魚の墓

1/1
前へ
/1ページ
次へ

魚の墓

「――俺はあれを見たんだ!」 そう言った(かける)の目は、きらきらと輝いていた。 🐡                            俺たちが中学生になって初めての夏休みのことだった。全ての始まりとなったあの日。俺たちはいつもどおり近所の海で遊んでいた。馬鹿なのにヒーローみたいな翔と、冷静でクールな翼と、平凡な俺の三人で。たいした用事もないのに、いつも俺たちは海岸に集まる。あの日も、そうだった。 翔は暇そうに波打ち際で打ち寄せる水を足で蹴っていて、はたまた翼は俺達と少し離れたところから体育座りしながら何かを見ていた。その何かは翔だったのかもしれないし、部屋に飾る用の貝殻を拾っていた俺だったのかもしれない。そんな穏やかな空気の中。俺はいつも通りそのまま一日が終わっていくと思っていた。 でも不意に翔が水遊びをやめて、こちらを振り向くこともなく、俺と翼にむかって、言った。遥か彼方を見つめているような眼差しで。 大人みたいな声色だったのを覚えている。 いつも騒がしい翔には珍しいことだった、なんというか、らしくなかった。 「なぁ、二人とも。 魚の墓を見に行かないか。」 その言葉に俺と翼は、思わず固まって。 集めた貝殻が手のひらから滑り落ち、カチャリと微かな音をたてた。  魚の墓。 それは、俺たちが住んでいるこの島の伝説のようなものだった。この島近くの海だけで見られるらしい。魚たちの奇妙な習性。まるで世界中の全種類の魚が集まったかと感じるほどの多くの魚たちが、集まり群れになって泳ぎまわる光景らしい。でも、それだけなら「魚の墓」なんて妙な名前はつかない。 問題はその後、なのだ。集まった魚たちの群れは、泳ぎまわるうちに巨大な輪っかをつくる。そして、その状態のまま一斉に海の底へ沈んでいくらしい。その後の魚たちが死んだように動かない様子に、誰かが、まるで魚たちの墓場のようだ、と言ったらしい。そして、それからその現象は「魚の墓」と揶揄されるようになった。理由が分かってしまうとなんとも単純明快な名称だ。それよりも、魚の墓をそう名付けた人物の名前や、その人物の人柄が全く伝わっていないこと、あとどうしてそれが発生するのがこの島だけなのかという諸々が気になっていた。「魚の墓」伝説はずっと在って、確かなものとされているのに、その人物についてはみんな気にも留めていない。俺はそのことを度々、気にかけてしまうのだ。  俺の感想はさておき魚の墓は、ちょうど今この時期、夏頃に起こるらしい。だから、翔はあんなことを言い出したのだろう。 でも魚の墓は本当なのか分からない。なんせ伝説だ。よそ者の俺は正直信じていなかった。本島で散々思い知らされていた。大人たちは噓をつく、それも自分たちの都合の良いように。魚の墓もその一種だろうと思っていた。大人達が観光地も何もないこの島を盛り上げるためについた嘘だろうとそう思っていた。  だって、俺の周りに魚の墓を実際に見たものは誰も居ない。小さい頃から海に潜り、危険な目に合いながらも生還してきた「奇跡の海人」と称されるダイバー、空野健次郎でも見たことが無いと言っていた。彼は、翼の父親だ。見たという噂すら聞いたことがない。だというのに翔や翼は、伝説を信じていた。翼はそういうの信じなさそうだけど、なんせ彼は「奇跡の海人」の息子だ。父親から色々話を聞くらしい。それに…、彼は信じないほうが辛いのだろう、あんなことがあったから。 でも、翔は何故信じているのか。全く理由が分からなかったし、ずっと理解できなかった。 そのもやもやがなんとも気持ち悪くて俺は翔に聞いた事があった。あるかわからないものを信じれるのは何故なのか、と。      🐡  翔が魚の墓を見に行こうと言い出した日から、大体一年前くらいのことだった。 時を遡って思い出す。 あの時の翔の表情、声。 陽だまりの暖かさ。放課後だった。 その日、翼は補習でいなくて。今から思えばくだらない話(三組のテニス部の女子が可愛いだとか、いやいや二組のあの子も負けていないだとか)を真剣に議論していたのだけれど。ふと、胸に感じた違和感に駆り立てられた。聞かなくてはいけない、今しかない。そんな焦りにも似た感情に突き動かされて、尋ねていた。 「な。なんで、翔は魚の墓の伝説を信じれるんだ?」 いきなりそんなことを聞かれると思わなかったのか、翔は、ぽかんとした後に悪戯っ子のように笑う。 「…うーん、(あお)はどう思ってる?魚の墓のこと。まさか、お前信じてないのか? …なんでだ?」 心底不思議そうに。ぐりぐりと動く目。余りにも純粋な疑問に戸惑った。逆に聞かれるとは思わなかった。 「…信じてないよ、だって…大人達がついた嘘だと思うから。」 掠れた声が出た。 それは、先週引いた風邪がまだ残っているからか。それとも、自信がないからか。 「そっかぁ。んんーでもさ、」 珍しい事に彼の眉間には皺が寄っていた。 「…でもさ、それじゃあ、つまんなくね?」 「は?」「いや、俺はそういうことを言ってんじゃなくて…、」 言葉が詰まる。 目の前の強い光に遮られて、頭の中が白に染まる。人の目ってこんなにも強く光るものなのか。俺はその時初めて知った、一瞬にして自分の中の感情とか要らない雑念が、白に昇華していく感覚を。 自分自身が、立ったままでいれていることが、不思議だった。 翔は、何も喋らない。俺は、何も喋れない。自分の中にある臓器を一緒くたにしてそれらを鷲掴みにされているような。でも、痛い訳ではなかった。なんとも不思議な感覚。擦り潰すように吐き出された彼の言葉が、俺の鼓膜を震わせる。 「…大事なのは、あるかとないかとかじゃねえよ。本当に大事なのはそこにあるって、信じることだ。」 「そしたら、それが本当になるんだ。」 彼は言い終わると眼の力を抜いて、いたずらっ子の様な笑みを浮かべた。 「なにより…、大人達の都合なんて俺たちには関係ねえ!」 「へぇっ?」 思わず腑抜けた声が出た。 それとともに、体の感覚が戻ってくる。アホみたいな俺の声を聞いてなのか、それとも他の理由か、楽しそうにころころと、目の前の彼は笑って。なんとなくそれを見て、戻ってきた感じがした。 俺達の日常とか、いつも通りの翔とかそんな感じのもの。 「そっちのほうが楽しいだろ!あるのかわからないものを追い求める…、くぅっ良いねぇ、男のロマンだ!」 何を言っているんだ、そういう問題じゃねえだろ、と思った。でも、そんなことはもうどうでも良くなるくらい翔の放った言葉は俺の心に馴染んだ。小さく呟いてみる。…大人たちの都合は俺達には関係ない、か。 確かに、そうだ。だって俺達はまだ子供なんだから。当たり前のことなのにすっかり忘れてたよ。冷静に考えれば分かることなのに。 「…ふっふふ。」 思わず小さく笑ってしまう。まさか、翔に教えられるとは。すると。自分が笑われていると勘違いしたのか彼が 「笑うんじゃねー!」と喚く。 廊下に響き渡る声。勘違いを訂正しようと思ったけど、翔のせいで笑っているわけだから、あながち間違えてもいないかと考え直し放っておく。 「蒼、聞いてんのかよ!」 少し怒ったようなその顔。 でも、ほんとはそんなに怒ってないんだろ? 「…聞いてるよ。」 ちゃんと聞いてた。ちゃんと、わかったよ。なんでお前があるかわからないものを信じれるのか。動機は思いの外、単純で。拍子抜けするぐらいだった。そんなもの無いんだ。要らないんだ。理由とか理屈とかそんな上っ面の言い訳みたいなものじゃなくてもっとこう楽しい、わくわくするような気持ち。それだけで良いと確信を持って思えることが翔の言う信じている、ということなのだろうか。じゃあ…もし俺が、今までやっていなかった理由が無くても信じる、という行動をすることで何か、変わるのだろうか。それだけで俺の世界は色を変えるのだろうか。翔みたいなヒーローになれるのだろうか。翔の様な強さを手に入れられるのだろうか。もしそうなれるのなら…少しでもこんな自分を変えることができるのなら。 「でも、そうだろ?」 唐突な問い。いっつも、そうだ。俺がぐだぐだ考えている間にいつの間にか何歩も前にいってしまって。なのに俺の心の奥底にいとも簡単に入り込んできて響かせてくる。手を差し伸べてくれる。思考の波から救い上げてくれる。目の前なのに遠くて。遠いのに近い。透明な瞳。 …やっぱり。…さすがだよ、翔は。 俺の知らない世界を見せてくれる。 「…そうだな。」 信じてみよう、疑うことに神経を張り巡らせるより信じるほうがずっと良い。そっちの方が楽しい。結局、俺は信じた後に裏切られたら、という可能性を怖がっていただけだったのかもしれない。だから、色々理由をつけて信じることを止めようとしていたのだろうか。でも、そんなこと馬鹿げている。信じている人間の強さを目の当たりにしてしまったら、もう出来ないことだった。翔のように強く、強くなりたい、と。そう望んでしまったら。 「信じるよ、俺も。」 そう言った途端、輝く太陽。きらきらと、輝く。暖かい。陽だまりの中に居るみたいだ。 「おう!」 そんな彼に何か言いたくなった。ありがとう、と言いたかったんだと思う。でも、口を開きかけたところで 「…っ。」 教室の扉が開いた。 もう一人の仲間、翼だ。 「…翔、蒼。おまたせ。」 補習から帰還した翼はかなり元気を奪われたのかげっそりした顔をしている。 元々が無表情だから分かりにくいが、かなり疲れているようだった。 「うお!翼か!びっくりした!」 口を閉じた。別に翼の前で言ってもいいと思うのだけれど、なんとなく二人だけの秘密にしておきたかった。 「やっと終わったか!」 翔が何事もなかったかのように翼に言う。俺の意思が伝わってそういう態度を取ったのかは分からない。ただ、いつもだったら翼にはすぐ何でも報告するのに、今回はしなかった。翔が俺の気持ちを汲みとってくれたと思うのは考えすぎだろうか。 「終わった。もう、疲れたよ。」 冷静な翼の声で我に返る。 「…おつかれ。」 「おつかれさん!」 「うん。かえろ。」 勢い良く頷いた。もう一人で考えこむのは沢山だ。結局、いくら考えても俺と明らかに違う翔の思考回路なんて読み解けやしないんだから。それにいつかわかる日が来るかもしれないし。その時で、いいじゃないか。それに、今はそんな無駄なことを考えているより二人と、喋っていたい。 三人で歩くいつもと変わらない帰り道。 その時『魚の墓』を見るのは三人で、と約束をした。  それからずっと魚の墓のことは気にかかっていた。でも、俺は行動する気は無かった、というかできなかった、俺はまだまだ自分のことを子供だと思っているし、それを知っているから。でも、翔はそんなことを思っていない。少なくともそれが自らの意志を妨げる障壁になるという風には。 もし仮に俺と同じように感じていたとしても、彼ははそんなことで納得する奴じゃない。もちろん、翼は翔に魚の墓に行くことの危険さを伝えていたし、それに島の大人達にも 《絶対に、軽い気持ちで魚の墓に近づくな》 と厳しく言われていた。特に翼のお父さん、健次郎さんには。でもそれも結局全部意味がなかったし、大人たちにだって翼にだってもちろん俺にだって、翔の意志を止めることはできなかった。 …本当は。俺はそれを、分かっていた。というかそれを望んでいたのかもしれない。心の奥の奥の隅っこの方で。翔は、翔だけは自分の意志を曲げないでいてほしい、なんて。身勝手なことを。自分にはできないから。せめて翔はって。だから翔が俺達にあの言葉を告げた時、驚いたけれど正直、ついに来たか、と思った。        🐡 翔はきらきらした目でこっちを見ている。 「なぁ、行こうぜ!魚の墓。」 彼は俺と翼の手を引っ張り砂浜に座らせる。 「行くだろ?」 彼は少しつり上がったその眼でじっと俺を見つめてくる。何も言わなかった。言えなかった。 あまりにも眩しい。直射日光。目に痛い。なんで。なんで。そんな目で俺を見るんだ。 「…はぁ。」 隣で翼がため息をつく。ため息をつくのは誰かに説教をするときにみせる翼の癖だ。長く喋るのが嫌で無意識で出てしまうらしい。もちろんそのことを翔も知っているから少し身構える。でも、諦める気配は全く感じない。 直射日光は揺らがない。 嫌な予感がした。これからここが戦場になるかもしれない。俺は悟られないように、座ったままでジリジリと二人から離れる様に位置を変えていく。 「…あのさ。僕、何回も説明したよね?魚の墓にたどり着くまでがどんなに危険か。たどり着いてからもどんな危険に晒されるかわからないって、言ったよね?」 少し距離をとっても怖い。いつもの無表情を通り越して目が死んでるし。声の低さなんか言わずもがなだ。 「…オ、オッシャイマシタ。」 片言かよ。おっしゃいましたって。 まぁ、気持ちは痛いほど分かる。もし俺が翔だったら…。考えただけでも恐ろしい。無駄な置き換えは止めよう。精神が持たない。 「なんで目を逸らしたの?…まぁいいや。じゃあ、僕が言ったこと覚えてるよね?もう一回、蒼のために言ってみてよ。」 「ね、できるでしょ?覚えてるんだったら。」 やめろ俺を巻き込むなやめろやめてくださいお願いします、って言いたいのに言えない。 怖い、一番なにが怖いってそれを一見優しい笑顔で言うところが怖い。目は死んでるし、よく見たら口角上がってるだけで、全然笑顔ではないんだけど。よく逃げ出さないな、翔のやつ。変なところで度胸あるから。 「・・・・・・・・・・。」 せめてなんか言えよ!翼が鬼のように見えるっ、人間だと思ってたのに…。とか冗談じみたことを思えるのは俺が当事者じゃないからだろう。勿論、翔にはそんな余裕は…無さそうだ。その場に居るだけで精一杯って感じだ。可哀想に。同情はする、でも助けはしない。すまんな、俺も命は惜しい。翔だってこうなることは予想できたはずだ。翼がここまで怒るとは俺も思わなかったけど。まぁ、でもよく考えたら当たり前か、だって翼は…。 「…まさか、覚えてないの?」 「・・・・・・・・・・・・・・ハイ。」 「はい?」 …顔がホラーだ、親が見たら泣くぞ、愛する息子がそんな顔してたら。 …おっと、翔のやつ、ちょっと涙目になってきてないか。あーダメだ。今にも限界越えそうな顔してる。あいつが泣くのはめんどくさい。…しょうがない、か。怖いけどこのままだと、どこにでもある平和な海岸に、鬼と泣き叫ぶ人間という地獄絵図が完成してしまう。しかも、俺はその様子を見とかなくちゃいけないだろうし。そんなのは見たくない。うん。死ぬかもしれないけど俺の存在をアピールして、翼に人間に戻ってもらおう。きっと冷静になってくれるはず!よし! 「つ、翼っー?」 おお、思ったより声がもつれた。二人同時にこちらを向く。あと、翔は呼んでないから、嬉しそうな顔すんな。そんでこっちも見んな。お前が元凶なんだから! 「…なに。」 …うわ。翔から意識逸らしたらちょっと変わるかと思ったけど何も変わらない!失敗した! 「僕この馬鹿と話し合わなきゃいけないんだけど。」 怖いよ~。同い年とは思えない迫力だな。大人しく地獄絵図眺めときゃよかった。翼の怖さ舐めてた。 でも、頑張るんだ、俺。ここで引いても意味が無い。引いてしまったら翔と一緒に説教されるのがオチだ。もし見逃してもらえたとしても、翔に怒りながら俺の方にも火の粉が飛んで来るのは免れられないだろう、迂闊に声をかけたせいで。自分は大丈夫だろ、なんて思ってたさっきまでの自分殴りたい。…とりあえずほっとしたような顔に腹が立つから翔をけなそう。うんそうしよう。そう決めて口を開いた。 「…俺もそのバカに、色々言いたいことはあるんだけど、まず魚の墓がどんなに危険か詳しく知らないから教えてくれよ。俺の親は、この島に最初から居たわけじゃないからよく知らないし。他の大人たちも詳しくは教えてくれなかったんだ。」 俺の言葉を聞いて翼の表情が少し柔らいだ。よかった。ほんとによかった。…これ言っても鬼のままだったらどうしようかと思った。 「…そっか、蒼は知らなかったよね。」「言ったと思ってた。じゃあ、僕の知ってること、今全部話す。」 翼の意識が俺の方に向いた。それが分かったのか翔がそろそろと後ろへ下がっていく。今更逃げれるとでも思っているのだろうか。たぶん翼にばれてんぞ。 「…翔?」 ほら、バレてた。馬鹿め。ギクッとした翔に翼は無表情で告げる。 「まさか、今のうちに逃げようとか思ってないよね?もし僕の言ったこと覚えてないんだったら今度は、ちゃんと、聞いといてね。」 にっこりと、凍てついた笑顔。 そんな翼を見て翔は「ハイッ!」と素早く元の位置に戻り正座で翼を見上げる。俺もそんなバカの隣に座り込む。翼を見た。  俺たちが落ち着いたのを見て翼は真面目な顔になり、口を開く。 「これから話すのは全部、父さんから聞いた話。限りなく真実に近くて、でもごく僅かな人達しか知らないこと。だから、蒼が魚の墓のことを他の大人たちにいくら聞いても詳しく教えてもらえなかったのは、教えないんじゃなくて教えられなかったって事。」 だから、心配しなくていいよ、とでも言うかの様な柔らかな声。そっか、そういうことだったのか。なら…、いい。 「あ、分かってると思うけど、馬鹿なこと言いだした翔はちゃんと、聞いてね。」 暖かかった声の温度が一気に氷点下まで落ちた。そんな翼に翔は不満そうだ。ぼそっと呟く。 「…そんなにいけないことなのかよ。」 それを聞いて、翼の目がすうっと細まった。あ、やばい。 「…ねぇ、お馬鹿さん。…聞いたあとで文句言えや。」 「っあい!すんませんっした!」 「はぁ…。…まず、魚の墓って言われてる理由は二人とも知ってると思うから割愛する。」 俺と翔が頷くのを見て、彼は話を続ける。 「数年前に、この島にテレビ局が取材に来たよね。このことは二人とも知っているはず。でもなぜ突然来て突然帰っていったのかは知らないと思う。僕も父さんから聞いて初めて知ったから。」 そう、多分二年くらい前。大きなカメラを持った人達がこの島に来ていた。ほんの一週間程度ですぐにいなくなったけど。あれから何も聞いていないし見かけないから、すっかり彼らのことは忘れていた。あの時期は他にも色々あったし、正直それどころではなかった。 「彼らは、どこから聞いたのか知らないけど魚の墓の取材に来ていたんだ。でも彼らがいた時には魚の墓は見れなかった。だから、彼らはそんなものは嘘っぱちだと決めつけたらしい。父さんもこの島のダイバーたちも随分怒ったけど証拠がないからなにも言えなくて悔しかったそうだ。それからだ、この島のダイバーたちが魚の墓を探すことが多くなったのは。数十人が魚の墓を求め、探しに行った。でも、」 悔しそうに無表情の仮面が僅かに崩れた。 「…探しに行った後に島に帰ってこれたのは、ほんの数人。僕の父さんはその中の一人だった。島に帰ってこれた人達にはある共通点があった。それはなんだと思う?」 彼は分かりきった問いを投げかけた。崩れた仮面の後ろから覗く深い哀しみの色。帰ってこれなかった彼らを悼む様。ついあの頃を思い出して、胸が苦しくなる。 「…魚の墓を見れなかった、んだよな。」 もう一人の彼の声。翔だ。 「…その通りだよ。父さんは行ってる途中で嵐に巻き込まれて死んでもおかしくなかったけど運が良くて帰ってきた。…それは、知ってるよね。」 知っている。彼が奇跡の海人と言われる理由の一つ。翼の父親には一度だけしか会ったことがないけれど小麦色の肌が印象的な人だった。とても明るくて男らしくてどっちかというと翔に似ていた。だけど翼と健次郎さんのやり取りを見たら印象がだいぶ変わった。一見正反対の様だけど根っこのところは一緒なんだな、とか感じた記憶が微かにある。あの頃は知らなかった、あの黒い人の群れの原因はそれだったのか。翼の話は続いていた。 「…場所まで辿りつけていないから、もちろん魚の墓は見れていない。他の人達もみんなそう。何十人が行ったのに、魚に喰われたか、波にのまれたかそれはわからないけれど、みんな…帰ってきていない。」 あの黒い服を思い出す。もう着たくもないあの憎い服。一番辛いはずの翼は何を考えているか分からない無表情。俺の隣に居る翔は何も言わない。呼吸音すらも聞こえない。その静けさに本当に翔がそこにいるのか疑ってしまいそうになる。岸に打ち寄せる波の音だけが耳の奥で反響している。翼の口が動き始める。耳を塞いでしまいたかった。聞きたくなかった。でも、これは現実で。どんなに残酷なことでも、聞かなくてはならない。あの頃は目を逸らしてしまったけど、もう。目を逸らしては、いけない。だって翼が。彼の目をしっかりと見据えた。 「分かりきってるのは、」 「…魚の墓を見た者達は…死ぬ。 二度と、かえってこれなくなる。」 能面のような無表情で、海底のように暗く淀んだ目で、冷ややかな、氷のような声で。彼は、はっきりと告げた。本当の感情を誰にも知られたくないと拒絶するように。ずしりずしりと言葉がのしかかって。俺の心に呪いのようにこびりつく。反響する。湖に重たい雫を落とされて水面の波紋が広がる様に。押しつぶされてしまいそうだ。死ぬ。死んだと翼が、言った。あの翼が。 俺は、何も言えない。でも、もう一人の彼は違う。臆病な俺とは違う。例え自分の言葉が仲間を傷つけるかもしれないと分かっていても、彼は。…自分の言葉を紡ぐ。俺達を前に向かすため、自分の意志を曲げないために。彼はいつも俺達の中で主人公だから。…ヒーローだから。 翔は、立ち上がる。いつもの様に。 「…それでもっ、それでも…っ 俺は、見てみたいんだ。」 声は震えていたけれど、彼はしっかりとそう言った。その印象的な三白眼は、興奮しているのか激しくぎらついていて、俺は思わず息を呑む。目の前の人間がひどく、美しく見えた。 「…そう思うのは間違ってるのか。」 翼は何も言わないで翔を見つめている。 何を考えているのか分からない表情。 自分が彼に望んでいて、予測していたはずの言葉なのに鳥肌が立つ。と同時に翔への反発心が、理不尽にむくむくと育っていく。 俺だって。…翔が言うように魚の墓が見れるもんなら見てみたい。でも、さっきの話聞いてたか。それに。お前だって二年前に見ただろう、あの時の翼の表情を。哀しそうな人の群れを。忘れてなんかないんだろう?死んだ人間が大勢いるんだ、そんなに簡単に見れないんだ。ロマンだってなんだってそんなものに命は懸けれないだろ。なのに。なんで。なんで。なんで、お前はそんなに真っ直ぐでいられるんだ。真っ直ぐの、ままなんだ。おかしいだろ。 この意志の強さを俺は翔に望んでいたはずなのに、どこか。違うと叫びたくなる。こんなのを俺は望んでいたんじゃないと。違う、なんて。何が違うんだ。 この感情は、なんなんだ。 「…俺だって母ちゃんにきつく言われた。絶対に行かないでね、って何度も、何度も。しつこいぐらいに。それを、無視して魚の墓に行くなんてダメなんだとおもう。俺だって何度も諦めようとした。でもっ…!」 強い光が俺を捕らえて離さない。 そのまま、貫かれてしまいそうだ。 「…絶対に誰かが見てるんだ。遠い昔の誰か、でも確かにこの島に生きていた人間が。」 「魚の墓が在るんだって、そうみんなに伝えてみんながそんな突拍子もないことを信じてっ、それが俺たちまで伝わってるんだ。それって単なる偶然なんかじゃなくてすごいことだと思わないか?きっとそれは必然だったんだ!俺だってその人みたいに魚の墓が在るってこと証明したい…!それがあるから、ダイバーの人達だってっ…。翼の父ちゃんだって、そこを目指したんじゃないのかよ…っ!」 強く、それでいて必死に。何かを伝えようとしていた。胸の奥が揺れる。なんで、そこまで必死になれるんだ。しんどくないのか。そんなに、なんにでも一生懸命で。しんどくはないのか。必死な翔はかっこよくなんてない、なのに。なんでお前はそんなに醜いのに輝いているんだ。痛々しいぐらいなのに。 なんで。 「確かに、翼が言ったみたいに魚の墓を探しに行って見つけてしまった人は死ぬのかもしれないけど!」 翔の目の光が弱まった。俺には分からない、彼の感情もその行動の理由も。普通、そこまでやらないだろう。 翔のようには、なれない。 そのことを今、思い知らされた。 俺には、無理だ。 「でも…でも!自分の意志を殺して生きるくらいなら死んだほうがマシ、だ。そんなことをしたら、なんで俺がここに存在しているのか、分からなくなんだろーが!」 「そんなんだったら俺はっ! …よくやらないで後悔するより、やってみて後悔するほうが良いって言うだろ。それと、同じだよ。理由をこじつけるとしたらそのぐらいしかない。」 「…なぁ…、それだけじゃ駄目なのか。」 相反して静かな声。まるで、違う人が乗り移ったみたいだ。何も答えられない。俺らは彼の問いに、何も。 代わりに出てくるのは無駄な感情。どろどろどろどろ液体のように。自分の中の見たくない感情。お前だから、そう考えられるんだ。翔だから。そう線を引きたい。全部全部翔のせいにして。翔だから、できるんだ、と。そう決めつけてしまいたい。 「…それに、俺がもし探しに行って死んでしまったとしても、また誰かが俺の遺志を引き継ぐ。俺みたいな奴がまた出てくる、きっと。」 ふっと息を吐いて。普段の彼からは考えられないような儚げな微笑。大人びた表情。なんだそれ。なんなんだよ。 「…いなくなってしまった彼らは今、俺の意思となって生きてる。それを忘れてのうのうと生きんのは嫌だ。絶対に。」 「そんで、一緒に見るならお前らと一緒がいい。でも、それは俺の我儘だから。俺の意志を押し付けるつもりはない。」 「だけど俺は行く、明日にでも。もう行かなきゃならない気がするんだ。」 彼は、そう言って俺達に背を向けた。 立ち去ろうと、している。 そう理解した途端、手が動いて彼の腕をつかんだ。止めなくちゃならない、そう思った、でも同時に放っておけよとも想った。相反する感情。翔だから、翔だから。黒い心が大きくなって負けそうになる。 ―――勝手に行ってしまえ。 なんで、なんで。こんなことを思うんだ。やめてくれ、止めないと。そう思うのに、呑み込まれてしまいそうだ。放っておけよ、放っておけよ。手の力を緩めろ。それだけで翔は俺の手を振り払って魚の墓へ行くだろう。さぁ、手の力を抜け。今なら、誰にもバレやしない。翼にだって、翔本人だって分からない。汗で手が滑りそうだ。そうだ、このせいにしてしまえばいい。汗で手に力が入らなかった、と。そのせいに。 「放せ、蒼。」 翔の声。俺を睨みつける鋭い眼光。 心を貫くその眼光。 「いやだ。」 …俺が言ったのか。確かに俺の声だった。考えるよりも先に口が動いていた。少し遅れて「え。」声と共に驚いたように見開かれたその瞳。 頭の中は真っ白で。なにも言うことなんて考えられてない。でも、もう引き返せない。 「…翔。俺はまだ、お前みたいに完全に魚の墓が在ることが信じれないし、おまえがなんでそんなに必死になるのかわからない。」 本当にわからない。なんでそんなに、と思うけど、でも今重要なのはそれじゃない。俺が伝えたいことを、今。 「…でも、三人がバラバラになるのは嫌だ。お前が行ってしまうのをただ見送るなんて出来ない。俺はお前のことそんなに軽く切り捨てられねえ。だからだから…っ」 自分でも何が言いたいのか分からなくなる。考えてなんか喋れない。口が動くのに任せるしかない。 「だからっ…自分ひとりで背負おうなんてすんな、お前一人だけで重たいもん抱えてんなよ。もしお前一人で行ったらすぐに溺れて終わりだ、でも。お前は独りじゃない!あの約束忘れたのか、三人で行くって言っただろうが!ふざけんなっ…なんでお前はすぐひとりでやろうとすんだよ!」 三人の約束と昔の彼の言葉。昔のことを思い出す。話すことに後から思考が追いついてくる。なんだこれ、自分が乗っ取られたみたいだ。自分が自分じゃないみたいだ。人の話を聞いているような、でも確かに自分が話しているんだ。口が動いている。そして、最後の言葉を投げた。あの誓いを、あの言葉を思い出せと。 「…俺たちは、三人で一つだって、 お前言っただろうが…っ!」 遠い昔の話。でも確かに翔は俺と翼にそう言った。