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むかしむかしある国に、隣り合う二つの領地がありました。
それぞれの領地を治める領主家は仲が良く、お互いの不足を補いつつ交易し切磋琢磨し、そこに住む人たちは豊かに楽しく過ごしていました。
季節ごとの持ち回りで、花見をしながら領主家どうしの親睦を深めるという恒例のお祭りの日、縁談話が持ち上がりました。
「実は何度か前のお花見で、うちのが見初めてしまったらしくてねぇ……」
「やあ、そうですか」
「もちろん無理強いはしませんよ。でも、考えてはもらえませんか。やはり親としては、いつまで経っても子には甘い」
「わかりますよ。でも、それは私もです。息子の意向を聞いてみませんと」
「顔合わせだけでも」
「ええ」
そういうことで、数日続くお祭りの間に隣り合う領主家の息子同士がお見合いをしました。急な話だったので、誰もいない広い庭を二人でしばらく散策するという形ではあったけれど、趣旨は聞いていたので、それなりに緊張しつつ。特に、申し出た方の息子が跡取りだったせいもあり、話を受けた方は悩んでいました。しかし、ほんの短い間ではあったけれど一緒に話していい人だなぁと感じ、自分にはまだ想い人がいなかったし、今までを振り返ればこの先も現れないような気がしました。未来の領主さまとはいえ、側室だし、何度か前の花見の席からずっと想ってくれていたのだという事実にも絆されました。
「ご自分の育った土地を離れることは大変でしょうが、私が一生大切にします。どうか」
「はい」
真剣なまなざしで言われて、嬉しく思いました。その後正式に婚約を交わし、サキは隣の領主家へ輿入れしました。ただし、正室として。
◆
「ああああ!!!サキさま!あなたって方はまたそんな格好で!!!」
「ごめーん!」
はじめまして、皆さん。私はチルリと申します。サキさまのお輿入れに際し、ご実家からお供して参りました者です。お輿入れ先からは何の不自由もさせませんとのことでしたが、お望みであれば人も荷物も好きなだけ携えてお越しくださいとも言われ、いくつかの家具や衣装と共に、こちらの領地へ参りました。以降、サキさまを一番近くでお支えしております。今日も今日とて、庭先での鍛錬に熱が入りすぎて上半身を露わにしているサキさまを叱り飛ばすという激務に励んでいる次第でございます。
「よろしいですか、サキさま。あなたの御連れ合いさまは先般とうとう先代よりその職を引き継がれ晴れて領主となられました。あなたはそのご正室。領主さまのご正室が、そんな格好で木剣を振り回すなどお控えください!と!何度申し上げれば!聞き入れていただけるので!しょう!かっ!?!!」
「うん、ちゃんとね、俺もそう思って稽古着を着ていたんだよ。でもちょっと暑くて、ちょっと汗かいちゃって、ちょっと脱いじゃって、そしたらちょうどね、ちょうどたまたまそこにチルリが通りかかったってわけでね」
「言い訳しない!」
「はい!」
ごめんね!とサキさまは快活に笑って、私の差し出した手ぬぐいで汗を拭いていらっしゃいます。こちらの領地では、領主さまは正室と住居を分けるようで、サキさまも新しく建てられたこの別棟に我々のようなお手伝いをする者と共におひとりでお住まいです。綺麗に整えられた庭もあり、領主さまのお屋敷とは長い廊下で繋がっています。きちんと警備をされているので部外者がうろつくようなことはありませんが、誰が見ているのかわかりません。それなのにサキさまは、油断するとこういうことをなさるわけです。
「鍛錬は、室内でなさってはいかがでしょうか」
「やっぱりねぇ、外の方が気持ちがいいから」
「……」
「気を付けるよ、チルリ。いつもごめんね」
サキさまは私よりも少し年上で、私のことをとてもかわいがってくださいます。褐色の肌に金の髪、そして藍色の大きな目。日々の鍛錬を欠かさない逞しい身体。私の自慢のサキさま。だからこの笑顔で謝られては、いつまでもは怒りが続かないのです。
「もう!そろそろお支度なさいませんと」
「うん、汗を流してくるよ」
「本日のお召し物はいかがなさいますか?」
「んー、いいお天気だから、空の色がいいね」
「かしこまりました」
近くに控えていた別の者が、さっと頭を下げて出かけてゆきます。本日は時々開かれるお茶会の日で、主催者であるサキさまの衣装の色を、他の出席者、すなわちご側室の皆さまに知らせるのです。私は湯殿へ向かうサキさまをお見送りしてから、お支度部屋で衣装を選んで待ち構えます。やがてさっぱりしたサキさまが入室されて、テキパキとお支度を調えます。つやつやの長い髪を梳いてきちんと編み、空色のお召し物とそれに合わせた履き物で完了です。サキさまはお昼の会食やお茶会の時は装飾品はおつけになりません。お支度が終わるとお茶のお時間までお相手をします。サキさまはいつもニコニコと私の話を聞いて笑ってくださいます。
「では、そろそろ」
「うん」
時間になり、私がそう言うと、サキさまは頷いて立ち上がり、ご側室の皆さまを出迎えるために玄関へ向かわれました。
サキさまというご正室以外に、領主さまには三人のご側室がいらっしゃいます。御三方ともこの領地のご出身で、その内のお二人についてはサキさまよりも先に領主さまに、その当時はお後継ぎさまでしたが、迎えられていました。
「ごきげんよう」
「ご正室さまにはお変わりのないようで」
「はい、おかげさまで」
立場の差はあれ、ともにこの領主家を支える者同士、手を携えねばなりませんということで続く慣習のお茶会です。サキさまの生まれ故郷、私もですが、あちらでは側室を迎えるということがあまりなく、お迎えしても一人が普通ですので、サキさまも最初は非常に戸惑っておられました。そもそもサキさまは自分はその側室なのだと思っておられたので、正室として迎えられて、自分に務まるとは思えないと消沈しておられました。ですが今は持ち前の真面目さで先代さまに教えを乞い、慎重に懸命にお仕事をなさっておられます。普段おおらかでのんびりしているサキさまですが、そういうところは非常にお心配りの細やかな方です。
本日のお茶会では、新しく増えるというご側室さまのことが最初の話題でした。私としてはたくさんの側室を抱える婚姻制度に疑問がありますが、この土地の文化慣習であるのであれば仕方がありません。サキさまはいつも通り他の方のお話を頷きつつ聞いていらっしゃいます。こういう席では、たいていサキさまは聞き役に回っておられるのです。
「四人は多くない?」
「わかる」
「こら」
「いやでも、四人目だよ。多いよ」
「わかる」
「こら」
ここはおおらかなお土地柄なのでご側室の皆さまも大変おおらかでいらっしゃいます。故郷はどちらかというとのんびりしたお土地柄で、のんびりからおおらかへお輿入れなさったサキさまはそもそものんびりでおおらかなので、ご側室方に馴染むのも早かったものです。
「サキさまはどう思われます?」
「トウマさまがお決めになったことですから」
「わかる」
「うん」
「でも多くないですか?」
「賑やかでいいと思いますよ。俺は皆さまと過ごすのが楽しいですし」
「わかる」
「うん」
側室が増えるとはいえ、領主さまが色ボケして次々妾を増やしているということではありません。ご側室の皆さまにはきちんと役割があり、どなたも実務者として領主家のお役に立つ人材です。ですので、側室というのは側近に近いのでしょう。様々な逸材を領地から出したくない、だからいっそ側室として囲ってしまうという側面が強いのかもしれません。しかし側室という肩書である以上、当然側近では起こらないことも起こるわけです。感情も、様々あるでしょう。サキさまとは違う形とはいえ、きっとそれぞれ領主さまをお慕いしているのだろうと思います。もちろん私のような立場の者が、詳しく聞けるわけではないので想像ですが。
「すごく若い子なんだって」
「ウケる」
「こら」
ご側室の皆さまも、それぞれに住居を与えられてそこに住んでいらっしゃいます。時々お使いで訪れることもありますが、そこはさすがにお立場が違うので、サキさまのこの家よりはこじんまりとしていて、領主さまのお屋敷と繋がる廊下もありません。サキさまは特別なのです。どれだけ側室が増えようと、領主さまに最も愛されているのはサキさまなのです。
ご側室の皆さまは、まだ見ぬ新しいお仲間の情報もほとんどないので、結局その後はいつものような雑談となり、散会となりました。
「本日も皆さま、お元気そうでいらっしゃいましたね」
「そうだね」
サキさまはその後、色々とお仕事をされました。領主家そのものを取り仕切るのはサキさまですし、歴代領主の残した資料や書物の管理などもあるので、暇になるということはありません。書斎で書き物などをされ、陽が暮れるともう一度、今度はじっくりと湯浴みをなさいます。そして念入りに身支度をなさいます。
「こちらのお召し物はいかがでしょう?」
「うーん……」
「お気に召しませんか」
「……もう少し明るい色はどうかな。変かな?」
「いえ、ではこちらにしましょうか。この色もとてもお似合いになりますよ」
「うん、じゃあそれにしよう」
領主さまはとてもお忙しい方です。朝から晩までお仕事をされ、ご領地内を何日もかけて旅をしながら視察されたりもなさいます。ですが、お屋敷にいらっしゃる日は必ずここへ来て、サキさまと夜の食事を共になさいます。サキさまにとって、それが一番大切な時間なのです。だから私も、この身支度の時が一番気合が入ります。髪を一筋の乱れもないように整えて、その日のご気分に沿う衣装選びをお手伝いします。領主さまの方から間もなくですというお触れが来ると、サキさまはおもむろに鏡の前に置いてある手のひらほどの大きさの箱を引き寄せ、中に入っている小さな耳飾りを取り出してご自分でお付けになります。髪と同じ金色のその耳飾りは、婚儀の際に領主さまから贈られた大切なものだそうで、領主さまと会うときにだけサキさまの耳元を彩ります。他にももちろん、折々に贈り物はありますが、サキさまはこの最初の耳飾りが殊の外お気に入りです。
やがて、玄関で鈴の音がしました。領主さまのご登場の知らせです。サキさまはそれを合図に玄関に控えて、頭を下げて領主さまを出迎えます。
「お待ちしておりました、トウマさま」
「お待たせしました、サキさん」
領主のトウマさまは、とてもご立派な方です。領主として領民に誠実で、長く続く領主家の主としての務めを、若いながらに真面目にこなしておられます。大柄で、あまり感情を表には出さず、言葉数も少ない方です。サキさまも屈強でしなやかな体躯ですが、領主さまは威風堂々という言葉がぴったりの頼もしいような印象です。
そんなお二人のお食事の時間は、サキさまがにこにことその日にあったことをお話になり、領主さまが頷きつつ相槌を打つ。賑やかではありませんが、お二人がとても穏やかで、サキさまも嬉しそうでいらっしゃるので、私は部屋の隅でその様子を拝見できるのがとても楽しいのです。
「明日、新しい側室を迎えます」
「はい」
「日中一人で挨拶に来るでしょう。晩は、私と共にこちらへ参ります」
「はい、承知いたしました」
「このところ朝晩は冷えます。風邪など、ひかないように気をつけてください」
「はい、トウマさまも、どうぞお身体にお気をつけてお過ごしください」
「ありがとう。では、おやすみなさい」
夕食を一緒にされると、領主さまはご自分のお屋敷へ戻られます。領主さまはいつもサキさまに丁寧に接し、優しい言葉をかけてくださいます。乏しい表情ながらも、お口元にはわずかな微笑みを浮かべて、必ず帰り際には次の日のお話をなさいます。明日また来ます。明日は来られないので三日後になります。夕飯は難しいですが、もう少し遅い時間に来ます。そうやって、サキさまにお約束をなさってから帰られるのです。サキさまはそれに何度も頷き、気遣い、時にはお待ちしておりますと答えて、お屋敷に戻られる領主さまの後姿を見えなくなるまで見送られます。
私は、領主さまはとてもいい方だと思っています。優しくて、誠実で、仕事にも励んでいらっしゃる。でも、好きではありません。少なくとも、サキさまの伴侶としては認めてたまるかと、そのように考えています。だって、領主さまはこの後ご側室のところへ行くのです。明日には四人に増えるご側室の寝所へ、夜な夜な通われます。サキさまはご正室としてここへ迎えられて以降、一度も領主さまのお渡りはありません。一度もです。サキさまは私に何もおっしゃいませんが、帰ってしまわれる領主さまを目で追うその横顔に、悲しみが滲んでいます。サキさまにそんな思いをさせる領主さまが、私は憎いとさえ思います。
「サキさま」
「……うん。今日の食事もとてもおいしかった。特に、あのお肉、すごくおいしかったよ。伝えてくれる?」
「かしこまりました」
「お茶が飲みたいな」
「ご用意いたしますね。お部屋へ」
「少し、庭にいようかな」
「はい、では、先に上着をお持ち致します」
「ありがとう、チルリ」
お二人の祝言は盛大でした。二つの領地に住む領民が、みんなおめでたいことだと手を叩いたのです。それなのに、なぜサキさまはこれほど寂しい思いをしないといけないのでしょうか。何のために、輿入れさせたのか?食事の相手ならそれこそご側室でいいのではないのか。領主さまの乏しい表情と平坦なお話のなさりようからは、何も察することができません。大切に扱われ、この家に仕舞われているサキさまは、このまま一体どうなってしまうのでしょうか。
ひんやりとした漆黒の闇の中に焚かれるいくつかの松明。その灯りに照らされて、サキさまがお庭に置かれた椅子に座っていらっしゃいます。サキさまは、望まれてこちらへ迎えられたのに、婚儀以降、ずっと、領主さまのお渡りを待つしかないのです。最初の季節が、終わろうとしています。
◆
翌日の午前中、領主さまのおっしゃったとおり、新しいご側室の方がサキさまのお屋敷へ表敬訪問に見えられました。お若いとのうわさ通り、本当にお若い方で、サキさまはニコニコと迎えられてお茶をすすめていらっしゃいます。
「ご正室さまにおかれましては、ご機嫌麗しいこととおよろこび申し上げます」
「ありがとうございます。わざわざご挨拶に来てくださって、感謝します」
「あ、いえ、その、右も左もわからぬ若輩者で、ご迷惑をおかけするかと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします」
「あはは。とてもご立派なことで、きっと大丈夫ですよ」
「いえ、そんな」
「アオさまは、どういったお仕事をなさるのでしょうか?」
「あ、はい、えっと」
