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大久保の外れの雑居ビル。
エレベーターで四階へ。
周囲にいる三人のネパール人は押し黙ったまま階数を表示するランプを見上げている。
エレベーターが止まった。
ドアが開き、凝った字体で“ダルバード·ダルバード”と描かれた看板が見えた。
おそらくネパール料理の店――カレー屋だろう看板の灯りは消えていた。
俺の前を歩いていたネパール人がダルバード·ダルバードのドアを開けた。
そいつを先頭に中へと入る。
薄暗い店内に淀んだ空気。
誰かが照明のスイッチを入れた。
店の奥に人がいた。
いっしまとわぬ裸体の女――両手両足を縛られ、タオルが口に巻かれている若いネパール人の女だった。
黒ずんだ乳首が細かく震えている。
女の裸を生で見たのは初めてだったが、正直吐き気を覚えた。
「この女はな」
俺をここへ連れてきたネパール人――バブラム·ダカル、通称BDが女の頭を小突いて話を始めた。
「オレの金を盗んで逃げ出そうとしやがった。さっき車の中でオレがいったことを覚えているか、兄弟の息子?」
覚えていた。
はっきりと。
「頭の悪いヤツは生き残れない。BDはそういっていました」
BDが笑う。
「お前は頭がいいな。死んじまった兄弟と同じだよ」
これからここで起こることが頭の中で渦巻ていた。
体は震え、吐き気がおさまる気配はない。
むしろ酷くなっている。
「この女には金がかかっている」
俺の震えはBDの甲高い声でないものとされる。
「日本円で二百万。カトマンズの商人にオレが払った。この奴隷の身体でそれ以上の金を稼ぐためだった」
他の男たちは無言で突っ立っている。
「だがな、時には金よりも大事なことがある。わかるか?」
俺は頷いた。
上手く声が出そうになかったからだ。
女のくぐもった悲鳴があがった。
BDが女の乳房を握りつぶしていた。
「ならいってみろ。その口ではっきりとオレが何をいいたいかいえ」
「面子……ですかね」
BDが口角を上げて笑みを広げる。
「この女はオレに借金がある立場だ。それなのにいきなり金を盗んで逃げようとしやがった。そんなヤツを生かしておいたらオレが舐められる。あぁ、BDは金を盗まれても酷いことをしない優しいヤツだってな」
身体の震えが大きくなる。
「それじゃオレの評判が笑えるものになっちまう。そう思わないか?」
俺は頷いた。
BDは懐に手を入れてナイフを放り投げた。
乾いた音を立てて床に転がった。
「拾え、兄弟の息子」
「BD……」
「オレが信用しているのは仲間だけだ。オレたちの国はお世辞にも恵まれてねぇ。だからこそ仲間意識が高く、助け合いが生活の根幹となっているんだ」
BDはナイフを拾った俺を見下ろしながら話を続ける。
「お前の親父はオレの家族だった。女のほうはとっくに逃げちまったから知らねぇが、これから生きていくために、お前はオレに信用されなきゃならない。お前は頭がいいんだ。オレが何をいいたいかわかるだろ?」
ナイフを取って立ち上がる。
BDがいいたいことはわかっていた。
女を殺せ。
BDは服従を求めている。
親父がそうだったように、自分に逆らわない忠実な犬を求めている。
一歩ずつ女に近づいた。
ナイフを向けると女が目を見開いて暴れた。
BDが女の顔面を蹴り上げた。
「殺らないと俺を殺すつもりなんですよね、BD?」
「おいおい、そんなつもりはねぇよ。オレはお前を家族に迎えてやろうっていってんだ」
嬉しそうに言うBD。
思えばここへ来る前から俺の人生は最悪だった。
親父は俺がガキの頃に事故で死に、おふくろのほうは顔も名前も、今も生きているのかすら知らない。
戸籍を登録されてなかった俺は、施設に預けられることなく今日まで盗みを続けて生き抜いてきた。
それから数年後、俺のことがBDの耳に入り、こいつは突然目の前に現れて一緒に来るようにいわれ、ここへ連れて来られた。
親父とは義兄弟だったというネパール人。
ついていっては不味いとわかっていたが、ヤツの部下に囲まれたのでついていくしかなかった。
BDと会う前に、路上で知り合いになった同い年の高校生の半端もんが、明日は卒業式だといっていた。
同じ盗みをしている立場でもあいつは大学へ行き、俺は使い捨ての犬にされる。
これを最悪といわないでなんというのだ。
いや、わかっていた。
ここへ来る前から嫌になるほどわかっていた。
人生は生まれた時から決まっている。
どんなに頑張ったって変わらないことがある。
子供は親を選べないし、環境も生まれる国も選択することができない。
盗みで食えていた俺はまだマシなほうかもしれないが、それでもとても割り切れるものじゃなかった。
これまでかなりの犯罪を繰り返してきた俺でも人を殺したことはない。
それでもやらなければいけなかった。
俺にはそれ以外の道が残されていない。
ここで怖気れば、BDは必ず俺を殺す。
目の前にいる、恐怖で歪んだ女の顔に視線を合わせないようにする。
そして、これからのことを考えた。
未来のことを考えた。
自分が生きることを考えた。
暴れる女をBDの部下が押さえつけていた。
知り合いの高校生のにやけ面が浮かんだ。
ナイフを突き出した。
乳房の下に刃がめり込んだ。
縛られた女の両足が俺の脛を蹴った。
ナイフをえぐった。
女は動かくなった。
「さすがは兄弟の息子だ。お前には度胸がある」
BDが笑っていた。
忘れていた吐き気がよみがえった。
「おい、たった今からお前はオレの息子だ。ファミリーにようこそ。流れる血は半分ちがうが、お前はオレのために働き、オレはお前の面倒をみる」
「BD……」
「きちんと働けばもうコソ泥なんてやらなくていいぞ。オレは他の連中とちがって金払いはいいんだ。いいもん食っていい女抱いて、これからはオレがお前を幸せにしてやるよ」
渡されたときに落としそうになっていたナイフが、今では指に張り付いたようになっていた。
流れる女の血がてにくっ付いて、俺を人を殺した事実から逃がさない。
「今日はもう帰って休め。家がねぇなら住むとこも用意してやる。明日からしっかり働いてくれよ、息子」
「女の死体は?」
「こっちで始末しとく。お前は心配するな。おいお前、息子を部屋まで送ってやれ」
BDが部下に指示を出し終わると、俺の顔を覗き込んできた。
「酷いことをやらせたな、息子よ。これは必要なことだったんだ。わかるな?」
俺は頷いた。
「わかっています。それと、俺もあんたを裏切ったら、この女みたいなるんでしょ……」
「そうだ、息子。オレを裏切ったら、誰だってこうなるんだ」
BDは笑いながらいった。
夢にも出てきそうな笑顔だった。
了
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