これだ、これでいい。何故か妙な確信がある。届いたはずだ。俺たちの頼もしくて…でも、ちっぽけで他人に頼れない馬鹿みたいなヒーローに。追い打ちをかけるように翼も言葉を紡いでいく。 「二人とも、ほんとに馬鹿だよね。魚の墓に子供だけで行くなんて無謀すぎる、けど。でもあの約束は守りたい、からしょうがない。一人で行くとか言わないでよ、翔。」 「…僕は父さんを、超えたい。」 翔の腕を掴んでいるはずなのに遠くにいってしまったように感じる。不安になる。こっちを見ろよ。俺たちの方を向け。 鼻を啜る音。透明の粒が砂浜に吸い込まれたのが見えて。 「…お、おまえら! 好きだ~~~っ!」 泣いている。あり得ない量の涙と鼻水を垂れ流している。こっちへ倒れこんできて思わず避けた。 翔は勢い良く砂浜に叩きつけられた。 「ちょっ…!なに泣いてんだ!」 「だって、誰も賛成してくれないとおもったから!なんかいろいろつばさが怖いこと言うし!」 砂浜に倒れ込んだまま這いずっている。くねくねと動きながら涙声で翔は喚く。おい、さっきの大人びた表情どこいった。気持ち悪い動きすんな。 「僕は事実を述べただけ。行かないとは一言も言ってない。ばーか。」 翔を見下ろしながらしれっと翼が言う。 「つばさのあほ!あおもこわいかおしてるし!お前ら普通の顔怖いからな!知らねぇだろ!」 「んな事知らねぇよ!ちょ、こっち来んな!鼻水と砂がやばい!」 翔が立ち上がり、迫ってきて思わず悲鳴を上げる。 「うわ…汚な。」 翼が汚物を見るように翔を見る。 翔は全く気にせず、引いている俺たちを見つめて、大きな声で笑った。 「ありがとう。」と。 「…なあ、翔。」期待した顔でこちらを見てくる彼。 「なんだっ?」 「顔、やばいぞ。はっきりいうと…汚い。」 砂と鼻水と涙でぐちゃぐちゃだ。翔は俺の言ったことを最初理解できなかったのか呆然としていたが、その後すぐに眦をつりあげて 「…今言うそれっ?」 と喚いた。少し恥ずかしそうだ。 「だっさ、せっかくかっこつけたのに、だっさ。」 「う、う、うっせーっ!」 紅色。          🐡  翔が海水で顔を洗った後、今日はもう遅いから明日また集まろうと翼は言った。もちろんちゃんと準備をする必要もあるし、と。俺は即賛成したけど、翔がグチグチ言って。ただ翼の怒りを察したのか、すぐに黙ったけど。それから、明日の準備について話し合ってから、 「蒼、じゃあーまたなー!」 「また明日、蒼。」 手を振る二人。振り返して 「またな。」 二人に背を向け、俺はのんびり帰り道を歩く。三人で歩くのはもちろん大好きだけど、一人でのんびり帰るこの道も嫌いではない。飛行機が軽やかに夜空を飛んでいる。明日は冒険だ、もちろん怖いけどそれ以上にワクワクする。 数分歩いて家に着いた。 「ただいまー。」 靴を脱いで居間へ向かう。 「おかえりー。」 母さんが料理を机に並べているのを見ながら 「母さん、明日はちょっと遅くなるから。」 自然に言うのがポイントだと翼が言っていた。 「ちゃんと夏休みの宿題おわらせなさいよ。」 「分かってるって。」 俺たちが魚の墓を探すのにあたって一つだけルールを作った。それは親にちゃんと伝えること。何をするかを言ったら反対されるのは決まっているからせめて遅くなることと、海にいることだけは伝えようと三人で決めた。 「また海に行くの?」 「うん。」 「気をつけなさいよ、結構波が高いんだから。」 「はいはい。」 ほとんど何もせずミッションクリアだ。ご飯を食べ終わったので宿題をすると言って二階の自分の部屋に戻る。夏休みだからと出された国語の宿題を机に広げる。だけど、どうもやる気が出なくて魚の墓のことを考えていたら、いつのまにか十一時過ぎになっていた。明日は、三人で朝六時に砂浜で集まって作戦会議をすると言っていたから早く寝ようと思っていたのに遅くなってしまった。ベットに寝転がる。時計のアラームを五時半にセットして、目を閉じる。 明日三人で魚の墓を見れますように。  ピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピッ・・・・・ アラームが鳴る音で目が覚めた。 ピピピ、ピピピピピピ・・・ うるさく鳴り続けているアラームを叩く。まだ眠い、寝たい…うん、もう少し…。 布団をもう一度かぶったところで意識がはっきりする。 「魚の墓…!」 二度寝するところだった、危ない危ない。ベットから跳ね起きて階段を降り洗面所で顔を洗う。…だいぶ目が覚めた。水中でも使える懐中電灯とカメラを手に取り、リュックに詰め込む。あと、水着とゴーグルも。 「もう行くの?」早めに起きて朝食を作っていた母さんに尋ねられる。 「ん!」 食パンを咥えながら答える。 「翔くんと?」 「翼も!」 「なら安心ね。」 …なんだそりゃ。何故か翼は母親たちから評判がいい。礼儀正しいからかもしれない。テストの点は異常に悪いくせにそういうところは賢いと思う。 「はい。」 母さんからいきなりお弁当を渡される。 「ありがと、ございます?」 いつもはしてくれないのにどうしたんだろう。 「渡さないとお昼抜くでしょ。ちゃんと食べなさい。」 母さんはこんなに優しい人だったか。 頷いた、小さく感謝の言葉を吐いて。 「ちゃんと食べる。行ってきます。」 「行ってらっしゃい、気をつけてね。」 何も知らない母さんに背を向ける。靴をはいて、リュックを背負う。ズシリ、と重たく感じた。ほんの少し罪悪感を感じる。でも、魚の墓を見たいから。二人と約束したから。ドアを開けて、罪悪感に目を背けて。冒険のスタート地点へ向かうんだ。        🐡  「おっはよー!蒼!遅いぞーーーーっ!」 翔が大きく手を振っている。 「ごめんごめん!」 俺は二人の元へ走って行く。 「おはよっ!」 「…おはよ、蒼。」 朝から迷惑な声量で翔が、その隣で翼は顔を顰めながら言う。いつも通りの二人の顔を見て少し安心した。別に緊張していたつもりは無かったのだけれど。 「おはよ、翔、翼。」 二人の荷物が置いてあるところはもう少し先らしい。そこに向かってのそのそ歩きながら翼は眠そうにあくびを繰り返している。俺も伝染ってあくびが出る。 「二人してあくびすんなよ!気合い出せ!」 翔がばんっと背中を叩いてくる。 「翔がテンション高すぎなんだよ。」 痛え。じんじんする。 「あくびは生理現象…。」 翼も不満気にぼやいている。 「二人ともノリわりーな!俺の元気やるよ!ほらほら~!」 「「別にいらない。」」 二人で即答するとさすがにへこんだのか、翔は体育座りで砂をいじり始める。分かりやすくいじけるなぁと俺は逆に感心する。…小学生か?翼は見慣れているのかそんな翔を全く気にせずに「じゃ、作戦会議しよ。」 眠気はもう覚めたのかすっきりした顔だ。 「これ、ほっといて大丈夫か?」 翔に聞こえないように小声で囁く。翼は座り込んだままの翔にほんの少し目線を向けて。 「もうすぐで収まると思うけど…。蒼が気になるんなら。」 彼の隣にしゃがみ込み 「翔のおかげで目が覚めた、ありがと。」 声をかけた。 「…ホントかっ?」 「ほんとほんと。作戦会議するよ。」 翼がそう言うとすぐに翔は立ち上がった。 「よぉーし!俺、作戦会議する!」 え…それだけ? 「はいはい。」 え、最後、超雑だったよね?ほんとにそれでいいの、お前!俺が頼んだんだけどさ!ほんと、単細胞だな!? 「蒼も座れーーっ。」 グイグイと俺の腕を翔が引っ張ってくる。 こいつ、小学生だ!いや幼稚園児だ!わかったから!座るから引っ張んな!痛いんだって!こんの馬鹿力っ! 三人で円になって座る。 「えーっと。魚の墓が在るのは…ここ、らしいんだ。」 翼が木の枝でとんとんと砂浜を指し示す。そこにはいつの間にか描いたのか、俺たちの島よりずっと北にある島が描かれ、木の枝が指したのは、そのちょうど中間地点だった。 これ、かなり遠いぞ…? 俺と同じことを思ったのか、翔も不満気に言った。 「こんなに俺たちの島から離れてんのかよ!」 翔の言葉に頷いた翼は言葉を連ねる。 「しかも、ここらへんは途中から大きい岩礁が多くて舟が使えない。つまり…」 「泳ぐんだな!」 あ、嬉しそうだ。 翔、ちょっと待て、これ普通にしんどいやつだぞ。喜ぶところじゃないぞ。 「…泳ぐというよりか潜るって感じだけどね。まぁ、そう。」 翼が気にしてないのも問題だけど。まぁ、そんなことにいちいちつっこんでたら幼馴染としてやっていけないか。 もしくは天然か?…ありえる。翼も変に抜けてるとこあるし。んーでも。…まぁ、それは置いとこう。それよりも、 「途中からってどこから?」 気になっていたことを尋ねた。 「多分推測でしかないけど、ここ。」 翼が指した場所はかなり俺たちの島に近い。 「ほとんど、泳ぐことになると思う。」 でも…「「「でも、行けないわけじゃない。」」」 声が重なった。三人で目を合わせる。二人ともかなり悪い顔になっている。多分俺の顔も同じ様な表情をしているのだろう。 …俺たちになら、できる。自信がある。 「…距離よりも心配なのは天候なんだ。」 「めっちゃ晴れてるのに何が心配なんだよ?」翔が首をかしげる。 翔の言う通り、今日の空はこれ以上にないくらいの晴天だ。雲さえない。 「…夏は季節風が吹くんだよ。」 季節風、モンスーンってやつか。そういえば、そこらへんをこの前授業でやった気がする。 「だからなんだよ?」 「この時期は海面が暖かいから、風と海面との温度差で」 あ、 「積乱雲ができやすいのか。」 「そう。」 理科の授業をちゃんと聞いていてよかった。翔はまだ首をかしげている。 「なんだよ、そのせきらんうん?とかいうの。」 「…翔…。」 憐みの目線を向ける、主に翼に。俺の目線に気づいた翼は溜息を吐く。 「…授業くらいちゃんと聞いたら?」 「お前よりは聞いてる!理解できないだけだ!」 「聞いてて分かってないよりは、マシだと思うけど。」 「なんだと、この万年補習野郎っ!」 「うっさい、単細胞馬鹿。」翼が言い返す。 「単細胞ってなんだよ!人間はみんな多細胞生物だって、じいちゃんが言ってたぞ。そんなんも知らねえのかよ、バーカバーカ!」 「そっちこそバカじゃない?そういうつもりで言ったんじゃないんだけど。ま、馬鹿だから分かんないか。」 ああー翼も熱くなってる。いつもブレーキ役の翼がこれだったら、話が進まないじゃないか。 「…分かりやすく言うと、積乱雲ができると激しい雨が降りやすくなるんだ。だから、嵐になりやすいとも、言える。」 かなり省いたけど。ところが、肝心の翔は翼に舌を出してからかっていた。おい、全然人の話聞いてねえじゃねえか。結構大きめの声で言ったのに。 「…おい。翔?」 さっきより低い声が出た。俺の声の低さに驚いたのか翔は瞬時にこちらを向いた。 「授業中寝てるのは聞いてるうちに入らないからな。」ギクリとしたような顔。なぜか勝ち誇っていた顔をしていた翼にも言う。 「翼も毎回補習じゃ成績どうなっても知らないからな。」 こちらもギクリとした顔。 「…うっす。」 「…わかってる。」 …よし。 「で、いくら積乱雲ができやすくても大丈夫じゃないのか?こんなに晴れてるんだし。」 「…そこが分からないところなんだよね。でも毎回魚の墓を探した人たちは嵐に巻き込まれてるらしいんだ。かなり発生しやすいところみたい。だから、」 厳しい、ってことか。俺は黙りこむ。翼も難しい顔をして俺と翔を見る。相手が天候だとどうにも…。でも、 「だからなんなんだよ!ほんとに嵐になるか行ってみなきゃわかんねーだろ!もし嵐がきたって俺たち三人が集まれば吹き飛ばせる!考え過ぎなんだよ二人とも!元気だせ!」 にかっと笑う太陽が僕達を照らす。ああ、いつもこの底抜けの明るさに救われているんだ。でも、だからって 「…ばっかじゃないの、さすがに天候は変えられないでしょ。」 俺の気持ちを代弁してくれた翼に感謝。 「馬鹿じゃねーよ!」 いや、馬鹿だよ、そこがいいんだけど。 「さすがだな、翔は。」 「お、おう?」 「蒼は褒めてるんじゃないけどね。」 「えっ?」 いや、ほんとに褒めてると思ってたのかよ。凄いな。 「ほめてるほめてる、ある種の才能だよ。」 「確かに。…ふっ。」 「今絶対バカにしただろ!」 そのぐらいわかる、とでも言いたげなその自慢気な表情が眩しくて思わず目を細めた。 ―――ああ、でも馬鹿なのは俺たちもだった。三人とも大馬鹿者だった。今なら、よく分かる。あの時やめていたら、あんなことにはならなかったのに。       🐡 「うっし!じゃあ行きますか!」 翔が舟を水に浮くところまで押し出す。この舟は翼が専門店で借りる許可をもらってくれた。潜る時に必要なシュノーケルやフィン、ウェットスーツなどの用具も三人分、家からこっそり持ってきてくれた。サイズに合うものが丁度あったみたいで助かった。舟はちいさい。でも、居心地は悪くない。これが俺たちの舟なのだから。 「行くぞーっ!」 翔が大声を上げてオールを漕ぎだす。俺も持っているオールに力を込める。 それでちょうど陽が高く昇る頃に俺達は冒険へと繰り出した。        🐡 「お腹すいた…。」 手元のコンパスを見ながら、翼が溜息を吐く様に呟いた。それを目ざとく聞きつけたのか翔は 「飯にすっか!腹減って死にそうなんだよ、さっきから!」 漕いでいたオールを放す。 「か、翔!いきなり放すなよ!」 二人で漕いでたのに危ないことするなよ、ああもう! 「飯にしよーぜ、蒼!」 あいつ、漕ぐのが疲れただけだな…。でも、確かに意識するとお腹が減っている。全然気づかなかった。オールを漕ぐことに集中しすぎて食事のことなど頭からすっかり抜けていたんだ。 「はいはい。」 オールを置いてリュックから弁当を取り出す。 「いいなー蒼、弁当かよ!俺、母ちゃんが弁当作ってくれなかったんだよー。」 そう言う翔はパンを食べている。 「日頃の行いの違いでしょ。」 「なんだと!俺、ちゃんとしてるし!」 「どうだか。」 いつでも変わらないな、この二人は。 「蒼、どしたの?」 「早く座れよっ!」 