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「いい加減にしてください」
「いやいやいや」
「領主として、仕事を疎かにしないでください」
「いやいやいやいや……」
疎かになんかしてないだろうが。
先代が早くに亡くなったから、想定よりも若いうちに領主になってしまった。未熟なのは承知の上で、それでも少なくとも自分ではできる限り従来通り領地と領民を守るべく毎日勤しんでいるつもりだ。だからまあ、なんでこんなに側近が怒ってるのかわからねぇんですけど。
「やってるだろ、ちゃんと」
「は?」
は?ってなに?俺領主なのにその扱いはどうなの?
ねえどう思う?と、腕に抱いた女の顔を覗き込む。女は、にっこりと微笑みかけてくれた。それを見て、側近の眉間の皺が深くなる。そして大きな溜息をつかれた。
「それですよそれ。なんでまだ陽が高いうちから酒飲んで女と寝所にいるんです」
「そっちこそなんで俺の寝所にまで入ってきてんだ」
「領主さまが仕事が残ってるのにさっさと寝所に引っ込んだからです」
「残ってるっつったって、別に今日やっても明日やっても同じものを」
「領主さまの判断を待っている人間がいるんです」
「だからそいつだって別に今日じゃなくたって」
「駄々こねてないでさっさとやれよこのクソ領主が!」
側近がキレた。渋々両腕に抱いた女たちにすぐ戻るから待ってろよと笑いかけ、寝台を降りる。素っ裸の俺に、側近が雑に上着を叩きつけ、足音荒く出て行った。すぐそばの机の飲みかけの酒を煽り、女らに口づけをして、めんどくせぇなと呟きながら、俺も後を追って執務室へ戻る。ああ、くそ、つまんねぇ人生だ。
領主としての仕事は、あまり楽しくない。陳情を聞くのが特に苦手だ。領民たちは自分が弱者であると殊更に強調しつつ、貪欲にわがままな要望を差し出してくる。利害のある人間を貶めることを躊躇わないことも多いし、現状の不本意な変化には極度に敏感だ。すべて、とは言わないけれど、ほとんどを聞き流す。どれもこれも、理不尽な話だからだ。そして、古い慣習を守ることにばかり精を出す。そういう領主の仕事って、本当につまんねぇなと気づいて、俺は早々に倦んでいる。昨日も今日も明日も変わらない。だったら、ほどほどにして、いい女と美味い酒を楽しみたい。ささやかな希望だと思うけれど、俺が思うほど、周りは許してくれない。こんな毎日を、死ぬまで続けるのか。自分が死んでも、この領地が変わらず続けばそれは立派な領主なんだろうか。そんなつまらない人生のために、俺は毎日を過ごしているのだろうか。
◆
ある日のこと。いつものようにいろんな陳情を聞く中で、珍しくまともで深刻な話だと思った。土地が瘦せて、作物が育たない。それに加えて村民が増えつつあってそもそもの耕作地が足りていない。だから、どこか別の場所に村ごと移りたい。でなければ、村全体が薄くゆっくり死んでいってしまう。そういう話だった。村民が増えているのは、近くにあった別の村が崩壊してそこから流れてきたからということと、その村に子がよく産まれるからということらしい。一日中、この陳情がずっと頭から離れなかった。
「はいよ、これでいいか」
「はい、結構です」
「今日来た、あの、僻地の村の村長な」
「はい」
「結構深刻っぽかったけど」
「ええ。でも、どうしようもありませんね」
「……」
こういう話をどうにかすんのが領主じゃねぇのか。口を閉じて腕を組み、じっと考えていると、側近が溜息をついた。この男はどんな時も溜息が多い。
「一つの村だけに、何かを許すことはできません」
「まあな」
「彼ら全員が住む土地など、用意してやれません。今ある土地には、すでに誰かが住んでいる」
「だな」
「だからと言って、租税を」
「わかった、ちょっと考える」
「……」
ちょうどいい。この家から出たかった、少しの間でいいから。視察に行くぞと翌日には宣言し、もの凄く嫌な顔をする側近を笑顔でかわし、適当に腕の立つ者を数人選んで件の村へ出かけて行った。
自宅のある領地の中心からこれほど離れたことはなかったから、何もかもが新鮮だった。旅そのものも、あちこちで口にする食べ物も、人々も、景色も。
どこへ行っても、領主さまと言われた。それなりに歓待を受け、年寄りからは、噂を聞いているのか女遊びはほどほどにとか、酒は控えろとかそういうお小言ももらった。なぜか、執務室で聞くよりはずっと素直に頷くことができた。そして数日後に目的地である村へ着き、突然の領主の訪問にびっくりしている村長に話をもう一度聞き、村の実態を見て回った。率直な感想は、これはやべぇな、だった。何か手を打たないと、村長の話通り隣村と同様ここも遅かれ早かれ潰れるだろう。その隣村が崩壊したのは先代の頃の話だから今さら悔やむことではないが、この村くらいは何とかしてやりたい。領主としての責任を初めて感じた瞬間だった。だからと言って今すぐに何か名案が浮かぶわけでもないのだけれど。
「気分転換ってのは大事だな」
そう。根拠もなく、物事はきっといい方へ進むと思える。気をよくした俺は予定を変更して、もう少しその辺を周ってから帰ることにした。そもそもが僻地の村の視察だから、回り道をすれば隣の領地との辺境へ近づくことになる。その道中、お供の者が全滅した。そもそも数人しか連れていなかったのだけれど、食あたりを起こして一人、森に入って馬が脚を怪我して一人、彼らの世話をするためにそれぞれ一人づつ。そうやってどんどん減っていて、領主さまももう先へ進むのはおやめください、みなで帰りましょうと言われた。それは当然の提言だとは思ったけれど、せっかくだからと彼らを宿に残して進んだ。何も得ずに戻るのが嫌だったのだ。そして辺境の、この領地で一番大きな手つかずの森へ入って、動物に襲われた。馬を失い、自分も怪我をし、歩くのもままならない。間もなく訪れた夜をどうにか登った木の上で過ごして、朝になってから森を出ようとフラフラしていたらさらに道に迷った。当たり前だ。そもそも遠出などしたことはない俺が、案内役のいない状態で安全に旅などできるはずもなかった。まして森に入るなんて自殺行為の何物でもない。熱が出たのか朦朧とし、食料もなく、森の中で飲んだ水が悪かったらしく腹の具合もおかしい。次の夜の気配に、もうすでに木に登る体力はなく、獣がこちらを観察しているような気配を感じる。
ほらな。ちょっとやる気出しゃこれだ。だからほどほどにしておくべきだったんだ。ほどほどに仕事っぽいことをして、夜になる前に酒を飲んで女たちを抱いて、そうやってのうのうと暮らしていくべきだった。こんな森の中で獣に食べられるなんざ、ほんと、ついてねぇな。ああもう、ガラでもねぇことするんじゃなかった。つまんねえ人生の割には、終わりだけはやけに劇的じゃねぇか。大きな岩にもたれかかって座り込み、木々の間から空の色が変わっていくのを眺める。星が、もうすぐ見えるか。ああでも、眠いな。目を閉じたら、もう二度と開けられないだろうな。わかっては、いるんだけど。
◆
次に目が覚めた時、見えたのは天井だった。つまり、家屋の中。どうやら助かったらしい。怪我をした腕も脚も、包帯が巻かれている。ひどく痛むけれど、治療してもらえているという安心感で我慢できた。どのくらい時間が経ったのか、腹の具合もよくなっていた。身体を起こして見回せば、非常に簡素……質素な家だった。これは褒美の取らせ甲斐のある住人のようだ。領主の命の恩人だ、あのけちん坊で頑固な側近でも褒美の金くらい出すだろう。
すぐそばに俺の靴も服も揃えてあった。服は洗濯されていて、破れたところが繕われている。それらを大雑把に羽織って外に出た。家の周辺は、迷い込んだ森とは違って綺麗に整地されていて明るい陽が差し込んでいる。見渡す限り木も茂っているけれど、明らかに人の手が入っている。こんなところに住む領民がいたとは知らなかった。小屋が三軒見えるから、何人かの集落なのかもしれない。とにかく、助けてくれた者に礼を言わなければ。耳を澄ますと水の音が聞こえる。俺はゆっくりゆっくり怪我を庇いながらそちらの方へ向かった。それほど離れていない場所に川があって、そこには一人の男がいた。
「目が覚めたか」
「ああ。お前さんか?俺を助けてくれたのは」
「無謀だな。一人で夜の森に入るなど、馬鹿のやることだ」
よしわかった褒美はナシだ。
振り返ったその男の言葉にそう決めた。もうちょっと言い方ってもんがあるだろうが、俺は領主だぞ!ふざけんな!そう思った。その男は不愛想に不機嫌そうに、冷たく続ける。
「まだ寝てろ。傷は塞がっていない。動物の噛み傷は厄介なんだ」
「……俺はどのくらい寝てた?」
「一日半か。回復には十分ではない」
「世話になったことは感謝するが、お前さんのその態度は気に入らねぇな」
「知らん」
さらに不機嫌そうにそう言って、男は背を向けた。平均的な身長に、平均よりは痩身。髪の色も目の色も薄い茶色。俺を含めて、この辺の領民はみな黒い髪に黒い瞳だ。肩につくほど伸びた髪を煩わしくかき上げつつ、その男の背を睨む。
「おい、俺はここの領主だぜ」
「領主……?ああ、あの森の向こうの領地か。ここはむかしから緩衝地帯だ。誰の支配も受けない」
「は?」
「貴様の領地はあの森まで。ここは俺の一族の土地だ。もう少し先に行けば、隣の領地になる」
「適当なこと言ってんじゃねぇぞ。聞いたこともない話だ」
「貴様の勉強不足だろう」
勉強が足りない自覚はあるので、黙るしかない。むっかつく……!!!くそ!むか!つく!!腹立たしさのあまり唸る俺を他所に、その男は水を汲んでいる。その薄い背に声をぶつける。
「おい」
「なんだ」
「名は」
「そっちが先に名乗れ」
「はぁ!?さっきから失礼な野郎だな!」
「助けてもらって礼も言わず、高圧的な態度に出る貴様は失礼じゃないのか」
「……!……っ!!……っ!?」
「失礼じゃないのかと聞いてる」
「~~~~っ……ありがとう、助けてくれて!」
「俺はカイルだ、領主さま」
「変な風に呼ぶな!」
「風が出てきた。さっさと戻って横になれ」
こうして俺の療養生活が始まった。
◆
怪我をした手足を使うと傷がいつまでも塞がらないとカイルが言うので、基本的には寝台に横になって過ごし、飽きたら椅子に座っている。暇でしょうがないが、できることはほとんどない。カイルを観察することくらいしか。
カイルは"俺の一族の土地"だと言ったけれど、"血族"ではないらしい。ここは薬草が多く育つ土地で、薬師が住み着いた。その薬師に誰かが弟子入りし引継ぎ、そうやって代替わりしながらこの辺りで薬草を育てて続いてきた"一族"だという。
「一人で?」
「そうだな。過去には複数いたらしいが、そもそもこんな場所で薬師になりたがる人間はあまりいない」
「ふうん。難しそうだもんな。でも儲かるだろう」
「貧乏だ」
「なんで?俺だって家に戻ればお前さんに褒美の金を出すつもりだし、怪我や病気を治してくれる医師や薬師は儲かるんじゃねぇのか」
「そういう商売をするなというのが、うちの一族の掟だ」
俺は出された病人食を食べながら、つまらない掟だなと思った。金儲けは悪行じゃない。まして人のためになる行いに対して報酬をもらうことのどこがいけないんだろう。だからなり手がいねぇんだな。
「じゃあ、どうやって食い物を手に入れているんだ?あと、服とかそういうの」
「物々交換に近い。貴様の領地ではあまりないが、あっちは季節ごとに流行る病があって、その薬が必要だから仕事は常にある」
「それを売るのはダメだけど、お礼に食い物を貰うのはいいのか」
「俺が死んだら患者も死ぬからな」
「ふぅん」
「昔はそれさえしなかった。この辺りで自給自足できていたらしい。色々あって、今は難しい」
「色々って?」
「早く食べて早く寝ろ」
カイルの話は、興味深かった。季節性の流行り病以外にも常備薬のようなものを作って欲しいと頼まれているから、普段はそれを作って食物と交換しているとも話してくれた。俺の方の領地にほとんど来ないのは、手つかずの森が難所であるかららしい。隣の領地は緩衝地帯のすぐ近くまで開拓が進んでいるから往来がしやすいようだ。実際、数日に一度は郵便屋まで来る。俺もその女に手紙を託して家に現状を知らせた。まあ確かに、あの森は難所だな。傷は薄く塞がったけれどまだ痛む。幸い膿んだりはしなかった。欠かさず飲んだカイルの薬が効いているのだろう。
「酒は造れないのか?」
「造れるし、実際ここにあるが、貴様の思うのとは違う。薬草を漬けて、結局は薬になる。気晴らしに飲むものじゃない」
「酒もないし女も抱けない。お前さんこんなところで一人でよく住めるな」
「噂には聞いてる。飲んだくれで女と見れば見境を失くす領主さま」
「はは。まあ、否定はしねぇよ。酒も女も、あればあるだけありがてぇし」
この辺りに建つ小屋は三軒ともカイルの持ち物だった。まあ、住人が彼一人なのだから当たり前だが。ひとつは母屋ともいうべき生活の場で、俺が療養し、カイルと寝食を共にする家だ。カイルはいつも、あと二つある小屋で仕事をしている。一度覗いたけれど、どちらもすごくたくさんの薬草やらなんやらが並んだ棚が壁一面にあって、道具もたくさん置いてあって、壊してしまいそうで入れなかった。その小屋に、時々誰かがやってくる。それが多分、隣の領地の人間なのだろう。直接顔を合わせることはなかったが、数人見かけた。正当な対価も払わず物々交換などという原始的なやり方でカイルの技術にタダ乗りしている愚かな奴ら。初対面の冗談みたいに最悪な印象は、カイルの世話を受けて今はすっかり消え、俺はカイルを好ましく思っていたから、そんな彼の優しさにつけこんでいる隣の領地の人間が許せないような気分だった。だってそうだろう。カイルは一日中働いている。緩衝地帯は広い。その土地を管理し、薬草を育て、自分の生活をしながら薬も作る。休む暇などないし、酒や女に溺れる余裕もないだろう。俺の腕と脚がよくなったら、薪割りくらいは手伝えるだろうか。掃除はしたことがないがこの家なら失敗は少なそうだ。食事の支度は無理だな。水は今でも少し汲みに行ける。俺はそうやって、カイルの役に立てることを考えながら過ごしていた。
しばらく経ったある日、俺は怪我の痛みもずいぶん軽くなり、張り切って水を汲んでいた。カイルのように大きな桶を満タンにして運んだりはまだできないけれど、何往復かすれば同じくらいの量にはなる。生活に水は欠かせないし、今できることはこのくらいだから、最近毎日水汲みをしている。おかげで体力も戻りつつある。川からの帰り道、木々が茂る場所を通っていたら、物音が聞こえた。獣だろうかと警戒し、そちらの方へ目を凝らす。何もいない。……と思ったら、白い色が動いた。カイルの服と同じ色だ。遠いからはっきりとはわからないけれど、誰かと二人。どう見ても、性行為の最中のようだった。木に手をついて、後ろから突かれて薄い茶色の髪が揺れている。俺はなぜだかものすごく苦い気分で、顔を背けて足早にその場を去り、その日の水汲みはそれで終了とした。
「肉を食え。栄養を摂れ」
「おぉ……」
腹の具合もすっかり良くなり体力が戻った俺に、カイルは肉をよく食べさせるようになった。野菜も、なんだか立派なものだ。いつもは楽しい食事の時間だけれど、俺は昼間に見た光景が頭にチラついて、気まずかった。カイルは男色だったのか。女を抱く話をしたのは悪かったのかもしれない。あんな風に屋外でヤるのが趣味なのか。清廉潔白品行方正生真面目が服を着て歩いているような男だと思っていたのに意外だ。男に股を開くような感じではなかったけれど、人は見かけによらないものだ。結構女にモテそうなのに。外でヤんのって開放的でイイのかね。そういうつまらないことが次々に頭に浮かんでは消える。