サキさまはとてもお優しくて気さくな方で、先ほどから新しい側室のアオさまの緊張を和らげようといつも以上に朗らかに接しておられます。話に頷き、先を促し、お菓子をどうぞと微笑みかける。私のひいき目を差し置いても、アオさまはすっかりサキさまを好きになったようです。それはそうです。サキさまは大変な人格者で、平たく言えばとっても魅力的な人なのですから無理もないことです。
「あ、あの」
「はい、なんでしょう」
「……私に、側室が務まるでしょうか」
「トウマさまがお選びになったのです。きっと大丈夫だと思いますよ」
「そうでしょうか。実は領主さまとほとんどお会いしたこともなく、その、少し、不安で」
「うーん。あいにくお仕事のことは俺にもわかりませんのでお手伝いや助言は難しいのですが」
「あ、いえ、申し訳ありません」
「謝ることではないですよ。新しい環境に置かれて、お悩みがあるのは当然です」
サキさまは小さなお菓子をぱくりとお口に入れると、殊更に優しい声でアオさまににっこりと微笑まれました。先ほどからすっかりサキさまに心酔している様子のアオさまは両手をぎゅっと胸の前で握りしめて頬を赤くされています。
「トウマさまは、とっても素晴らしい方です。お仕えするのに、何一つためらう理由はありません。あの方のお役に立てることは、とても大きな喜びです。あなたもきっと、すぐにそれがわかりますよ。あとはひたすら、自分の務めにまい進するのみです」
「はい」
「もし何か困ったことがあれば相談してください。お役に立てるかもしれません。ああそうだ。鬱々とするときは身体を動かすといいですよ。よければ俺と一緒に鍛錬でもしましょう」
「た、たんれん、ですか」
「ええ。アオさまは身体を鍛えたりはなさらないのですか?」
「か、考えたこともありません」
「そうですか。すっきりしますよ。もちろん、ご側室としてのお務めの邪魔にならない程度にというお誘いですが」
「は、はぁ……えぇっと……」
「あはは。アオさまはおかわいらしいことですね。もう他のご側室の方々とは会われましたか?」
「いえ、後程ご挨拶に参ります。ご正室のサキさまに、まずはと思いまして」
「そうですか。ありがとうございます。俺にはわからないことも多々ありますので、いろいろ教えてもらうといいでしょうね」
「はい」
「こうなったのも何かの縁です。ともに、トウマさまをお支えしましょう」
「サキさまは、本当に領主さまのことがお好きなんですね」
アオさまのその言葉に、サキさまはびっくりしたように目を瞠りました。そして、柔らかく微笑んで、頷かれました。
「……はい。こころの底から、お慕いしています」
嘘偽りのないその言葉は、どうして領主さまに届かないのでしょうか。
◆
やがて日が暮れて、いつも通りサキさまは入念にお支度をされて、アオさまをともなって現れた領主さまを出迎えました。サキさまもアオさまも昼に会った時よりも盛装をして、お互いに頭を下げ合って、お夕食が始まりました。
「すでに挨拶を済ませたとアオから聞いています」
「はい。ご丁寧なご挨拶を頂きました」
「そうですか。アオはずっとあなたのことを褒めちぎっています。私の話など聞いていません」
「領主さま!!ご内密にとお願いしました!!」
「あはは。ありがとうございます。仲良くしていただけそうで、俺も嬉しいです」
「鍛錬に、アオを誘ったとか」
「もし気晴らしに身体を動かされるならご一緒にと申しました。差し出がましいことでございました」
「いいえ、羨ましいことです。アオはしあわせ者ですね。あなたは大変な手練れだと聞いてます。あなたに稽古をつけて頂けたら、アオも少しは逞しくなるでしょう」
「領主さま!アオはご正室さまに、自分の見苦しいところをお見せするのは恥ずかしくて」
「サキさんのご厚意を無下にしてはなりません」
「でもぉ」
「身体が健康であることは何よりも大切です。よい機会でしょう」
アオさまはぺそりぺそりと弱音を吐いて、それをご覧になったサキさまが笑顔で励まされて、いつもより食事の席は賑やかでした。他のご側室の方々もそうですが、サキさまはどなたとでも仲良く過ごすことのできる人格者でいらっしゃるとつくづく尊敬の念を深くします。そして、そんなサキさまの気も知らず、長くほったらかしにしている領主さまへの憎悪が強くなるのです。
やがて夕食は終わり、領主さまはいつもどおり玄関先で、また明日参りますとサキさまに約束をし、何か言いたげなアオさまと共に帰って行かれました。本日はアオさまの所へ渡られるのかもしれません。サキさまはお二人を見送り、私の方を振り返ると、寂しげに微笑まれました。
「楽しかったね。アオさま、いい方でよかった」
「はい」
確かにアオさまはとても素直でいい方のようでした。本当にサキさまのことが気に入ったのか、領主さまよりもずっとサキさまの方を見ていらっしゃいましたし、サキさまのことを聞きたいような素振りで、あれこれと質問され、領主さまに窘められるほどでした。サキさまはご実家でもご弟妹の面倒をよく見ておられたので、よく似た年頃のアオさまが可愛いのでしょう。そんなアオさまが、翌日も訪ねて来られました。さっそく鍛錬に参加するのかと、すでに日課の鍛錬を始めておられたサキさまは私に稽古着を出して差し上げてと笑顔でお言いつけになられました。
「いえ、サキさま、アオは鍛錬に来たのではございません」
「そうなの?残念だなぁ」
「あ、そんな、残念だなんてっ」
「ではどうなさいました?お茶の時間には早いようですが」
「……お人払いを、願います」
「え?」
「お願いしますっ!」
アオさまは真剣な顔で、サキさまにそう迫りました。サキさまは不思議そうに、それでも少しお待ちくださいと言い置いてお着換えに行かれ、その間に私はアオさまを庭の奥にある小さな離れにご案内しました。やがて身支度を整えたサキさまが戻られ、アオさまにどうなさったのですかと改めて尋ねられました。
「あ、あの」
「ああ、この者は俺の腹心だから、気にせず話をしてください」
「……はい」
「トウマさまのことでしょうか?」
私は内心身構えました。もしアオさまのお話の内容が、領主さまとの夜のことであったらどうしようかと。お渡りのないサキさまにとって、それは残酷なことです。息を詰めるように緊張してアオさまのご発言を待ちました。アオさまは小さく首を振りました。
「サキさまのことでございます」
「え?俺の?」
「はい。失礼なことをお聞きいたしますが、お許しいただけますでしょうか」
「失礼だと承知の上でわざわざお話に来たのであれば、それ相応の理由があるのでしょう?どうぞ、構いませんよ」
「ありがとうございます。えっと……サキさまは、ご出身がこちらではないというのは本当でしょうか?」
「ええ、隣の領地から参りました」
「そうですか。……そちらのお付きの方も同様ですか?」
「はい。俺の輿入れの際に、実家から連れてきたので」
「左様で、ございますか……」
「はい」
私の心臓がバクバクしています。もしや、領主さまは昨晩、アオさまに閨でサキさまのご実家のことを何か零されたのでしょうか。サキさまを傷つけるような陰口であれば、私は許せません。アオさまはグッと両手を握りしめて、サキさまを見つめました。
「……耳飾りを、昨晩、おつけでした」
「……へ?」
「領主さまの手前、あまりお傍へは寄れませんでしたのではっきりとは見えませんでしたが、夕食の席で、サキさまは耳飾りをつけておられたかと」
「はぁ……そうですね、つけていました」
「私が昨日ご挨拶に参りました時は、おつけになっていませんでした」
「はい。あなたを軽んじる意図はなくて、俺はあまり装飾品をつけません。他のご側室方とお会いするときも同様です。正式の場では、見苦しくない程度に着飾ってもらいますが」
「しかし昨晩のお夕食の席では、おつけになっていた」
「……ええ」
「今はつけていらっしゃらない」
「はい」
「なぜですか?」
サキさまは困ったように黙り込まれました。庇って差し上げたいと思うほど、沈黙は長かった。やがて小さく息を吐き、サキさまは口を開かれました。
「……あれは、あの耳飾りは、トウマさまから戴いたものです。トウマさまとお会いするときは必ずつけます。少しでもよく見られたいと、思わないこともありませんし、戴いたその場で、トウマさまがつけてくださって、……よく似合うと、言ってくださいました。それが嬉しかったのです。俺は、だから」
アオさまは、本当に失礼だと思います。人の身なりにとやかく言及し、サキさまの繊細な気持ちに踏み込んでくる。お渡りもなく、ただひたすら待つことを強いられる日々に、サキさまが領主さまとの思い出の品を愛しんで何がいけないのでしょうか。お控えくださいと、もう少しで言ってしまいそうでした。しかしアオさまは、パッとご自分の顔を両手で覆うと、声にならないような唸り声をあげて私とサキさまの度肝を抜きましたので、そんな言葉は引っ込んでしまいました。
「あ、あの、アオさま?」
「んんサキさま!!」
「は、はい」
「サキさま!昨日今日ひょっこり現れた側室風情が失礼を承知で申し上げますが、サキさま!サキさま超かわいいんですけど!?」
「なになになに!?」
「もー!超かわいいですよ、サキさま!そ、も、えー!??はああ!!??やばい、あー、これはヤバい」
「あの、アオさま……?」
「はーっ!!そうですかそうですか、このアオ、よーくわかりました!なるほどね、サキさまマジで推せるわー」
「おせる」
「なんていじらしい方なんでしょう!はーそうですか、似合うってね、言われて。領主さまにお会いするときだけ。んんん〜!はいはいはいはい……」
「あの、アオさま?大じょ」
「てかね、お付きの!あなたも!」
「は、はい、チルリでございま」
「チルリさん!あなたもね、さっきから黙っていらっしゃいますけど私へのバシバシの警戒心!いいですよ!いい!そういうの最高です!サキさまへの忠誠のあまり私を排除しようとするその心意気!!」
「は、あの」
「わかります、サキさまは素晴らしい!チルリさんのお気持ちもわかる、尊い!とても!」
なんだかよくわからないまま、アオさまが暴走しつつあります。アオさまがサキさま尊い!とか、サキさましか勝たんな!とか、ぶつぶつ仰っていてお話が全く理解できません。サキさまも目をパチパチしておられます。が、怯んでばかりもいられません。言うべきことはきちんと申し上げなければなりません。
「あの、失礼ですが、アオさま」
「なんでしょう!」
「私は同担拒否です」
「え!マジか〜!!!」
マジでございます。
◆
「あの、トウマさま」
「はい」
「もし、あの、お時間が許すようでしたら、お茶でもいかがでしょうか」
「……よろこんで」
「ありがとうございます」
しばらくのちの、いつもの夕食の後、辞そうとするトウマさまに思い切って声をかけてみた。じっと俺の方を見るトウマさまの顔がかっこよすぎて手が震える。応じてくれたのが嬉しくて、また手が震えた。チルリがさっと頭を下げて俺たちを別の部屋へ案内してくれる。普段使っていないこじんまりとした部屋で、トウマさまは長椅子の背に手を置いて、こちらへどうぞと俺を先に座らせてくれた。そしてご自分は、俺の隣に少しだけ距離を取って腰を下ろす。それでもこんなに近くでお話をするのは祝言の時以来かもしれない。心臓が暴れる。チルリがお茶を出してくれて、その甘い湯気を吸い込んで落ち着こうと努力した。やがて卓上が調うと、チルリは部屋を出て行った。
「サキさん」
「あ、はい。あ、お、お忙しいのにお引き止めして申し訳な」
「いいえ、お誘いはとても嬉しいです。ありがとう」
「……よかった、です。お誘いして」
たった一言が出ないまま、いつも背中を見送っていた。これは俺が悪い。手を伸ばさなければ、何も掴めない。地位に、正室という立場に甘えていてはいけないのだ。トウマさまのお振る舞いを言い訳に一人で勝手に傷つくのもいけない。勇気を出して、一歩前へ。
「……アオから、あなたに色々話したと、報告を受けています」
「あ、はい、あの、俺が色々聞いたのです。アオさまに非はなく」
「そうですか」
「……それで、あの、こちらの風習を、きちんと勉強しなかったことを後悔しております。どうぞお許しください」
「あなたが謝ることではありませんよ。この件は、すべて私が悪いのです」
「でも」
「こんな風習を、知らないことは何もおかしくはありません。私は、あなたに故郷から離れて輿入れして欲しい、大事にするから是非と求婚しておきながら、説明を怠りました。あなたがご存じないかもしれないと思っていましたが、でも、勇気がなくて」
「勇気、ですか」
「あなたが何もかも承知の上で、それでもあえて私を拒むという意思表示であるならば、もしもそうならどうしようと」
「そんなこと、俺は」
「確かめることはできませんでした。許してください。もしあなたが私と同じ気持ちでいてくれたとしたら、辛い思いをさせましたね」
凛々しい眉を下げて、トウマさまがじっと俺の目を見つめてくれる。傍で聞く声が、優しい。寂しい思いをしたことなんか、どうでも良くなる。同じ気持ち。俺と?トウマさまも、寂しいと思って過ごしていたのだろうか。
「アオは、あなたにどう説明しましたか?」
「あ、あの、耳飾りを、この最初の耳飾りをつけているうちは、領主さまは正室に渡らないと」
そう。あの日アオさまが教えてくれた。最初に贈られた耳飾りをつけている限り、領主さまはご正室に渡ることはできませんよと。渡ってきて欲しいのであれば、それを外してお出迎えしてくださいねと。それ以来、俺はずっとどうしようか悩んで、とうとう今日は外そうと思っていたんだけど、トウマさまにお話ししてからにしようって、結局いつも通り小さな金の輝きは俺の耳を飾ってくれている。俺の言葉に、トウマさまはゆっくり何度か頷き、俺の耳元を眺めて、そこへ指を伸ばした。触られる。そう思ってだけで心臓が跳ねたけれど、トウマさまは俺にも耳飾りにも触れずに手を引っ込めてしまった。
「その意味は」
「意味、ですか。申し訳ありません、そこまでは」
「これはね、サキさん、我が家の悪習なのです」
「悪習で、ございますか」
「ええ……お聞かせするのも恥ずかしいのですが」
「あの、お気遣いなく、トウマさまが話したくないことを聞くつもりはないです」
「でもあなたは、私の正室です」
「……はい」
ドキンと胸が高鳴る。そう、俺、正室なんだ。トウマさまに望まれてここへ来た、伴侶。聞きたいこととか言いたいこととか、今は多分遠慮する時じゃない。教えてください、と俺が言ったら、トウマさまは微笑んでくれた。かっこいい。
「うちは代々、当主が、すなわちこの土地の領主ということになりますが、とにかく厄介でしてね」