翔がグイグイと腕を引っ張ってくる。痛い。 「ん。二人はいつも変わらないな、と思ってさ。」 うわー、座ると意外と揺れてるのわかるな~。やっぱり海の上なんだなー。…ん?静かだな、なんだ?顔を上げると二人が無表情でこっちを見ていた。俺、なんか駄目なこと言ったか?二人はいつも通りだなって言っただけだよな!普段とのギャップで、翔が異常に怖い!もちろん翼も十分怖いけど!恐ろしすぎるけど! ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。 ただただ見つめてくる二人の目線を見つめ返す余裕など、無い。俯く。 ・・・・・・・・・・・・・・・・。 翔が動いた。無表情のまま顔を覗き込んでくる。怖えよ。真っ黒の深い穴の様な目。いつもの輝き取り戻して、頼むから。 ・・・・・・・・・・。 背中から汗が噴き出る。翔は俺を覗きこむのを止めて元の位置に静かに戻る。翼はただただこちらを見てくる。いや、なんで?なんで俺、舟の上で仲間にこんな見られてんの?いつまでこの状態続くの? …駄目だ。聞きたいのに怖くて聞けねえよ。ちょっと翼さーん、翔さーん。いつもの二人に戻ってくださーい。 ・・・・。 潮風が吹く。この季節だからか暑さを減らしてくれて幾分気分が爽やかになる。けど、まだ見つめられている。 いつまで、続くのだろうか。もう五分は経っている。つい白目を剥きかけたところで、翔が無言でパンっと手を鳴らす。一気に二人の表情が元に戻った。 「…え、な、なんなんだったんだよ…。 今の。」 思わず尋ねる。 「…蒼の言い方が、いらっとした。」 ムスッとしながら翼が言う。 「なんか…ごめん。」 それだけかよ!と内心思うが謝っておく。 「よーし!メシ、メシ!」 翔は自分のリュックから何個目か分からないパンを取り出す。 「どんだけ食うんだよ。」 聞こえていたのか、翔がまた無表情でこっちを見てくる。そしてパンをもしゃもしゃ食いながら近づいてくる。 「ごめんごめんってば!こっち見んな!こっち来んな!翼っ助けて!」 「しーらなーい。」 くっそ、まだ根に持ってるな!どんどん近づいてくる翔に制止の手を振る。 「ちょ、ごめんて!」 あ、…止まった。そして彼は無表情のまま、首をゆっくりと右に傾げた。うん、怖い。 「おいしいメロンパン食べちゃダメですか?」 発した声は無機質。どこからその音出してんだ。ひたすらに怖えよ。情緒不安定か。お前なんなんだ、ほんと。 「…食べてください!存分に!」 …よし…、離れてった。 なんだ、あの謎の迫力。 「うめええええ!この唐揚げ!」 「あ、それ、俺のじゃねえかっ!」 思わず立ち上がる。 「蒼、うるさい、暴れないで。 舟が揺れてる。」 「俺の唐揚げだぞ…あれ…!」 「知らないよ。」 翼がいつもの百倍くらい冷たい。 「美味しいですっ!蒼くん!」 こいつは相変わらず馬鹿だし。 「敬礼すんな、返せ。」 「返せ?…おええええ。」なんでそうなる!お前の吐き出したもん食いたかねえよ! 「吐き出そうとせんでいい!」 「…馬っ鹿じゃないの。」         🐡 俺の唐揚げは翔に食われたが、他のおかずは死守してお弁当を食べ終わった。 「「「ごちそうさまでした。」」」 「よっしゃあああ! 飯も食べたし進むぞーっ! 休んでいる暇はない!蒼、早く!」 「ほーい。」オールを掴んで漕ぎ出す。 「翼!こっちで合ってるかっ?」 「...合ってる。」 「よし!このまま気合入れていくぞ!」 「「ん。」」 オールを漕いで数十分。 かなり島から離れた。 今はぼんやりとその輪郭が見えるだけだ。 オールの先にカツリとなにかが当たる。 「ん、なんだ?」 「蒼、どした?」 「いや、なんか当たった気がしたんだよ。オールの先に。何かわかるか?」 「停めて!」「蒼、言ってた岩礁だよ。多分。」 翼の注意喚起に慌ててオールを放す。 「翼!俺のリュックの中に錨が入ってる!使え!」 「分かってるっ。」 翼が舟の錨をリュックから取り出し下ろそうとする。でもふらふらしてなかなか上手くいかない。近づいて手伝う。 「ありがと。重かった。」 「いいや、ほんとだ、結構重いな。」 「ん。…翔!潜る準備しといて。僕のリュックの中に入ってる。」 「合点承知の助!」 やっと、錨を真っ直ぐに下ろせた。それにしてもなんなんだこの二人のリュックの中身は。 「なぁ、潜るのか!?」 「…潜るよ。」嬉しそうな翔とは対照的に、翼は浮かない顔だ。 「なんで嬉しくなさそうなんだよ?翼泳ぐの好きだろ。」 「なにか気になることでもあるのか?」 「...空を見て。…雲がどんどん広がってきてる。」 はっとして、空を見上げる。 確かに翼が言うように肉眼でも雲がどんどん大きくなっているのがわかる。まるで俺たちが近づくのを拒むように。いつのまにか風も強くなっていて舟が波に大きく揺さぶられる。これは…。 直感的に恐ろしいものを感じる。 真っ青な顔の翼を見て、彼の言っていた言葉が今さら重くのしかかる。 ―――『魚の墓を見たものは、死ぬ。 二度と帰ってこれなくなる。』 多くのダイバーたちが探し求め、死んだ。 そんなところに俺たちは今向かっているんだ。改めてそう思う。肌に感じる。今更ながら不安になってくる。 俺たちは、俺は、たどりつけるのか、そんな場所に。 たどりつけたとしても、生きて、帰れるのか。 背筋が寒くなる。 「...ねえ、「翼!ネガティブ駄目だぞ!蒼も!」っ。」 翔の声が響く。 「分かってたことだろ、こうなんのは!でも俺たちは!それでも行こうって決めただろ!」「俺たちには出来んだよ!二人が危なくても俺が助ける!三人で、見るんだ!」 そう言った彼は、相も変わらず真っ直ぐなまま。俺は直視できない。 「…着替えるよ、急いで。」 てきぱきと翼は準備を始める。 「見に行くよ。翔、蒼。」 「「おうっ!」」 そう。 一人じゃ無理でも三人一緒ならできないことなんてないはずだ。俺だって信じてるはずだ。そのことを。 ウエットスーツに脚を通す。持ってきた水着は既に着ている。俺がゴーグルをつけようとすると、翼が「これ使って。」と何かを放り投げてきた。 慌てて受け取ったけど、なんだ。 …マスクか?マスクとゴーグルがひっついてるみたいだ。 「それ、シュノーケル専用のマスクだから。」「そんなんあったんだな。」翔はもう既に全て身につけていて座りながらはしゃいでいる。 「ほら、蒼。」「…おう。」 天候は相変わらず曇っているけどまだもってくれそうだ。 でも、怖い。 本当に俺は意気地なしだ。まだ死ぬかもしれないという恐怖に怯えている。なんで、俺はいっつもこうなんだろう。二人のように強く在りたいと思うのに。俺は臆病のままなんだ。 「あお。」優しい彼が俺の名前を呼んだ。 「蒼、大丈夫だよ。」翼だ。 なんで、わかったのだろう。 顔を見れずに俯く。 「わかる。」 翼の声はいつも俺が倒れないようにそっと支えてくれる。 「...大丈夫、蒼。僕らなら。」 俺は二人に助けられてばっかりだ。俺は。 もっと強くなりたいのに。 「蒼は蒼のまんまでいい、 僕達はそれに救われてるんだから。」 「でも、おれはっ…。」 「蒼、顔上げて。」急に厳しくなった翼の声に思わず肩が震えた。恐る恐る顔を上げる。 「今ここにいるのは、何人?」 彼の問いに胸を突かれる。 「…三人、だ。」 「そう、一人じゃない。翔も僕もいる。自分で言ったこと忘れたの?」 「僕らは、三人で一つなんでしょ?」 翼が俺を安心させるように微笑んだ。 「ほら、もう怖くない。」 「…そうだな。」 もう、忘れない。 俺たちが仲間であって、三人で一つなんだ、ということ。 何よりも大事なこと。 「つーばーさ!あーお!」 「いつまで二人で話してんだよ!早く海はいろーぜ。」 翔の呑気な声が届いて二人で笑ってしまう。 「はいはい。」 「…雑っ!おれ、おとなしく待ってたのに!」 「ありがとな、翼。あ、あとついでに翔も。」 「蒼も雑!ひど!」 「じゃー二人とも座って。」 「無視かよ!?俺もう座ってるのに!」 「「翔、うるさい。」」       🐡 「ん、じゃ海に入ったら絶対に単独行動はしないこと。わかった?」 「「了解。」」 翼が空を見上げ、 「行くなら今かな。準備はいい?」 「「おう。」」 「僕が合図したら入るから。 じゃあ…いくよ。」 「さん、」 どきどきする。首にかけている水中カメラをギュッと握りしめる。 「に、」 体重を後ろに傾ける。手が汗で滑りそうだ。 正面にいる翼と目が合う。翼はふっと微笑む。 「いち!」 怖くて目をとじる。後ろに倒れる。落ちていくのは一瞬。俺の体重分水しぶきが飛ぶのがわかった。...ふと誰かに腕を掴まれる。 目を開けると、そこに翔がいた。翼もいる。 《あーお。》シュノーケルを口から外した翔に名前を呼ばれる。翔が下のほうを指さす。 《見ろよ!》そう言ったのがわかった。指差されるままに下を見る。 「うわぁ…すごっ。」 色とりどりの魚達が泳いでいる。群れで泳いでいるのはミナミハナダイだろうか。ピンク色をしていて可愛らしい。魚達に夢中になっていると、翼が前を指さす。 《さっさと進むよ。時間は無い。》翼を先頭に泳いでいると、ボラの群れが後ろから通り過ぎて行く。ボラ達がさっさっ、と俺達を避ける。銀色がきらきらと光っていて綺麗だ。思わず立ち止まってカメラのシャッターを切る。《蒼っ。》翼に呼ばれた。それだけなら気にすることは何もないのだが、翼の顔に少し焦りが見えた。嵐のことを気にしているのだろうか。でも、海の中なら安全なはずだ。同じことを翔も感じたのだろう。 《翼、どうしたよ。珍しく焦っちゃって。》 《...っ...帰りのことを考えてたんだ。僕たちはタンクを持っていないから息を吸うためには海面近くで泳がなくちゃいけない。嵐がきたら波に身体を持っていかれてしまうだろうし僕達がばらばらになってしまうかもしれない。置いてきた舟だって…。だから急がなくちゃ、嵐が来る前に。》 そうだ。全く帰りのことを考えていなかった。無事に魚の墓を見れたとしても帰りは泳ぎだけではとても無理だろう。ふと思いつく。舟はもう無理だけど、でもせめて俺たちがばらばらになることを防ぐことはできるはずだ。あれを使おう。 《翼、舟はもうどうしようもないけどこの紐を使ったらきっと俺たちがばらばらになることはないはずだ。》 俺は水中カメラと懐中電灯の紐を抜き取る。 《え、でもそれじゃ》 《いいって。ずっと家にあって誰も使ってないやつだから無くしても家族には咎められないし。手でも両方持っていられる。それにこれで三人がばらばらにならないなら安いもんだよ。》 懐中電灯と水中カメラの紐を固く結ぶ。そしてその紐を翼と翔の腕に括りつける。もちろん自分の腕にもだ。予想以上に長い。まさに命綱みたいだ、と思う。 《これで安心だな!ありがと、蒼!》 《ありがと。》 頷いた。俺たちはまた魚の墓に向かって進みだす。         🐡 波がだいぶ荒くなってきた。風も強い。 《まだか、翼?》 《もう少し、だと思うんだけど、魚達の姿が全然見当たらないんだよね。》 手に持ったコンパスを見つめながら翼が言った。 確かに波が荒れてきたといっても下のほうの海中には関係ないはずなのに魚たちの姿が全くと言ってもいいほど見つからない。 本当に魚の墓なんて存在しているのだろうか。 大人達がついた嘘なんじゃないか、といまさらな疑問が湧いてくる。 海面が光る。 雷か?雨が海面を叩きつけているのがわかる。 《ごほっごほっ》 いきなり翔が咳き込みだした。 《どうしたんだよ、大丈夫か。》 背中を叩いてやる。 《水がっ。》 水がシュノーケルに入りそれを飲み込みかけたらしい。その様子を見て、 《シュノーケル外そうか。もう、この雷雨と風では意味が無い。それだったら顔を上げて空気吸ったほうがいい。もし流されても、この紐が僕達を繋いでくれる。》 頷いてシュノーケルを外す。顔を上げて大きく息を吸い込む。 雨が顔を打つ。波が俺たちを引き離そうとしてくる。 でも大丈夫だ、この命綱があるかぎり。      🐡 何度顔を上げただろう。何度波に揉まれただろう。懐中電灯と水中カメラはとっくの昔に波に流されてしまった。翼がコンパスを確認する。 「ついたよ。ここのはずだ。」 「本当か。」 「うん。」 やっと、やっと、たどりついた。 俺たちは一斉に潜り、海中を見渡す。     でも、 翼の顔を見る。 彼は首を振った。 悲しそうに。 俺はもう一度海の底に目をやる。 そこには、多くの魚の姿なんてものは無く。ただただ、珊瑚や海藻が揺れているだけ。 魚の墓なんて思えるような光景は全く広がっていなかった。無かった。 なんだよ、これ。なんなんだよ。 翔の顔は見れなかった。 一番信じていた彼を。 翔の絶望した顔なんて見たくなかった。 …苦労した結果がこれか。なんて世界は不条理なんだろう。 唇を噛みしめる。      🐡 何分経っただろうか、「帰ろう。」翼が言った。俺は頷くことしかできなかった。でも、翔は俺とは違う、どこまでいっても。 「俺は帰らない。」 「ここまできたんだ。もう少し進めばいるかもしれない!俺は帰りたくない!だってここまで来た!魚の墓は絶対に在るっ!!!」 翼の眉がぴくりと動く。 「いい加減にしなよ、翔。」 「うるせえ!俺はいく!」「魚の墓を見つけるまで俺は帰らねぇ!」 あ、翼が、 「ぐだぐだうるせえのはどっちだよ!いつまでも夢ばっかり追いかけてどうするんだっ、翔の言うようにこのまま探したらそのせいで三人共死ぬかもしれないんだよっ!!!」 翼の懇願は半ば悲鳴だった。 「翔はその責任取れんの!?とれないでしょ!…魚の墓なんて嘘!ないんだよっ、どこにも!」 翼が、喉を嗄らして怒鳴る。翔は驚いたように彼を見ていた。そして、目を伏せて消え入りそうな声で言った。 「…そうか。」 「…。」 翼は背を翻し泳ぎだした。俺もその後に続く。二人が喧嘩するのなんて初めて見た。 「帰るのか?」俺は前の翼と後ろの翔をチラチラと見る。二人とも目を背けて頷いた。息を吸うため少しその場に留まる。