「おい」
「……え?」
「しっかり食え。口に合わなくても食え。体力が戻らないぞ。食事も治療だ」
「あ……いや、美味いよ、口に合う。ありがとう」
「だったら冷めないうちに食え。どこか具合が悪いのか?」
「いや……」
「うん?」
カイルのこの献身は、俺へのそういうアレなんだろうか。そう考えたらなんだか落ち着かなくて、目の前に座っているカイルの方をチラチラと見てしまう。カイルは俺のよりも質素な食事だ。確かに俺は領主で特別な人間ではあるが、助けてもらった恩がある。こういうところは対等であって欲しい気がする。
「カイル、お前さんは」
「熱はないな。腹の具合は?」
「……問題ない。何も、問題ない」
俺の額に触れる手にも、俺の目を覗き込む茶色い瞳にも、劣情などかけらも感じない。純粋に、俺を心配する薬師の態度だ。一瞬でも疑った自分を恥じる。匙を握り直し、柔らかく煮込まれた肉を掬う。
「おいしい。ちょっと、熱かっただけだ」
「そうか」
カイルが納得したように軽く頷いて、自分の食事を再開する。いい奴だな、お前さん。もっといい思いしてもいいのにな。
「何か言いかけたな、なんだ?」
「……お前さんは、なんかこう、やりたいこととかあんの?こうなったらいいなぁとか」
「引き継ぎしてくれる誰かが現れたらいいと思ってる。時間が掛かるから、できれば早めに」
「弟子ってこと?」
「まあ、そうなるか。別に師匠になるのが夢ってわけじゃない。でも俺がいなくなった後困る人がいないように、誰かにこの仕事を引き継ぎたい」
「……」
「こんなところで一人で働くような奇特な人間は中々おらんが、俺の代でこの土地を殺すわけにはいかない」
「……でも、立派じゃねぇか」
立派だと思う。そういう環境に身を置いてでも他人のために尽くすというのは、立派だ。ただ、やる気があればいいというものでもない。知識も経験も要る。だからこそ難しいんだろう。
「お前さんはなぜここに来たんだ?」
「赤ん坊のころ、親がここに捨てていった」
もうこれ以上言葉を重ねるだけ、俺は自己嫌悪で死にたくなる気がした。でもカイルは平然としている。
「……なんつーか……」
「同情されるような境遇じゃない。俺の入れられていた籠にはなけなしの金とちゃんと洗ったおしめと手紙が入っていた。拾って育ててくれた俺の師匠は、虐待も折檻もせずに俺に薬学の知識と生活の方法を教えてくれた。貴様の様に、毎晩酒を飲んで女を侍らす人生ではないが、俺はこれで十分だ」
こんな男に初めて会った。尊敬する、人生で、初めて。自分を顧みれば、こんなちゃんとした男の手を煩わせて助けてもらったことが申し訳ないような気にさえなる。ぐうの音も出ず黙り込んだ俺を見て、カイルは呆れているようだ。
「貴様は俺を立派だというが、仕事に貴賤はない。どんなことでも、責任をもって全うするのならそれは全部立派な仕事だ」
「……それが、できてないなって、落ち込んでんだよ」
「自覚があるのなら、これからは励め。まだ取り返しはつくだろう。貴様は若い」
「お前さんだって若いだろう。俺と同じくらい?」
「領主にしては若いという意味だ」
確かに俺はまだ若い。無責任に仕事を見くびって怠惰に過ごすことを恐れない程度には、若くて愚かだ。それが恥ずかしいと、今この男の前で心底そう思う。そう思えたことは、幸運なのかもしれない。
「……もし俺が、立派な領主になったら、お前さんは俺を尊敬してくれるか?」
「は?」
領地外のこんなところまで聞こえるような女と酒におぼれる馬鹿な領主さま。情けない。だけどまだ、変われるかもしれない。そうじゃないと、助けてもらった意味がないんじゃないだろうか。
「言っただろう。どんな仕事でも、ちゃんとやれば立派だ」
「お前さんが俺をどう思うかって話だ」
「心身が無事ならそれでいい」
カイルは自分の食事を再開した。何の役にも立たない領主さまは、無事に生きているだけでいいと、本当に思うのか?
◆
やがて俺の怪我は粗方治り、カイルの土地を離れる日が来た。カイルは薬を持たせてくれて、郵便屋の女に俺を運んでくれるように交渉までしてくれた。女はその日の朝、いつもと違って小さな荷馬車で来た。
「達者でな」
「ありがとう、カイル。感謝している。いずれ謝礼を届けさせるから受け取ってくれ」
「要らん」
「カイル、身体に気を付けて、お前さんこそ達者でいてくれよ」
「酒はほどほどにな、領主さま」
「ああ。ありがとう」
別れはあっさりしたものだった。俺は何度も早く帰ってこいとせっつかれていたし、カイルはいつも忙しい。郵便屋の女に頼むと一言声を掛けて、俺に軽く手を上げて、カイルはさっさと薬草畑の方へ行ってしまった。郵便屋の女は、ここから隣の領地内で自分の配達をしつつ、俺の領地との境界の町まで運んでくれるらしい。そこには俺の家の人間が待機している手はずだ。
「早く乗って」
郵便屋の女は、腰と胸の迫力が足りないが、久しぶりの女だ。途中の適当なところで抱こう。あと、金を借りてどこかで酒を買おう。家に着いたらでかい風呂に入ってでかい寝台で改めていい女をたくさん呼んで浴びるほど酒を飲んで。
粗末な荷馬車に足をかけ、もう一度カイルを振り返ったけれど、薄い背はもう見えなかった。
◆
「よぉ、久しぶり」
いや、本当に久しぶりだ。カイルは突然再び現れた俺を見て、無言のまま両腕に下げた桶の中の水を家の傍に置いてある大きな瓶に移し替え、出てきて、桶を置き、もう一度俺を見て、怪訝な顔をした。
「具合が悪いのか」
「ちげえよ」
「じゃあ何しに来たんだ」
「ちょっと、お前さんに相談があってよ」
カイルは相変わらず怪訝そうに、腰に引っ掛けてあった手ぬぐいで汗を拭き、何も言わずもう一度家に入った。俺もその後を追う。俺がいた頃と何も変わらない家に、どこか懐かしさを感じる。
「相談ってなんだ」
「付き合って欲しい場所があるんだ」
「いつ?」
「できれば今から。えーっと、何日か」
「は?急だな、いつも、貴様が来るときは」
「頼むわ」
「……ちょっと待ってろ」
カイルは呆れた顔を見せたけれど、手早く机の上を片付け、仕事用の小屋に施錠をし、不在の小さな看板を出して馬を引いて俺についてきてくれた。
「この森には懲りたんじゃなかったのか」
「まあまだ明るい。おっかない動物たちも手加減してくれるだろうさ」
カイルの土地から手つかずの森へ入り、馬を走らせる。確かにこの森では死にかけたけれど、それが情けなくて一応身体を鍛えて護身術も嗜んだ。付け焼刃だが、襲われてもカイルを抱えて逃げきるくらいの自信はある。まあ、カイルがおとなしく抱えられるとは思わんが。あそこで一人で生きてるんだから多分強いだろう。
しばらく行くと、獣道同然だったのが整地されたまともな道になった。カイルがものすごく怪訝そうな顔をした。森を出るまで、獣道が続いていたはずだから。
「ここの森に、手を付けたのか」
「まあ、話はまとめてするわ」
道がよくなり移動速度も上がる。整備する以前よりもずっと早くに森を抜けた。森の周辺には荒れ地が広がり、さらに行けば小さな山があり、それを超えてようやく人の住む場所になるのだけれど、今は森を出てすぐに集落が形成されている。それを目の当たりにして、さすがにカイルが驚いたらしい。馬を降り、辺りを見回している。
「開墾したのか、あの土地を」
「ああ」
ちょっとだけ、自慢気な表情が浮かんでしまったかもしれない。
以前、困窮する村を救って欲しいと嘆願に来ていた村長と相談し、誰も住んでいないここを新しく拓いてみようという話になったのだ。他に行くところはなく、このままだとゆっくり死んでいく村。幸い人手はある。最初は体力に自信のある者十人ほどで山を越えて移動してきて、水を確保し、森から出てくる猛獣の対策に苦慮し、畑を作ったはいいが実らず、諦めて去る者を見送り、どうにか人が住めるまでに整えたのだ。想定よりも時間が掛かってしまったけれど、今は当時の村民全員がここに移って来ていて、相変わらず子宝によく恵まれ、あちこちで走りまわるかわいい声が聞こえてくる。
「すごいじゃないか」
カイルが俺を見上げてそう言った。それで俺は、堪えきれず、満面の笑みを浮かべてしまった。
「だろ?」
嬉しかった。領主になって自堕落で無気力な毎日を送っていた俺が、初めてそれらしいことを考え、実行した。それを、そのきっかけを与えてくれた男に褒められたのだから、嬉しいに決まっている。張り切って村の中を案内した。不良領主の俺でも、ここでは割と慕ってもらえて、村民は俺を見れば笑顔で声を掛けてくれる。それもなんだか誇らしかった。
「真ん中にこのでっかい道を作ってな、そこから各自の家の配置を決めた」
「へぇ」
「水場が近いとか、畑が遠いとか、色々揉めてよ」
「だろうな」
「子供が多いから、勉強させなきゃなんねぇし」
「ああ、それは素晴らしい考えだ」
また褒められた。嬉しい。
「あ、領主さまだ。何してんの?」
「おお、お仕事中だ」
「嘘だー」
「嘘じゃねぇよ。お客さんだ、挨拶しろよクソガキ」
「お客さん?こんにちはー」
「こんにちは」
俺に対しては不愛想でも、子供には優しいらしいカイルが、少し膝を屈めて声を掛けてきた子供に笑いかけている。
「それで?」
「え?」
「貴様の相談というのはなんだ」
浮かれている場合じゃなかった。ここからが正念場だ。俺は気を引き締めて、村長の待つ家へカイルを連れて行った。そこでもカイルは至極礼儀正しく村長に挨拶をし、部屋に通されて出された茶を褒め、俺と村長の話を黙って聞いてくれた。
「……」
「いかがですか、カイル殿」
俺の、というか俺たちの提案はこうだ。この村に、薬草栽培をやらせて欲しい。その教授を願いたい。できれば薬を作る方法も教えて欲しい。幼子や妊婦の健康管理も手伝って欲しい。当然、対価は払う。物々交換などというケチな話ではない。
「……なぜそんなことを?」
「領主さま的には、この村だけ随分特別扱いしちまったなってのがあるんだよ、仕方がなかったとはいえ。だったらもういっそ、ぶっちぎりに特別な村に仕立てちまえばいいかと思ってな」
「それが、薬学か」
「うちの領地にも一応いるんだがな、医師や薬師は。お前さんの足元にも及ばんだろう。そいつらの仕事を取り上げるつもりはないが、いい薬は領民を助ける。ここは中心地から遠いしな」
「……」
「これは商売じゃねぇ。人助けだ。だろう?お前さんのお師匠さんだって、これで多少の金を手に入れたところで叱りはしねぇだろ」
「……」
「頼む」
村長とともに頭を下げる。もっと踏み込んでいえば、こいつの求める後継者も、この村から見つかるかもしれない。あの土地や生活を手放せとは言わないけれど、隣の領地からの搾取を止めたい。あっちに無償で薬を渡すのならそれでもかまわない。でも、食料や日用品と引き換えに身体を明け渡すのは絶対に。カイルは返事をしなかった。村長はおもむろに顔を上げて、何度か頷いてから口を開く。
「うちの領主さまは、本当に出来損ないでしてね」
「おっと?村長、それは」
「先代が亡くなって継いだかと思えば、一日中酒を飲んで、女を抱いて、それもねぇカイル殿、村中からいい女を寄せ集めて来いとかまぁ下品で下劣でどうしようもない領主さまでしてね」
「ほう」
「ははは……おい、村長」
「それでも一応領主さまだから、困ったことが起きた時、陳情を聞いてもらうのは彼しかいない。仕方なく訪ねて行ったら、ご覧の通り、図体のでかい、無駄にいい男でね、これは確かに領主なんかよりヒモかごろつきの方がよほどお似合いだと思ったものです。確かその時も酔ってましたね、本当にどうしようもない」
「わかります」
「わかるな!」
「そんなダメ領主さまは、私の陳情を聞いた後、もう一度わざわざ来てくれたんですよ。ここじゃなくて、前に住んでいた村まで。それで、村中を見て回って、今すぐは無理だけど、何か考えるから、どうにか持ちこたえてくれって頭を下げてくれましてね」
恥ずかしいやら情けないやらで、俺はでっかい溜息と共にうな垂れた。村長に頭を下げた時、俺には何の考えもなかったのだ。なのに、そんな無責任なことを口走っていた。恐ろしいことだ。今こうして移住が成功しつつあるから聞いていられるけれど、この移住にだって犠牲者がないわけではない。カイルは村長の話を聞いては頷き、時々俺の方を見るもんだから、もうマジ勘弁してくださいって泣きそうなんですけど。村長は妙に楽しそうなんですけど。
「森の向こうで死んだらしいって噂を聞いて、ああ、じゃあ新しい領主さまにもう一回陳情に行かなければと考えていたら、死んでなかったらしくて、またうちの村に現れてね、この開墾と移住の話を持ってきたというわけなんです」
「そうですか」
「農作物のよく育つ土壌です。あそこに山があるので雨もよく降る。よい風も吹くし水も綺麗です。中心地へは遠いですが、思いがけずここはよい土地であると、村民一同領主さまに感謝しています」
「そうですか」
「カイル殿の話を、領主さまはよく聞かせてくれました。とても立派で、尊敬していると。この村とうまくいい関係が作れればいいのだけれどと」
目の前の冷めた茶を一気に飲んで、諦めの境地でカイルを見る。結構ざっくばらんに全部ばらされたな。確かにこの村をつくることは一生懸命やったけど、領民のために働いたけど、それと同じくらいカイルのために、ない頭搾って考えた作戦なんだよな。だからあまりよく言われると居心地が悪い。
村長はもう一度カイルに深々と頭を下げた。
「どうか、我々を助けていただけませんでしょうか」
「……少し、考えさせてください」
カイルの返事は当たり前だった。即答するのは難しいのだ。彼は、人知れずあの場所で静かに暮らし、薬を作り、後継者を待ちながら、日々の細々なことに自分を犠牲にして過ごしてきた。
俺は村長に礼を言ってカイルと共に辞し、カイルはもう少し村を見て回りたいと言った。もちろん否やはない。歩き出した俺をカイルはじっと見つめて問う。
「貴様は、こんなことを考えていたのか」
「まあ……そう……だな」
「そうか」
カイルは俺が見習わないとやべぇなって思うほど、村の中をつぶさに見て回った。畑もだし、人々の生活もだ。森の中で多少の狩りができるから、畑での農作物と併せてこの村の食料事情はいい。それらを明快な基準で村民全員で分け合っている。しっかり食べてよく働く。わかるか、カイル?食べるものを餌にお前さんに何か要求する人間は全員敵だ。食は、生きることだからな。生きるか死ぬかを選ばせるようなやり方に従うな。俺は腹の中で、ずっとそういうことを考えながらカイルの後をついて回っていた。
「カイルさん!こんにちは!」
カイルはすっかりこの村の奴らの注目の的だ。見慣れない茶色の目に茶色の髪という風貌もさることながら、病気を治せる薬を作ることのできる人間で、それなのに印象が柔らかいからだ。俺に対しては相変わらず辛辣で乱暴な口をきくのに、それも初対面から問答無用でそうだったのに、ここの連中は俺のように馬鹿なことをしないからか、カイルは出会う人みんなに会釈をしたりするし声を掛けられればきちんと応対する。今もまた、寄ってきたガキに振り向き、膝に手を当てて腰をかがめてどうしたのと微笑んで声を掛けている。え、なに?俺にもしてよそういうこと?