「厄介」
「一度誰かを見初めれば、その執着たるや常軌を逸します。絶対に誰にも渡したくない。そばにいて欲しい。自分以外に興味を持たないで欲しい。それは時として、その相手本人にさえ理不尽な要求となります」
「つまり」
「軟禁が一般的でしょうか」
「一般的で、しょう、か、軟禁が……」
「我が家では、という意味です」
「そう、ですか」
うまく理解できないけれど、我が家というのはこの領主家のことで、ここに輿入れした俺にとっても一般的な話として受け入れないといけないんだろうな。うん。軟禁か、ちょっと、想像がつかないけれど。
「もう少しわかりやすく言いますと」
「はい」
「あなたを見初めた私は、その瞬間からずっと、軟禁してしまいたいほどあなたに執着しているということです」
「あ、は、はい」
嬉しい。見初めたって言われた。短いお見合いをしてここへ来て祝言を挙げて、長らくトウマさまからそういう言葉をいただいてないから、嬉しさでじわっと汗をかくほど体温が上がって、顔が熱い。思わず頬に手を当てる。
「じょ、情熱的で、いらっしゃるんですね」
「サキさんは、本当に素晴らしい方ですね」
「え?あ、おかしなことを、言いましたか」
「いいえ。情熱、そうですね、そう言われると、そうかもしれません。でも、そんなに綺麗なものではないんですよ」
「綺麗、というのは、わかりませんが、誰かを好きな時は、綺麗事で片付かない感情も、たくさんあります。それはわかります」
「サキさんも?」
「もちろんです」
「それは、私への感情だと、思ってよいのでしょうか」
「俺は、トウマさまだけを、いつもお慕いしています」
ずっと言いたかった。トウマさまから求婚されてここへ来たけれど、俺だってトウマさまが好きなんだって。もしかして伝わってないかもしれないとさえ思っていた。そしてどうやらそれは、事実だったらしい。トウマさまは驚いたように目を見開いて、じいっと俺を見つめた。すごく綺麗な黒い目に、吸い込まれそうになりながら、もう一度言う。お慕いしています、あなたを、と。
「……言葉に、なりませんね、嬉しくて」
「そう、ですか」
「サキさんにそんなことを、そんな風に思っていただいて、嬉しいです。まさか、とても、信じられません」
「お慕いしていなければ、ここにはおりません」
「ええ……ああ、抑えが、効かなくなりそうです」
厄介だな。トウマさまはふうと息を吐いてそう呟きつつ、俯いて柔らかそうな髪を大きな手でかきあげた。色気!かっこいい!トウマさまかっこいい!!ドキドキして目が離せない。息を詰めてトウマさまの長い睫毛とかすべすべの肌とかを見つめていたら、パッと顔を上げたトウマさまと目があった。好きだ。しみじみ思う。
「……説明の、途中でしたね。すみません」
「あ、いえ」
「ご覧の通り、あなたの言葉一つで取り乱します。見苦しいことで、申し訳ない」
「全然です。トウマさまは、いつもかっこいいです」
「ありがとう。サキさんもかっこいいですよ。いつも、すごく素敵です」
「あ、ありがとう、ございます」
「我が家の当主は、私も含めて、本当は朝も昼も夜もなく、ずっと伴侶と一緒にいたい。いないと気が済まないタチなんです。一緒にいないと寂しがらせるだろうという思いやり。知らないところで誰かに奪われたらという不安。全てから守りたいという使命感。そういう根拠のない身勝手な諸々でね。でも、領主でなくなれば大事な伴侶を失うことになりかねない。ですから、嫌われたくない一心で、仕事だけはします」
「はい。トウマさまがお仕事に励んでおられるのは承知しております」
「拘束時間が長いでしょう。毎日朝早くから、日が暮れてもしばらくは仕事をします。正室への負担を減らすためにそのように決められているのです」
「そうだったんですか」
「逆効果のような気もしますがね。伴侶と過ごす時間を制限されればされるほど、その短い間にいかに安心を得るかということで無茶をしがちです」
「無茶、と、いうのは」
「乱暴は、しません。そんなことはできませんが、毎夜共寝をして、自分以外との接触を嫌い、自分への愛情を確かめたがる。私には今のところまだ理性がありますが、気を緩めればどこまでも亢進します。そういう日々が、ずっと死ぬまで続くわけです。我ながら正直非常に厄介です。この辺りの人間であれば我が家のそういう噂を聞くこともあるでしょうし、領主家に近いところから正室を選ぶ傾向にあるので、選ばれた側もこちらのそういう性格を察しています。でもあなたは違います」
「はい」
「我が家の異常さを知らないままこちらへいらっしゃった。説明もせず、騙し打ち同然です。今更と思われましょうが、そのことをまずお詫びしたい」
「その必要はないです。俺、自分で望んでここへ来ましたので。今のお話を聞いても、全然、後悔とかないです」
「しかしサキさん」
「俺のこと、す、す、好き、だから、そうなるん、ですよね?あの、嬉しいので。トウマさまに、その、えっと、情熱的に、扱われるのは、嬉しいです」
「…………ふーーーーーーーーーーーーーーー……」
「すっごい深呼吸」
「危ういところでした」
「ん?」
「あなたが耳飾りをしていてくれて幸いでした」
「あ、そうだ。耳飾りのお話でしたね」
「はい。この習慣も、当主への牽制です。婚儀の日に耳飾りを贈ります。異常に執着心の強い者があなたの身体まで手に入れようとしますが、それを受け入れる覚悟が、こころの準備ができれば外してくださいと。それまでは、こちらから一切手出しはしないという制約なのです」
「なるほど……」
「まあ、まだ手は出せないけれど、この人は私のものだという印の意味もあるという説もありますが、よくわかりません」
「はい」
「とにかく、私たちの横暴さから正室を守ることが第一義です。耳飾りを外してもらえるまでは、絶対に我慢です。でも、過去においてそれさえ守れなかった当主もおります」
「そうなんですね」
「はい。ですから側室をとります。側室は、正室を当主から守るための護衛です。執着の強い当主であればあるほど、側室が増えます」
そうだったのか。思いもよらなかった。ご側室の皆さんは確かに俺に親切だったし、いつも俺の味方だったけれど、まさかトウマさまと俺の間に立ちはだかる役割の人たちだったとは。
「私の場合は、あなたを見初めたと先代に告げた翌日には、幼馴染が側室となりました。監視役です。放っておけばあなたのご実家まで乗り込んでいきかねないと判断されたのでしょう」
「はあ……あの、ご側室の皆さまはとてもお優しく聡明で、素晴らしい方々でいらっしゃると思いますが」
「サキさん」
「はい」
「私の前で、私以外の人や物を、そんなに褒めてはいけません。拗ねてしまいますから」
「失礼しました」
「先ほど、アオのことも庇いましたね。あれもお勧めしません。アオを鍛錬にお誘いになったというあの話も、羨ましさのあまりはらわたが煮えくり返る思いでした。私は誘われていません」
「えっと、気をつけます」
「……言いすぎました。褒めても庇ってもいいですが、拗ねる私を嫌いにならないでください」
「それは、大丈夫です。嫌いになんてなりません。あの、でも、控えます」
「ありがとう。一人目の側室は、特に優秀ですね。私もそう思います」
「あ、はい。あの方はそう、優秀でいらっしゃいますが、幼馴染を側室にする風習があるのでしょうか?」
「いいえ、そういうわけではなく、側室は、当主を牽制できる者が選ばれます。あの男は付き合いが長いので私が何を考えているのか察したり、聞きだしたりするのがうまい。私があなたに関連して何かしようとしていると、すぐにバレます」
「なるほど」
「実際、あなたとのお見合いに漕ぎ着けるまでに何度も私の計画を潰しました」
「計画、でございますか」
「あなたの様子を、遠くからちょっと眺めに出かけてくるという計画です」
「はぁ」
「その他にも、色々です。今でもあなたへの贈り物は必ずあの男が確認しますし、そのおかげで、口に入れるような物は全部差し戻しになり、あなたの元へ届けられたことは一度もありません」
「そういえば、そうかもしれません」
「私はただ、旬の果物ですとか、そういった物を楽しんでいただきたいという思いで用意するのですが」
「はい」
「何を盛ったかわからないからダメだと」
「盛る」
「まあ、盛る当主もいましたから」
「盛る」
「もしあなたが許して下さるのでしたら、これからは、食べ物や飲み物も私が用意して一緒に楽しむことができます。嬉しいことです」
「あ、はい、俺も嬉しいです」
「やはりあなたの口に入るものを私が選んだり、私があなたに食べさせたり飲ませたりというのは、特別な行為のように思えますし」
トウマさまは穏やかに微笑んで、嬉しそうだけれど、なんかちょっと、俺の思っている食事風景とは違う情景を思い描いていらっしゃるように感じた。……食べさせたり飲ませたり?そんなこと普通、しない気がするけど。多少の相違はどうにかなるだろう。
「ご存知の通り、二人目は医師です。三人目も、四人目のアオも、あなたを守り、私を監視し抑制するのに適任である人物です」
「さようでございますか」
「私は、歴代でも執着が強いようです。先代も非常に心配していました。側室が四人に上るのは珍しいことです。……ですから、サキさん、もし耳飾りを取るおつもりでしたら、もう少し考えてからでいいと思います。今夜の私からの話を、もう一度よく」
わずかに目を細めて、俺を見つめて優しい言葉をかけてくれるトウマさまを見つめ返しながら、俺は躊躇いなく右の耳飾りをパチンと外した。小さなその音に、トウマさまの肩が揺れる。手のひらに転がるかわいらしい耳飾り。これからも時々つけることは許されるのかな。
「サキさん」
「俺、ずっと、トウマさまが振り向いてくださるのを待っていました。どうしたらお渡りがあるのかたくさん考えました。身なりを気にしたらそれに気づいて褒めてくださる。新しい話題には笑ってくださる。でも、いつも帰ってしまわれる」
「……」
「毎夜お渡りのあるご側室の皆さまが羨ましくて、嫉妬して、惨めで辛くて、いっそはっきりともう実家に下がれって言って欲しいって、思っていました」
「絶対に、帰しませんよ。あなたなしに私は生きていけません。夜を側室の家のどこかで過ごすのは、あなたのところへ忍び込まないようにという監視です」
「でもトウマさま、そんなこと一度もおっしゃいませんでした」
「……ですね」
「ようやく今、方法がわかったんです。トウマさまが俺のそばに来てくださる方法が。やらない理由がありますか」
「自分の不甲斐なさに、死にたいような思いです。大事なあなたに、そんな思いをさせたなんて、申し訳なく思います。許して欲しい。何でもします」
「じゃあ、外してください」
「……あなたは本当に、魅力的な方ですね。私を揺さぶることをこれほど次々になさるなんて」
まずかっただろうか。恨みがましかっただろうか。でもこの機会に本心を言えないようでは、この先きっともっと苦しくなる。外した右の耳飾りをぎゅっと手のひらに握りしめて、うっとりするほど美しいトウマ様の瞳を見つめる。
「もう少し、こちらへ」
トウマ様が、自分のそばの座面をするりと撫でて、そう言う。ドキドキしながら尻を滑らせて、トウマ様の方へ寄る。なんだかすごく恥ずかしくて顔を伏せた。トウマさまはまず、俺の右耳に指先で触れた。ぞくりと、背筋が震える。
「サキさん、こちらを外すとき引っ張っていたでしょう。いけませんよ。少し赤くなっています」
「あ、はい、でも痛くは」
「私が煽られてしまいます。赤い耳たぶのサキさんに」
「え、は」
「じっとしていて」
トウマさまの指や手の甲が、俺の首筋に触れて、耳に触れて、わざとかなって思うくらいその体温を感じさせられてから、丁寧に左の耳飾りを外してくれた。引っ張っていないのに、耳が両方真っ赤になっているのが分かる。耳どころじゃない。首から上全部が熱い。少し距離を取りながら顔を上げ、ありがとうございますとどうにかお礼を述べた。
「いつも、この耳飾りを見るたびに何とも言えない気分でした」
「はい」
「でも、我ながらよい趣味です。あなたにとても似合う」
「俺もすごく気に入っています」
「よかった」
爪までピカピカのきれいな指が、見事な細工の耳飾りを俺の手のひらに乗せる。二つ揃って転がる輝き。
「これを、あの、これで、もう」
「その耳飾りを側室に渡して、承諾されれば、私はあなたの寝所に渡ることができます」
「あ、なるほど、あくまでも、ご側室のお許しが必要なのですね」
「ええ。側室は、正室をよく観察することを命じられています。耳飾りを外す経緯について、そこに領主の不当な行為がなかったか、無理やり外させたり、説明を省いたり、嘘をついたりですね、普段の正室を知っていれば大体察せられる。そういうことがあれば当然、領主は罰せられます。あなたは永遠に、私から遠ざけられて守られます」
「あの、本当に、なんだか領主さまがおかわいそうな気が……」
「節度を弁えた領主であれば、側室からは小言程度で済み、正室と穏やかに暮らせます。自身の節制にかかっているので、何があっても自己責任です。お気遣いには及びません」
「はあ」
「耳飾りを外せば、という話も、中途半端な説明でしたね。申し訳ない。それを、側室へ、一人目でいいでしょう、あいつのところへ渡して、諾となれば、です。今ならまだ」
「渡してきます!」
「……サキさん、どうぞ、座って。私のそばにいてください」
勢いよく立ち上がり、耳飾りを落とさないように拳を握って扉へ向かおうとした俺を、トウマ様が止める。一人先走っている自分に気づいて、恥ずかしさに身もだえしながら、しょぼしょぼと腰を下ろした。みっともないところを見せてしまった。呆れていらっしゃるだろうか。そう思って俯いていたら、俺の拳をトウマ様が両手で包んでくれた。
「……あなたの許しもなく触れてしまったことを、お詫びします。そもそも、私はあなたに触れることを禁じられている身です」
「いいです。俺もう、耳飾りを外しています。そういう気持ちです。トウマ様の、お好きになさってください。困ったときは、ちゃんと言いますから」
「ありがとう。サキさん、あなたはどこにも行かず、ここに、私のそばにいてください。耳飾りは、私の使いの者に」
「あ、そう、ですね。思いつきませんで」
「あなたがこんな夜更けに、誰かの家に行くなんて耐えられません」
「でも」
「私の側室とはいえ、私以外の人間です」
「……今後は、致しません」
「ありがとう」