目線を遠くにやったところで、気づく。 「あ。舟だ。」 ぼんやりとだがその輪郭が見える。錨が動いて、ここまで流されてきたらしい。 「…本当だ。」あの舟に乗っていたのがとうの昔みたいに感じられる。舟との距離は俺が一番近い。もう少しで手が届くというところで 「あお!」翼の叫び声が聞こえた。 振り向くと、大きな波が覆いかぶさってくるのがスローモーションに見えた。 口を閉じても海水が入ってくる。目をあけてられない。 翼! 翔! 腕が引っ張られ俺たちの命綱が張って、悲鳴を上げた。俺はとっさに舟のヘリを掴む。           🐡 少し経って大波の余韻が収まってきたところで、綱を掴み引っ張る。 「…っ!」こちらに引っ張られてきた人影がある。雨に遮られよく見えないが翼だ。気を失っている。翼を持ち上げ、先に舟に乗せる。筋肉がミシミシと悲鳴を上げている。 翔は、翔はどこだ、 翔! ぐるりと見渡す、綱はまだ切れていない。 波の合間に翔の坊主頭が見えた気がした。 「かけるっ!」 近い。俺たちの命綱が持ってくれさえすれば大丈夫だ。翔が泳いでくる。 大丈夫だ、助かる。そう確信した。 でも、翔の後ろに大波が見えた。 「翔!後ろだ!急げ!」 でも翔も俺の後ろを指差した、彼も叫んでいるようだった。 雷鳴と、雨と、距離で所々しか聞こえない。 「…おっ…!っ…っ…あ…いっ!」 まさか、嘘だろ。後ろを振り返ると大きな波が俺に迫っていた。波に揉まれて舟のヘリから引き剥がされる。でも、翼と紐が繋がっているからそこまで舟と離れない。 俺は大丈夫だ、翔は。 紐を引っ張る。何度も何度も。 ようやく姿が見えるほど近づいてきた。 「かけるっ!」手を伸ばした。 翔も手をのばしてくる。 「あおっ!」腕が千切れるように痛い。でも諦めるわけにはいかない。腕を更に伸ばす。波が俺らを引き離そうとしてくる。 でも、まだ届かない。 その時、 ―――ブチッ―――。 …。 ……。 ………。 一番聞きたくない音だった。 大きな音を立て、命綱が切れた。頭の中が真っ白になる。でも体が勝手に動く。 彼の手を、掴んだ。 波は相変わらず激しい。 でも大丈夫だ、この手を離しさえしなければ。 「かけるっ!離すなよ!絶対!」 その時翔が何かに気づいたように息を呑んだのが聞こえた。 「…蒼っ!」 「俺は、乗らない。…っ魚の墓を見つけに行く。」 「っ今更なに言ってんだ!ふざけんなよ!」「魚の墓なんて!なかったろ!」 「…っある!」 「馬鹿言ってんじゃねぇ!!!いいから早く!」舟にのりこめよ! 何かがぷつんと千切れるような音がきこえた気がした。それは一体、何だったのだろう。 「…ごめんな。」 翔が俺の手を放す。 あっという間に流されていく。 引き離されていく。 彼の口が微かに動いた。 でも、声は届かなくて。 俺の伸ばした手も、届くことは無かった。     🐡 翔は俺に何を伝えたかったのだろう。 それすらわからなかった。 もういっかい、彼の口が動いて。 『またな』と言ったのはわかった。 その口元はいつもの様に笑みを浮かべていた。翔と俺との距離がひろがっていく。 「―――っ――――っ!」彼の名前を叫ぶ。 手を伸ばしてももう、届かない。 翔はいってしまった。 もう、ここには いない。     🐡 その場所から動きたくなんて無かったが、翼のことを思い出し、舟に這い上がる。リュックは流されてしまったのか無い。錨を上げて、舟の中に入っている水を、付けていたマスクで汲み出す。当然のごとく水は全然減らないので諦めて気を失っている翼の横に行き、彼の息と脈を確認する。 大丈夫だ、息をしていた。しかし、冷たい。 足が震えてその場にへたり込む。 もし、 命綱が切れなかったら。 もし、 俺がもう少し丈夫な紐を用意していたら。 もし、 俺にもう少し力があったなら。 もし…、 俺があの手をもう一度掴めていたら。 翔はここにいて三人で笑えていたのだろう。 雨とも何とも分からない水が俺の頬を流れる。 声を堪える。なんで俺が泣いているんだ。 とまれっ、! 泣いている場合か、 もっと他にすべき事があるだろう。 オールを手に持つ、 でも。…どこに行けばいいんだ。 隣で一緒にオールを漕いでいた翔はもういない。俺たちの道標だった翔はもうここには、いない。 …魚の墓を探しにいってしまった。 …なら、なら! この舟で追いつけばいいんじゃないか。翔を探すために、俺も。魚の墓の方面に行ったら翔に会えるんじゃないか。今度は助けられるんじゃないか。三人で笑い合えるんじゃないか。 …きっと、そうだ。諦めるのはまだ早い。 オールを漕いで、翔を迎えに行こう。そしたらまたのままで。 きっと。 漕ぎ出そうとした腕を掴まれる。 「…っ…待っ、て。」 「つばさ…。」 目を覚ましたんだ。 「…そっちに行ってどうするの。」 冷たい温度。翔の手のひらとは違う。誰も彼には成れない。代わりなんか居ない。なのに、 「どうするのって、翔を助けるんだ、俺のせいで翔は、今度こそ助けるんだ、三人で一緒に帰るんだ、」「魚の墓を探しに行くって言ったっ、だからっそっちにいるんだったすけないとそうしないとおれはっ、」「翔は待ってるっ、迎えにいかないとっそうしないとっ…」 そうしないと、俺は。 …俺でいられない。翔を見捨てるなんてできない。どうにかなってしまいそうだ。わかってる、本当は。この嵐の中ではもう翔に追いつけないってこと。でも信じたくなかった。 だって翔は『またな。』って言った。いかせてくれよ、俺たちは三人で魚の墓にいくんだ。 「なあ翼も翔んとこにいきたいだろう?いこう?二人で翔を迎えにいこう?それが今できる最良の事だろう?なぁ。なぁつばさ。何か言ってくれよ。」  翼は俺をひどく冷たい瞳で見て。 「…蒼、帰るよ。」そう言った。 冷静に、淡々と。感情を無くした機械のように。 翼、なんでだよ、違うだろ。最良の選択はそれじゃない。俺の聞きたかった言葉はそれじゃない。違うよ、違うんだ。 「どこに帰るんだよ、」 「僕達の島にだよ。」 なんで。 「帰ってどうするんだ翔はもういないなのに、なんで!おれはっ…なんで!」 なんで、助けられなかったんだ。なんで俺が生きているんだ。 無茶苦茶なことを言っている自覚はあった。 いつも翼は正しいし、いつも俺は間違っている。いつもと同じだ。でも、 「…なんで、そんなに冷静でいられんだっ!なんで、俺を責めない!俺のせいでっ翔はもうここにいないんだぞっ!なんでいつも通りのままなんだよっ!翔を今からでも…!何もできなかったんだっ俺のせいなんだっ…!もっとなにか俺がっ、」 できていたら。かけるは、ここで。なぁつばさ俺を責めてくれよ。そしたら、おれはきっと 「ねぇ。蒼は翔と友達になれて良かった?」 その言葉を聞いた途端、サーッと何かが落ちていく感じがした。熱心に見ていた絵をいきなり全く違うものに置き換えられたような。そんな感覚。違和感。なにを。いきなり何を言ってるんだ。一体何の話をしているんだ。呆然とする俺を見て、翼は気まずそうに目を逸らし 「…ごめん、なんでもない。」 弱々しく微笑んで。ああ、まただ。また言い知れぬ違和感。 ちがう、と思うけどなにが違うのかまだはっきりと掴めない。なんだこれは。 俺が黙っていると翼が口を開く。 「…帰ろう。今から急げば、父さんに頼んで翔を助けてもらえる。」 すっとオールを持ち俺から背を向ける。まるで拒絶するようなその背中。 …まさか今のが本音、なのか。あんな言葉が翼の本音なのか。 翼は一体何を考えているんだろう。わからなくなりそうだ。 「…っ「ほら、オール漕ぐよ。」…。」」 俺の言葉を遮るように差し出されたのは翼の声。その声色に何を言えば良いのか分からなくなって。 隣に座り込む。無言のままの翼が気になって、横目でそっと彼の表情を伺った。そしたら、強く唇を噛み締めて何かを堪えるような姿がそこに在った。 ハッとする。そうだ、翼だって辛くない訳が無い。だって、彼は俺よりずっと翔と付き合いが長いのだから。なのに俺は翼の違和感と自分の事ばかりを気にして。どんな時でも、翼は自らの感情をわざわざ出すのが嫌いな奴だと知っていたのに。だから押し殺していたのだろうに。気づけなかった。信じられなかったんだ。そう自分を責めると同時にやっぱり翼は翼だ、俺の知っている彼のままだ、なんて少し安心してしまって。罪悪感が湧き上がる。 「…ごめん。」驚いたようにこちらを見た。 「なにが。」ぶっきらぼうな声色。口を開く前に遮られた。 「…蒼が謝ることじゃない。翔のせいだから。あいつが帰ってきたらぶん殴ってやる。蒼も協力してよ。」 悪戯っ子のように笑う。彼に対する違和感が溶けて消えていく。 「おう!」 それからは何も言わず何も考えずただひたすらにオールを漕いだ。      🐡 数十分間漕いでいただろうか。 いつの間にか雨は止んでいた。 空には虹が輝いて、在る。綺麗な七色の放物線に泣きそうになる。 ぐっと唇を噛み締めてオールを漕ぐことに集中する。もう少しだ。もう少しで。 漕ぐスピードを上げたら島がみえた、俺たちの島が。 誰かが大きく手を振っていた。  🐡  舟を岸につける。翼が家の方へ駆け出す。俺はそれを追いかけることもできず、震える脚を押さえつけるだけで精一杯で。 「蒼っ?蒼!」母さんの声だ。母さんが父さんと一緒に走ってくる。それを見て力が抜けた。倒れかけた俺を母さんが受け止めてくれる。 「どうしたのっ?どこいってたの?怪我はないっ?翔くんはっ?」 そうだ俺には説明する義務があるんだ。説明、しなくちゃ。自分の脚にぐっと力を込める。自分で、まだ立っていられる。 「…っ魚の墓を探しに行っていました、僕達は。」いつの間にか集まっていた大勢の大人達がざわめきをもたらす。 「翔くんは波にさらわれてしまいましたっ。」「今、翼くんが彼の父でダイバーの健次郎さんに救助を頼んでくれています。」 「…ごめんなさい。…俺は、何もできませんでした。」 深く頭を下げた。静かな足音が近づいてくるのが聴こえた。白い足首が見えた。裸足だ。その足の主を見上げる。 「…翔は、私の息子は。」 翔のお母さんだ。揺れた音。掠れた音。真っ青な顔。 「私の息子は…。どこに!ねぇっ!」 がくがくと全身が震える。恐れ。 …翔に、よく似ている。真っ直ぐで暖かくて何事も一生懸命なところが。 よく…似ている。 グラグラと揺れる視界。 翔。 暖かい手のひら。 太陽の様な笑顔。 離れた手。 轟く雷鳴。 『またな。』って動いた口元。 波の塩辛さ。 雨粒の冷たさ。 つめたい まだ さむい まだ こわい おれは 「あなた、あなたはなんでっ…!」 その人はずるずると、座り込んだ。泣き叫ぶ。遠くにきこえるこえ。 耳鳴り。 なんで?なんで。なんで。俺が聞きたいぐらいだ。なんでって? おれが…、 翔の手が離れて、でも俺が何もできなかったから。でも、それでも。 まだ生きていると信じたいのは俺の、エゴだろうか。 そう願うのは傲慢だろうか。 「…。」 願う。 息を吸って言葉をかけようとした時だった。誰かが走ってくる音がする。 「蒼っ。」…翼だ。 「何も言わないでいい。」俺を片手で制して彼女に問う。 「今、父が翔くんを助けに行ってくれています。…立てますか?」 翼が翔のお母さんを助け起こそうとした。が、 「触らないで!」 振り払われた。 「あ…っ…。」 どちらかともなく声が漏れた。 「…ごめんなさい。自分で立てるわ。ありがとう。」 翔のお母さんが立ち上がる。翼の顔が一瞬泣きそうに歪んだ。それは、彼女の目が確かに言っていたせいだ。なんで自分の息子はいないのになんでお前たちは帰ってきているんだ、と。息子を返せ、お前らのせいだ、と。 ぐっと拳を握りしめる。彼女は亡霊のようにふらふらと去っていく。その後ろ姿を見送るしかなかった。何も言えなかった。ただずっと二人で頭を下げるしかなかった。確かに俺のせいなのだ。翔が此処にいないのは。翔の父親は二年前に離婚しているからこの島にはいない。息子も…帰ってこないかもしれない。あの人をひとりぼっちにしたのは、俺だ。 俺は一体この罪をどう償えばいいのだろう。翔が帰ってこなかったら、俺はどうすればいいのだろう。 俺なんかに何ができるのだろう。できることなど、あるのだろうか。      🐡 「蒼、家に帰るわよ。」母さんが言う。 「…嫌だ。帰らない。」 俺だって、なにか、なにか。なにか。なにかできることが 「いい加減にしなさい。」 母さんが俺を叱りつける。父さんも厳しい顔をして俺を見つめている。火で焼かれているようにジリジリと痛む。 なにか俺に… 「嫌だ、いやだっいやだっ」 なにかできることは、おれに、なにか。いつのまにか翼は家に帰ったのかもういなかった。俺は小さい子供のように泣きじゃくる。 みっともない、でも 「蒼、とりあえず家に帰るぞ。」 「…いやだ。」 俺になにか…!なにか、できること…! 「蒼!ここでずっと待っていても駄目だってことわかってるでしょ、帰るわよ。」 そんなにいけないことなのか。 父さんが口を開く。 「蒼。父さんも母さんもお前を叱りつけたいわけじゃない、ただ心配なだけなんだ。 きっと翼くんも家で翔くんの帰りを待ってるだろう。お前も、もう少し翔くんを信じてやりなさい。」 父さんのその言葉で思い知らされた。 自分の、無力さ。知っていたけれど。分かっていたことだったけれど。 ああ。 …いま、俺にできることはなにも…ないんだ。父さんの言う信じることしか。でも、それがなんの役に立つっていうんだ。信じる、なんて。逃げじゃないのか。こんなのが。こんな納得出来ないものが翔の言っていた信じるということなのだろうか。 …わからない。 でも、きっと父さんの…言うとおりなのかもしれない。俺は、まだ子供だから。何もできないから。帰るしかないのかもしれない。 「…はい。」 唇を噛んだ。 かける。 おれは、いえにかえるよ。 ぽたぽたと砂浜に落ちるしずくを見ながら、俺は海に背を向けた。逃げているような気がした。いや、俺は逃げたかっただけなんだ。 気のせいなんかじゃ、ない。         