「こんにちは。何か御用かな」
「あのね、これ、僕が今朝とったの。あげるね!」
「え?いいよ、君が食べなさい」
「僕はもう食べたの。ちょっととりすぎたの。カイルさん、これ嫌い?好き嫌いしたらダメなんだよ!」
「……ありがとう、いただくよ」
「はいどぉぞ!」
ガキの親らしき女が少し離れたところで笑ってこちらを見ている。村長の家で会ったことのある女だ。あの村長は、やることが早い。
「貰ってしまった……」
「おお、いいじゃねぇか」
「……」
「嫌いか?」
「いや、申し訳ないなと思っただけだ」
「なんで。あのガキがひもじい思いをしているわけじゃねぇし、喜んでもらえた方が俺としてもありがてぇが」
「喜んでる」
「そりゃよかった」
村の中をうろついていたら、日が暮れた。今夜泊まる家に戻る道すがら、あれこれと食べ物を渡された。ちなみに、俺が一人の時も食事の用意はしてもらえるがこういう感じではない。家に折詰を持ってきてもらえるということであって、笑顔と共にいろんな人からいろんなものをあちこちで差し出されるわけではない。俺一人の時は。村の端にある、畑に一番近い場所。他の民家とは離れて一つだけ無人の家を作ってある。カイルをそこへ連れて行き、ようやく二人で誰にも聞かれずに話ができるようになった。カイルのおかげでとても豪華になった食卓を囲む。
「ここは?」
「客間つーか、誰か来た時用の家。俺もこっちに来たときはここに泊まってる。ここは遠くてな、日帰りは難しい」
「なるほど」
「お前さんも今日は泊っていけよ」
今のどうだった?さりげなかった?大丈夫??
カイルはそうだなと呟き、村民が用意してくれた食事を見回している。大丈夫っぽいな。俺のシタゴコロ、気づかれてないよな。
「こんなに豪勢な食事をいただくのは申し訳ない」
「ああそれ、ここの畑で張り切って収穫したやつだし、果物も野菜も。肉は森でとってきたやつの保存食な、塩漬け。嫌じゃなければ食ってやってくれ」
「だから」
「お前さんに褒めてもらいたいんだよ。あと、自分たちの農業の実力見せつけて、だから薬草も育てられますよって言いてぇだけだから。領主以下村一丸となっての作戦の一つだから」
「……」
「好き嫌いあるか?」
「ない」
「えらいね。俺はだめだな、これ。代わりに食ってくれ」
「自分で食わんか、罰当たり者が」
「えー……知ってるか、これ、苦くて」
「食え」
「はぁい」
もそもそとそれを口入れると、カイルがよしと頷いてくれたので、頑張って飲み込んだ。そしてカイルは、全部おいしい、とてもすごいことだと感心してくれて、俺は鼻が高かった。
「さっき見せてもらった限り、ここの畑で、俺の育てている薬草全部は無理だと思う。村の人の食料のための畑だし、それを減らしてまで薬草を育てる意味がない」
「ああ、そこまで欲張りじゃねぇよ。一つか二つ。お前さんがしょっちゅう摘んできては薬にしてた、あれはどうだ?」
「ああ、あれならいいかもしれない」
「ここでも育つようなら、あの種類は栽培と収穫をここの人間に任せて、お前さんは空いた手と場所で別のを育てればいい」
「……」
「森の中の道の整備も進める。往来に危険が減れば、お前さんの所へ収穫した薬草を届けることも楽になる」
「……」
「難しくない薬の処方を教えてもらえると助かる。熱さましとか、化膿止めとか、そういう汎用性の高いやつだ。もしそれをこの村で作れたら、お前さんはもっと難しいのを」
「つまり」
「うん?」
「一つか二つ、薬草の栽培方法とそれから作る薬の製法をこの村に渡せということか」
「……ああ」
「それで、俺は」
「お前さんは、お前さんにしかできないことに注力したらどうかって話だ。でも、薬草の栽培も薬の製造も、抵抗があるなら教えてくれなくとも構わない。ただ、森の中の道の整備が終わったら、あっちじゃなくてこっちにも薬を売りに来て欲しい。ガキはよく具合が悪くなる」
「売り買いはしない」
「おお、そうだったな。お礼はちゃんとするから、薬を譲って欲しい」
沈黙が降りる。
あの日、カイルの家から自宅へ戻る途中、俺を運んでくれた郵便屋の女に手は出さなかった。なんだかものすごく、面倒に思ったのだ。その代り、色々話を聞いた。初めて通る隣の領地内の様子をちょこちょこ解説してもらい、その合間にカイルの話を聞きだす。カイルは決して好き好んで野外で男に身体を開いていたわけではないと察した。あれは間違いなく搾取であり犯罪だ。腹立たしいことにその原因の一端は俺だった。いつもより贅沢な肉や野菜を求めた結果、いつもより代償を求められた。あの土地の人間は、カイルの薬の恩恵を受けながら、謝礼を渡すどころか彼の尊厳まで踏みにじっていた。幼いころからあそこに住むカイルは、「そういうものだ」と言われれば抵抗できなかったのかもしれない。絶対に許さない。この男は、もう渡さない。
「この話は」
「うん?」
「俺にばかり、利がありすぎる。何を企んでいるんだ」
「お前さんは自分の値打ちを低く見積もりすぎだ」
利があるのはこちらの方だ。カイルにはそう感じないかもしれないが、こちらからの要求は大きい。でもきっとカイルは相応の対価は受け取らないだろう。無報酬の方が安心するように教え込まれている。しかしその辺も村長とは打ち合わせ済みだ。断られても、色々な口実をつけて、手を変え品を変え、農作物その他をカイルに押し付けまくる予定だ。さっきの印象だとガキどもにやらせればうまくいくだろう。それでも、この村にとっての恩恵は余りある。
「薬のあるなしは、現実問題としてももちろんだが、安心するだろう」
「まあ、そうだろうな」
「子が熱を出して、どうしたらいいかわからないっていうときに、お前さんの薬があればそのありがたさは金に換えがたいものがあるし、もしお前さんが診てくれたらそれこそ有り金全部渡したくなるほどありがたい話なんだ」
「そういうときの感情につけこむのはよくないことだ」
「そこはお前さんの我慢のしどころだぜ」
「あ?」
「嬉しい、ありがとうっていう気持ちを受け取って欲しいって言ってるんだ。別に本当に有り金全部渡すわけじゃねぇだろう。食いものだったり、多少の金銭だったり、そういうのを受け取ってもらえないと、次が頼みにくくなるじゃねぇか」
「身体の具合が悪い者が、薬屋に遠慮など必要ない」
「そりゃお前さんの勝手。こっちはな、優しくて優秀なお薬屋さんと末永く仲良くしたいんだから、対等でいたいわけ」
「対等……?」
「こっちはお前さんを頼りにする。助けてもらう。だからそれに応えてくれるお前さんを大事にしたい」
そう、大事にしたい。
あの時本当に世話になったという恩もあるし、結構な境遇にあったにもかかわらず素直に生きてきたお前さんを大事に思うから。公私の別が曖昧になりそうな自分を必死に律して、できる限り冷静に話を進める。
「……俺はあの土地を離れるつもりはない」
「もちろんそれでいい。たまに見に来て指導してもらえるだけで十分だ」
「……」
「でもあれだろ?ここの村民がどんな奴らかわからねぇとな。だから、なんだ、二、三泊していけよ」
カイルは黙り込んでいたけれど、やがてこっくりと頷いた。よし。これでようやく第一段階だ。ちょうどこの村の皆さんの渾身の作である食事をようやく終えた。うん、ちょっと多かったね。おいしいけどさ。カイルの人気は大変なものだなぁ。
「酒もあるけど、飲むか?」
「そういう類の酒は飲んだことがないから」
「そうか。じゃあまあ、一口だけどうだ?家で作る果実酒。季節によって違う果物で仕込むんだと」
「甘いのか」
「え?知らん。飲んだことない」
「は?」
「領主さまんちは、こういうことやらない家だからな」
小さなぐい飲みを探してきて、それぞれにきれいな色の酒を注ぐ。警戒しているのか、小さく首を傾げて、目の前に置いても手を出そうとしないから、先に一口飲んで見せた。お?侮っていたけど結構うまいな。片眉を上げて黙る俺の顔を、隣からじっと見つめられて少し居心地が悪い。
「うん、うまいぜ。思ったより甘くない。そこそこ強いから、お前さんは水で割ったほうが飲みやすいかもな」
「そうか」
意を決したかのようにぐい飲みを手にして、口元に当ててほんの少しだけ傾ける。唇をンパンパして、未知の味を理解しようとしているのか真剣な顔をしている。そしてまた少し首を傾げた。かわいいね、お前さんは。
「どうだ?」
「……おいしい」
「そりゃいい。割るか?」
「このままでいい」
「ほどほどにな」
酒に耐性がなく具合が悪くなる体質の人間もいるのだし、自分の上限を知らないのなら少しずつの方が楽しめる。カイルは頷きながら、おいしい、ともう一度呟いて、ぐい飲みを口元へ運んだ。俺は、そんなカイルの様子を肴にうまい酒を煽る。
「髪、伸びたな」
「……そぉね」
酔ったわけではないだろうが、しばらくするとカイルが片頬杖をついて俺の方を眺めて、そんなことを言い出した。髪。まあ、そう、伸びるわな。カイルんところで厄介になっていた時から、ほったらかしだし。たったそれだけで、俺は落ち着きを失くすほどにドキドキした。目を泳がせる俺を眺めていたカイルは、回りくどいなと呟いた。
「何?」
「音に聞こえた色狂いの領主さまでも、さすがに果実酒ごとき口にしたくらいじゃ、薹の立った薬屋相手でも言い出しにくいか」
「……は?」
「ここまで意味なく接待してもらえると思っていない。足りない分の補い方は知っている。貴様も見ただろう」
「おい、俺は」
「身体で払えと言えばいい。そもそも、俺はほかに持ち合わせはない」
俺は黙ってカイルのぐい飲みを遠ざけた。
「もうその辺にしておけ。初めてにしては飲みすぎだ」
「酔ってない」
「今日話したいろんなことは、全部、俺とあの村長で長い間相談して決めたことだ。どうやったら村を守れるか。たまたま知り合ったお前さんに助けてもらえたらありがたいと思った。お前さんにだけ何かしてもらおうなんて、誰も考えていない。こちらはお前さんに誠意と敬意がある。それをもって対等に付き合いたい」
「……」
「お前さんの人生に、やりように、俺は口を出す立場じゃない。でも、あんまりおかしなことを言ってくれるな。我々は、お前さんを本心から歓迎しているんだ。俺の素行はともかく、それを疑われるのは心外だ」
「……」
「村との取引の話が済むまでは、お行儀良くしていろと村長からも言われている」
「……俺が、悪かった」
「いや……なあ、今お前さんは何を考えてる?薬草や薬のことを、ほとんど知らない俺たちに教えることは無理だと思うか?」
「そうでもない。何十何百とある中の一つくらい、誰かと共有したところで問題はないだろう。貴様が提案したあの薬草から作る薬は、例え作り方や処方を間違えても、身体にほとんど悪影響のないものだし、むしろあんな面倒なことを自分たちでやると言い出したことに驚いている。俺に作らせて、現物を持って来いという方がよほど楽だろう」
「そうか。では、それに対して村が対価を渡したいという話はどうだ」
「そこには正直まだ抵抗がある。でも、貴様の言う通り、対等でいるべき相手には、そういうことが必要なのかもしれない」
「うん」
「……俺は、健康を害した人には優しくすべきで、自分にしかそれができないのであれば、そのことを金に換算するのはおかしいと習った。できない人から金をもらうなと。できる人が黙ってやればいいと。でも」
「うん」
「作り方を教えて欲しいなど、誰も言わなかった。だから、多分この話は前提が違う。俺にしかできないことじゃなくなるから」
「うん」
「そうやって、俺が助けなくてもみんなが健康に過ごせるようになることが一番だと思う」
「それは違うだろう」
「あぁ?」
「お前さんが教えてくれて、一緒に考えてくれるなら、薬草の栽培も薬の製造もうまくいくだろうが、お前さんの手は離さんよ。いてくれないと困る。難しい薬も必要だが、それは我々には手に余る。無理だ。お前さんにしかできない」
「それも教えてやる」
「そういうことは、いつか現れる弟子にしてやれ。俺たちはただ、お前さんが手を煩わせている部分のうちの、手伝えそうなところを少し手伝うから、助けて欲しいとお願いしてるんだ」
「……」
「お前さんが一日のうち、薬草畑で過ごす時間がどれだけ長いか俺は知っている。それが減れば、お師匠さんの残した書き物を読む時間が作れるんじゃねぇか?お前さん自身の書き物をする時間も作れる。すげぇ広い畑に同じのがたくさん植わってて、それを何日も掛けて収穫して、干したりなんだしてただろ?あれだって、この村から手伝いを出せばすぐ終わる。なあ、俺はそういうことを言ってるんだ」
「だから何度も言っている。貴様のそういう提案が、俺には過分だと」
「んー、じゃあ、そういう季節ものの手伝いをした後は、この村のガキどもに勉強を教えてやってくれ」
「はあ?」
「お、我ながらいい案だな……たまにでもよ、ガキってのは頭やらけぇから、教えたこと覚えんだろ」
「……」
