだろ?」
「はい、登山は初めてです。いつもデスクワークばかりで仕事漬けでしたから新しい趣味を見つけてみようかと」
彼は「山は良いぞー」とテンション高く、良い趣味を始めたと褒めてくれた。
「ところで、君はこれから何処を目指すんだい?」と問われたが、質問の意味が理解できず、聞き直す。
「と、言いますと?」
笑いながらも丁寧に教えてくれた彼の説明によれば、このポイントは「横尾」と言われ、槍ヶ岳、穂高連峰、蝶ヶ岳方面など複数の道に繋がる分岐となっている場所らしい。
それならと言って須藤が用意してくれた地図とメモの一部を見せ、取り敢えず槍ヶ岳にある山小屋宿泊施設まで行く予定であると伝える。
「そうかい。なら私と同じだし、よかったら一緒に行かないかい?」と誘われた。
「良いんですか?私はド素人ですし、足を引っ張りますよ?」
熟練登山者をガイドに付ける事ができるとはラッキーな話だ。
体力的に不安だった事もあり、これ程嬉しいお誘いはない。
「勿論さ、初心者をガイドするのも慣れている者の務めだと思っているし、せっかくなら山を好きになって欲しいからね」
と嬉しそうに話してくれた。
これで労働基準監督官にバレる事なく登山客として山に身を隠す計画は成功と言えるだろう。彼に甘え、ガイドをお願いして二人で横尾を出発する。
「槍ヶ岳って日本のマッターホルンとも言うくらいですからもっと上級者向けのコースかと思ってました」
何か話をした方が良いだろうかと思って、話しかけてみる。
「やっぱり登山をした事のない人はそう思うのかな。
この槍沢コースは意外と難所は少ないよ。鎖場も岩場もないからね」
「それは調べて分かりました。
歩くだけで槍の肩までは行けるんですよね。ただ体力の問題はありますが」
そう言って笑ってみせた。
話をしていると本当に山仲間の様で、今日知り合った関係だとは誰も思うまい。
これなら奴等が何処から見ていても単なる登山客だと思いながらも、誰かに監視されているのではないかと辺りをキョロキョロしてしまう。
「どうしたんだい?」
不審な行動だっただろうか。
まあ、奴等がこんな所まで来ていたとしても私は執行対象ではないはずだ。
大丈夫だと心に言い聞かせた。
「あ、いえ。初の登山ですから、綺麗な自然を目に焼き付けておかないとと思ってあちこち見てるんですよ」
「なら良かった。
最初に会った時は辛そうだったけど回復した様で山を楽しめているなら何よりだよ。
もう少し上に行くと花畑があるし、そこはもっと綺麗だよ」
そう言われるとその場所が楽しみで少し元気になった気がした。
「ありがとうございます。それは楽しみですね。
本当に山がお好きなんですね。
槍ヶ岳には何度か来られた事があるんですか?」
「槍には何度も来ている。他にも白馬岳、剱岳、穂高、北、南、中央、全アルプス、主な山はほとんど登ったよ」
彼は本当に登山が好きな様だ。
初心者としてはガイドになってくれたのがこんな山に慣れた人で本当に良かったと思えた。
「午前十時四十分、槍沢ロッヂ」と腕時計を確認した彼曰く、この槍沢コースから槍ヶ岳に登る人の多くはここに一泊するらしい。
時間的にみて頂上を目指す人は既に出発した後との事。
説明によればここの宿泊客の多くは昼をだいぶ過ぎてから到着する。
そのためか人は少なく、私達を除けばシートを広げて昼食をしている男性五人組が居るだけだ。
奴等はそんな大人数で行動するとは考えにくく、彼等は監督官ではない。
そんな事を考えていると隣から話しかけられる。
「どうする?少し休憩していくかい?」
「上を目指す人は既に出発しているという事なので、軽く水分補給したら行くというのは如何でしょうか?
途中で、持ってきたおにぎりを食べたのでそこまでお腹が空いている訳ではないのですが、そちらはどうですか?」
既に出発が遅れているという表現で説明を受けているのに、ここで長く休憩を取るのは足を引っ張っている様で嫌だった。
「分かった。君がそれで大丈夫なら少し水分補給をして出発しよう」
お先に、と会釈して食事をする彼等の横を通り過ぎる。
「そう言えば名前を聞いていなかったね」
ロッヂを出た後に彼は私に問う。
「皆谷千織と言います。あなたは?」
「佐藤だ」
私は名乗ったというのに彼は下の名前を教えてくれなかった。
佐藤なんて全国で一番多い名前なのだから下の名を添えて名乗ったってバチは当たらない筈だ。なんと不親切な返答だろう。
そんな風に一瞬思ってしまったが、ここまで連れて来てくれている時点で親切な人に違いはない。
そんな事で機嫌を損ね様としている自分の器の小ささが嫌になる。
初の登山に加え監督官を警戒しているという事で気持ちに余裕がないのだろうか?