ぎゅっともう一度俺の手を握ってくれて、トウマさまは微笑んで手を離す。それが寂しい。そしてトウマさまはご自分がいつも連れていらっしゃるお供の方を呼んだ。現れたその人に、俺が立ち上がって耳飾りを渡そうとしたら、少し困った顔をされた。不思議に思っていたらトウマさまも立ち上がって俺に手のひらを差し出す。
「サキさん、私に」
ああそうか。この人はトウマさまのお使いの方だから俺からお願いするのはだめなのか。無礼をしてしまった。小声で詫びながら慌ててトウマさまに耳飾りを託す。いってらっしゃい、頼んだよ、俺の大事な耳飾り達。
「至急だ」
「はい」
お供の方との間にトウマさまがいて、お二人のやり取りをトウマさまの背中の向こうに聞きつつ、こちらが見えていないだろうと思いながらも出て行かれるお供の方の気配に頭を下げて見送る。扉の締まる音とともに、結構傍に立っていたトウマさまがくるりとこちらを向いて、俺をじっと見る。かっこいい顔だな。
「サキさん」
「はい」
「……もうそろそろ呆れられるかもしれませんが、私以外の誰かに、その手から何かをお渡しになりませんように」
「え」
「今はあくまでお願いですが」
「あ、いえ、承知いたしました。なるべくそのように」
「……我ながら、みっともないお願いであると、そうは思うのですが」
「ふふ。トウマさまはおかわいらしいことをおっしゃいますね」
「……そうでしょうか」
「トウマさまは、俺がトウマさま以外の方と直接やり取りをするのが落ち着かないのですね」
「……はい」
「気を付けます。でもお気づきかもしれませんけど俺そそっかしいところがあるので、遠慮なくご指摘を」
「サキさんのそそっかしいところを、まだ私は見てません」
「え?そうですか?さっきも」
「どなたか、そういうところを見たのでしょうか」
「えーっと……どう、かな、気をつけてはいるので」
「私だけに見せて欲しいです」
「はい。承知しました。でもそそっかしいところを何度見ても、俺のことを嫌いにならないでくださいね」
「なりません。私は一生、あなたを嫌いになったりしません」
「トウマさま」
「ずっとです。ずっと、私はあなたを愛しています。一生懸命大事にします。どうか、それを受け止めて欲しい」
「あの……嬉しいです」
「本当ですか」
「はい。俺も、ずっと、トウマさまのことを大事にします」
愛しているなんて、ちょっとまだ、俺は言えない。恥ずかしいというか照れてしまうというか言葉が強すぎて。間違いなく愛しているけど、少し気後れしてしまう。だからまっすぐに俺の目を見て言い切るトウマさまは、やはり情熱的だと思う。俺も愛してますと伝えたくて、意を決してトウマさまの手を握った。
「……もしその手順を踏まなければどうなりますか」
「え?」
「ご側室の皆さんのお許しなく、その、……」
もうすぐ、ちゃんとトウマさまの愛情を与えてもらえる。言葉だけじゃなく、全身で俺を愛してくれる。でもそれを思うほど、待ちきれなくてどうしようもない。トウマさまは俺の手を握り返してくれて、座りましょうと促してくれる。長椅子に、お互いの膝が触れ合うほどの距離に腰を降ろし、ずっとトウマさまを見つめていた。
「……いかなる理由があれ、もう二度と、側室の同席なしにあなたとお会いすることは許されないと思います」
「そんなに!?」
「そんなにです。そのくらい、私はあなたに危害を及ぼす者とみなされていますし、それは概ね正しい」
「……」
つなぐ手に、力を込める。どこまでなら、いいだろう。俺に触れることを禁じられているっておっしゃるけど、俺からならいいのかな。手をつないだり、こう、抱きしめたりはいいんじゃないだろうか。く、くく、口吸い、とかはどうかな!?そんな不埒なことを考えていたら、じっとトウマさまの口元を見つめてしまう。白い肌に映える薄赤の唇。情熱的な言葉を紡ぐこの唇に触れられたらどれほどの心地がするだろう。
「……サキさん」
「はい」
「そんなに見つめられては、私も我慢ができなくなります」
「……ご側室からのお許しは、どのくらいかかるのでしょうか」
「私も初めてのことですので、わかりません」
「そうですか……」
「……早く、来るといいのに」
美しい唇でそう呟いて、トウマさまがそっと私の頬に触れる。ああ、グラグラする。我慢のしどころ耐えどころ。もちろん理解している。一時の感情でこれからを棒に振ることはできない。でも、それでも、長く抱えてきた感情が誤解だったと明らかになって、彼を手に入れられる瞬間まであと少し。箍が外れそう。心なしか、トウマさまの顔が近づいている気もする。ちょっとだけ、その唇に触れたい。触れて欲しい。
「サキさん―──」
「まだ許してねぇだろうがこのバカ領主がっっっ!!!!!」
大きな音で扉が開き、怒号と共に姿を現したのは、トウマさまの幼馴染から最初のご側室になったユキさまだった。あまりのびっくりに尻が浮いた。危なかった。マジで今接吻する寸前だった。俺はほとんど目を閉じていたし、トウマさまの吐息を感じたくらい近づいていた。
「ユキ、うるさい。騒がしい」
「あ、あの、ユキさま、これは」
「サキさん、私以外の人とこんな夜分に会話をしないでください」
「いやそれはさすがに」
「こんばんは、ご正室さま、ご機嫌うるわしゅう。トウマ、ちょっと来い」
「いやだ」
「いいから来い。ご正室さまに、聞かれたくない話だ」
「私はサキさんに隠し事などしない」
「ほーお?」
「…………サキさん、私はあなたに隠し事などしません。でも、ユキは私のして欲しくない話をするつもりかもしれません。ですので」
「はい、あの、ユキさまと、ゆっくりお話しください。あ、なんなら俺が席を外しましょうか」
「いいです、サキさま。あなたはどうぞ、そのままで」
「ユキ、サキさんに話しかけるな、お前は」
「わかったからさっさとしろ」
ユキさまはいつもと印象がまるで違う。普段お茶会だとか晩餐会だとかでご一緒するときは、他のご側室の方々とも俺とも穏やかに気さくにお話しする人だった。誰かの意見を真っ向から否定したりしないし、指図もしない。みんなに話を振り、微笑みながら、そうですねぇ、と頷かれる。なのに今は、トウマさまを呼び捨てにして、言葉も少し乱暴で、まあこれは幼馴染でいらっしゃるから不自然ではないけれど俺は聞いたことがなかったから驚いただけだ、とにかくトウマ様よりよほど意志の強さを感じる。顔がまったく笑っていらっしゃらない。でも先ほど聞いた通り当主の暴走を止めるのが側室の役割であるとすれば、おかしいことではないかもしれない。暴走しかけたのは俺だけど。
呆れたように大きなため息を吐くユキさまが戸口で腕組みをしている。うんざりだというように大きなため息を吐くトウマさまは、俺にすぐ戻りますからと言い、億劫そうに立ち上がって、ユキさまに促されるままに部屋を出た。そして扉が閉まる。ユキさまが内側から閉めたのだ。つまりトウマさまを締め出した。
「え?」
「ユキ!お前!ふざけるな!」
「ちょっとそこで待ってろ」
ものすごい大きな音で、扉が外から連打される。そんなに叩いては、拳が傷むのではないだろうか。俺はどうしていいかわからずおろおろと立ち上がった。ユキさまは今にも蹴破られそうな扉を背に、やれやれと肩を竦める。
「はー……本当に、こんな男でいいのですか、サキさま」
「え?」
「この男は今、自分が締め出されたことに怒って暴れているのではありません。あなたと離れたこと、あなたの近くに自分以外の誰かがいることが受け入れられなくて頭に血が上っているのです」
「は、はい」
「俺があなたとどうこうなるはずがないと、あいつも理解している。頭ではわかっていても、こんな日常でいくらでも起こるような状況でさえ咄嗟には耐えられない。今まではどうにか我慢してきたけれど、あなたが耳飾りを外してくれてもう暴走し放題。誰も止められません。もうすぐこの扉も破壊するでしょう」
「あの、えっと」
ユキさまの言葉通り、聞こえる音は抗議の音から完全に扉を破るための音に変わっている。ぴたりと背をつけているユキさまの身体が衝撃で揺れるほどだ。
「いいのですか、サキさま。これはあの男の苛烈な感情のほんの一部、それもマシな方の一部です。この先寄り添って生きていく長い年月、あの男がこの感情を抑えることは絶対にありません。易々と度を越し、際限なく増長し、あなたに執着し続けます。耐えられますか?終わりはありません。今なら我々が責任をもってこの男をどうにかします」
扉の外で、トウマさまの声がする。俺の名を呼んでいる。ユキさまに何か言っている。じっと俺を見つめるユキさまは、本当に今まで知っているユキさまとは別人のような顔をしている。俺はぎゅっと両方の拳を握った。
「俺は、トウマさまをお慕いしております。あの方に、正面切って向き合います。逃げません」
あの人が好きだ。四人がかりで抑えなきゃいけないと判断されるほど俺への執着を見せるあの人が好き。だから、誰かに、本人に、いいのかと念を押されるまでもない。その人は、俺のものだ。
ユキさまはパッと目を見開き、へにゃりと笑った。
「ずっと思っていました。あいつのお相手があなたでよかったと。あいつ見る目あるなぁ。サキさま、これは側室ではなく、幼馴染からのお願いです。どうかおしあわせになってください」
「間違いなく、承りました」
「ありがとう。我々は変わらず、あなたの味方です」
ユキさまは扉から身体をずらし、鍵を外した。その瞬間、扉がおかしな角度で開き、ぐらつきながら壁に激しくぶつかる。突進するように俺に駆け寄るトウマ様の顔は真っ赤だ。額に汗がにじんでいる。ああ、かっこいい。
「ご、ご無事ですかサキさん!?」
「ええ、もちろん、俺は何も。トウマさまは大丈夫ですか?あの、手が」
「あなたの姿が見えないと気が気では―――ユキ!お前!」
トウマさまが俺を背に庇い、すごい剣幕で戸口の傍らに立つユキさまに怒鳴る。ユキさまは、いつも通り恭しく頭を下げた。
「この度の耳飾りの制約の解消につき、ご正室さまのご同意を確かに賜りました。従いまして、領主さまにおかれましては、ご正室さまへの様々なご禁制がすべて解かれますことを側室を代表してお伝え申し上げます」
「……」
「おや、お喜びにならないのですか」
「……喜んでいる」
「でしょうね。本日はたまたま四人が私の屋敷で集まっておりましたので話が早かったのですが、いくらでも待たせることはできたのに、明日にしたってよかったのに、わざわざ足を運んだ私に感謝して欲しいものです」
「……」
「私に怖い顔をしても無駄です。領主さま、よもや私が参ります前にご正室さまに触れてはおられませんでしょうね?」
「……」
「手を握っておられたように見えたのは、私の見間違いですよね?」
「……」
「領主さま、ほんのわずかのことで、あなたはご正室さまと二度と二人で過ごすことはなくなります。この度の制約解消が未来永劫の免罪符ではないと肝に銘じておかれますように」
「……わかっている。もういい、下がれ」
「お慎みをお忘れなく」
「わかったと言っている。ユキ、お前こそさっきサキさんを名で呼んでいただろう。口を縫うぞ」
「お聞き違いでは?」
にこりと微笑むユキさまは、もうすっかり見慣れた頼りがいのある側室の筆頭の顔だった。トウマさまの肩越しにそれをじっとみつめていると、俺の視線に気づいたのかトウマさまが俺を振り返る。
「サキさん、いけません。そんなに誰かを見ては」
「あの、ではトウマさまからユキさまにお礼を言ってくださいませんか。夜分にこちらまで来てくださって、いろいろお気遣いを」
「ユキがあなたに気遣いを」
「いえ、ユキさまはトウマさまにお気遣いをなさいました。僭越ではありますがトウマさまへのご厚意にお礼を述べたく思いました」
「……」
「お礼を」
「………………ありがとう、ユキ」
「どういたしまして。では、これを」
ユキさまが笑いを堪えながらトウマさまに差し出したのは、小さな硝子の箱だった。収められているのは俺の渡した耳飾りだ。
「ご正室さまにおかれましては、思い入れのあるお品でございましょうからお返しいたします。身につけることはなくとも、飾って眺めることを控えることはありません」
「あり」
「ありがとう、ユキ」
「それからこれは、側室からご正室さまへのご案内です。領主さまがご覧になること罷りなりません」
「……」
「あなたのいらっしゃらないところでご正室さまに渡すこともできますが、あえて正々堂々目前でお渡しします。ご正室さま」
「あ、はい」
ユキさまと言葉を交わすことを極端に嫌がっておられるのか、お礼の一つも言わせてもらえない俺だけど、さすがにここまで言われて呼ばれればトウマさまは身体をずらして俺とユキさまを対面させてくれた。ユキさまの手には書状がある。
「なるべく早めに、お一人の時にお読みください。お読みになった後は破棄を」
「はい」
「内容を領主さまにお伝えすることはお控えください。領主さまもお尋ねになりませんように」
「なぜだ」
「ご正室さまのある限り、我々はご正室さまを守る務めがございます。その任務の前に領主さまのご機嫌など忖度されません」
「……わかった」
「では、確かに」
俺は、ユキさまから差し出された書状を受け取り頭を下げた。ユキさまも頭を下げてくれた。何が書かれているのかわからないけれど、うっかりトウマさまに話してしまわないように気を付けないと。俺はチルリを呼び、その書状を預けた。チルリは先ほどのトウマさまの大暴れにびっくりして壊れた扉からちらちらと覗いていたので、俺たち三人が無事であることに安心したようだ。
「俺の机の引き出しに頼むね」
「かしこまりました」
一緒に、トウマさまが返してくれた耳飾りも任せる。チルリは嬉しそうだった。にこりと笑って、足早に部屋を出ていく。
「それでは、私もそろそろ」
「ああ、早く帰れ」
「領主さま、明日もお仕事はいつも通りですので」
「早く帰れ」
「はいはい」
トウマさまが半壊した扉の所に、耳飾りを運んでくれたトウマさまのお付きの方とユキさまのお付きの方がにこにこと立っている。その向こうに、戻ってきたらしいチルリも見える。ユキさまは丁寧に暇乞いの挨拶をされて帰って行った。俺はチルリに下がっていいよと声を掛け、トウマさまもご自分のお付きの人に何か言って、彼は出て行った。ということで。
「サキさん」
「はい」
「ようやく、あなたと二人になれました」
「そうですね。なんだか、色々あって、まだドキドキしています」
「……その……、すみません、とても取り乱して、あの」
「え?ああ、はい、トウマさまも、あんな風に慌てたりなさるんですね」
「はい……」
「新鮮でした」
「……かっこ悪いところを、よりにもよってあなたに見せてしまい、今非常に落ち込んでいます……」
「かっこ悪くはなかったです。手は、大丈夫ですか?」
「はい。サキさんを見習って、私も多少は鍛錬しておりますので」