「お前さんの仕事の邪魔はしない。無理のない範囲で、たまにでいい。森の中の道を整備したら、日帰りできなくもないだろうしな。まあ、いつでもここに泊まっていって欲しいが」
「貴様は」
「ん?」
「貴様はこの村の住人ではないだろうが」
「……そぉね」
それが俺にとっては今一番でかい問題だったりする。カイルに助けてもらって以降、俺は領主としての仕事を精力的にこなすようになった。側近は獣に襲われて頭を打ったのかもしれないなどと医者に話していた。俺は健康だ。なんといっても、カイルに面倒を見てもらったんだからな。まあ、恋の病を患っちまったから、アレだけど。酒も女もやめた。というか、そんなものにうつつを抜かしている暇がなくなった。潰れそうな村を助けることと、ほかにもそういう助けを求める村や領民がいるんじゃねぇかと考えたら、本当に時間が足りなかった。幸いというか辛うじてというか、喫緊に対応すべきはあの村だけだとわかって、そこからはぼんやりと考えていた話を具体的に詰め、さすがに側近たちに内緒にはできないからそれについての提言を受け、いつも溜息交じりに嫌味しか言わない側近が思いのほか協力的だった。
「私はあなたと違って、まともでまじめです。ちゃんとした領主さまの仕事の手伝いに、手間を惜しむ道理がありません」
まあ、口の減らねぇやつではあるが、頼りになった。そんな側近でも、俺があまりに家を空けることにはいい顔をしない。だからこれから先、俺がカイルに会うことは、なかなか難しい。でもほら、初恋って叶わないんだろ?じゃあしょうがねぇな。それでもやるべきと思ったことはやるしかねぇだろ。そんな風に、諦めつつ割り切りつつ、カイルにこうやってもう一度会えるのを楽しみにしてた。ようやく再会を果たし、これは参った、手放したくねぇ、諦めきれねぇって、心臓が叫んでいたとしても、俺は領主さまだからしょうがない。
「……貴様は」
「ん?」
「よくそんな風に、次々にいろいろ思いつくな」
「んー」
正直なところ、お前さんを口説き落とすのに必死なだけなんだけどな。なんつーか、この村の奴らとかも含めてうちの領地の人間全員、それなりに楽しくやって欲しいわけ。贅沢はできなくてもさ、ほどほどに、少なくとも明日の飯や、次の雨に絶望するような、そういうのはなくしたい。それとは別の感情で、カイルにはもっとのびのび自由に生きていて欲しい。誰からも縛られず強要されず、自分の意志で人を助けたり己を律する。そうやっているカイルが、俺は。
「明日、もう少し村の中を見て回ってもいいか」
「ああ、歓迎するぜ」
「俺はたぶん狭量で、物事を大局的に見たりできないんだと思う」
「そんなこたねぇだろ」
「いや。貴様の話を聞くたびに、そう思う。俺のことを否定もせずに、誰も損しない無理しない方法を提案してくれる」
「……」
「俺のやり方は、さっきもそうだが、ずっと間違って」
「待て」
あまりよくない方向だ。俺は慌ててカイルの言葉を遮って話を止めた。そんなことは望んでいない。
「俺はそんな御大層な人間じゃない。素人の思い付きだ。それに照らしてお前さんがどうこうなどと思われては困る」
「……」
「お前さんは立派で、賢くて、……めちゃめちゃ優しいから、そこに付け込んでるんだ」
「……そうなのか」
「優しいから、うちにも優しくしてもらえたらいいなって思ってるんだ」
「そうか」
「あの手この手で、お前さんを篭絡しようと目論んでいるわけだ」
「村一丸となってという話か」
「そうだ。でも、どんな手を使ってでもいいとは誰も考えてない。そこまで落ちぶれてない。だから、そうだな、そこだけ褒めてくれ」
「わかった」
「うん」
「この話を飲んでもいい」
「本当か?!それはありがたい」
「──まず一種類、薬草の栽培と、それを使った薬の作り方を教える。こちらで育てられそうで、あればあるだけいいという種類がいいだろう。俺のところで人手が必要な時は、この村の人に手伝いを頼む。栽培を任せっぱなしにはできないから、時々俺の都合がついたらこちらへ来て様子を見るし、そのついでに俺のわかる範囲で子供に勉強を教える。体調の悪い子や妊婦や村人がいれば、それは言ってくれればいつでも診るし薬もいくらでも渡す。道の整備はありがたい」
「お、おお」
「俺は今より空いた時間で、別のことに精を出す」
「うん」
「隣の領地へ薬は、今までどおり渡すし、呼ばれれば患者も診る」
「……うん」
「まとめてみたらわかるだろう。この取引に、俺の負担が全くない。不公平では?領主さま」
「え?どこが?」
「……?全体的にだ」
「そうか?わからん」
「……?」
「本当に、今の話で進めていいか?」
「……?ああ……」
「ありがとう。恩に着るよ。報酬を受け取る、ってのが抜けてるが、そこんとこも頼むぜ」
「礼を言うのはこちらの方だ。何度も言うが、非常に不公平だ。だからいつでも反故にしていい」
「俺はお前さんに惚れてるんだ」
「……は?」
村長にはとっくにばれていて、多分側近も気づいていて、それで何度も釘を刺された。きちんと領主としての務めを果たさない限り、私情を打ち明けるなと。ただでさえ我々とは違う価値観で生きている人間に、余計な情報を与えて判断を鈍らせたり混乱させたりするのは最低の悪手だと。それはそうだ。この話に俺の劣情が混じるとなれば、隣の領地の奴らと同じ範疇に入れられかねないし、俺のせいで全部拒否されかねない。でももういいだろ?今はっきり言質取ったもんな。
「お前さんに、惚れてる。今お前さんが、村との取引を承知してくれたから話してる。これは村との話とは全く関係ない、俺は領主でもなんでもなくて、ただの無駄に図体のでかい男の戯言だ」
「……」
「いずれこの村の人間はお前さんを慕うようになって、お前さんを大事にするだろう。今までその機会がなかっただけでお前さんはそうされて当たり前だ。いい奴だからな。誰でもそうだけど、何かできても、何かできなくても、そんなことを理由に理不尽な扱いを受けるなんておかしい。もしもお前さんが薬作らなくなったって、その値打ちは変わらねぇ。でも」
「……でも?」
「お前さんに惚れたのは俺が先。お前さんのいいところを発見したのは俺が先。誰よりも、先だ。言っときたかったんだよ、それだけ」
「……」
「安心してくれ。さっきも言った通り、お前さんを手籠めにしたりするつもりはねぇよ。そういうんじゃ、ねぇから」
怪訝そうな表情のまま固まって、カイルが俺を見ている。短くない年月を、虐げられていた。こいつを俺が救うとか、そんな話じゃなくて、ただ、あんな森の奥で一人でいるこいつを見つけられたのが嬉しくて有難くて、心底よかったなって思える。浮かれてこんな告白さえしなければもっと格好がついたかもしれないが、我慢できなかった。見返りなんか要らない。ただ伝えたかった。この先例えば、カイルが誰かと恋に落ちたって、そいつよりも俺が先に惚れたんだって。そこに意味なんかなくたっていいんだ。
「さぁて、寝るか。大丈夫さ、部屋は三つもある」
「……ああ」
「着替えもあるぞ。風呂もある」
もう少しだけ一緒にいられたらそれでいい。
◆
翌朝、カイルはまず村長の家へ顔を出し、この度の話を承諾すると正式に伝えた。
「昨晩、詳細を色々確認しました。聞けば聞くほど、私にばかり利があって申し訳ないというか、不平等な取引だと思いました。今でもそう思っています」
「ふむ」
「……でも、自分の価値観にこだわっていることが正しいのか、少し、自信がなくなりました。この話で、ひどく傷つけられる人はいないようです。だから、……お世話になろうと、そう決意しました」
「助かります。こころから感謝します、カイル殿。お互いにとって、きっと良いことが起きますよ」
「よろしくお願いします」
「こちらこそ、末永く」
村長はニコニコと笑い、握手を求め、カイルはそれに応じて頭を下げた。俺はその様子は見ていて、一安心と胸をなで下ろした。その後、カイルは昨日よりもさらに丁寧に村を見て回り、俺ももちろんそれについて回った。村中にすっかり噂が回っているらしく、どこへ行っても興味津々といった面持ちで出迎えられた。茶色い髪も茶色い目も、少し離れていてもすぐにわかる。カイルがこの村にいる。それは本当に不思議な光景だった。ここまでこぎつけるのに、結構時間がかかったけれど、彼は何も変わらなくて、まるで歳を取らないかのようだ。そんな男が、森の中でひっそりと変わらずに生きてきた男が、俺の献策で変わる。その事実は妙に扇情的だった。
昼は村長の家で他の重鎮らとともに会食し、村総出でお土産合戦を繰り広げ、荷物持ちという名目で俺はカイルの帰路に同行した。その道中も、あれをこうしたらどうだとか、あそこをこう変えたらどうだとか、話は尽きなかった。薄暗い森の中、獣の気配を時々感じ、道を整備したとはいえそれもまだ全体から見ればわずかな距離だ、安全な往来の構築は喫緊の課題だと肝に銘じ、用心しながら進んでようやくカイルの家へ着いた。すでに夕暮れが近い。一緒になって荷物を家の中に運びこむ。急がないとまたカイルの薬に助けてもらう羽目になるな。
「急に連れ出して悪かったな。話に応じてくれてありがとう。改めて礼を言う」
「いや。こちらこそ、世話になる」
「お互い様だ。うまくいかないときは、その都度考えりゃいい」
「そうだな」
俺はちょっとカイルの家にお邪魔してそういう会話をしつつ、馬上で思いついたことやカイルからの提案を、一生懸命書き留めていた。忘れるともったいないし、覚えていられる自信がない。墨をつけては筆を走らせ、紙をたくさん持ち歩いていてよかった、数枚にわたって書き連ねる。カイルはそんな俺にお茶を入れてくれて、向かい合わせに座っている。
「なあ、さっきの話の続きだが、この」
走り書きを続けながらカイルの方を向かずに話を振ったら、紙を押さえる俺の手を、カイルの指が突っついた。思わず言葉が止まる。……は?何今のかわいいの。そっと顔を上げてカイルを見ると、頬杖をついて、薄い茶色の目がこちらを見ていた。
「……えーっと、カイル?」
「惚れるって、どういうこと?」
「……はぃ?」
「貴様が言った、惚れてるって、どういうことかと聞いている」
俺は息を止めたまま筆を置き、大事な書付けの類を横にどけ、そろそろと息を吐いた。カイル、お前さん、かわいいなぁ……死にそうだわ、俺。
「えっと、そう、ね、どういう?うーん」
「自分が言い出しておいて説明できないのか」
「いやぁ……」
説明か。言葉にするとさ、ものすごく陳腐だし、なんというか、究極的にはお前さんと交わりたいっていうか、それは惚れてるから交わりたくて全部を知りたいとか二人の特別な時間を過ごしたいっていう意味なんだけど、こっちは名の知れた淫蕩領主さまで、お前さんはそういう行為を別の感情で受け止めるだろうし、だから。
「……好きってこと」
「……」
「好き、はわかるか?」
「わかる」
「好きって感情はいろいろあるけど、そう、この場所が好きとか、この季節が好きとか、親切にしてくれた人が好きとか」
「ああ」
「惚れてるって、そういうホンワカした気持ちと、もっとこう、自制が効かない強烈な独占欲と、一人でいても頭ン中がいっぱいになる酩酊に似た気分と、相手のためなら自分のことがどうでもよくなる妙な感傷が、全部混じってるやつ、か」
「……」
「好きってだけじゃ、足りねぇ気がする。心底惚れてる。お前さんのことばっかり考える。俺の全部を差し出したいし、お前さんの全部が欲しいし、でもただ見ているだけでも嬉しいし、できればお前さんに褒めてもらいたいし、正直お前さんさえよければ世の中の半分くらいはどうでもいい」
「……」
「悪ぃな、変なこと言って」
「……」
「あれだ、俺も、こういうのは初めてでな」
「……そうなのか?」
「男に興味はなかったし、女はいつも侍らせてたけど、いい女は、ただのいい女。誰かの中身を気にしたことなんかなかった。馬鹿だったからなー、いつも酒に酔ってたし。まあこれは言い訳か」
「……」
「お前さんに会って、俺もびっくりしてる。こういう感情があるんだな、これが噂のってな。ああ、だからお前さんの今の状況は理解できるぜ。惚れた腫れたなんざ、何言ってんだかってずっと思ってたからな、そんな感じだろ?わけわかんねぇって」
「……」
「だから、まあ、あれだ。わかって欲しいなんて、言わねぇさ」
こんな見事にきれいさっぱり脈がないのも逆に清々しいな。カイルは無表情で小首を傾げて俺のことをじっと見ている。いつもあれだけ畑仕事をしているのに、あまり日に焼けていない肌はすべすべだ。触りたいと思うけれど、きっと手を伸ばせば触れる前に叩き落されて汚いものを見るような目で見られるのだろう。振られたっていい。そうだな、嫌われても、最悪受け入れられる。ただ、隣の領地のあのクズどもと同じ種類だと、そう思われるのだけは耐えられない気がした。それは多分同族嫌悪。同じくらい身勝手な情欲でこの男を抱きたいと願っていて、あいつらは恥ずかしげもなくそれをやってのけている。羨んではいないが嫉妬している。そんな風に考えている俺は結局、この男にとってはあいつらと何も変わらんのは重々承知だ。でもそれをカイルに知られるのは、嫌だ。