「すいません、少し水分補給をしても良いですか?」
先を歩く彼は少し立ち止まり、こちらに振り返ると
「後ほんの少ししたらババ平という所に到着する。そしたら休憩しましょう」
と提案してくれた。
須藤に渡された地図によれば、彼の提案した「ババ平」はすぐそこだ。
そこまで頑張る事にしよう。
彼に了解のサインを送る。
私は到着するなり、喉を鳴らす勢いで水を飲む。
「この時期なのに雪があるなんて素敵ですね。大阪じゃ、冬でも積もりませんよ」
雪は冬にしかないものという概念は崩された。
私の住む大阪では、冬でさえ降る事はあっても積もる事はない。
しかし、ここではこんな季節外れでも雪を見れる事に少し感動を覚えた。
こういうのも登山の醍醐味だと彼は教えてくれた。
少し長めの休憩をとり、二人は歩き出す。
「千織さん、花畑が見えて来ましたよ」
ゆるやかなコースに花畑が広がっている。
自分の名前は教えないくせに、人の事は馴れ馴れしく下の名前で呼ぶのか?と思ってしまったが、そんな事は些細な事だ。
黙っておこう。
咲いている花は登山をしない私にとって知らない物ばかりだった。
ミヤマキンポウゲ、ミヤマオダマキ、チングルマ、シナノキンバイ……彼は高山植物の名前を教えてくれたが、やはり聞いたことのない名ばかりで、私にはある種の呪文の様にさえ聞こえてきた。
労働ストレスに飲み込まれ、苦しむ人が急増する日本は最早どうする事もできない程の地獄だと思っていたけれど、私が知らないだけで場所によっては、こんなにも美しい景色がまだあったんだと感動している。
そんな綺麗な景色を見ながら花畑を通り過ぎると、少しジグザグ道が続く。
「午後三時五十分、山小屋宿泊施設到着」彼は腕時計を見て言った。
槍の肩……赤屋根の目的地に到着した。
これが槍ヶ岳なのか。自分一人ならここまで来れただろうか?
という事は疑問である。
しかしながら、外務省の弾丸によって負傷したとは言え、登山なんて全く経験のない私に一人で来させる場所ではないだろうと、今度会ったら須藤に言ってやりたい。
いや、寧ろ逆なのではないだろうか……コミュニティの目的が厚生労働省から無職落ちした非労働者を守るものだと言うのなら労働基準監督官は彼等にとって敵であるはずだ。
須藤がここに来るという事は不要な戦闘を招きかねないという事ではないのか?
その為に労働者の私が代役として来ているのではないだろうか?
登山というものが如何なるものなのか分かっていなかった時は何故私を一人で来させたのか?
と怒っていたが、目的地に到着して心に余裕ができたからこそ改めて考えるとその可能性もあるのかもしれないと思えてならない。
「お疲れ様。
初の登山はどうだった?
まだ頂上までは少しあるけど、ひとまずは目標の山小屋に到着できた事はおめでとう」
彼は私にそう声をかけた。
「ここまで連れてきていただきありがとうございました。
私一人では来れなかったと思います……」
「いや、お礼を言うのはこっちの方だ。
千織さんのおかげで色々と新しい発見もあった。
ずっと一人で山に登ってきたが、君を見ていると初めて山に登った時の喜びを再び思い出した気がしたよ」
二人は握手をした。
山は思っていたよりも良い物だなと少し感じ始めていた。
宿泊施設の前には多くの登山客が居て、皆ここでの綺麗な景色や空気を堪能している。
頂上ではないにせよ、頑張って登ってきた感動を感じている様だ。
知らない者同士で声を掛け合っている人も多く見られる。
私も見知らぬ人に「お疲れ様でした」と声をかけられ、何処から来たのか?等と世間話をしていた。
横を見ると、導いてくれた彼も又誰かと話している。
都心部では労働の中、過労や人間関係にギクシャクしているというのにこの場所にはそんな汚れを一切感じさせない平和で温かなムードが広がっていた。
しかし、そんな感動も束の間だった。
「厚生労働省の労働基準監督官が居るぞ!」
何処からともなく聞こえてきた叫び声と一発の銃声によって、平和な登山の感動ムードも一瞬にて壊れてしまった。
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