「そうなんですね。きっと俺よりお強いことでしょう。俺はあの頑丈な扉をあんな風には出来ないかもしれません」
「あの、今修理の手はずを指示しましたので。すぐに直しますから。不便をかけることを申し訳なく思います」
「そうですか。ありがとうございます。普段使わない部屋ですので、急ぎませんが」
「自分の汚点をなるべく早く消したく思います」
「あはは」
立ち話もなんだし、この部屋の扉は壊れている。耳飾りの謎は解け、俺たちの間に壁はない。じゃあ、もう、いいのでは?じっとトウマさまをみつめると、俺の手を握ってくれた。
「あなたの閨に、連れて行っていただけますか?」
俺はこくりと頷いた。
◆
俺の寝所は、この屋敷の一番奥まったところにある。静かで手ごろな広さで、実家から持ってきた棚や絵が置いてあってとても居心地がいい。せっかくだからトウマさまにいろいろ紹介したいところだったけれど、部屋に入った瞬間に寝台に押し倒されたのでそれどころではない。忙しない息遣いと衣擦れの音。身体をまさぐられて、緊張している暇もない。
「サキさん」
「は、はい」
「本日はあなたに私のだめなところをすっかり知られてしまって今さら取り繕うこともできません。なので、開き直って尋ねます」
「え?はい」
「……過去、こういうことを誰かとしたことはありますか」
「いえ、ないです。初めてです」
子供のころ手を繋いで誰かに好きだよ!とか言ったことはあるけれど、こういう行為はない。そもそも俺は鍛錬とかに夢中で、曲りなりにも領主家の人間だからあまり人との出会いもなかった。トウマさまが俺を見初めてくれなければ、きっとこういうことやこういう感情から縁遠い日々を送っていたと思う。
「トウマさまだけです」
「……嬉しいです。私もです」
「え、そうなんですか」
「はい、でもあの、不慣れではありますが精一杯頑張りますので、どうぞ」
「不安はありません。トウマさまなら何をされてもいいです」
お互い初めてで嬉しいという感情はあまりないけれど、トウマさまがこういう経験がないのは意外だった。普段落ち着き払っていらっしゃるから時々失念するけれど、この人俺より年下だし、おかしな話ではない。頑張ってくれるって、ふふ、なんか今日のトウマさまはかわいいなぁ。
「すごい……たまらないな……」
「ん、ん……」
宣言通りトウマさまは励んでくださり、丁寧に準備を施された俺のそこは、痛みなくトウマさまを受け入れることができた。少しずつ入ってきて、これ以上広がらないのではというほど広げられて一番太いところが通り過ぎた時、さすがに声が出た。トウマさまはそのまま動かず、俺の頬を撫でてくれる。
「痛みますか?」
「いえ……は……少し、驚いて、あと、安心しました」
「え?」
「あの、もっと苦労するかと、覚悟していて、トウマさまにお任せして、うまくいって、よかったです」
トウマさまは目を細めて、俺のおでこに唇を押し当てる。本当に、トウマさまの唇は柔らかくて心地いい。指を絡めてつないでいた手を、トウマさまがそっと解く。
「あなたと身体を繋げられて、私もホッとしました。感無量です」
「よかったです」
「下世話な話ですが、本当に、あなたの中は気持ちいい……」
吐息と共に呟きながら、トウマさまが親指と人差し指で小さな輪を作って、おもむろに、すっかり勃ち上がっている俺の陰茎の先端に押し付けた。
「あなたのあそこは本当に狭くて、傷つけてしまわないように、ゆっくり、こう」
輪を少しずつ弛めながら、俺の亀頭に滑らせていく。挿入の疑似体験は、腰が浮くほど気持ちいい。
「あ、あ……!」
「そう、気持ちいいですよね、私も声を堪えるのに苦労しました。ゆっくりゆっくり、あなたの中に」
「あ……!」
ぬるんと、カリのところが輪を通り抜ける。ゾクゾクした。震える。トウマさまはそのまま柔らかい掌で俺の亀頭をすっぽりと包む。
「今、同じですね。私も、ここだけあなたの中に」
「あ、あの」
「はぁ……もう少し、中に、いいですか?」
混乱して、俺は頷くしかできなかった。トウマさまが片手を俺の頭のすぐそばに突いて身体を傾け、唇を重ねてくれる。嬉しくて目を閉じた。ゆっくりと自分の内側が押し開かれる感覚と、同じようにするするとトウマさまの手が下がり根元まで手で覆われたと思ったら、自分の中が奥まで満たされていて、混乱は最高潮で、身体が何度も跳ねる。舌がゆるく噛まれて、口を塞がれたまま大きな声が出る。
「最高です、サキさん、気持ちいいです。サキさんは?」
「あ、あの、あ、おれ、あ、あ」
「かわいい……かわいいです、サキさん、食べてしまいたい、サキさん、サキさん」
「と、ま、さま……!」
「何もついていないサキさんの耳たぶ、綺麗ですね」
トウマさまは手と腰を動かして、俺を悦楽の中に引きずり込んでいった。溺れるほど深く、愛してくれた。トウマさまが嬉しそうに笑って、俺の耳たぶに何度も歯を立てて、そのわずかな刺激で身体が熱くなる。俺はトウマさまの名を呼んで、しがみついて、信じられないような多幸感でいっぱいになった。俺を一生懸命大事に抱いてくれるトウマさまが愛しくて、かわいくて、こんな執着なら大歓迎だと思った。本気でそう思ったんだ。
◆
「ご正室さまには、本日もご機嫌うるわしゅう」
「ありがとうございます。おかげさまで。皆さま方も、お変わりございませんか」
「ええ」
「うん」
「はい!」
時折行われる正室と側室のお茶会に、五人が揃って笑顔で挨拶を交わす。晴れた午後の風が気持ちいい。
「領主さまとは、いかがお過ごしですか」
「ここ三日ほどお顔を拝見しておりませんね」
「えっっ!!!!!!!!??!」
三日!?三日って言った!?三日もあの男が自分の正室と会わないなんて死んでるんじゃない!?
四人の側室はまったく同じ反応を示し、顔をひきつらせた。俺は茶器を手に、少し首を傾げる。
「三日って……えー……でも昨日も一昨日も、普通でしたよ。今日はおやすみですが」
「そうですか。俺との喧嘩で仕事を疎かにするなどあってはならないことですから、安心いたしました」
「意地になってる」
「うん」
「あ、あの、サキさま、喧嘩ですか?喧嘩したんですか?ト……領主さまと?」
「ええ、まあ。お恥ずかしいことです」
「いや、別に、恥ずかしいことではないと思いますが……」
ただ、信じられないだけで。ユキさまはそう小声で言って、眉間に皺を寄せている。
「喧嘩というとなんだか子供のようですけど、意見の合わないことで言い合いになって、お互い譲らない状態で膠着している次第です」
「喧嘩だね」
「うん」
「こら」
「サキさま!アオはいつでもサキさまのお味方でございます!!」
「よく喧嘩になりますね?領主さまが、サキさまの意見に頑なに反対なさっているということですか?」
「はい」
「サキさまも、お譲りにならない」
「譲れません」
「……」
「……」
「サキさま!アオはサキさまの意見に賛成でございます!」
「……差し支えなければ、その、えーっと」
「俺の世話をしてくれるチルリとの距離が近すぎると言われまして」
「あー……」
「それはねぇ……」
「うん……」
「チルリさんはアオと同担仲間なのに!?ひどい!!」
「俺はチルリがいなければ、トウマさまをお迎えする支度も整いませんと申し上げましたが、今後はお世話をしてくれる者をたくさん雇い、名も覚えない程広く浅く接するようにとのご忠告でした」
「……なるほど」
「いたしかねますと、お答えしました。それでは困りますと、重ねてのご忠告があり、それ以降、お顔を見ておりません」
「夜のお食事は、サキさまがこちらへいらっしゃってからずっと一緒になさっていたと聞いておりますが」
「はい。でも、それもご遠慮いただいております」
「サキさま!サキさまの意志の強さ、アオは大好きですっ」
トウマさまは以前と変わらず夜の食事時には訪ねてきてくれているけれど、考える時間を下さいと伝えているので、花や本など、持参された俺宛の贈り物を家の者に預けて帰って行かれる。会いたい。でも、チルリを手放すことはできない。
「サキさんは、私の希望を汲んでくださらないのですか」
「できることとできないことがあります。俺にとってチルリはかけがえのない子なんです」
「サキさんがそうやって彼を特別に扱うので、私は穏やかではいられないのです」
「おっしゃる通り、チルリは俺にとって特別です。俺のことをよくわかってくれていて、ずっと俺を支えてくれています」
「私がお支えします」
「トウマさまと思いが通っていなかった辛い時期を支えてくれたのはチルリです」
「今は私がおります」
「トウマさまとチルリは別の存在です」
「もちろんです。私はあなたの伴侶です」
「トウマさま。俺はチルリを傍に置きます。それを受け入れて欲しいと思います」
「できません。あなたの傍に、私以外の特定の人間がいることを我慢できません」
「気にしなければいいのではないでしょうか。実際、トウマさまはチルリとほとんど顔を合わせないでしょう」
「顔を合わせるかどうかなど些末なことです。あなたのその髪を結ったのも彼なのですよね?あなたの色々を、あなたの気に入りの一人が段取りしているかと思うと」
「ええ。この髪を結ってくれるのも、着替えを用意して手伝ってくれるのもあの子です。おかげでトウマさまにお褒めの言葉を頂ける俺が出来上がります」
「あなたは裸でも十分魅力的です」
「裸で過ごしましょうか」
「サキさん」
「トウマさま。俺の伴侶はあなたです。あなたを大切に思います。でも、トウマさまはチルリの代わりは出来ません」
「私は彼の代わりになりたいと言っているのではありません。あなたの世話をする者が必要なのも理解している。でもその者にあなたが特別の好意を、親愛の情を、向けることが我慢ならないと言っています」
「俺は俺の世話をしてくれる者全員に好意があります。庭師も料理人も含めてです。トウマさまの思い通りにしようと思えば、誰もが顔を隠し、個人を特定できないようにこの家のことと俺のことを手伝ってもらうほかありませんが、そうなったとしても俺は彼らに感謝し好意を」
「サキさんはとても愛情深くていらっしゃる」
「嫌味でしょうか」
「力づくであなたを閉じ込めることはしたくありません」
「それがトウマさまの本音ですか」
「あなたを誰にも見せず匿ってしまいたいと、思っていることは事実です。あなたもそれをご承知のはずです。しかし今は、そうさせないで欲しいと申し上げています。本来、あなたの世界には、私だけがいればいいのですが」
「そんな世界に住む俺に、トウマさまは早晩興味を失くすと思います」
「ありえませんのでご安心ください」
──数日前の応酬を、苦い気分で思い出す。事を荒立てずにチルリを傍に置く手立てはないだろうか。トウマさまに会いたい。こんなに意固地な俺を、嫌いになってしまっただろうか。トウマさまに会いたいなぁ。知らずに小さいため息が漏れる。ご側室の一人が、気づかわし気に俺の顔を覗き込む。
「……妥協点は見つかりそうですか?」
「どうでしょう。でも、みつからないとしても、今のままで長くいることは不可能です。正直、もうすでに限界でしょう。チルリが先に参ってしまいますし、俺も、これ以上はちょっと、辛いですね」
たった三日と言えばそれまでだけれど、頼もしいチルリはずっとしょんぼりとしている。自分のせいで俺達二人が仲たがいをしているとなればそれはそうなってしまうだろう。気にしないでいいと声を掛けてはいるけど、申し訳ないと頭を下げられる。そんなチルリを見るのが辛くて、俺も何も手につかない。あの日ユキさまが渡してくれた書面の内容が頭をよぎるけれど、この程度のことでそんな大げさにしたくない。
「……トウマさまのああいったご意向を、俺も全部受け止められると思っていたのですが、……想像していたより、難しかったようです。情けなく思います」
「サキさまは悪くないでしょう」
「わかる」
「うん」
「サキさまは悪くないです!アオは同担歓迎ですけど、世の中、同担拒否派の方が多いんですね!意外ー!」
「アオ、ちょっと黙ってて」
「うん」
「うん」
「えーでもー」
ご側室方の優しさに、曖昧に微笑みを返す。俺の覚悟が足りなかったのだ。偉そうに切った啖呵を思い出せば恥ずかしい。トウマさまの情愛を得る一方で、思い通りにならないことがあるのだと、心底からは理解できていなかった。これ以上、叶わない交渉を続けても仕方がない。たくさん雇えと言われている者の中にチルリも入れてもらえるようお願いするのはどうだろうか。トウマさまがあまり気になさらないようにできるだけチルリの話は控えるとして、どうにかチルリを手放さずにいられないものだろうか。本当は諦めるべきだとわかっているけれど。
「アオさまは、同担拒否?という方とどうやって仲よくなさってるんですか?」
気の毒そうに俺を見つめるアオさまに、俺はなんとなく話を振ってみた。アオさまは時々一人で俺の家に来てはお茶を飲んだりしつつ、チルリと楽しそうに話をしている。初対面の時以降、チルリはアオさまとの距離を測りかねているような感じだったのに、今ではすっかり仲が良くて、チルリはそんなことはないです、恐れ多いです、お話も合いませんしとか言っているけれど、微笑ましい限りだ。アオさま曰く同担なのに、それを拒否するチルリと仲良くなっているのなら、その方法を参考にしたいような気がした。
「よくぞ聞いてくださいました、サキさま!同担歓迎のアオはサキさまの話をみーんなでしたいんですけど、同担拒否の方はご自分だけがサキさまのことをわかっていたいと思っていらっしゃる方が多いので、仲良くはなれません!」
「……そうですか。残念です」
「はい!でも、同担拒否の方どうしはまだ道がありますよ!自分が一番だという自負があればいいので!」
「……なるほど」
「トウマさまも、ご自分がサキさまの一番だって心底から信じられれば、多少のことにはお目こぼしくださると思います!同担拒否どうしでも、まあこの人なら許容範囲かな……みたいなこともあるらしいですし!アオのような同担歓迎派のことは心底嫌みたいなんですけどね!」
「……詳しくお願いします」
「ウケる」
「うん」
「まあまあ」
こうなるともうアオさまの独壇場だ。俺はもちろん、他の皆さんも笑いながら話を聞いている。
「同担同士で探り合いになると、どっちが古株かみたいな不毛な話になるんです。どうでもいいことですのにねぇ」
これはチルリの方かな。多分。あの子も長く俺に仕えてくれているなぁ。
「あと、どっちがサキさまに尽くしてるかっていうか通ってるかっていうか推し活してるか、みたいな」
これは二人を比べられないな。通うのはトウマさまだけだし、推し活って何?