俺は墨が乾いたかも確認もせず、手早く覚え書きを認めた紙を集めて雑に折り、筆と一緒に懐に仕舞いながら立ち上がる。
「多分近々、村の奴らがここを訪ねてくる。その時に、薬草の株分けをしてやってくれ。薬の作り方も……まあ、その辺りはお前さんの段取りに任せるわ。俺がまた視察に来るのはしばらく先になる」
「そうか」
「前もって知らせる、俺が来る目途がついたら」
ああ、かっこ悪いな。カイルの目をまっすぐ見つめることもできない。居たたまれない。誤魔化しているつもりの後ろめたい部分を見透かされている気がして。さあ、逃げよう。それしか方法が見つからない。
「いろいろ、ありがとう。おかげさまで、あの村もどうにかやっていけるだろう。森の中の道の整備は早急に。それじゃ」
口早に別れの挨拶をして、返事を待たずにバタバタと戸口へ向かう。かっこ悪さもここまで来たら立派なもんだ。しょうがねぇだろ、失恋したてホヤホヤなんだよこっちは。家の前に繋いであった馬を引いて、雲のない、暮れつつある赤い空を見上げる。どうにかなるだろう。鐙に足を掛け、弾みをつけて乗り上がろうとしたら同じくらいの力で後ろへ引っ張られた。危うくすっころんで頭を打つところだ。寸でのところで鐙を外して、それでもべしゃんと地面に背中から落ちた。
「あっっっぶねぇだろ、おま」
振り向きざま、俺を引き倒した優秀な薬屋を怒鳴りつけようとした。が、その薬屋に胸ぐらを掴まれてびっくりして全部引っ込んだ。その細い腕のどこにそんな力がと思うほどの強さで引っ張り起こされ、振り回されるように立ち上がり、至近距離から睨まれた。
「馬鹿か貴様は。もう日が暮れる」
「……ごめん」
「襲われたいのか」
「……お前さんに、今、襲われてるような」
「暗くなった森に入るなという話をしてる」
「ああ、うん、はい」
「話の途中で逃げるな卑怯者」
胸ぐらを掴まれたまま、カイルは俺より頭一つは背が低いからなんだかもう、それこそ馬になって引かれているような体勢で家の中に戻された。もう一度椅子に座らされて、正面には腕組みをした薬屋。怒っていてもかわいい男だ。その男が長い沈黙の後、かわいい口を開く。
「……俺は貴様に褒められても、買いかぶりすぎだとか、大袈裟だとしか思わない」
「え、そうなの?」
「貴様はあんなに大人数の中にあって方々から話しかけられても、動じもせずに受け答えができて、その上で気を使っていられる。そういう貴様を眺めていると、どういう芸当なんだと不思議に思う」
「ええ……そうかな」
「貴様と俺の、世界は違う」
「……ああ」
「俺にとっての世界は、この土地だ。ここにずっといて、訪ねてくる人に薬を渡す。時々出かけて行って、診療をする。でもそれは本当にわずかの時間で、ほとんどこの世界の中で過ごす。貴様は違う。いろんな人と会って、いろんな話をして、いろんな場所に行って、いろんなものを見る」
「……そうだな」
「貴様の"世の中の半分"は、俺の世界全部よりずっと大きい」
「そうか?」
「それに等しいような"どうでもよくなるもの"は俺にはない。この世界のひとかけらも、俺にとってどうでもよくなったりしない」
あ、もしかして俺、今、ものすごく念入りにフラれてる?そんなに嫌だった?いやもう、十分なんだけど。足先が冷えるような感覚を味わいながら、愛想笑いさえできず、俺はカイルを眺めていた。カイルは淡々と話を続ける。
「俺の何かが、特別ものの役に立つとは思わないから、差し出したところで貴様が困るだろうとも思う。そちらで必要なところをうまく使ってもらう分には気にならないが。貴様のことも、向こう見ずで無鉄砲でよくしゃべる図体のでかい男だというくらいしか知らないから、欲しいも欲しくないもない……が……」
いやあ、参った。さっきの俺の話をまさかこんなに一つ一つ丁寧に潰されるとは思わなかった。つまりあれだろ?俺の告白なんかまったく理解に苦しむってことだ。結構へこむなぁ。何か言葉を返そうと思うのに、口が動かない。いいよ、もう。俺の気持ちに応えてもらおうなんて、思ってないんだ。伝えたかっただけなんだ。なんかごめんな。汗が背を伝い、カイルはじっと俺を見て、少しだけ表情を曇らせた。
「……あまりにも、俺の世界が狭いと、教えてくれたから」
「そんなつもりはない」
「あの村で過ごした時間は、新鮮だったし楽しかった」
「それなら、よかった」
「純粋に、うん、楽しかった」
「うん」
「居丈高で礼儀知らずだとしか思わなかった貴様が、なんだか領主然としていたのも面白かった」
「うん」
「俺も、変わるべきかもしれないと思った。少なくとも、知らないことを学ぶべきだと思う。貴様のいう、惚れているという感情も含めてだ。それはきっと、俺が知らないことだ」
「そうか」
「貴様は性行為など興味ないようなことを言っていたが、本心か。それは初めて男に惚れたはいいが男の身体には欲情しないということか」
「するわ!惚れた相手だから欲情するわ!!ただお前さんが俺を好きでもないのにそういう行為に及ぶつもりはないってことだ!欲情は!とても!する!!」
「あ?だから、したければしろと言っている。慣れているから」
「そうじゃねえし!俺は、その、す、好きだから、してぇんだし……」
我ながら説得力皆無の言葉は当然尻すぼみに消えていく。カイルの視線が痛い。違うんだ、俺はお前さんが好きなんだ。抱ければいいとかそういうことじゃなくて、好かれたくて、もし好いてもらえたら絶対に大事にしたくて、でも俺の行いを知っていれば下半身でものを考える生き物だと思われているだろうし、それって隣の領地の連中と結局大差ないと判断されてもおかしくない。慣れているだと?ふざけたことを言う。半分腰を上げて大見得を切り、結局黙り込んだ俺をカイルが呆れ顔で見ている。
「貴様は、惚れているから俺を抱きたいということだろう」
「……そうだ」
「貴様の感情というか、動機が、彼らと違うのは理解しているつもりだ。俺に何か、例えば物乞いとかをさせるためにするんじゃなくて、行為そのものが目的なんだろう。そういうのは、初めてでよくわからんが否定するつもりもない。だから、したいならすればいいと言っている」
「こういうことは、好きな奴としか、好きな奴にしかさせちゃならねぇんだよ、本来は」
「ほう」
「俺ももう、適当に誰かと情を交わすような真似はしねぇし、お前さんもそうした方がいいんじゃねぇかと思ってる。だから、えっと」
「でも貴様は俺を抱きたいのだろう。減るものでなし、俺は貴様を嫌っていない。別にそういうことをしても構わないと思うが」
隣の領地のクズどもへの殺意で頭の中が煮えくり返って、我を忘れるほどだ。そんな俺に気づいていないのか、カイルが小さな瓶を差し出してくる。
「なんだこれは」
「潤滑油」
「……」
「使ってもらわないといろいろ不都合なんだ」
「……」
「まあ、多少の傷は薬があるから」
腹が立って悔しくて、涙が出そう。俺が泣いたって何の意味もないんだけど、何もできない自分が情けなかった。もっと優しい言葉とか、言えたらいいけど、俺にはそういう気の利いたことはできなくて。
だから俺は受け取ったその小瓶を机に置いて、両方の拳を握ったり緩めたりしながら腹に力を入れて、深く息を吸った。
「確認なんだが」
「なんだ」
「……俺がお前さんに惚れているという話、だが」
「ああ」
「……その、なんだ、どう思う」
「貴様、俺の話を聞いてなかったのか。わらかん、惚れているという感情が」
「そう、えっと、……嫌じゃない?というか、受け入れてくれる、のか」
「わからないものを、むやみやたらと拒絶はしない。だから、抱きたければ抱けばいいと言っている」
「……あれだ。俺は、不慣れでな、まだ覚悟が足りんらしい。お前さんに惚れているし、そういうこともしたいけど、今はまだ踏ん切りがつかん。申し出は、ありがたいが」
「そうか。領主さまは女にしか興味がなかったからか、惚れたの何のというのが初めてだからか」
「まあ、そうね、うん、だから今日は、一緒に寝るっていうことでどうだ。お前さんが、嫌じゃないなら」
「いいけど」
「次に会うまでに、腹くくっとく」
フラれたわけではないらしい。でも、抱きたいと言われて、カイルはもう俺を隣の領地の人間と似たようなものだと理解しただろう。何一つ我慢できなかった俺が悪い。昨晩も今も、自分の満足のために気持ちの吐露を止められなかった。嫌ってないってさ。よかったな、俺。ありがたい話だ、泣きそうなほど。泣きそうなほど、好かれたい。好きになってもらえない限りは、手を出さない。俺は、あいつらとは違う。
「飯にしようぜ。すぐ食えるものも、持たせてくれただろう」
「ああ」
カイルに好かれたい。それはもう、切実で、諦めきれない俺の願いになった。俺はもっと、頑張らないといけない。
美味しい食事を済ませて、本当に一緒に寝てくれるのだろうかとソワソワしている俺を尻目に、カイルはさっさと寝支度をした。カイルの家には寝台が三つあって、師匠と弟子二人っていうのが最大人数だったのだろう、俺がここに厄介になっていたときはもちろん一つずつ使っていたが、大きくはない寝台一つに二人で潜り込む。
「もっとそっちに寄れ」
「……」
カイルは枕もとの灯りを吹き消し、あまり抵抗も見せずに俺にくっつき、身じろぎをして収まりどころを探している。できればこう、腕を回したり脚を絡めたりして全身で囲い込みたいんだけどさすがにアレかと俺が動けずにいたら、カイルがすっかり俺の胸元に収まった。
「ぬくいな」
「そぉね……」
「寝にくい?」
「いや……抱っこしていいか?」
「んー」
はい、かわいい。世界で一番かわいい。遠慮を捨ててむぎゅっとがばっとカイルを抱っこして、なんかいろいろあったなぁとここ数日を思い出しながら眠った。
◆
俺がカイルにもう一度再会したのは、それからずいぶん後だ。
領主さまの一番忙しい納税関係の時期が続き、何をどうやったって、馬を飛ばして一日は掛かる辺境の村に行く暇は作れなった。
幸い、カイルと村の共同の取り組みは奏功しているようだ。村長には定期報告を課しているので、十日に一度くらいは書簡が届く。もちろんそれは村全体の報告であって、カイル個人の様子が書かれているわけではないが、新しく植えた薬草の最初の収穫があり、想定よりもやや多かったとか、畑の畝の高さと向きを変えることで収穫量が上がったとか、新しく三人の子が産まれたけれど、どの子も健康で、母親の産後の肥立ちもいいだとか。特に産褥熱で寝付くことが珍しくない中、褥婦全員が健康というのが素晴らしい。とにかくそういう、比較的良い知らせの多い報告を日々の楽しみとして領主業に勤しみ、晴れてようやく再訪できたというわけだ。
「あ、領主さまだ」
「おう」
「あ、本当だ。久しぶりに見た。税金取り立てに来たの?」
「ちげぇわ。この村の税金は、大人たちがとっくに納めてる」
「じゃあ何しに来たの?」
「領主さまは、理由なんかなしにいつどこに現れたっていいんだよ」
「えー、ちゃんとお仕事しなよー」
「それはそうね」
久々に村まで視察に来たら、入り口を過ぎて馬を降りたくらいで子供に囲まれていじめられた。ひどい。税金の取り立てなんか、ヘタレの俺ができるわけねぇだろうが。馬を預けて村長の家をまず訪問する。村長的にはどうやら俺の親みたいなつもりらしく、「長いこと顔も見せないで無事だったのか」とお小言をもらった。いやここ、俺の実家じゃねぇんだけど。でもまあ、気分はいい。ありがたいとも思う。
「報告の書簡、欠かさないでくれて助かる。あれのおかげで他の奴らの説得がしやすい。具体的な租税とか補助は、俺じゃなくて実務者が決めるからよ。一応俺の意見は伝えているが」
「いつまでも領主さまに庇ってもらっているようじゃ先はないですからね。我々で頑張りますよ」
「お、おお」
「それで、本日はどうされました?」
「え?いや、まあ、一応様子見に?視察だよ視察、領主さまの」
「相変わらず、お供の方もいらっしゃらず」
「嫌われてんのよ」
「お気の毒でございますねぇ」
「うるせぇわ」
「食事を用意しましょうか」
「いや、道中で食ってきた」
「どうせまた好き嫌いしたんでしょう」
「あのね、村長、俺はもう大人だから。これ以上でっかくなんなくていーんだよ」
「夕飯は、こちらで召し上がりますか」
「あーうん、そうするわ」
「カイル殿もご一緒に」
「うん」
「領主さまのお好きなものを作らせましょうかね」
村長に勝てる気がしないので、早々に屋敷を後にする。そして、ソワソワと落ち着かず、村の中をうろつき始める。だってほら、今日カイルがここへ来てるから。なんていうの?逢瀬?待ち合わせ?どこにいるんだ?