🐡  家に帰ってきた。体を包む懐かしい匂いに泣きそうになる。別にそんなに長くいなかったわけじゃないのに。手を洗う。居間に入ると母さんがご飯を並べてくれていた。手を合わせていただきますと小さな声でいう。白ご飯を口に運ぶ。 …優しい味。 ご飯を食べるのは当たり前のことなのに、ひどく懐かしいことのように感じて。 翔は今…何処にいるのだろうか。俺はこんなところにいるべきなのだろうか。 …やっぱり。違う。俺が、今すべきことはここでご飯を食べていることじゃない。 違う、俺が今、できることは…っ、 光が見えた。答えを見つけた。いや見えていたけど、見えないふりをしていただけだった。逃げたかったから。でも、 もう逃げない。逃げるなんて苦しいだけだ。 急に立ち上がった俺に母さんは目を丸くする。椅子が倒れた音がした。 「蒼っ?」 「ごめん母さん父さん。やっぱり俺、海に行ってくるっ! もう何もしないままは嫌なんだっ!」 もう傍観者のままは嫌なんだ。 「蒼っ!」母さんの声が微かに聞こえた。でも俺はそれを無視して家を飛び出した。  砂浜にはもう先客がいた。彼は振り返って俺を見て微笑んだ。 「…来ると思ったよ、蒼。」 翼だった。 「俺もいると思った、だって。」 俺たちは仲間だから。帰ってくるのを二人で待っとかないとあいつが寂しがるだろうから。翔を待つ理由なんてそれだけでいい。それが信じるってことなんじゃないだろうか。それでいいだろう。それでいいんだろう、翔。翼とずっと待っていてやるよ、お前が帰ってくるまで。 翼の横に座る。さらさらと動く砂の感触が懐かしかった。少しひんやりとした温度。翼はただ海の方黙って見つめている。俺もじっと海を見る。先程まで荒れていたのが嘘のように今はもう穏やかになった海。足を伸ばしていたせいか靴の先が海水に濡れる。冷たい。 「蒼は、さ、」 波の音しか聴こえない静寂の中でポツリと呟かれた自分の名前。翼の方を見る。でも、彼は海の方を見つめたままで静かな声で音を奏でる。 「…翔のこと疎ましく思ったこと、ないの。」 耳を澄ましてやっと聞き取れる程の囁き。でも穏やかな波の音が異質な彼の音をくっきりと浮きあがらせた。 何を言ってるんだ、と思わず彼の顔を凝視する。 「…え、」 彼は決してこっちを向かない。一度は消えた翼への違和感の種がむくむくと育っていくのを感じる。 口に溜まった唾を飲み込む。ごくり、と喉が鳴った。 「…ずっと昔のことだけど。翔がいつも真っ直ぐで、輝いていて、物語の中の英雄みたいで、妬ましくて羨ましくて疎ましくてどうしようもなかった時期があったんだ。」 「でも…僕は翔みたいになんかなれないと諦めていた。なるつもりもなかった。それは今でも変わらない。」 その感情。それは俺がずっと微かに抱いていた黒いものと似通っている様に思える。 翔への憧憬と嫉妬。そして諦め。あんな風にはなれないという。そういう感情。 翼は続ける、俺に向かって話すというより、自らの記憶を辿るように。 なんで彼はいきなり俺にこんな話を聞かせてくれているんだろう。 「でも、ある時、翔に言われた言葉があって、それで気づいたんだ。あいつは多分そういうつもりじゃなかったんだろうけど。」 潮風が彼の前髪を揺らす。いつも通りのポーカーフェイス。それを見てふと気づく。 もしかして。 俺は、彼のことを何も、知らなかったのかもしれない。何年間も友達だったけど。 そんなことを思っていたなんて微塵も分からなかった。翼はいつも冷静で、優しくて、強くて。当たり前にそこにいてくれたから。彼と自分は違うからこんなこと思うはずがない、って。線を引いて。彼自身の本当の感情を知ろうともしなかった。知る必要もないって、分かってるからって思ってた。 でも、それは間違いだったのかもしれない。ちゃんと聞かなくちゃならなかった。同じだから、とか違うから、とか決めつける前に。だから。 言ってくれ、吐き出してくれ。聞きたいよ。 君の溜め込んでいた感情の続きを。知りたい。理解したい。知らなかった分、今。 「…かけるは、なんて言ったんだ?」 俺の問いに驚いたように肩が揺れた。でも懐かしむように目を細めたのが薄暗い中ぼんやりと、見えた。 「…あいつは、ヒーローってかっこいいよな、俺もヒーローになる!って言った。なんでそういう話になったのかは覚えてないんだけど。正にヒーローみたいな奴が真剣な顔でそう言ったのがおかしかった。」 愛おしそうに。翼は少し言葉を切ってまた話を続ける。俺の知らない二人の物語。 「…その言葉自体はありふれてて、小学生なら誰でも言いそうなもんだけど。あいつは、 中学になっても変えなかったんだよね、そこら辺は蒼も知ってるでしょ?」 こっちを向く翼。 ああ、知っている。翔がヒーローに憧れていること。そして本当に成ろうとしていること。 そのおかげであの時、俺はあいつに救われたのだから。思い出したくもない記憶だけど、大切な記憶。 「…おう。」仏頂面の俺を見てくすりと笑って。 「…なんかさ。その時、分かったんだ。それがあいつの本気で憧れた本気の夢なんだって。それだけで、なんていうかすごい救われたんだよね。ああ、こいつもおんなじ人間なんだ、ただ夢を追っかけてその存在に成ろうとしていただけなんだって、」 「でも少し腹が立つんだけどね、英雄像を求めすぎて取り返しのつかないことになったらどうすんだって。今、正にそうなってるし。」 顔を顰めている。 …そういうことか。そうだよな。翔もおんなじ人間、だもんな。当たり前だけど、当たり前だからこそ、時々そのことを忘れてしまいそうになるんだ。余りにも彼が輝いているから。 「でも。」 響く声。俺の雑多な感情に一線を引くように。翔の声とダブる。でも、違う。翼だけの音だ。彼だけの音だ。 「翔は大丈夫、そんなことでくたばる奴じゃない。しかも、ヒーローは死んでしまったらヒーローじゃないしね。僕は、信じるよ。」 こっちを向いた翼の目に灯る強い、光。 信じているんだ、翔のことを。そして俺はあの時、彼が発した呟きの真意を知る。 本人は無意識かもしれないけど。あれは、憎悪ではなくて、憂いだったのか。緩やかに口角を上げていつもの翼に戻って彼は言う。 「だからね、蒼。蒼が気に病むことなんてなんにもないんだ。あいつは戻ってくるし、蒼の助けを拒んだのもあいつ自身の意思だと思うから。」 …優しい言葉。翼は優しい。 でも、翔自らその道を選んだんだと何度言われても、誰に言われても、納得は出来そうになかった。 翔に言われたとしても。 …もし、を考えてしまうから。 もし、あの時手を掴んだのが俺ではなく、翼だったなら翔を説得できたかもしれない。 もし「蒼!」え、 「上見て!…流れ星だ。」翼が空を指差している。 流れ星がひとつ、群青色の夜空を切り裂いて、落ちていくのが見えた。 「…っ。」 お願いだから、お願いだから。彼を、翔を助けてくださいと、願う。 何でもあげるから、と。他に何もいらないから、と。          🐡  海は相変わらず静かだ。腕時計を確認する。かなり時間が経ったのにまだ翔は帰ってこない。 …翔はまだか。…かえって、くるのか。まさか、翔はもう…。 頭を振って嫌な考えを振り払う。 海の方を見る。 船の灯りはないか。動くものはないか。うろうろと視線を巡らす。なにも見えない。 誰も、居ない。 やめろ。嫌だ、ちがう、そんなことありえないんだ。でも… 「あおっ!」 え? 「あお…あれってっ?」 「え?」翼が指差す方向に顔を向ける。 あ… 「父さんの船だよ!帰ってきたんだ!」 大きな船が軽やかに海面を走ってくる。 「ほんと、だ…」 上手く声が出ない。何かが詰まって喉が上手く動かない。翔が帰ってきた。 なんの根拠も無いのにそう想った。視界がぼやける。鼻が痛い。 まるで…奇跡だ。いや、違う。 翔が、奇跡をおこしたんだ。 やっぱ…すげえよ。俺たちの、ヒーローは。  電子音が不意に鳴る。 「僕のだ。父さんからだ!」 「もしもし…うん、いる。…ごめん。…え?…うん、うん。…わかった。…うん、ありがと。…じゃあまた。」 翼は電話を切って、そのままどこかに電話を掛け始める。 「…もしもし、花玲島(はなれじま)病院ですか。一人緊急搬送をお願いしたいのですが。…あ、僕ですか、僕は空野翼と言います。…あ、そうです、健次郎の息子です。…はい、はい、お願いします。」 電話を切った翼は安堵するように息を吐く。 「どうしたんだ?」なんとなく予想はつくが聞いてみる。花玲島病院は俺たちの島で一番大きい病院だ。 「翔、見つかったんだけど、状態があんま良くないみたいだから父さんが、救急車呼んでくれって。病院にわざわざ電話しないと救急車が来ないなんて不便だ。ここにいるのもバレてて怒られた。」 海から発信しても病院の電話には繋がらないから翼に連絡したのだろう。 「そっか。」翔は大丈夫だろうか。 「大丈夫だよ、」「俺たちのヒーローだから。大丈夫だよ。蒼。」 自分にも言い聞かせるように言って。 「そう、だな。」 揺れる景色。目尻を擦る。 「蒼はほんとうに泣き虫だなぁ。」 失礼な。そういう翼も泣いてんじゃねえか。翼が大きく手を振り始めた。 俺も力強く手を振った。グズグズと二人で鼻をすすりながら。     🐡 あの暑い夏の日から一ヶ月が経った。あのあと、俺と翼はそれぞれの保護者にめちゃくちゃ怒られて、しばらくは海に行くのが禁止になった。でもそれだけで済んだから良かったと思う。 それに海には当分行きたくはない。学校は新学期がとっくに始まっている。 でも、今日はテスト週間だから午前までしか授業がなかった。 翔は…奇跡的に回復し、今日やっと面会謝絶が解けた。だから、彼に会いに行くのだ。 花玲島病院は丘の上にある。丘の上に向かう階段は低いが段数が多い。二段飛ばしで駆け上がる。いつも、それを危ないと諫める翼は一緒ではない。 あれから翼のお父さんは厳しくなったから、説得するのに大変なんだろう。遅れてでも翼は来るだろうが。どこに行くのにも制限を掛けられ報告義務が生じた、とぼやいていた。俺の家族も未だに出かける時は不安そうな顔をして詳細を聞きたがる。でもそれは当然の事だろう。そこまで家族を不安にさせた俺が悪い。 やっと。 やっと三人が集まるんだ。 すごい嬉しい。けど俺は、翔に言わなきゃいけないことがある。誰に何と言われようと、言わなきゃならない。 そうこう考えているうちにいつのまにか病院にたどり着いていた。どこにでもあるような小さな病院だ。 でも、この小さな島で唯一の大切な病院だ。自動ドアを抜け、受付のお姉さんに翔の病室を聞く。 個室。202号室。階段を上る。ナースステーションのすぐそばだ。ドアを開けた。 ベットに座った人の影が見えた。          🐡 勢い良くドアが開く音がした。 「翔!」「…て、あれ?病室間違えた?」 明るい髪色。眼の色。 懐かしい色。病室の白に映える鮮やかな色。 「ちょっ!」「合ってるよ!俺だよ、翔だっつーの!」 蒼。俺の大切な仲間の一人。 「だって、髪の毛が…。」俺の頭を震える指で指差す蒼。 「ハゲみたいな言い方すんな!あれは坊主だっての。病院だから切れなかっただけだ!」 そう、坊主頭だった俺の頭は今は少し髪の毛が目立つ程度に伸びている。というか俺の特徴は坊主だけか! 「分かってるって。」蒼は病室に入ってきた。でも、ずっと腹を抱えて笑い続けている。 そんな彼に俺はむくれてみせた。 「今のもいいと思うよ?坊主ネタでからかえないけど。…ぶふっ。」 「もう蒼なんて知らねえ!いい話聞かせてやろうと思ったのに!」 「え?」 「つーか、翼は?」 「話逸らした!今日は途中からくるってさ。」 言いながら蒼は来客用の椅子に腰掛ける。 「そっか。」三人で話したかったのに! 「…で、なんだよ?…翔。」 俺は久々に会えたのが嬉しくて、目の前の彼が言いたいことがあるようだったのを俺は全く気づかなかった。 「あ、そうそうそれでな…「かける。」っ?」 蒼の声が俺の声を唐突に遮る。覚悟を決めたようなその声色。 なんか嫌な予感がした。ただの勘だけど。 「なんだ?」 そう聞いたら。急に蒼との距離が遠くなった感じがした。なんなんだよ、この感じ。 やめてくれ。どうしたんだよ。さっきまで楽しそうにしてたじゃねえか。同じ蒼じゃないみたいだ。 俺の方を見ないままに蒼は言った。 「…翔、助けられなくてごめん、手を離してごめん。」 声を震わせて、彼は言った。 …なんだ? こいつは一体こんな真剣になにを謝っているんだ? 「な、なんのことだよ。」 無意味に手を振った。座ってうつむいている蒼の肩に手を 「ちがう。」 …え? 温和な蒼が出したとは思えないほどの鋭い声。 突き刺さってきそうで思わず伸ばしかけていた手を引っ込めた。痛い。これが蒼の、痛み。 「俺があのときかけるのっ手をもう一回掴めてたらこんなことにはならなかったんだっ、おれがもうちょっと力があったらっこんなことにはっ…ならなかったんだよっ…。」 なんで。 なんで。あれはどうしようもなかったのに。俺が決めたのに。なんでおまえがそんなこと言うんだ。 「あおっ…!」いつもの蒼に戻ってくれよ!いつもの一緒に馬鹿やって笑ってるいつもの蒼に。本当のお前はそんなやつじゃないだろう? 「全部、おれのせいだ。なあ、翔。何にもできなくてごめん。謝ってもなんにもならないけど。ほんとに俺は最低だ。」 蒼はうなだれてこっちを見ようともしない。なんだかひどくむかむかした。 「…ふざけんなっ、蒼が悪いわけないだろうがっ!俺の話少しは聞けっ!ひとりで結論だしてんじゃねえっ!」 あの時は、だって…他に方法なんかなかったからなんだよ。蒼はまだこっちを見ない。 うつむいた影で綺麗な青色が見えない。おまえの綺麗な青が見たいのに。 「…ごめん。」 また謝る。お前のせいじゃないのに。気分を落ち着かせるために深呼吸をする。 「…蒼。お前は悪くないんだ。」 「…なんでだ。なんで、翼も翔も俺を責めないんだよ。」 「あれは俺の決めたことだからだ、だから、俺も翼もお前を責めたりなんかしない。」 「だって、おれがもうちょっとっ…!」 