「あとは、サキさまのことをどう捉えているかですね。サキさまはいつも朗らかで優しくて慎み深いと、アオは思いますけど、そうじゃないと感じる人もいたり」
「そりゃそうだ。サキさまは相手に合わせて接してくださるんだから、人によって印象が変わることは不思議じゃないよ」
「はい。でも同担拒否の人は、そういうちょっとしたことで同担さんと話が合わなかったり、対抗意識を感じたりして、疲れちゃうんですって。だから嫌なんですって」
「そうなんですか」
「なので、チルリさんと領主さまが会わなければ問題は起こらないと思います」
「俺もそう思います。でも、そういうことじゃないって、言われてしまって」
「あーじゃああれですね。同担拒否の理由の中でも、一番扱いに困るやつです」
「……それは」
「独占欲です!」
「ダメじゃん」
「うん」
「うん」
ダメだ。アオさま以外俺を含めた四人が各々肩を落とす。トウマさまの独占欲がすべての発端であり理由であるので、ダメだ。解決できない。アオさまはきょとんとしている。
「えー、でもそもそも、チルリさんはサキさまの大事な人ですが、お世話をしてくれる方なので、例えばチルリさんと食事をしたり出かけたりはなさいませんよね?」
「はい。チルリは忙しいですし」
「きっとチルリさんも、サキさまとのそういった過ごし方を望んでいるのではなく、お仕えする、お支えすることが生きがいなんじゃないでしょうか?」
「ええ、だと、思います。ありがたいことに」
「なので多分、チルリさんは領主さまを同担だと思ってないと思います」
「え?そうなんですか?」
「はい。アオはそう思われていますが。うふふ」
「うふふ?」
「サキさまをお支えする立場ということで。自分と同じ角度からサキさまを見ていると」
「はあ」
「領主さまは違いますよね。どちらかというと、サキさまと同じ立場です。お仕えすべき方です。お仕えするかどうかは別ですが」
「はあ」
「ですので、チルリさんは領主さまを、そういう意味では拒絶はなさらないのではないでしょうか。お立場上、そもそもそういったご自分の感情を表に出されることは滅多になさらないでしょうし、むしろサキさまの伴侶として丁重に接するでしょう」
「はあ」
「サキさまのおしあわせを願うばかりに、領主さまに対して腹立たしく思うことがあったとして、それを理由にトウマさまにツンツンしたりはしないかと」
「それはそうです。そんなことはとんでもないことです」
「もちろん、サキさまに向かって、はー?領主さまってちょっと感じ悪くないですか?マジ引くんですけど。やめといたほうがよくないです?とかも」
「言うはずがありません」
「はい。チルリさんは大変立派な方なので、サキさまのおっしゃる通り、そういうことはされません。アオには時々、顔を顰めていらっしゃいますが。うふふ」
「うふふ?」
「チルリさん、本当にいい人ですよねー!」
チルリを褒めて貰えたので、俺はにっこり笑ってお礼を言ったけれど、参考にはならなかった。ユキさまが、俺に向かって大丈夫かと聞いてくれる。
「俺は大丈夫です。ご心配には及びません」
「心配はしますよ。我々は、あなたをお守りするためにここにいます。そうでなくとも、友人として心配しますし、力になれないことで申し訳なく思います。……でも残念ながらお話を聞く限り、もし我々が領主さまに進言すれば、ますます意固地になりそうですね……」
「いいのです。俺も、わかっているんです」
「わかっている、とは」
「俺が、変わるべきであると、わかっています。チルリがいなくなるのが寂しいなどと、それは俺のわがままだと、わかっているのです。チルリには次の仕事を見つけてやるべきでしょう。あの子はずっと俺の実家で働いていましたし有能ですので、戻れるように手紙を書くつもりです。俺の側仕えじゃなくなっても、あの子は俺にとって大事な存在ですので、ここで肩身の狭い思いなどさせたくはありません。寂しさは、一時のものでしょう。我慢するというほど大げさなものでさえない。わかっているのですが、……心細くて、往生際悪く足掻いてしまった。トウマさまにも申し訳ないです。俺の態度はひどいものでした」
トウマさまが好きだ。あの人の全部を受け止めたいと思う。チルリを実家に帰したって、俺は何かを失うわけじゃない。でも俺がチルリに固執すれば、トウマさまは穏やかではいられないのだから、取るべき行動は決まっている。こうして皆さんに話を聞いてもらえたら、気持ちの整理がようやくついた。冷め始めたお茶を手にし、自分の至らなさが恥ずかしくて照れ隠しに笑った。
「俺は、トウマさまをお慕いしていますから」
「サキさま……」
「本当に、皆さまには感謝しています。いつもありがっ」
突然ガサガサと近くの茂みが揺れたかと思ったら、そこから大きな影が飛び出してきて逃げる暇もなく座っている俺に覆いかぶさってしがみつかれた。びっくりしたけれど、茶器を落とさずに済んだし、悲鳴を上げる無様も晒さなくて済んだ。でもびっくりした。何事かと思った。
「と、トウマさま?」
俺にしがみついて離れないのはトウマさまだった。茂みから出てきたせいで、全身に葉っぱがついている。と思う。俺の顔面はトウマさまの胸元に埋まっているから見えないんだけど、空いている左手にはかさかさと葉っぱに触れる。誰かが俺の右手から茶器を引き取ってくれた。これだけがっつりしがみつかれては、肘から下しか動かせない。あー、トウマさまだ。見えなくともわかる。嬉しくて、トウマさまの服をそっと掴んだ。
「下がれ」
「はい」
「お前たちが私の言いつけを守らず、サキさんと必要以上に親しくしていたことについては後で聞く」
「はいはい」
「さっさと下がれ」
ご側室の皆さんが、口々に、ごきげんよう、ご正室さま、失礼しますと言って去っていく気配がする。トウマさまに気付かれないよう、小さく手を振った。そして訪れる、静けさ。
「……あの、トウマさま」
誰もいなくなって、それでもしばらく俺から離れずにいたトウマさまがようやく腕を緩めてくれた。椅子に座ったままの俺をじっと見おろす目が、久しぶりで、かっこいいなぁと見惚れる。やがて手近な椅子を引いて腰を降ろし、トウマさまが両手で俺の両手を握ってくれた。
「あの、俺、お詫びを申し上げます。この度の」
「サキさん」
「はい」
「謝るのは私です。サキさんはもう、私のことを見損なってしまったでしょうか」
「まさか」
「煩わしく扱いにくい男だと思われたでしょう」
「いいえ」
「でも私はあなたが」
「トウマさま」
ぎゅっと手を握り返し、俯くトウマさまが顔を上げてくれるのを待つ。悲しそうに眉根を寄せる美丈夫を、俺は間違いなく愛しいと思う。だから俺は殊更明るく振る舞った。
「俺が悪かったのです。トウマさまのおっしゃることに従います。チル……側仕えの者は、この土地で別の仕事を得るのは難しいと思いますので、実家に戻そうと思います」
「聞いてました」
「聞いてたんですね」
「そこの、茂みで。どうしてもサキさんの声だけでも聞きたくて。サキさんに会えない日々に耐え切れず」
「茂みで。えーっと、……そうですか」
「そこの茂みに隠れようとする私の手助けを、あなたの側仕えの者がしてくれました」
「え?チルリが」
「庭に入り込んだ私を見つけて、もの凄く怪訝そうな顔でしたが、私の意図を察してくれて、ここなら気づかれずにお傍にいられますよとすすめてくれました」
「……この、茂みを」
「はい、この茂みを。おかげで数日ぶりにあなたの声が聞けて、しあわせでした」
「……なるほど」
「側室たちがあなたを名で呼び、馴れ馴れしく会話をしているのは受け入れられることではありませんでしたが、見つからないよう我慢しました」
「……なるほど」
「それは我慢していましたが、あなたが、あなたのお気持ちを知り、いてもたってもいられなくなりました」
えっと、多分、お茶会が始まる前からここにいたってことだよね。こんなに大柄な人が隠れられるのは確かにこの茂みしかない。そのチルリはと言えば、この度の揉め事を気にして最近は俺の傍に立つことを控えていて、だから姿は見えない。あの子は時々面白い程真面目だな。それにしても、会話を全部聞かれていたのか。何かまずいことを言っただろうか?
「……あなたの傍に、特定の者がいることは、どうしても我慢なりません」
「はい。承知しております。この数日は私も冷静ではなく、トウマさまに不愉快な思いをさせたと反省しております」
「寂しく思いました、とても。あなたとこころがすれ違っていることも、会えないことも」
「はい。俺もです。トウマさまにお会いしたかったです。自分が悪いのに、身勝手なことですが」
「あなたと離れ離れになったら、あの者も寂しい思いをするのですね」
「……一時のことです」
「私の狭量さのせいで、そのおかげで一生寂しく過ごすのだと、言われました」
「そんなご無礼を、あの子が、申し訳ありません」
まさかチルリがそんなことを、直接トウマさまに伝えるとは思わなかった。驚きとともに、ほんの少しの不快さ。事実なら、許されることではない。トウマさまは俺の顔を見て、首を振る。
「あなたがです」
「え?」
「あなたが、私のせいで一生寂しく過ごすのだと、言われました。友人知人から距離を取らされて」
「……俺は」
「私がいるのだから、寂しいはずがないと、答えました。サキさんのことは私が全力で愛します」
「はい」
「サキさんには、私だけを見て欲しいのです。ほかの誰かに構うのは許しがたい。どんな時でも、あなたが手を伸ばす相手は私だけであって欲しい」
「はい」
「寂しいですか、そんな人生は。私だけでは、だめでしょうか」
「ダメに決まっています」
「チルリ!」
トウマさまさえいればと、即答できなかった。俺にはまだ覚悟が足りない。その一瞬の隙に、いつの間にか傍にいたチルリが毅然と言い放つ。とても、怖い顔をして。
「チルリ、失礼をお詫びして」
「致しかねます」
「チルリ」
「いずれ私はサキさまのお傍を離れます。思い残すことなく去れるよう、領主さまにお伝えしたいことがあります」
「やめなさい」
「サキさん、私以外の名を呼ばないでください」
「トウマさまは、今は少し黙っててください」
「サキさまこそ、今は少し黙っててください」
「え、俺!?」
「そうです。私は領主さまとお話がしたいのです」
「いやでも」
「いいでしょう。受けて立つ」
「喧嘩はやめてくださいよ!?トウマさま、大人げないです!」
「あいにく私は彼と同い年です」
「ええ、あいにく」
なんでチルリはそんなに好戦的なの!?二人って同い年だったっけ、そうだったんだ、仲良くできそうですね、仲良くしなくていいから喧嘩しないでよ、黙っててってなんで俺が黙るの!?