それを考える間もなく、出会う人出会う人が次々に教えてくれた。
「領主さま!カイル先生ならあっちの畑だよ!」
「そうか、ありがとな。よお、勉強、どんな調子だ?」
「よくできましたって、いっつも褒められてる!いっつも!!」
「マジかよ、やるじゃねぇか」
「多分おれ、領主さまより賢い!」
「この村の将来は安泰だねぇ」
「あら、領主さま。お久しぶりでございます」
「おう。あ、お前さんはあれだ、森の整備でよく働いてくれたって聞いてるぜ」
「うふふ。そうです。あたしの狩猟の腕で、こちらを食べようと迫りくる獣たちを次々に食料にしてやりました」
「頼もしいなぁ」
「カイルさんもそうおっしゃってくれましたよ。ああ、あそこに」
村中全員かはともかく、うろついてる俺に声を掛けてくれるくらい気安い連中は、カイルのことを快く受け入れてくれているようだ。遠くから手を振ってくれる人とか、すれ違いざまに会釈をくれる人とか、集団で追い抜きざま挨拶してくれる子供たちが、楽しそうで安心する。畑地帯にたどり着き、点々と作業している人の一人を、懐かしい気分で眺めた。その視線に気づいたのか、カイルがこちらを振り返った。そして、ゆっくり向かってくる。
「……よう」
「今着いたのか?」
「そう、さっき。村長に挨拶して」
「そうか」
カイルの雰囲気が、少し変わった。雰囲気というか……体型?少し逞しくなったような印象だ。それを伝えると、村の畑仕事を手伝っているからかもしれない、あと、ここへ来るたびにものすごくたくさん食べさせてもらえてと言う。いいぞ、村の皆さん。こいつ好き嫌いしねぇし、食わせ甲斐あるんだろうな。
「村の畑って、薬草以外も?」
「ついでだ」
「そんなんだから、村の連中も嬉しくて食わせるんだな」
「ありがたいことだ」
ありがたいのはこの村の方だろう。働き手はあればあるだけいい。カイルはうまく馴染んでくれている。本人が変に気を遣わず気の向くまま自由にやっている結果がこうなら最高だ。汗を拭きながらカイルが俺をじっと見て、ふと笑って肩を竦めた。なんだお前さん、その人間らしい仕草はよ、かわいいじゃねぇか、今笑ったよな?
「……なに」
「いや、ずっとこのところ晴れていたのにと思ってな」
「え?」
「もうすぐ雨が降る。結構強いだろう」
「え?」
天気の崩れるのを察しているのはカイルだけではないようだ。作業していた連中が空を見上げ、パタパタと片付けを始めた。カイルが指をさした山のほうに、黒い雲が見える。降るのか?まだ真上の空は青いが。そう不思議に思ったら、ひんやりとした風が吹き抜けた。
「猶予はない。仕事が残っているなら急げ。段取りを変えないと、動けなくなるぞ」
「了解」
雨が一時のことなら軒下で休む。長時間の降雨であれば、家にこもる。狩猟や農耕で生活するのであればそれが普通だ。畑にいた連中はもう急ぎ足で畑から離れ始めている。カイルも大きな背負子に道具を放り込み、担ぎ上げて、さっさと行ってしまった。俺は慌てて村長の家に取って返す。夕飯の約束をしたけれど、それを断りにだ。村長も雨の気配に気づいていたらしく、俺が顔を出したらすぐに食べられるものを折り詰めにして持たせてくれて、カイルの分もあるから早く帰れ、もう降るぞと急かされた。ありがたい、明日また顔を出す、そんなような挨拶をして、屋敷を出たらもうすっかり空は暗くなり、いつも寝泊まりする家に着くころにはびしょぬれだった。
「うええええ」
「おかえり。風呂、できてるぞ」
「ああ、ありがとう。お前さんも?」
「収穫したものを倉庫に運んでいたら、間に合わなかった」
そういうカイルは風呂上がりでさっぱりして、濡れた髪を拭いている。その着替えた浴衣とか、ほとんど何もなかったこの家に、ちらほらと日用品が増えている。カイルがここで時々生活しているからだ。それが何とも言えず、嬉しかった。
「これ、村長が、俺らで食えって。あー濡れたか」
「ありがたいことだな。問題ない」
「うん。風呂行ってくるわ」
「ああ」
えー!このやりとりヤバくない?なんかこう、一緒に住んでる二人……的な!?さっきおかえりとか言ってくれたし!そう考えたら顔面が駄々崩れになりそうで、持たされた食事をカイルに渡して、俺はそそくさと風呂へ逃げ込んだ。頭から何度もお湯をかぶって、雨で冷えた髪や身体を洗う。なんか、緊張するな。久しぶりに会えた嬉しさを噛みしめながら、高揚感を落ち着かせる。
「これやるよ、俺の分」
「貴様は好き嫌いが多すぎる。ちゃんと食え」
「はぁい。お前さん、飯どうしてるんだ、こっちに来てるとき。誰かがどうにかしてくれてるか?」
「ああ。勉強を見る日は子供らが家から俺の分も持たされて来ていて」
「ぶふ」
「何がおかしい」
「いや?それで?畑の日は」
「一つの畑を一緒に耕す人は、みんな一緒に食事をすると」
「うん」
「十人も十一人も変わらないと言って、俺の分まで用意してくれている」
「そうか」
「そういう無償の厚意には慣れていないしお返しができないから心苦しいんだが、先日、膝と腰が痛いと相談があって、いろいろお話したら、少しは役に立ったらしく」
「いや、超助かるだろ」
「だから、……甘えている。遠慮される方が気分がよくないと、皆さんがそう言ってくれるから、ありがたく」
「そうか。ここで寝泊まりして、不便はないか」
「全くない。水も火もすぐ使えるし、建物も立派だし、村の人が、あれこれと持ってきてくれる」
「なるほど」
風呂から上がったら、カイルが食事の支度をしてくれていた。食卓には見覚えのない食器類が並んでいる。目いっぱいかわいがられちゃって、かわいいったらねぇな、このお薬屋さんはよぉ。温かいお茶をすすって、カイルを盗み見る。かわいいね、お前さんは。愛しいよ、お前さんが。カイルの話は、全部面白い。こちらの村での話もそうだが、そもそもの自分の土地での生活の変化を教えてくれて、時々俺の希望が叶っている節があって、ああ、よかったと嬉しくなる。あと、村民の皆さんに頭が上がらねぇ。
「おい、残すな」
「今食べるって」
「片付かんからさっさと食べろ」
「はぁい」
「まったく」
あんまり好きじゃないおかずを、皿の端に残していたらカイルに叱られた。観念して渋々箸を取ろうとしたら、カイルがそれをひょいと取り上げて俺の口元に寄越した。
「口を開けろ」
呆気にとられてぽかりと開いた俺の口に、そのおかずは放り込まれ、カイルは食器を片付け始める。俺は味もわからないままそれを飲み込み、大きな溜息を吐いた。炊事場へ行ってしまったカイルには聞かれなかったけれど。何あいつ、もう、何なのあいつ。うな垂れる間もなくカイルは戻ってきて、俺の心臓はドキドキが治まらない。
食卓が片付き、すっかり日が暮れて窓の外は真っ暗だ。風はないのでそれほど騒がしくはないが、降り続ける雨の音が家中を包んでいる。飯も風呂も話も済んで、やることっつったら、まあ、あれなんだけどよ。切り出しにくいじゃんね。緊張すんね。今までどうやって女を寝所に連れ込んでたんだっけかな。連れ込まなくても、寝所に行ったらいたんだっけか。まあ、とりあえず、そう、寝所だな。どうやって?
「……あのさ」
「なんだ」
「あー……この間の続きなんだが」
「ああ」
「なんかこう、ちょっとだけ、ほんの少しだけでも、俺のこと好きになったり、したか?」
好きになって欲しいんだよな、俺は。そんで抱きたいわけ。はじめの一歩は、好意が欲しい。モジモジボソボソと話す俺に、カイルは半ば呆れたような視線を寄越す。わかってるよ、お前さんはそういうのどうでもいいと思ってんだろ?でも俺にとっちゃ大事なことなんだよ、わずかな拠り所なの。
「別に嫌ってないと、言ったはずだが」
「お前さん、嫌いな奴いねぇだろ」
「……確かに」
「じゃあ、俺以外に好きだって言われても、俺に言われても、変わらんってことだろ」
「……そう、なのか?」
「ちょっとだけでも、お前さんの中に、俺にならいいよっていう感情がねぇと、なんか、無理強いだろ、自分が許せなくなりそうなんだよ」
「凌辱と変わらんということか」
「そんな事態は絶対に避けたいってことだ」
「わからん。比較対象は過去に性交渉の相手をした隣の領地の人間だ。彼らに対する感情とは違う。それでは貴様は納得できないのか」
「どう違うんだ」
「……今日貴様が来るんだなと思って、少し落ち着かなかった。久々に顔を見るし、そういうことをするのかもしれないと。でも別に憂鬱な気分にはならなかった」
「俺を好きってこと?」
「よくわからんが、しないならしないでいい。貴様の好きにすればいい」
「……」
「……好きにすればいいなど、貴様にしか言わん」
その一言で、俺は天にも舞い上がるような気持ちになる。俺にしか。俺にだけ。好きとか惚れてるとか、そういうことはよくわからないと繰り返すカイルが、俺にだけ気を許してくれている。傷つけたくないし間違えたくないけれど、今のところ最高の返事なんじゃないだろうか。
「……捕まえずとも、逃げる気はないが」
「へ?」
あ、しまった。覚悟を決めておもむろに立ち上がって寝所へ向かうのに、完全に無意識でカイルの手を握って連れて行こうとしていた。俺の手と俺の顔を、怪訝そうにカイルが交互に眺めている。慌てて指を開き、カイルの手を離す。
「悪い。手ぇ繋ぎたかっただけ……」
「紛らわしい」
カイルは眉間を寄せて、改めて俺の手を握ってくれた。すまねぇな、ちょっと落ち着かねぇとな。カイルはもう一度俺を見上げて、それで?と聞いた。
「ん?」
「どこへ」
「え?寝床」
「寝床。なんだまだ覚悟が決まらんのか、だらしない」
「え?いや、がんばるつもりだが」
「寝床は寝る場所だろう」
「そうね」
「……まさか、寝床でする気か?汚れるだろうが」
どうしよう。うまく説明できる自信がない。カイル、お前さんは、どういう搾取を受けてきたんだ。俺の想像をはるかに超えて、まともに抱かれたことなんかなくて、ただ、そう、いつも本当にその場しのぎで。たまらず、ぎゅっと手を握る。
「汚れたら洗えばいいさ。洗濯は得意だ」
「……そうか」
「ああ。気が向かんか?」
「別に。貴様のやりように任せる」
「助かるよ」
動揺を隠して廊下を歩き、いつもカイルが使っているらしい部屋を通り過ぎて、別の寝室に入る。寝台が一つと書き物机と椅子、ただそれだけの部屋だが、下心がやばすぎて、淫靡な監禁場所みたいに見えてくるから恐ろしい。自分に嫌気がさしつつ、よっこらせと寝台に腰を下ろし、隣にカイルを座らせる。
「あー……疲れてねぇか?」
「なぜ」
「……畑、出てたし」
「貴様は長時間移動してきて疲れているのか」
「いや」
「……」
「……」
「まだ俺に気を使ってるんだろう、貴様のことだから」
「そりゃ使うさ。大事なんだから」
「口でさせられるのは、好きじゃない。それ以外は、貴様の好きにしていい。ほかに確認したいことはあるか」
つないだ手を強く引いてカイルの肩を抱きよせ、ぎゅっと目をつむって怒りをやり過ごす。好きじゃない、なんて生易しい拒絶ではないはずだ、本心は。もっと強く、絶対に嫌だと、言っても構わないのに。俺はまだ信頼が足りないようだ。
「貴様のしたいように。俺がそれでいいと言っている。それに」
「ん」
「……貴様にここへ連れてこられた日から、俺は、いろいろ考えた。考えを改めた。年長者の意見を聞いたし、同年配の人の話もだ」
「うん」
「みんないい人で、どうにか役に立ちたいと思うし、恩返しをしたいと思う。そういう話をしたら、じゃあまず自分からだと言われた」
「うん?」
「自分から……まず、俺から、俺を大事にして、楽しく過ごしなさいということだった。困りごとがあれば誰かを頼って、心配や不安を解消するべきだと」
「そうか」
「不安も心配も困りごとも特にないと、その時は答えた。実際そうだから。でも、難しく考えすぎだと言われた。例えば、こうだったらいいのにということはないかと」
「うん」
「なくは、ないと」
「そうか」
「だから、あまり、あれこれ決めないで貴様に頼って、任せてみたらどうかと思っている。そうしたら、知っていることも違う側面が現れて、何かが変わるかもしれない」
「変わりたい?」
「変えるべき点は多々あると、最近とてもよくそう思う」
「無理する必要はないだろう。今のままで、お前さんは十分魅力的で、いい奴だ。でも、こうなったらいいのにが、あるんだな?」
「ある」
「うん」
カイルの希望が全部叶うといいなと思った。つないだ手をほどいて、カイルを自分の腿に跨らせて向かい合わせになる。そうすれば、カイルのほうが目線が高くなる。図体の大きい俺が上からのぞき込んだり押さえつけたりするのは多分不快だろうと想像して、カイルの腰の後ろあたりで手を組んで彼が落ちないように支え、茶色の瞳を見上げた。カイルはいつも通り表情を変えず、見つめ返してくれる。ああ、かわいい。よいしょと首を伸ばして、唇を合わせた。軽く触れたカイルの唇は、薄いのに柔らかい。
「……なに?」
最近気づいたんだが、カイルは全くわからないことに遭遇するとゆっくりと首をかしげて俺を見る。かっわいい。なに?じゃねぇよ。食いつくすぞこのかわいい薬屋め。
「なにって」
「今の」
「……おー……なんつーか、親愛の情を、こう、表す、行為、かな」
「ふうん」
「初めてだったか」
「ああ」
「そう」
やべえ、顔が熱い。多分耳も首も真っ赤だろう。カイルが一つまばたきをして、不思議そうに俺を見ている。心臓がバクバクいってる。想定外だったからよぉ。ああ、そう。初めてね、ふーん。
「大丈夫か?貴様真っ赤だぞ」
「よゆーですけど」
「そうは見えんが」
カイルの指が、俺の耳たぶに触れて、もうどうしたらいいかわからない。こんなに緊張するか?動揺するか?カイルをまともに見ることができず視線を泳がせていると、カイルの指が移動して、柔らかく俺の涙袋の辺りを押した。
「クマができている」
「ん」
「不摂生か」
「ん」
「感心せんな」
「ん」
真面目な領主さまを気取ろうと思えば、惰眠を貪っている暇はない。しかしそれで身体を壊すのは本末転倒。でもほら、今日ここに来たかったから、時間を工面するのに多少は無理したよね。普段は規則正しい生活をしてる。心配されているならそれは伝えておかないとな。
「いつもはちゃんと」
目線を上げて口を開いたけれど、言葉は途切れた。カイルが俺のクマに唇で触れたからだ。右、左。見開いた俺の目には、カイルの肌しか見えなかった。
「場所は、口だけか?」
「……どこでも大正解」
「そうか」
……待ってくれ。殺傷能力が高すぎるだろう。俺は呻きとも溜息とも悲鳴とも取れないような声を撒き散らしながら、ぎゅうううっとカイルを抱きしめてその肩のあたりに額を押し付けた。あるのか、親愛の情。俺に対して、あるんだな。嬉しい。やばい。加減ができなくなりそう。
「苦しい」
「すまん」
「領主というのは、そんなに腕力が必要なのか」
「荷物にはならんから、ほどほどに」
「感心だな」
「ん」
ああ、かわいい。嬉しい。寝巻用の柔らかくて細い帯をほどいて浴衣の合わせを開くと、目の前にカイルの裸が現れる。でも、俺はそっちじゃなくてカイルの顔を見上げていた。表情を、確かめていたくて。
「カイル、好きだ」
「……もう、惚れてはいないのか」
「惚れている。ぞっこんだ」
「そうか」
「うん」
俺の説明が悪かったのか、カイルは好きの上位が惚れているだと理解しているようだ。好いてるよ、惚れてるよ、愛してるよ。俺の言葉は、お前さんにとって価値があるか?