「ぐだぐだうっせえっ!おまえはっわるくないんだ!俺がそう言ってんだから!悪くないんだよっ、それだけじゃ駄目なのかよっ!」 ちゃんと説明できないのは言ってないことがまだあるからだけど。これだけは。いつかちゃんと言うから。お願いだから自分をそんなに責めないでくれ。彼をじっと見る。 自業自得なんだ。俺はきっと、被害者じゃなくて加害者なんだ。だってこんなにも蒼を傷つけた、俺が彼の手を振り払ったことで。 「勝手に、自分ばっかり、責めてんじゃねえよ。」 言葉にできる限りの力を込めて。蒼色とぶつかった。 …ようやく、こっちを見てくれたな。 まるで深い海底に雫が溜まっているみたいな、そのいろ。蒼がうろうろと視線を彷徨わせるたびに溜まっている雫が揺れる。その目を捉えて大きく頷いた。 「な!」 笑ってくれよ。それだけで。それだけで俺の世界は鮮やかな色に戻るんだ。 お前らが、笑ってくれたらそれで良いんだ。 「……ごめん。」 「ありがと。翔。」 「っ!おう。」 蒼の目をみて思い出した。 「蒼!おまえに話したいことがあったんだ!」 「っなんだよ?」 「俺はあれを見たんだ!」    「あれってなんだよ?」 そう、俺はあれを見た。一生忘れられない。憎くも愛おしい記憶。 「THE GRAVE OF FISHESをだよ!」 「…。」 「魚の墓のこと!もう一度言うぞ!」 「俺は、魚の墓を見たんだ!」 「なんだって?」 「いいから聞けよ!あの時蒼と別れてから波に呑まれかけて正直危なかったんだけど…!        🐡   バシャバシャと水面を叩くけど、なんの効果もない。蒼に魚の墓に行くって言ったのは嘘ではない。 でも、疲れた。このまま荒波に乗っていてもいいような気がしてきた。 割りと雨も治まってきたし…って…んっ?…治まってきてる。さっきまでの雷雨が嘘だったみたいに。 空が晴れていく。 なんだこれ?すげえええっ。 外していたシュノーケルをもう一度付ける。 水を蹴って手で大きく水を掻いた。どんどん潜っていく。 《うおおおおおお、魚がいっぱい、いる!》魚の群れはある一定方向に進んでいく。なんだ?更におかしなことにその群れが通り過ぎると、他の自由気ままに泳いでいた魚たちもごく平然に群れに加わるのだ。そして群れが通り過ぎた場所には一匹の魚も残っていなかった。 この光景どこかで見たぞ?…ああ、そうだ!魚の墓があるって翼が言ってた場所で見たやつだ!なんだ、この魚の群れのせいだったのか。っていうことは、このまま魚の群れについていったら魚の墓が見れるのか? よし、ついて行くか!        🐡🐡  俺は魚の群れと一緒に泳いでいる。泳ぐというよりは魚たちの作る激しい流れに押し流されている感じだ。でも、不思議と魚にぶつかることはない。目の前を、ツムブリやヒラマサなどが泳いでいる。彼らは俺のことなんて全く気にしていない。まるで俺が見えていないみたいだ。ふと、魚たちの動きが止まる。 え、え、なんだこれ?魚が止まるなんて初めて見た、すごく…静かだ。 魚たちは何かを待つように、ある一点を凝視している。すると、何かが擦れるような高い音が微かに聴こえた。赤ちゃんが泣いているような高い音。だんだん近づいてくる。 《まさか…!》周りの魚たちは微動だにしない。 …きっともうすぐ現れる。 興奮すると同時に少し怖い…喰われるかもしれないからだ。地面が一瞬波打ち、怪物の一層大きな声が水中を轟かし。   そして、海の王者シャチが。現れた。その後ろにはジンベエザメやオグロメジロザメ、シロワシなどの大型動物がわんさかいる。空気がピンっと張り詰めるのがわかった。それを感じれているのは俺だけかもしれないが。俺が一人でドキドキしていると、海面の方から光がさんさんと降り注ぎ俺たちを照らした。それが合図だったようだ。俺は魚たちの大群に押し出された。 《…ととっ!》俺は吹っ飛んでバランスを崩す。顔をあげると目の前にシャチがいた。 …あれ、これやばい?喰われる?思わずギュッと目をつむる。でも、何も起こらない。ただ魚たちの水をきる音が聞こえるだけだ。静かに目を開けた。 《おおおおおおおおおおおっ!》声とともに大量の泡がでた。色とりどりの魚達が交じり合い、螺旋状に水面に向かっていく。 すごいっ…!これを言い表せる言葉がうまくみつけられない。俺を見逃してくれたシャチは一番上の方にいた。それにしても俺は何故襲われずにすんだのだろう?でも、何にせよ良かった。考えても分からないだろうし。そんなことで時間を潰すよりも、もっと魚たちを間近でみたい。そう思って、俺も魚の群れの中に勢い良く、飛び込んだ。  目の前を色とりどりの魚達が通り過ぎていく。 ぱっと見、俺の知っているアカハタや、カワハギ、マダラトビエイ、アジとかもいるけど知らない魚のほうが断然多い。 白、 黄、 橙、 赤、 茶、 緑、 青、 紫、 銀、 たくさんの色で視界が埋め尽くされる。 《きっれーーっ!》 水面近くになると、ジンベエザメやシャチが一緒に泳ぎ目の前を通り過ぎていく。 《すっげぇ…!》こんなに長く水中にいるのに、なぜか息が苦しくない。ふと、下のほうを見ると魚たちが大きな輪っかのように群れている。ぐるぐるぐるぐると魚たちは回り続ける。サメやシャチもなぜか俺を襲ってこない。 少し気味が悪くなってきた。 ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる………… このまま永遠に回り続けるのじゃないか、そう思ったときだった。  リーンと微かに音が鳴って空気を裂いた。水中では聴こえるはずのない鈴のような音。 これは、なんだ?その答えを考える暇もなく周りにいた魚たちが沈んでいく。全身の力が抜けるのを感じる。今更になって水圧が俺を優しく押さえつけてくる。どんどん魚たちと一緒に沈んでいく。沈んでいく彼らはひどく穏やかで安らかな表情をしていて、まるで、眠っているみたいだ。頭が重い。 おい、おれはこのまま沈んでいっていいのか。 上手く動かない頭で考える。 翼…蒼…。 あいつら、ちゃんと帰れただろうか… 俺、あいつらとの約束全然守れなかったな…。 ああ…でも不思議と穏やかな気持ちだ。このまま沈んでいっても悪くない…。 この静かな世界のなかで、抗うものは誰も居ない。こうやって他のダイバー達も死んでいったのかもな。きっと、帰ってきてない人達はみんなこれを見たんだ。 だから…帰ってこれなくなったんだ。 その気持ちが少し分かる、だって…。 現実と夢の間を漂っているみたいで、すごく心地が良い。自殺願望はなかったはずなのに。 現実より現実味のある穏やかさ。 この現象が『魚の墓』と呼ばれるのもわかる。 墓場だ、此処は。 こんなにも安らかで、依存してしまいそうになるぐらい心地よい。ずっとここに居たい。このまま… 『またなって言っただろ!』 この声は…、蒼? 『『帰ってこい…っ!翔!!!!』』 蒼と翼の声が聴こえた。 二人の声が聴こえた、俺を呼んでいる。 あお、つばさ…、彼らはおれの、仲間…で、 たいせつな…。…そうだ。二人が俺を待ってるんだった。思い出した。 帰らなきゃ。 やっぱり俺は此処に居たままじゃいけない。 帰らなきゃ。帰りたい。 戻りたい、もう一度、仲間の元へ。 全身に力を込める。水を掻き分けようとした。でも上手くいかなかった。それは手を伸ばすだけの動作で終わる。脚は全く動かない。 《くっそがっ…。》あいつらとまだ…笑いあいたい。あいつらとまだ…生きていたい。 …でも、俺だけではこんなにも、無力。そんな当たり前のことをいま気づいた。 誰か。だれか助けてくれよ。 《くっそっ…。》俺はまだあいつらとの約束を果たせていないんだ。 まぶたがひどく重い。 目を開けている事ができない。 耳鳴りがひどい。 鈴の音が頭のなかで鳴る。 鳴る、鳴る、鳴る。 まさか俺はもうここで死ぬ…のか。約束も守れないまま。情けないやつのままで。 …俺は二人のヒーローになりたかった。昔、テレビで見たヒーローみたいに、英雄みたいに。二人に頼られる奴になりたかった。 …蒼、翼。 俺は結局出来損ないで。ヒーローになれた気がしていただけだったらしい。…偽物だったんだ。…ああ、ほんとうの俺は何もできないやつだったのか。勘違いしていただけだったのか。でもどうせなら、ずっと勘違いしていたかった。 …もういい。もう無理だ。もう諦めてしまいたい、止めてしまいたい。 …止めてしまおうか。諦めてしまえばいいじゃないか。それの、何がいけないんだ。だってここはこんなにも心地よい。許してくれている。そんな気がする。特別であることに疲れた、のかもしれない。それを強いる自分自身に疲れてしまった。俺はそう在る必要があった。母さんは離婚してから陰で泣くことが増えた。殆ど同時期に幼馴染の翼は、母親が行方不明になった。翼は塞ぎ込むことが増えた。それを俺が支えてやらなきゃと思っていた。その時テレビで放送されていた番組のヒーローたちが輝いて見えた。俺は単純だから、それを見てヒーローになればいいって思った。母さんを笑顔にしたかった。翼の支えになってやりたかった。 それから暫くして蒼が転校してきた。あいつは最初はクラスで浮いていて、それを見てヒーローの出番だと思った。喋ってみたら蒼は結構面白い奴で、あっという間に仲良くなって、になった、三人で一つに、成った。 …でも、でももう疲れた。 力を抜いた俺の手を、海底の砂は優しく包み込んでくれる。もう全身の感覚が失くなってきている。 これでいいんだ。 これで楽になれる。 只の無力な人間として、楽になれる。 …ああ。 …でもやっぱり。 ふたりと、もっと笑い合っていたかった。 もっと、もっと、もっと… さんにんでしたいことがあった。 たくさんあった。 ほんとうは。ふたりといれるだけでよかったのに。 でも…もうさよなら、みたいだ。 意識が暗闇に飲み込まれていく。 その時、 眩い光が俺を照らし出した。 「…けるくんっ!…かけるくんっ!」 誰かが俺の名を呼んでいる。どこかできいたことのあるようなこえだ。 力強い腕に持ち上げられた。 無理やり視界をこじ開けて見たその横顔は、すこし翼に似ていて。 ヒーローだ。俺の憧れたヒーローが此処に。 …ああ…おれはまた…、        🐡🐡  暗転。        🐡🐡 「それが翼の父ちゃんで!気がついたら俺はここで寝てたってわけ!」 あの時の健次郎さんは本当にヒーローみたいだった。今でもはっきりと思い出す。あの温もり、力強さ。 「…そんなことがあったんだな。」 「おう!今度は…。三人で、な!」 少し口ごもってしまったが蒼は気づいてはいないみたいだ。 「懲りてないのかよっ!そんな怖い目に合っといて!」 「でも、楽しかったぞ!帰ってこれたし!」 「馬鹿だ。こいつ、まじもんの馬鹿だ。翼のお父さんの身にもなれよ…。」 「馬鹿じゃねーし!あ、来るぞ!」 蒼はもう大丈夫そうだ、よかった。 誰かが廊下を走ってくる音がする。三人目の登場だ。 二人で目を合わせ、にやりとする。 「翔、蒼!」 翼が珍しく焦っている。そんな彼に文句を言う。 「おそい、つばさああ!」 「廊下、走んなよ。」 「しょうがないじゃん。父さんがいない間にってこれでも急いで来たんだよ。」 「またお咎めくらうぞ。」 蒼が翼を小突いている。 こいつって意外と悪ガキだよな。 「ここに来れないよりはマシ。」 「翔、調子はどう?」 「ばっちしだ!」 ピースサインをつくってみせる。 俺のその態度を見て、安心したのか翼は来客用の椅子に崩れ落ちる様に座った。 「本当無茶しすぎだよ、馬鹿。」 「だな。」 二人に言われてすこし悔しい。 「でも、そのおかげで魚の墓が見れたんだぜ!」とまだ何も知らない翼にドヤ顔で言ってみる。 「えっー?」 「長くなるぞ…ふふん。」 「ほんと?じゃあダイジェスト版で。」 「嘘つくな。そんなに長くなかったじゃねえか。」 「蒼の愚痴は長かったけどな!」 「ちょっそれ言うなよ!しかも愚痴じゃないし!」 「え、なにそれ、そっちのほうが聞きたいんだけど。僕のいない間になに話してたの?」好奇心丸出しで翼が聞いてくる。 「いいから、いいから翔の話きこうっ?」 蒼は少し焦った顔だ。まさかこいつ、翼にもなんか言われてたな?だから、聞かれたくないのか。なら、 「そう、俺の話を聞け!」 「…しょうがないなあ。」 「あれ、そんな感じなのっ?」 「いいから話しなよ。」 「ハイ。…よし!心して聞けよ!」そして、俺は魚の墓の真相と自身の冒険談を語り始めた、リクエスト通りダイジェスト版で。         🐡 すっかり陽も暮れ、俺の話を聞いた翼が愚痴り始める。 「…ったくさぁ、翔が三人の約束すぐ破る。抜け駆けはずるいよ。」 「まあまあ。翔も反省してるしさ。」 「そうだぞ、反省してる!」 思わず笑顔になってしまう。 「絶対してないじゃん。」 「じゃ、じゃあさ、また新しい約束しよう。そしたら、翼も文句ないだろっ?」 「んーー。ん!異議なし。」 「俺もさんせい!さすが、蒼!」 「はいはい、ありがと。」 「じゃ、何にする?」 「えーもう決まってるでしょ。」 「やっぱり?」 「もちろんだ!」 「じゃーせーので言うよ、せーの!」 「「「今度こそ、三人で魚の墓を見に行く。」」」 「そこの短冊に三人で書こっか。」 「いいなそれ!」 「うえーーーい!」 …悪いな、二人とも。 うごかない。感覚も、もうないんだ。       🐡 七夕なんてとうに過ぎた8月の下旬頃、 花玲島病院のとある個室のしまい忘れた笹に3つの同じ願い事がぶら下げられていた。            🐡   俺はベットに身体を預け、夕焼けとともに二人が帰っていくのを病院の窓から見る。 少し、疲れた。 なあ、蒼、翼。 まだ二人に話せていないことがある。 まず一つ目。 あの時、俺が蒼の手を放した理由。 俺はあの時、実はお前と翼の命綱が切れそうだったのに気づいた。俺は他に何も思いつかなくて、お前まで流されてほしくなくて、手を離した。お前らだけでも助かってほしかった。蒼は必死に俺の手を掴んでくれてたよな。 