立ち上がり、チルリをじっと見るトウマさまは、もの凄い威圧感だろうと思う。俺も慌てて立ち上がり、でもこの二人が話したいと言っているのなら、もう好きにすればいいんじゃないのと半ば止めるのを諦めて、トウマさまにくっついている葉っぱをポイポイと取りながらチルリに無礼をお詫びしなさいともう一度言う。無視されたけど。
「サキさん」
「はい」
「彼と話をしたら、あなたと話をしたいです。待っていてくれますか」
「あ、はい」
トウマさまはまだたくさん葉っぱをくっつけて、俺を振り返るとそう言った。……寝室で、だよね。うん。ちょっと頬が熱くなった。こくりと頷いて見せると、トウマさまは微笑んでくれた。
「何も心配はいりません。サキさんは、部屋へ」
「あ、でも、俺も」
「いえ、彼と二人で話します」
俺がいれば邪魔になるのだろう。俺はチルリがトウマさまにこれ以上無礼を働かないか、トウマさまにこれ以上傷つけられないかが心配で、立ち会いたかったけれど、二人に否と言われては引き下がるしかない。すごすごと寝室に引き取り、ドキドキする余裕もなくため息とともに部屋の中を歩き回る。トウマさまは、俺が予想していたよりも早く来てくれた。
「お待たせしました」
「あ、あの、いかがでしたでしょうか。あの子が失礼をしませんでしたか。いったいどんなお話を」
「サキさん」
「はい」
「……彼とどんな話をしたか、あなたに全て説明することはしません」
「え?なぜですか?」
「これは、私と彼との話ですので」
「でも」
「彼の扱いはこれまで通りで構いません」
「……え!?なんで!?おかしいじゃないですか!あれだけご自分以外の者を斥けようとなさっていたのに」
「その気持ちは変わりません」
「じゃあ」
「彼との話し合いの結果です。もちろん、今後も私の前で彼を含めた他の人間の話は控えてください。心中穏やかではありません」
急転直下。嬉しいけど、訝しく思う。
「……チルリが、トウマさまを説得したという解釈でよろしいですか」
「私はあなたのことに関して、誰かに説き伏せられたりはしません」
「では」
「サキさん。あなたの希望通りです」
「納得できません」
全然わからない。全然わからない話の結論だけを聞かされて、喜べるほど無邪気ではない。トウマさまは少し困った顔で俺の手を握り、寝台に促すと一緒にそこに腰掛けた。彼の肩に、まだ一つ残っていたはっぱがひらりと落ちる。
「何も話さずに済ませることが難しいのはわかっています」
「俺は、あの子があなたに無礼や無茶をしてないか心配しています」
「もし仮に彼が私に無礼な態度で無茶な話をしたとして、そのくらいで私があなたのことに関して譲歩すると思いますか」
「そういう問題ではないです。そういうことをしたという事実が大問題なのです」
「彼の名誉などどうでもいいですが、彼はそういうことはしていません。そうですね、利害が一致したということです」
「利害、ですか」
「ええ。あなたの身の回りの世話を、従来通り彼が担うことが、私とあなたに利する。同じ働きができる者が他にいませんので彼にさせるというだけのことです。状況が変わればまた別の判断をするでしょう」
「……よく、わかりません」
「それで構いません。これは私の判断です。まあ、みっともないことに何もかも最初から、私だけが騒いでいるのですが」
「みっともなくなどないです」
「サキさん」
「はい」
「あなたが欲しいです。仲直りをしませんか」
「……俺も、その、トウマさまと久しぶりにお会いできたので、そういう、でも」
「その気にはなれませんか」
「そう、ですね、なんだか、話が呑み込めなくて」
「理由はどうあれ、彼は従来通りこの家で働きます。変更点は今のところありません。彼も納得しています」
「はい、あの、お取り計らいをありがたく思います。おかげさまで、俺は見ず知らずの人に世話をされずに済みます」
「他に何か、気になることはありますか?」
「いえ……でも、その、まだ陽も高くて」
「昼間のあなたを、まだ抱いたことがありません。逃す手はないのですが」
「か、変わらないと、思いますっ」
「そうでしょうか。私は変わるかもしれません」
「トウマさまが」
「ええ。私も、いつまでもものを知らない若造ではありません。今はこの程度でも、すぐにあなたにふさわしい男になります」
「え?」
「愛しています、サキさん」
言葉は静かだけれど、トウマさまは多分、不機嫌だ。拗ねているようにも思う。チルリはとても賢くてしっかりしていて、だから恐らく、トウマさまを淡々と責めたんだろうと思う。礼儀を弁えつつも、トウマさまの至らなさを、容赦なく、的確に。同じ年の、自分が今排除しようとしている人間からそれをされて、憎らしさのあまり罰を与えるのではなく、歯を食いしばってチルリの正論を受け入れたのだとしたら、でもそれが嫌でしょうがなくて鬱憤が溜まっているのだとしたら、なんてかわいい人なんだろうと思う。利害なんて、本当にあるのかな。
「俺も、トウマさまが好きです。すごく好き。でもこんな昼から、ダメですよ」
「なぜです?何か用事がありますか?」
「えっと、ご側室の皆さまにお詫びの手紙を書かないと」
「側室の相手など、あなたがする必要はありません」
「皆さまが、俺の相手をしてくださっているのです」
「あなたの相手は私一人で十分です。あいつら、馴れ馴れしいにも程があります」
「罰したり、なさらないでくださいね。もしそうするなら、俺に罰を与えてください」
「サキさん。そんな風に誰かを庇うものではありません」
「俺は正室なので。ご側室の皆さまにもし落ち度があるのなら俺が責任を取るべきだと考えます」
「なるほど。全く納得いきませんが、では、私のいないところで側室たちと慣れ合った罰を受け取ってください」
力任せに抱き寄せられて、唇を塞がれる。初めての夜からもう何度も寝て、俺の身体はすっかりそういうことを悦べるようになっている。いつもトウマさまは優しくて丁寧で、でもなるほど、昼間は違う趣向なのかもしれない。柔らかい舌で探るように口の中を嬲られて、それが少しだけ強引で、いつもより情熱的で、あっという間に夢中になっていく。寝台に押し倒されて、夜着ではない首元の合わせを広げられ、わずかに覗く素肌に柔らかい唇が押しつけられれば、もう拒む気も失せていた。
「これは、罰、ですか?」
「どうでしょう。断られたのに抱こうとしているので、私に罰が下りそうですね」
「……俺、もう、その気になってます」
「では、二人して罰とは無縁ということでしょうか」
「ふふふ。はい。よかったです」
「ええ、サキさん、あなたが笑ってくれて、よかった」
ぎゅっと抱きしめられて、吐息がこぼれる。ものすごく愛されているとしみじみ思う。領主としてはそつなく仕事をこなし、とても立派で尊敬している。でも伴侶としてみれば、時々脇が甘いし、不器用で言葉が足りなくて、自分の感情を持て余しているのが伝わってくる。俺を何処かに閉じ込めてしまいたいと本気で考えているのに、ただそのことを俺に伝えるだけで、行動力がまだ自分の欲望に伴っていなくて、ひどく歪だ。俺の肌を辿る手は、ずいぶん行為に慣れて、今日は格段に俺の快楽を引き出している。きっとこうやって、少しずつ自分の気持ちに見合うような振る舞いができるようになって、今はまだ隙間だらけの俺を入れる檻も頑丈になっていくのだろうか。
「トウマ、さま」
「はい」
「俺はもし、檻の鍵が開いていても、逃げません」
「……そうですか」
「はい」
「居心地のいい檻を、用意します。一緒にそこで過ごしましょう」
「ふふ。はい」
「ずっと」
「はい」
「サキさん、かわいいサキさん、好きです」
「俺もです。あの、あ、ん、トウマさま、チルリのこと、ありがとう、ござ」
「あなたとまた喧嘩になった時、茂みに隠れる手引きをしてくれる者が必要だと思っただけです。損得で考えましたので礼には及びません」
「ふふ」
「あなたが肌を晒して庭で鍛錬するのを、止める者も必要ですしね」
「う!それは、あの!」
チルリのばか!なぜそれを言う!!ほら見ろ、トウマさま結構怒ってるじゃん!?俺は必死に、もういたしませんという気持ちを込めて、何度も首を横に振ってみせた。珍しく、トウマさまがにっこりと笑う。
「納得してくださいましたか?でしたら、もう私以外の誰かのことを考えるのはやめて下さい。怒りが噴き出しそうです」
あ、誤魔化そうとしてる。絶対核心は別のところにある。そんな理由でトウマさまがチルリを俺の傍に残すとは思えない。でも、もういいや。トウマさまの言う通り、俺の希望は叶ったんだ。
「いいですか、サキさん。あなたは私の伴侶です。私だけの、サキさんです」
「はい」
「あなたの世話を誰かがして、あなたの食事を誰かが作る。でも、あなたを抱くのは私だけです」
「はい。もちろんです」
「褥でのあなたを知るのは私だけです。だから、もっと見せてください」
「あ、ん……!」
「私なしで生きていたくないと思うほど、あなたにそう思われるように、励みます。期待してください」
間近に目を覗き込まれ、頬から頭まですっぽりと覆うように両手でつつまれて深く口づけられて眩暈がする。励んでくれるんだ。今でも、こんなに気持ちよくて毎回これ以上ないっていう天井を易々と飛び越えるような体験をさせられるのに、もっと、すごく、気持ちよくなっちゃうのか。ああ、そう思ったら、確かにトウマさまが入ってくるこの感覚が、いつもよりも衝撃的でただそれだけで大きな声で叫んでしまった。枕に頭頂部を押し付けるように身体を反らせ、特別な感覚を受け止める。
「はあ……サキさん……昼のあなたは、とても扇情的です、目に毒だな……」
もう、行為にほとんど痛みは感じない。トウマさまがいつも丁寧に念入りに準備をしてくれてたくさん香油を使ってくれて、全身がとけるような愛撫をしてからいれてくれるからだけど、なんだか今日はすごい。快感を拾う神経がむき出しになったのかと思うほど刺激が強くて、トウマさまがゆっくりとなじませるように何度か腰を動かしただけであっという間に高みが見える。
「ま、って、まって……!あ、あ、あ」
「気持ちいいですか?私はすごくいいです。サキさん、こっちを向いて、顔を見せてください」
「い゛……っく……!」
確かに達した。と思う。強烈な快感が渦を巻きながら身体の中心を突き抜けていった。息が詰まり、少し遅れてひどく汚い悲鳴が漏れた。汗が噴き出し、身体が勝手に暴れる。達した。なのに、解放されない。
「サキさんの、何も出てないのに、出すときと同じように動いていますよ。お腹の上で跳ねて、射精してるみたいに。何も出ませんね。あなたの中も、すごく動いてます。イキましたか?」
「あ、は、あ、たぶ、たぶん、でも」
「嬉しいです。また新しいあなたが見られました。出さずに達すると、何度も何度も繰り返し絶頂できるそうです。ずっとその気持ちよさが続くらしい」
「いけません、トウマさま、ダメです」
「いけますよ」
「そうじゃ、な」
「サキさんの肌は綺麗ですね。薄い褐色は、汗で光ると殊更艶めかしい。庭先で晒すなど言語道断です」
「いたしません、もう、なので」
「ああ……私もすごく気持ちいいです。ゆっくりしましょうね。時間はありますし、あまりに気持ちよくて、乱暴にしてしまいそうですから、ゆっくりと」
とめて欲しかった。少なくとも、もうちょっと落ち着くまで。出さずに達した?このまま、こんな気持ちいい状態が続いて、何度も絶頂する?耐えられる気がしない。気持ちいいのは好きだ。でも、さっきのは常軌を逸してる。あれをゆっくり何度も味わわされるなんて、おかしくなりそう。だから。
「あー!あー!!……っ……っ!!……っんあああ!」
「サキさんのそんな声、初めて聞きました。嬉しいです。いつもとなにが違うんでしょう?昼だからですか?朝は、どうなるんでしょうか」
俺の懇願も空しく、トウマさまの立派なあれは俺を何度も絶頂させ、その間隔がどんどん短くなり、俺はそこから降りて来られなくなった。わずかな愛撫に震え、乳首を抓られただけで大きく痙攣する。そう、乳首だ。この間までこんな風に感じなかったのに。昼だからなのか。もう何も考えられない。涎を垂らしてみっともなく乱れる俺を、トウマさまがじっと見ていて、でも恥ずかしいと思う余裕さえない。向かい合わせに座って抱き合う体勢や、四つん這いになって後ろから貫かれる体勢や、そのままべしゃんと潰れて上に乗りかかられる体勢など、吹っ切れたように様々な体位で抱かれた。どれもこれも気持ちよくて刺激的で、トウマさまもそのうち余裕をなくして、それが嬉しかった。
「あー、くそ、もたない、サキさん、出しますよ、ここに」
「ん、あ、あふれ、て」
「うん、溢れてる、ね、いっぱい出したから、私が、あー、気持ちいい、サキさん、かわいい、サキさん」
「いくいくいく……!いく、いくっ!ひぐぅ……っ!」
汗で滑りながらトウマさまにしがみつく。最高だった。喧嘩した後の行為って、すごく燃える。癖になりそうなほど、身体の奥深いところまで、満足させられた。
◆
本日は晴天です。
数日前に降った雨もすっかり渇き、領主家の裏に広がる林の緑はこれ以上ないほどに輝いています。サキさまと領主さまが、半日ほど林の中を散策されるということで、私チルリと数人がお二人とは距離を取って随行しています。
「以前に、もっと向こうの湖に行きましたね」
「はい。とても綺麗でした」