「村の、人が、よく」
「ん?」
「……領主さまは、カイルが好きなんだなって」
「ほー」
「見てればわかるって」
「へー」
「……カイルはしあわせ者だなって」
「それは、他人が決めることじゃねぇよ」
誰かに好かれることは悪い話じゃない。でも、そこにしあわせを感じるかどうかは別だ。俺がそういうと、カイルは少し安心したように表情を緩めた。つまらない観念にお前さんを縛りつけたりはしない。そのままでいい。なあ、それでも、お前さんは俺と肌を合わせていいと思ってくれるか?それともこんなことは日常で、いいも悪いもない、たいしたことはないと思っているのか。俺にとって、お前さんと過ごすこの時間は本当に特別なんだよ。
「ありがたいとは、思ってる」
「よせよ」
「貴様は親切だから」
「下心があるんだよ」
「でも、無理強いはしないし、俺を、……俺に、指図しない」
「そうだとしても、いい人認定には早いぜ」
「いい人だとは言ってない、一言も」
「こりゃ失礼」
カイルの浴衣を肩から落し、むき出しになった背中に手のひらを当てて支える。生まれてこの方、男の乳首の存在意義を疑問に思ってきたが、この状況になると吸い付きたくなるのだから不思議なものだ。
「これ、使っていいか」
「まともか?」
「多分」
「じゃあいい」
これ、というのは俺が持参した潤滑油だ。カイルの手持ちも多分あるだろうが、隣の部屋まで取りに行くのも面倒だし、俺もちゃんと用意していると安心させたい。ちなみにこれは、俺の実家のお抱え薬師に作らせた。とにかく質の良い材料で、余計なものは入れるなと厳命したそれは、蓋を開けてみるとわずかに甘い香りがする。余計なものを入れやがったな、あのくそばばあ。家に戻ったらぶっ飛ばす。
「悪い。まともなものを作らせたはずだったんだが、なんか入ってるな。お前さんのを使おう」
「いや、それはまともだ。その香りは入っていておかしくない成分だ」
「そうなのか?」
「ただ、普通は入れない。貴重で高価だから」
「ふうん。ま、お前さんが良ければ何でもいいさ」
「貴重で高価なんだぞ」
「うん」
「だから、俺じゃなくて別の人に使え」
「これはお前さんと使うために用意したもんだし、お前さん以外の誰かとこういうことをする予定はない」
うん、ない。カイルのことで頭がいっぱいだから、ほかの誰かと寝ることを思いつかないし、自慰の時に思い浮かべるのはカイルのことだ。もったりとした質感のそれを器から指で掬い取る。体温で溶けていくらしく、ゆっくりと滴が伝い始める。
「いいか?」
「……貴様が、いいなら」
「そっちじゃねぇけど」
「使っていいと、……使うようなことをしていいという話だろう」
「そう」
首を伸ばして、もう一度カイルに口づける。慣れないからか、少し顎を引いて唇を結んで、でも一応逃げずに受け止めてくれた。口、開けてくれねぇかな。急ぎすぎか。溶けていく潤滑油を指に絡めて、浴衣の下は何もつけていなかったカイルの臀部のあわいにそっと触れる。ぎくりとカイルが身体を強張らせて、俺の寝巻の肩の辺りを握る手に力がこもった。我慢させてるのかな。不安になって顔を覗き込んだら、もの凄く怖い顔をしていた。
「貴様の、触り方がっ、貴様が、さっさとしないから、びっくりしただけだっ」
「ごめん」
「謝るな」
「はい」
「さっさと済ませろ」
「やだ」
冗談じゃねぇ。ゆっくりじっくりやらせてもらう。俺を受け入れてもらう場所を丁寧にほぐしながら、全く存在感のない乳首に吸い付く。目の前にあれば弄らずにはいられないのだからおかしな話だ。周囲を舐めては突起を舌で押しつぶし、大きく咥えて吸う。空いた手でもう片方は抓んだり引っ張ったり捩じったりする。カイルが動くから、俺の太ももから落ちてしまわないように乳首を弄っていた手を腰に回してしっかり抱えなおして、左右を交互に口に含む。時々頭上から、小さな声と、短い吐息が聞こえて、乳首を甘噛みしながら、カイルはどうされるのが好きなんだろうなぁと考えた。強い刺激より、優しい愛撫の方がいいのかな。尻の方も、もうずいぶん感触が柔らかくなってきたので、ゆるゆると入り口を押し広げながら内側をぐるりと撫でまわす。乳首はあんまり感じてないのかな。少しかたくなって多少存在感が増したとはいえ、唇で食むのさえ難しいくらい控えめな乳首を、べろりと舐めあげてちゅうっと音を立てて吸う。そうしたら、カイルの拳が俺の肩に振り下ろされた。びっくりして顔を上げると、カイルは真っ赤になって眉間に皺を寄せている。これは、やばい、しくじったのか。
「カ」
「さ、すがは、音に聞こえた淫蕩領主さまだな。と、床上手な、ことだ」
「カ」
「そ、そんな風に、あちこちを」
「……えーっと」
「さっさと突っ込め、ばか領主」
「やだ」
「さっきから貴様は」
「俺の好きにしていいんだろ?お前さんさえ嫌じゃなければ、もっとしたい」
「もっ……!?必要、ないだろう」
「必要?あるぜ、お前さんの全部が欲しいと、言わなかったか」
「知らんっ、いいからさっさと」
「もうちょっと」
「こんなの」
「お前さんにずっとさわっていたい。終わりたくない。お前さんは、さっさと終わらせたいか?」
「突っ込んで、吐き出せば、満足だろう」
「全然。そんなんじゃやだ」
「……もう、好きにしろっ。貴様はちっとも俺の言うことを聞かん」
「こんな俺は、嫌いか?」
「……別に」
「好き?」
「……」
「まあいいや。俺がお前さんに惚れてるんだし」
気まずそうに目を逸らすカイルを愛しく見上げて、そうか、いつもそういう行為だったのかとだいたい把握した。お前さんが知っている行為とは、別のことをしような。きゅっと閉じられた薄い唇に唇を合わせ、ちらりと舐めると、カイルは身体を強張らせて、肩を跳ねさせた。こういうのは抵抗を感じるかな。口の中とか唾液とか。濃厚な接吻は諦めて、頬や額に唇を寄せては顔を離し様子を見ていると、カイルが視線を泳がせながらかわいい小さな声を出した。
「……口、吸うのか」
「……親しくなると、吸う、かな」
「それはこういうことより、よほど難易度が高いように思う、俺は」
「今じゃなくていい」
「ああ」
「うん」
俺が笑って頷くと、カイルはようやくこちらを見てくれた。まあ、本音で言えば限界ギリギリなんだけど。今すぐ全部ぐっちゃぐちゃにしてベロンベロンしたいんだけど。軽蔑されたくないから我慢してるだけで。目を合わせていると我を忘れそうになるから、頬に口づけをして、首筋や肩にも吸い付いて、カイルの股ぐらに手を伸ばす。俺は気持ち同様股間のアレも限界極まってるんだけど、カイルのはまだ頭が完全に出切ってない程度だ。握ってゆるりと撫でたら、また拳が肩に振り下ろされた。さっきよりかなり強めだ。
「いてぇ」
「そんなところまで触るのかっ!?なんで!?」
「えーっと、男にしたら、ここが一番気持ちいいかなって思うし、抵抗あるならよそうか」
「信じ、られな」
「全部触りたい、俺は。お前さんが許せる範囲なら、全部」
「い」
「いやか?」
「いい、けど、何が楽しい、のか、そんなもの」
「なんだろうな?わからんが……本能かな。好きなものは触りたいだろ」
「知らんっ」
「落っこちないでくれよ。俺の首に掴まって」
「いやだ」
「つれないねぇ」
カイルのがどんどんかたくなって、さらに撫でていたら小さな穴からぷくりと粘液が零れた。それを親指の腹で塗り込めるように先端を撫でたら、粘液は増え、カイルは身体を強張らせ、背を丸めて、息を詰める。相変わらず俺の肩のあたりを握りしめているカイルの顔を覗き込めば、真っ赤だ。無理しなさんな、と囁いて、食いしばっている唇の端に口づけると、緩慢に首を横に振る。
「へーき、だ」
「そうか。気持ちいいか?」
「……最中に、そう聞かれることは、好きじゃない」
「わかった。もう聞かない」
「ん」
「好きだよ」
「ん」
陰茎を上下に擦るのに合わせて、カイルの尻を弄る。乳首に舌を伸ばす。押し殺したようなうめき声と、浅い呼吸。ヒクヒクと震える腹。潤滑油をカイルの陰茎に塗り足して、ぬるぬると射精を促すと、カイルは握りしめた拳でゴツゴツと忙しなく俺の肩を殴り、声を絞り出す。
「も、出る、から、汚すからっ、ん、あ、はな、せ」
「構わんよ」
「だめだっ、汚いから、だめだっ」
俺にだって言い分はある。精液が汚いかどうか、汚いってのは不衛生ってことか?病気とか?そういうのはわからないけど汚いとは思わないし、それを掛けられたからって汚されたとも思わないし、そもそも射精が一回で終わる予定でもない。一晩かけてそこらじゅうに飛び散るだろうが、あとでまとめて洗えばいい。なんなら、口ですることにさえ抵抗はない。でも、カイルは泣きそうで必死で、俺の手首の辺りに爪を立ててやめさせようともした。そんな相手に自分の理を通す趣味はない。腕を伸ばして諸々と一緒に置いてある懐紙を掴み、カイルの陰茎の先に宛がって包む。
「これで大丈夫だから、出せ」
射精感に抗い続けることは難しい。カイルは怯えたような表情を一瞬見せて、ギュッと目を閉じて果てた。その声も吐息も、それはそれは扇情的だった。理性を打ち砕かれるような思いだったが、眉根を寄せたカイルを見れば、当然これ以上無体を強いることはできない。懐紙を丸めて屑籠に放って、往生際悪くもまだカイルの中を弄っていた指も抜き、その手も懐紙で拭いて、カイルを見上げて笑いかける。
「悪い、無理させた」
「……」
「汗かいたな。もう一回風呂行くか」
「……なんだと」
「今日のところは、まあ、このくらいで」
「貴様のそれは」
「お行儀が悪くってな。まあ、放っておけばいい」
「ふざけるな」
「ふざけてない」
「……口でしてやる」
「お前さんこそふざけたこと言うんじゃねぇよ」
「じゃあ!」
「機会はまたあるし、今夜じゃなくてもいいだろ」
「また逃げる気か」
「いやいやいや」
「さっさと突っ込め。ぐずぐずねちねちしやがって」
「いやだから」
「貴様が始めて、ここまでしておいて、俺が構わないと言ってるんだ!勝手に気を回すな!」
確かに勝手に気を回してるのは俺だけどよぉ。心底惚れた相手に嫌われたくないし、どうかすると簡単に傷つけるのがわかってるし、ビビっちゃうのが恋心ってもんなわけ。そんでもって、ここまで言わせて食わないわけにもいかないってのが恋心の裏側ってもんなわけ。でもそうなるといろいろ、台無しになるのも目に見えてるってわけ。苛立ちだか怒りだかで恐ろしく怖い顔のカイルの腰を両腕で抱えなおし、鎖骨の辺りに軽く口づけをして茶色の目をみつめる。
「うまく、いかねぇもんだなぁ」
「……」
「全部俺が悪いんだけどよぉ。ギリギリんとこで、どうにか踏みとどまってるけど、あっという間に化けの皮剥がれる。理性が吹っ飛ぶ。忍耐足りてない、俺」
「……最初に言った。寝台が汚れる心配はあるが、別に、どうされても、貴様ごときに怯んだりなどしない」
「お前さんはさ、そう言うけど」
「貴様とする性行為が、俺の経験してきたものと違うんじゃないかと、思っている」
「……うん。そうだ。違うよ」
「それを確かめたいと思った。だから、俺の意志でこうしているんだ。勝手にやめるな馬鹿」
「カイル」
「貴様は俺が好きだから抱きたいと言ったんだ。もう好きじゃないのならそう言え」
「カイル」
「領土中の女を好きにしていた領主さまにしてみれば、俺の」
「好きだ。抱きたい。でも、嫌われんのはやなの。わかるか」
「嘘をつくな。俺に嫌われたって、どうということはないと、貴様だってそう考えているはずだ」
「そんなわけあるかよ」
「嫌われるのが嫌なんじゃないだろう。貴様は、この期に及んで、俺がここまで許しているこの状況で、それでもまだ、自分が隣の領土の連中と同じじゃないかを不安に思っているだけだ。勝手に、俺が嫌な思いをするかもしれないと想像して」
「……」
「何もわからないと思うか、俺が。確かに世間の常識には疎いし、物を知らん。それでも、貴様が俺を丁重に扱っていることくらいわかる。彼らがそうじゃなかったことくらい理解している」
「好きだからだ。惚れてるから、大事にしたいし、嫌われたくないし、抱きたいけど、ビビってる」
「そうか。もういい。放せ」
「カイル」
「放せと言った」
「お前さんが」
「なんだ」
「……お前さんがよぉ……俺なんかに、なんでも許すから、怖ぇえんだよ」
「なんでも許した覚えなどない。むしろ貴様を利用している。自分のために」
「無理しねぇかな、我慢してねぇかなって」
「してない」
「無意識に」
「知るか、そんなこと。くだらない」
「だから」
「だらしない」
「でも」
「なさけない」
「そ」
「これ以上どう俺から誘えばいいんだ、この馬鹿領主!根性ないならもうどけ!」
カイルの拳が、俺の腕に振り下ろされる。呆気にとられて一瞬何を聞かされたのかわからなかったけれど、頭に血が巡った途端、ものすごい勢いで顔が熱くなった。さそ、誘って、誘ってさ、た!?カイルの耳も赤い。えーっと、これはありがたく頂かないと恥をかかせちゃう据え膳だよな?ぎゅっとカイルを抱きしめて、そのまま寝台に転がる。おでこをくっつけて、好きだと囁いた。
「好き。抱きたい。ちょっと我慢してくれ」
「我慢、など」
「無駄に図体がでかくて顔が怖いけど、俺の好きにしていいか」
「最初から」
「あー、俺も脱いでもいい?上になってもいいか?」
「そもそもなぜ俺の寝巻を脱がせた?お互い局部が出ていればいいんじゃないのか」