俺の『ありがとう』は彼に届いただろうか。 でも、またすぐ会えるとあの時は愚かにも確信していた。だって、俺は主人公だから。ヒーローだとその時はまだ信じていたから。だから精一杯の笑顔で『またな。』って言えたんだ。その直後に蒼の顔が泣きそうに歪んでいたから届いていたんだよな。 俺も、正直怖かった。だけど、お前に言ったように魚の墓を見に行こうと思ったんだ。 魚の墓は見ることができたけど、やっぱり三人で見たほうが面白かっただろうな。三人の約束を書いた短冊は部屋の端にある。俺としては、あの願いごとは本当に魚の墓を見たいからじゃなくて…いや、もう一度見れるなら見たいけど。それより、ずっと三人で楽しく遊んでいたいから。ずっと、友達でいたいから。そう願いをこめたんだ。 これから色々あるだろう。 この島には高校が無いから離れている本島まで行かなきゃいけないだろうし。蒼は将来、学校の先生になりたいと言っていた。翼は父親の健次郎さんのようにダイバーになるだろう。でも俺は将来なりたいものなんて無いんだ。二人のヒーローになるぐらいしかないんだ。でもその夢はもう一生夢のままだ。気づいてしまったから。俺がそんな器じゃないってことに。二人に置いて行かれるのが怖かったんだ。だけど蒼が三人で一つだって言ってくれて本当に、救われた。翼は幼馴染だから結局はついてきてくれるって思ってたけど蒼はよくわからなかったから。あん時どんなやつよりずっと蒼がかっこよく見えた。 ありがとな。俺なんかよりずっと、お前の方がヒーローだった。 でも…三人ではもう魚の墓を見に行けない、だろう。 二つ目の話せていないこと。 俺の意識が戻って少し経った頃母ちゃんに言われたんだ。 「翔。あなたもう、歩けないかもしれない。」目の前が真っ暗になった。母ちゃんは医者に言われたらしい。よくわからないけど海にずっといたための後遺症の可能性が高いそうだ。トウショウ、というのだそうだ。母ちゃんは泣きながら助かったのが奇跡だとか、辛いけど治療をすればまだ治るかもしれないとか言っていたけど俺はそんなことは耳に入らなかった。現実は重すぎる。ずっと夢見たまんまでいたかったのに。 母ちゃんは話した後、会社から呼び出しの電話が来て。仕事を俺のために断ろうとしてたけど 「大丈夫だって!治療のことも、わかったから!大丈夫、大丈夫。俺のことは気にしないで行ってきてくれよ!」 追い出した。ひどく寒々しい言葉たちと苦しい時によく出る口角の上がり。馬鹿みたいに強がって。口に出したことは本心なんかじゃなかった。そんなことは到底思えなかった。ひとりになりたかった。でも、俺の意思とは関係なく医者と看護師さんが突然入ってきてMRI検査につれてかれた。車いすにのるのは初めてだった。機械の中で寝転がりながら怯えていた。怖かった。俺の足はどうなるんだろうと。治らないのじゃないかと。 どんなに、説明されてもわかんねえよ。 わかりたくなんてねえんだよ。 検査が終わった後の医者や看護師さんの顔が暗かった。よけい怖くなった。 部屋に戻って治療といわれ、お湯にひざまであしをいれた。 俺のあしは膿んだみたいにボコボコとしていて気持ち悪かった。 いつのまにか医者はいなくなっていて看護師さんは 「あしをそのままつけといてくださいね。お風呂の時にまた声をかけますね。」と言って出て行った。  同じ様な日々が何日も続いた。毎回、俺はなにも言わなかった。 声に出したら全部本当なんだと肯定しなくちゃならなくなるような気がして。 でも治療し始めて効果も出ずに何週間も経ってしまって。目を逸らせなくなってしまった。 わかってるけど目を逸らしていたかったのに。 おれのあしはもうだめだってこと。 わからないままでいたかった。でも。毎回湯気が出ているくらい熱いお湯のはずなのになにも感じない。熱くもないし、痛くもない。おれのあしではもう、たてないしはしれないしおよげないんだ。当たり前のことが、できなくなったんだ。まだ治療すればって母ちゃんは言ってたけど、でももう、やめてくれよ。思ってもない慰めの言葉を吐くのは、もうしんどいだろう。母ちゃんだって本当はわかってるんだろ。色もまっくろで人の足じゃなくて石みたいなんだぞ。こんなん治せるわけない。治るとはどうしても思えないんだよ。治せるわけねえじゃんか。  現実を理解した上で立ち直るために、もう少し時間がほしいのに。俺の意思とは無関係に日々は過ぎた。それとともにおれの世界はだんだんといろを失くしていった。俺のあしももっとひどくなっていて、医者には壊死しかけているからあしを切断するべきだみたいなことを言われた、母ちゃんは俺の意思を尊重するといった、けど俺はなにも決断できないままで。 あっという間に、家族以外の面会が許される日になって。蒼と翼がきて、約束をして、俺の世界に少し色がついた。でも。すぐ消えた。俺の世界はまたモノクロになった。 水滴が俺の目から流れ落ちて慌てて拭う。二人に、全部話してしまいたかった。 でも、できなかった。ふたりにこれ以上心配かけたくなかった。 喜んでいる二人を悲しませたくなんてなかった。だってこれを知ったら、蒼はまた自分を責める。翼だって口には出さないだろうけど自分が止めていれば、と自分を追い詰めるだろう。これ以上、二人が俺のせいで自分自身を責めるのは見たくなかった。 だから言わなかった。 でも、もう全てが嫌になってきた、どこかにいってしまいたい。消えて、しまいたい。 なんで、なんで俺なんだよ。ちくしょう。泣きたくなんかないのに。 いやだもういやだ。 …こんなんじゃっ…。もういけない。 二人と約束したから、果たしたいのに。 このあしのせいで。…やっぱり約束なんてしなきゃよかった。なんで約束なんかしてしまったんだ。 …二人と、約束したら叶えられる気がしたんだ。本当は守れないとわかっていたのに。 でもやっぱり駄目なんだ。 もういやなんだ。意味のないって思う今してる治療も、あしを切断するって決めんのも、 そのあとの義足をつけてのリハビリも。 おれには、できない。もうなにも考えたくないんだ。せっかく助けてもらったけど。 …助からなかったほうがよかったのか。こんなことを思うのなら。 あのまま沈んで行ったほうが俺は幸せだったのかな。あの安らかな世界で、ずっと。 もう、わかんねえよ。        🐡 軋んだ音。 ドアの開く音。医者だろうか。目線をそちらに向ける。 あ。…違う。 「翔、なに泣いてんの。」 「なんか隠してると思った。話してくれよ、俺だって聞くからさ。」 俺の、二つ光がそこに立っていた。輝いて。そこに。翼と蒼。まるで、 「「俺たち三人の中で、隠し事はナシ!」」 辛い時に颯爽と現れるヒーロー、みたいだ。 俺の望んでいたものが目の前に。 あ…、ああ、 おれは。仲間を見くびっていた、みたいだ。 大切なことを忘れていた。俺が笑っていられたことの理由。 いつも自分の意思を貫けていたこと。 いっつも強気でいられたこと。 強いままで、ヒーローのままでいられたこと。 その全ての理由が今、わかった。 …ふたりがいるから。ふたりがいつも助けてくれたから。おれを、支えてくれたから。偶然にみせかけた奇跡があったから。 だからおれのせかいはいつも、やさしくてあったかくてキラキラしてたんだ。 ああ、そうか。大切なものに今、気づいたよ。ヒーローになんかならなくても良かったのか。 そんなものに執着しなくたって。二人はずっと側に居てくれる。俺が何もなくたって二人の側に居るように。 そう気づいた途端、俺の世界にいろが戻ってきた。まぶしいくらい、鮮やかなせかい。 こんなにも世界は広くて優しくて綺麗だったのか。 俺の世界が輝いて光を放つ。 …ああ。せめて。 目の前の二人に俺のできる精一杯の笑顔で感謝の言葉を伝えよう。きっと不格好で情けない笑顔だろうけど、それでも…いいんだ。どんな俺でも受け止めてくれる。 そう信じれる。いまなら。 「…ありがとうな。」 それを聞いた翼はいつもの呆れ顔で、蒼はいつもの笑顔で。それを見て俺は、いつもどおりの日常にかえってきたと、思ったんだ。 想えたんだ。 まだなにも解決なんてできていないし、していない。でも、もう大丈夫だ。 なんでもしてやる。もう諦めたりなんかしない。だって俺は独りなんかじゃなくてふたりの最強の味方がついてるんだ。だから、これからも、がんばって生きるよ。 生き抜こう。 どんなに辛くても…絶対にもう一回。 三人で今度こそ、 「魚の墓を見に行ってやるっ!」 泣くのはもう、たくさんだ。ふたりは一瞬驚いたように顔を見合わせ 「「あたりまえだ、ばか。」」 翼はいつもどおりクールに、 蒼はぽかんとしていたけれど… でも二人とも微笑みながらそう言った。 「おれの話聞いてくれるか?」 「…なに?早くいいなよ。」 「…おう!今度は俺が受け止める!」 深呼吸して。 「…あのさ、おれ―――          🐡  全部打ち明けたら蒼にはまたさらに泣かれ、翼にはなんでもっと早く言ってくれなかったのかと少し叱られた。でも、嬉しかった。二人が本気で向き合ってくれたから。         🐡  夜はもうとっくに更けて。普通だったらもう、寝ている時間になっていた。 「そーいや、おまえらなんでここにいるんだ?」 面会時間とっくに過ぎてるよな。時計を見ると夜の十時過ぎだった。しかも一回帰ってたのに。 二人の肩が揺れる。主に蒼の。 「いやあ~?気にしないでいいだろ、そんなことは!なぁ、つばさっ?」 「…まあ、こっそりと、ね。」 「ちょ、ばか!なんで言うんだよ!」 蒼はまだ鼻声だ。 「いいじゃん。三人の中で隠し事はナシなんでしょ?」 「…っそりゃそうだけどさぁ!」 翼はしてやったりって感じだ。 「つまり、俺にそこまでして会いたかったんだな!嬉しい、俺!」 「ほら、変な誤解するバカがいるから!」 バカ…って。ひどくね? 「誤解じゃないじゃん。蒼が心配だって言ったんでしょ。提案したのは僕だけど。」 「っそうだけど!」 あおっ…! 「俺は嬉しい!そこまで心配してくれてたなんて…!」座っている蒼に腕だけ飛びつく。 「ちょ、おまえ、鼻水!すぐ泣いてんじゃねえよっ!きたねえ!」 蒼が引き剥がそうとしてくるがそんな程度では俺は離れないぞ。しかも泣き虫なのは俺じゃなくて蒼の方じゃねえか!失礼だ! 「あお~っ!つばさっ!」翼の手も引っ掴む。 「…きたない。」すごい嫌そうな顔された。 「…静かにしてよ、ここにいるのみんなにバレちゃうじゃん。」 「あ!てかお前らこれからどうするんだ?」 「「どうって?」」 「まさかここに泊まるつもりかっ?」 「あたりまえじゃん。」 「そのつもりだけど。」 …こいつら実は俺よりバカ? 「朝、バレちまうって!バカ?お前らバカ?」 「うっさいハゲ。」 「大丈夫だって!」 「今は坊主でもハゲでもないし!ポジティブか!」 「…僕、保護者用のベットもそこにあるしそこで寝る。眠たいから寝る。もう遅いし。静かにしててね。おやすみ。」 もぞもぞとベットに潜り込む翼。それを見た蒼は「自由か…。もういいや。俺も寝るわ。おやすみ、翔。」奥のベットに潜り込んだ。 え、いや、お前も充分自由だな! …まあ…っいいか!俺もねよ。 「おやすみ。」 二人を起こさないよう小さく呟いた。 「「おやすみー。」」 「ちょっ、起きてんのかよっ!」 「うるさい。寝なよ。」 「そうだそうだー。」 「…。」 🐡 あしはまだどうするか決めていないけど、でもこれからいろんな人と相談して決めていこう。 もう諦めないし投げ出さない。三人でいくって決めたから。約束を果たすんだ。もう迷わない。 おれの生きているこのせかいは嫌いになる時もあるし憎い時もある。けど、 それ以上にやさしくてひろくてきれいだったんだ。 もう忘れない。これからもここで精一杯生きる。生き抜いて今度は三人で、もう一回魚の墓を見てやるよ。 寝て起きたらまた、大好きな日常が始まるんだ。それを楽しみに。 まぶたを下ろすよ。 真っ暗闇の奥底には広い広い銀河がひろがっていて。俺を応援するようにチカチカと、瞬いていたんだ。            🐡 さんさんと降り注ぐ日差しが眩しくて目を開けた。 朝が、来たんだ。寝ている二人にも届くぐらいの大声で、大好きな日常の始まりを告げよう。 「…っ、おっはよーっ!」 「わっ、なんだ?!」 「…うっさい…。」 「なんだよ翔かよ… 朝からうるさいなあもう。」 「おはよう!蒼も翼も!」 「はいはい、おはよ。」 「…んん…おはよ。」 「んんんん!最っ高な朝だな!」 俺がそう言うとふたりは眠そうながら、にやりとして頷いた。俺の大切な仲間たち。 キラキラで大切なひとたち。 これからも、よろしくな。 「よっし、今日も一日楽しんでやる!」 俺の声が小さな個室に響き渡った。 「うるさい。」 「ほんとにな。」 「…。」 🐡 俺たちの日常は元通りになった。いや、より良くなっていつも通りの日常がかえってきたんだ。 こんな日々がいつまでも続くことを願う。二人が島から出て行ったとしても、俺が出て行ったとしても、心はずっと繋がってることをもう知ってるから。もしも離れ離れになったとしてもずっと仲間だから。 なにも怖くない。もう独りじゃない。いやずっと独りなんかじゃなかった。俺が気づいてなかっただけだ。 本当に、さんにんで、ひとつだったんだな。 「翔!」 「かける。」 二人が笑ってる。 「なんだっ?」 「いつも、ありがとう。」 「…ありがと。」 驚いて、でも嬉しくて、口角が自然に上がる。 「こちらこそ!」ああほんと。幸せだ。 この後、二人が病室に居るのがばれて、色んな人達からこっぴどく叱られたのはまた別の話。 ◆◇🐡🐡🐡◇◆ 数十年後。 大人になった俺たちは、彼らに出会う。 光る虫を名に持つ彼と、 風に揺蕩う花の様な彼女に。 二人と出会ったことで、俺たちの関係は大きく形を変えることになるのだが、それもまた別の話。 今は未だ、「「「三人で一つ。」」」
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加