「湖はもう一つあるのです。小さいですが、深くて、幼い頃は近づいてはいけないと注意されたものです。私も一度か二度、親に連れて行ってもらっただけですが」
「危険なのですか?」
「なんというか、神秘的で、引き込まれてしまう気がしますね」
「そうなんですか」
「ええ。今日はそこへ参りましょう」
「はい」
「私の記憶では、その湖は、サキさんの瞳のような藍色でした」
「楽しみです」
お二人はのんびりと会話をされながら歩いて行かれます。林は時々開けたり、ところどころに椅子や机が置かれていて休憩ができます。休憩時には我々がその机に手早く綺麗な布を掛け、お茶の準備をしたりもします。伴侶となってもう数年経つお二人は日に日に睦まじさを増し、時々喧嘩をなさいますが、仲直りをしてはまたお互いを笑顔で見つめる日々です。
「昨日、アオさまがご挨拶に来られました」
「そうですか。アオは他所で仕事を得ると聞いています」
「はい。俺としては、これからも一緒にトウマさまをお支えしてくださればと思っていましたので残念ですが」
「私にはサキさんがいればいいのです」
「アオさまのご尽力を、トウマさまもお認めだったじゃないですか」
「そうですね。理解に苦しむ言動も多かったですが、有能でしたね」
「お寂しくはないですか」
「私はサキさんがいれば寂しくなどありません」
「俺は寂しいです。アオさまは、俺によくトウマさまの話を聞かせてくださったので」
「引き止めましょうか。あなたを寂しがらせるのは罪深い」
「アオさまにもご都合があるでしょう。チルリと仲がいいので、また顔を出してくださると思います」
「側室でなくなったアオと交流するおつもりですか」
「できればそのように……手紙なら、お許しくださいますか?」
「私の見ている前で書いてください」
「はい」
「中は覗きません」
「ふふふ。はい」
「手紙を直接渡すのなら、同席します」
「トウマさまも、アオさまに会いたいんですね」
「私はあなたと会いたいだけです」
最大瞬間側室数歴代最高驚異の六を叩き出した領主さまですが、先日アオさまがお宿下がりという名目で側室のお立場を降りられ、今はユキさまお一人がそのお役目をお務めです。サキさまと領主さまの婚姻後、最初の年でご側室は六名に増え、その頃は本当に波乱万丈でした。当時のサキさまは領主さまと揉め事が起きるたびにため息をつき、悲しそうなお顔で過ごされていました。そして、俺にはチルリがいるし、トウマさまは成長期なんだよ、大丈夫だよと気丈に振る舞っておられました。そのたびに私は、成長してから娶れよと内心思っておりました。私を斥けようとした領主さまには、今でも恨みがあります。気に入りません。でも、サキさまが領主さまを慕っていらっしゃるので、であればおしあわせになって欲しいと願うばかりです。その気持ちは最初からずっと変わっていません。
「トウマさまも、ご自分の気持ちを持て余していらっしゃるんだよ。そのうち落ち着かれるさ。俺を傷つけまいと自分でご側室を増やすんだから理性はまだある」
「……ですが、先日はとうとうサキさまに手を上げられました」
「返り討ちにしてしまったことを反省しているよ。あのときトウマさまの気の済むようにしておけばよかった」
「そんなことをすれば、サキさまが怪我をしたかもしれません」
「殴ろうとしたんじゃなくて、捕縛しようとしただけだから、怪我はどうかなーしたかなー」
「サキさま。あまり良い状況であるとは思えません」
「そう?俺は、状況が進んでいると思うよ、良い方向に」
「サキさまには、領主さまとの良い未来が見えているということでしょうか?」
「いいこと言うね、チルリ。そう、俺にはね、見えるんだよ」
サキさまは笑って、俺に見えているのはトウマさまが落ち着かれた、穏やかな未来だよとおっしゃいました。どうやったら落ち着くのかとお尋ねしたら、サキさまはさらに笑っておっしゃいました。
「今トウマさまが落ち着かないのは、いざというときに俺をうまく閉じ込めることができないだろうと思って焦っていらっしゃるからだと思うんだ」
「はい」
「でも実際は、段々、少しづつ、俺の行動や思考をちゃんと把握しつつあって、俺の理解が進んでいる。だから今回、俺が定期的に外出しようとしているのを事前に勘づいて反対して、出かけさせないように捕まえようとした」
「はい」
「俺としてはこちらの領地の文化をもっと知りたいからという理由だったんだけど、トウマさまにしたら全く受け入れられない理由だよね」
「それは、そもそもこの領地の領主さまですから。知りたければ自分に聞いて欲しいということではないでしょうか」
「うん。チルリの言う通り。でもトウマさまはお忙しいし、驚かせたいなっていう気持ちもあったし、俺の計画に気付くかなっていうのもあって」
「試したということですか」
「うーん、様子を見たってところかな」
「危険だと思います、あまり、刺激なさるのは」
「反省してるよ。でも、トウマさまは今は俺のやり方に怒っていらっしゃるけど、俺の外出を未然に防ぐことができたということには安心されていると思う」
「そう、でしょうか」
サキさま曰く、領主さまが"落ち着く"のは、"いつでもサキさまを完璧に閉じ込めることができる"と"確信した"時だとおっしゃいました。だからサキさまは領主さまに、早くサキさまの考えを見抜けるようになって欲しいし、行動を止められるようになって欲しいし、いついかなる時でも自分がその気になれば世界から匿えるのだと自信を持って欲しいのだそうです。
「もし万が一俺がトウマさまから離れようとしても、気づけるし止められるしその時はどこかに閉じ込めてしまえる、それができるとわかっていれば落ち着けると思うんだよね。俺のやることなすことお見通しで、俺はいつもトウマさまの手のひらの上でコロコロしてるって思ってもらえれば」
「サキさまは領主さまを慕っておられるのでそのようなことはないと思うのですが、領主さまの勘違いでサキさまが理不尽にどこかに閉じ込められてしまったら困ります」
「だから俺は、今でも鍛錬を欠かさないんだよ」
サキさまは、領主さまの檻にいつでも入るつもりがあり、でもそれを拒絶すべき時にはそうできるように準備は怠らない、というお考えのようでした。
サキさまの期待に応えるように、領主さまはサキさまを喜ばせることも牽制することも徐々にうまくなり、ご側室の数は年々減っていき、今に至ります。これがサキさまの思い描いた未来なのかはわかりませんが、領主さまがサキさまの言いなりになるわけでもなく、サキさまが一方的に何かを強いられるわけでもない。ただお二人ともがお互いを慕い、信じているようにお見受けします。そして最近のサキさまは、なんだか物足りないねと笑うほどです。傍目から見れば異常な領主さまの執着が、それを受け止めるサキさまにとっては物足りないのだと。
「少し、風が出てきましたね。寒くありませんか」
「はい。トウマさまは?」
「私は大丈夫です」
「そうですか。寒いとおっしゃっていただければ、それを言い訳にもう少しお傍に寄ったのですが」
「ええ、まったく、同じことを思いました。サキさんは寒さにも強いんですね」
「ふふふ。トウマさまが寒がりだとよかったのにな」
「今から寒がりになります」
「わ!」
気候は穏やかでしたが、時折風が吹くようになり、笑い合うお二人の間をすり抜けるようにつむじ風が起こりました。本日のサキさまは、長い髪の大半を背に流し、耳の上の辺りの髪だけ後頭部でまとめて髪飾りをつけておられました。美しい金の髪は風に煽られて吹き上げられてしまいました。
「あはは、びっくりしましたね。あ、トウマさま、葉っぱがついてます」
「サキさん、動かないでください。髪飾りに髪が絡まっています」
「あらら」
「じっとして」
「はい」
領主さまがサキさまの背後に回り、髪飾りに引っかかった髪を外そうとしておられます。普段サキさまは長い髪を小さくまとめたり結ったりしておられることが多いのですが、本日のお支度の際に、この衣装には髪を降ろしたら似合うかなぁとおっしゃり、そのようにさせていただきました。髪飾りは華美ではありませんが、林の中の散策ということで植物をあしらったものをお選びになり、ですので髪が引っ掛かりやすい形です。
「サキさんの髪は、いつも綺麗ですね。手触りもいい」
「ありがとうございます」
「今日は、いつもと髪型が違うので印象も違いました」
「そうですか」
「今日の服、新しいものですね、それにも合います」
「……トウマさまは、お優しいですね」
「そうでしょうか」
「はい、あの、嬉しいです」
「そうですか。でしたら今朝お会いしたとき、最初に言えばよかったです。今日のサキさんも素敵だと、思っていましたので」
「あの、もう、その辺で、十分です」
「まだ取れません」
「そうではなく」
お二人で過ごされている時は、お邪魔をしないようにお供の我々は少し離れております。声は聞こえるので、お二人のいつまで経っても微笑ましい会話に胸がポカポカするような思いです。サキさまは少し俯きがちに、領主さまは動いてはダメですよとサキさまに声を掛けながら、髪を触っておられます。やがて、領主さまが大きなため息を吐いて、私を呼びました。ものすごく、低い声で。
「……チルリ」
「はい」
「風が吹いたくらいでサキさんの髪が乱れるなど、手落ちではないか」
「申し訳ございません」
私が頭を下げてサキさまに近づくと、領主さまは私に嫌事を言いつつサキさまの背後を譲られました。ご自分はそのままサキさまの正面に回り、私では難しいので、彼にやらせますとサキさまに伝えています。
「トウマさまに褒めていただいたので、首尾は上々なのですが、外歩きをするのには向かない髪型でしたね。俺の見立てが良くありませんでした」
「私はいつもサキさんを本心から褒めているつもりですが、足りませんか」
「十分です」
「時々言葉にならないのです。今朝もそうでしたが、あなたがあまりに魅力的で、目もこころも奪われてしまって」
「あの、本当に、十分です」
「かわいいサキさん。私の気持ちが、ほんのわずかでも伝われば良いのですが」
「も、あの、過分で、ございます」
慎重に髪飾りを外して、乱れてしまった髪をほどき、常に持ち歩いているサキさまの櫛で柔らかく美しい金の髪を丁寧に梳いていきます。ちらりと見える首筋や耳がが少し赤くなっていて、サキさまがかわいいということには全面的に同意しつつ、お二人の会話に反応しないように気をつけつつ、再度耳上の髪を取って後頭部で纏めて留めます。そして、降ろしていた髪を束ねてゆるく毛先まで編んでしまいます。風が収まればすぐに解ける程度にこちらも留めて、失礼いたしましたと頭を下げました。サキさまは終始、私の方をご覧になりませんし、お声をかけられることもありません。今も、サキ様の背後で一仕事終えた私の言葉に目線を向けたのは領主さまです。頷かれ、私がサキさまから離れると、髪を確認するようにサキさまの後ろに回られます。
「こちらを」
私は外した髪飾りを領主さまへ差し出しました。領主さまは黙ってそれを受け取り、サキさまの髪に挿し、それでサキさまの後ろ姿は完成しました。私はもう一度頭を下げて、先ほどまでの位置に戻ります。
「サキさん、お待たせしました」
「はい。ありがとうございます」
「風がまだ強いので、手を繋ぎませんか。あなたが飛んでいっては困りますから」
「ふふ。はい」
「本当は、あなたを抱っこしたいくらいです」
「重いですよ。鍛錬ですか?」
「そうですね、精神面の」
「ふふふ」
気を使う必要のない我々のような者の前でも、お二人は余りベタベタなさることはありません。でも今のように、私や誰かがサキさまのお世話をした後には、領主さまはよくサキさまに触れられます。サキさま曰く、ああいうとこかわいいよね、トウマさまってさ、らしいのですが、私としては、ハイハイ、誰も取りませんよーという気持ちです。
「領主さまも、ずいぶん余裕というか貫禄が出てきましたね」
「ええ、本当に。一時はご正室さまを追い詰めてしまわれるのではとハラハラ致しましたが」
「側室の数も減って、突然使用人の総入れ替えなんてことも言いださなくなりましたし、ご正室さまの靴を全部燃やすなんてことも」
「ああ、ありましたねぇ……ご自分の目の届かないところで行動されるのがお嫌だったのでしょうね」
「ええ。でもほら、今は我々がお二人を見ていてもお叱りがありません」
「以前なら、背を向けるか俯いてついて来いとおっしゃって」
「やはり、ご正室さまの深い愛情のおかげでしょうか」
「でしょうねぇ。嬉しいことです。今となってはご正室さまが来客を受けることもお許しだとか。寛大になられましたねぇ」
「領主さまは元来、懐の深い、お優しい方ですから」
「ねぇ」
領主さまのお付きの方たちが、嬉しそうにひそひそと、お二人の変化を喜んでいらっしゃいます。確かに以前に比べて、領主さまのサキさまへの過剰な干渉が減ったように見えますし、理不尽な要求をなさらなくなったように見えます。でも私には、ああ、大きくて頑丈な檻が仕上がりつつあって、今はきっと、二人で眠る寝台を運び込んでいるのだろうかと、そのような印象です。
「参りましょう、サキさん」
「はい」
私の願いは、領主さまが早く、サキさまにふさわしい人になってくれること、そして、お二人睦まじく穏やかに暮らしていかれることです。それがもし檻の中だとしても、おしあわせなのだろうと思います。
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