「いいわけねぇだろ、俺の性欲舐めんな」
「貴様の性欲は知らんが、口では乱暴なことを言うくせに、笑えるほど慎重だな」
「笑ってくれていい。俺がお前さんをどれだけ好きか、それが伝われば笑わずにいられんだろうよ」
汗で湿る寝巻を脱いで床に放り、カイルの両膝を握って左右に大きく広げる。カイルが思いっきり変な顔をする。ああ、もう想像がつくぜ。お前さんは、まともに寝台で抱かれたこともなくて、ただ排泄行為の道具のように使われていて、だからこんな風に正面から抱き合うなんて初めてなんだろう。
「俺ぁよ、お前さんの顔も、大好きなんだよな。かわいいし綺麗だし愛嬌もあるし」
「は?」
「怖い声出すなよ。だから、顔見ながらしたいんだよ。お前さんだって、俺が何するか見えていた方が安心感ねぇ?」
「……貴様の好きにしていい、が」
「うん」
「……俺は身体がかたいから、あんまり無茶はできんぞ」
「了解」
カイルの腰の後ろに枕を突っ込んで、よっこらせと脚を抱える。不安気に、戸惑いがちに、俺を見上げるカイルに笑って見せる。
「無茶はしないけど、やっぱりちょっとは、痛いかも。我慢できなきゃ言ってくれ」
「はぁ?何をいまさら、当たり前だ、そんなものを入れられたら痛いんだ」
「痛くなくなるように頑張る」
「なるわけないだろうが。もういいからひと思いにやれ」
「んー」
張り切っちゃうよね、こういうの。俺は今までの奴らとは違うんだって、思われたい。何というか、印象に残したい、残りたいっていう欲求だ。カイルが俺から離れても、記憶していて欲しい。ふう、と息を吐いて、自分の陰茎を握ってカイルに挿入した。ゆっくりと、慎重に。ああ、気持ちいい。多分、人生で一番だな。
「やべぇ……」
「や、ばいのは、こっちだ……!」
「痛ぇか?すまん、ちょっと」
「動くな!」
めっちゃ痛いんだろうなぁ。俺もちんこちぎれそうなくらい締め付けられてキツイ。女ともこっちの穴でやったことないから不慣れだし、そもそも俺が抱いてたのは領主さまに抱かれるお仕事をしている女ばっかりだったから遠慮も気遣いも必要なくて、だからつまり、うまくやる方法が思いつかん。情けないような気分でカイルの顔を見れば、ギュッと眉根を寄せて、顔をゆがめている。
「カイル、痛ぇんだろ?」
「いたく、ない」
「ん、そうか」
「……いたくない、けど、苦しい、でかいんだよ、も、なんで」
「無理そうか?」
「いたくない、のが、気持ちわる、い」
「それは多分」
気持ちいい、になるやつじゃねぇ?と期待する。本当に痛くないのか。よかった。腹の奥に力を入れて、ほんの少しだけ、腰を前後に揺らす。いつまでも動かなければいつまでも終わらない。カイルもそれがわかっているから、もう俺を止めなかった。
「変な感じか?」
「ん、ああ、変な、そう」
「あれかな。お前さんの言う貴重で高価な成分のおかげか?痛くねぇのは」
「え?うん、そうかも、しれん」
「じゃあまあ、初手としては上出来か」
痛みがないのはいいことだ。枕の端っこを握りしめるカイルの手を撫でて、指を絡めて繋いで、ゆっくりとさらに中へ。カイルは目を閉じて、無理やり息を吐き出し、何かを紛らわせようとしている。その様子にどうしようもないほど興奮するのだから、俺は人として終わってるのかもしれない。動きを少し大きくしたら、カイルが呻いて身体を捩る。頭の中が、とけていく。
「カイル……カイル、俺が好きか?好きって言って欲しい」
「い、やだ」
「嘘でもいい」
「いやだ」
「言ってくれ」
「しつ、こい、いやだっ」
「俺は、好きだ。好きだよ」
カイルの平たい胸を撫でまわし、立ち上がっている乳首を摘まみ上げる。途端に背を反ってカイルが声を上げた。ああ、もう、どうすんだよこれ、お前さん絶対気持ちいいんだろうが、伝染するんだよ、俺だって死ぬほど気持ちよくなってきて、馬鹿になりそうなんだよ、気持ちいいよな?どうされたい?ここか?ちょっとかたくなってるの、ここが気持ちいっぽいけど、どう?逆にここは嫌か?あーもう、聞きたいけど、聞けない。ただひたすら、必死に自制しながら、カイルの顔を見つめて反応のよさそうなところを探る。汗が背中を流れていく。
「カイル」
「……っ!な、んだっ」
「やっぱ、人間、行動には発声が伴うもんだと思うんだよな」
「は、ぁ?」
「重いもの持つときとか、怖い思いしたときとか、声出すだろ」
「ふ、う」
「気持ち悪くて苦しいなら、声出せ。マシになんじゃねぇか?」
「ん、あ」
「俺もよぉ、やべぇから、お前さんの名前呼んで、紛らわせてんだよ」
「あ、あ」
「雨強くなってきたな」
「……っ、あ、うあ」
「カイル……好きだ、惚れてる、カイル」
カイルが好きだ。可愛くて仕方がない。こうして抱けるのが嬉しい。気持ちよさそうで安心した。逃げないで、できれば俺を、好きになって。ああ、誰かを抱くのって、こんなに気持ちよかったか。粘着質な音と、自分の呼吸の音と、雨の音と、寝台がきしむ音。静かにして欲しい。カイルの声が聞きたいから。
「カイル」
「ん、も、っと」
「え?」
「呼べ、もっと、好きって、言え……っ」
「好き。カイル、大好きだ。カイル」
「ん、ん」
「死ぬかも。死んじゃう。カイル、好き、好きすぎて死にそうだ」
身体を伏せてカイルを抱きしめ、あちこちに口づける。きつかった締め付けも柔らかくなり、時々奥が動く。もう少し、入れたい、もっと、入りたい。頬に触れて、茶色い目を覗き込む。その目が、少し細められて俺を見上げている。かわいいな。好きだよ。
「き、さまは、うるさ」
「だってよぉ、も、マジで、あー……好き……」
「あ、あ」
「辛くねぇか?触るぞ」
すっかり萎えてしまっているカイルの性器を掴んでゆるゆると扱く。途端に中が絞るように動いて思わず声が出た。カイルは顎を上げて自分の顔を両手で覆っている。
◆
眠りから覚めると同時に、雨の音が満ちていく。
まだ降っているのか。今はもう朝だろうか。瞼を持ち上げずにいると、すぐそばに人の気配がした。そうか。昨日、畑作業を早めに切り上げて、早めに夕飯を食べて、あいつが俺を。目を閉じていられないような、羞恥に似た居心地の悪さを感じて、ぎゅっと眉根を寄せてから目を開ける。案の定、隣に図体のでかい男がいた。寝台に座って、何か読んでいる。斜め下から見上げるその顔は、精悍といえなくもない。細く高い鼻梁に太い眉。目じりは少し下がっていて、口が大きい。無精ひげをそのままに、強く波打つ黒い髪は肩を過ぎるほどに伸びて、だらしないように見えるのに、不潔な感じはしない。そのままぼんやりと見ていたら、紙面に目を落としたまま、大きな手で俺の頭を撫でた。なんだこいつ。
「なんだ」
「うおあ!起きてたのかよっ!」
「今起きた」
「お、起こしたか。すまん」
「自分で起きた」
決まり悪そうにゆるゆると指を動かしながら、大きな手が離れていく。変な男だ。性的な衝動や、何かの対価ではなく、情愛で俺を抱く男。よく、わからない。ゆうべの、俺の嫌がることを避け、俺の名前を呼び、好きだと繰り返しながら抱く様は、不思議だったし、初めてのことだった。誰のものであっても、精液は汚いし、気持ち悪いと思う、自分のも含めて。だけどああいう行為においては必ずそれが身体に付く。でもこの男は、俺が射精するときも自分の時も、懐紙で受け止めてくれた。俺の感情も身体も都合も、何もかもを精一杯尊重しようとしてくれる。
「雨……」
「ん?ああ……さっき止んでたんだが。また降り始めたな」
「そうか」
「その止み間にな、ちょっと外に出たら、近所に住んでるやつが朝飯持ってきてくれてよぉ」
「ああ……いつも、そうしてくれる子がいる」
「らしいな。カイル先生は!?って問い詰められて、寝てるよって言ったらすげぇ嫌そうな顔で、飯くれた」
「ふ」
「領主さまのはついでだからね、カイル先生のために持ってきたんだからね!っつってよぉ、あいつ、前の村で初めて会ったときなんか、領主さま、お婿さんにしてあげるからお仕事頑張ってね!とかかわいく懐いてくれてたのによぉ、ちょっと会わなけりゃ別の男かよって」
「まだ子供だぞ」
「おお、十かそこらか。すっかりカイル先生一筋だな、あれは」
光景が目に浮かぶ。この男はぶっきらぼうで乱暴な物言いのくせに、親しみを感じるのだ。あの少女も、不意にこの男に対面して照れ隠しだっんじゃないだろうか。聡明で利発な彼女は、時々勉強を見てやっているが、俺はお婿さんに来いと言われたことはない。
「飯、食うか?調子は?」
「調子?なんの」
「え、まあ、……全般」
「普通だ」
「そうか」
おかしな気分だ。性行為は、排せつ行為に似ていた。少なくとも、相手はそう捉えていたと思う。出したいものを出せればそれでよし、出すための刺激が欲しい、その相手が必要で、食料などを持ってきてくれる代わりにそれを手近な俺に要求していた。屋外で相手の都合でするのが普通で、だから、まさか寝所でするなんて信じられなかったけれど、なるほど、理に適っていると思った。この男との行為の最中は、多分立っていられないだろうし、いろいろと手数も多くて念入りで慎重で、時間をかけて重なっていくものだったから。そして、今まで痛みと不快感しかない行為だったのに、そんなものは全くなくて、あろうことか快感らしきものさえ与えられた。だからきっと、この男にとって、あれは排せつ行為とは程遠い何かだったのだと思う。
「ん?」
腕を持ち上げて、なんとなく髭面に触れてみた。ざらついた感触は予想通りで、黒い目がびっくりしたように見開かれてこちらを見ている。黒い髪も、ちょっと引っ張ってみた。見た目より、ずっと柔らかい。そういうところも含めて、本当に、この男は一見した時に受ける印象と実際が随分違う。無謀な行動で森の中で死にかけていたあの不遜な男と自分が、褥を共にするとは思わなかった。そこになんの抵抗もないままに。
「どうした?」
身体を起こして、薄い唇の端にも指先で触れてみる。夕べこの男が何度も何度も繰り返しこの唇で、俺の唇に触れていた。何度も、そこで我慢していたらしい。本当は口を吸いたいようなことを言っていた。冗談じゃない。気持ち悪いし、そんな行為に何の意味があるんだ。そう思っていたけれど、もしこの男の好きにさせたところで、俺は気持ち悪いとも汚いとも感じず、みじめでむなしい気分も味わうこともないのかもしれない。そんな風に、自分の考えが変わった。新しい経験のせいでそうなったのか、この男に感化されたのか、たった一晩で人間は変わるらしい。
「どうした?」
無言のままの俺の目をのぞき込んで、それでも何も言わないでいると、少し眉尻を下げて首を傾げる。そして、大きな手で俺の二の腕あたりをポンポンと軽くたたいた。
「よし、朝飯食おうぜ」
大きな図体の男が頭を掻きながら寝台から降りると、途端に周囲の温度が下がったような気がした。ぽかりと空いた場所には、まとめそこなったらしい書類が一枚。引き戸を開け放したまま、廊下へ足音が遠のいてゆく。ふんと一つ鼻息を噴いて、俺もその後を追った。
やはり、朝食を持ってきてくれる少女は、領主さまに好意があるようだ。俺がいつも頂戴しているよりも豪勢で、覚えたての文字の並ぶ手紙付きだ。茶を用意して食卓を調え、ぼんやり立ったままの俺の顔を見て手招きをして一緒に食べる。図体の割には本当に甲斐甲斐しく働く男だ。
「まーだ降るか」
食べ終えて、大きな身体で立ち上がって急須に新しい湯を足して、そのまま窓辺にもたれて外を眺めて倦んだような声でつぶやく。その声の低さが、俺を落ち着かなくさせる。夕べ何度も、耳元で聞かされた。
「こりゃ仕事になんねぇな、お互い」
「そうだな」
「……」
「……」
「……カイル」
「なんだ」
「あー……」
「なんなんだ、さっきから」
「悪かった」
「何がだ」
「無理させた、ゆうべ」
「同意の上だ。貴様に謝られることじゃない」
「お前さんは優しいね」
「馬鹿にしてるのか」
「まさか。しいて言うなら馬鹿は俺だ。なあカイル、少し話をしようぜ」
「話。なんの」
腹が立つ。夕べとの温度差に、苛立たされる。うるさいほどに好意を囁いて、朝になれば全く違う穏やかな顔でこちらを見る。その目に、あの熱は感じられない。湯気を立てる湯飲みを見つめながら、雨の音を聞いていた。わかっている、身をもって。天気よりも唐突に、人間は変わるのだ。
「……貴様がどういうつもりだろうが、これからどうしようが、どうせそう顔を合わすわけでもない。孕んだわけでもない。何もかも好きにすればいい。貴様にこれ以上」
「おい、ちょっと待て」
「うるさい。俺は貴様にこれ以上、情けを掛けられ」
「待てって言ってる」
分厚い両手を食卓について、真上から俺を覗き込んでくる。その影で湯気が消える。俺は顔を上げてまっすぐに、睨んでくる黒い目を睨み返した。怯んだわけでもないけれど、こころの中で負けてたまるかと自分を叱咤した。そうでもしないと気後れしそうなほどの強い視線だ。
「好き放題言ってくれるじゃねぇか。こっちは話がしたいって言ってんだぜ」
「知るか。どうせまたつまらん気を回しているんだろう。言いたいことがあるならさっさと言えばいい。貴様に何を言われたところで、俺は何とも思わん」
つまらなかったとか。なかったことにしようとか。熱が冷めたとか。はっきり言えばいい。最初から淫蕩領主の気まぐれの戯れだ。そもそもあんなことは何でもない。そうだ。だから、してもしなくてもよかった。あれが最初で最後でも、もう二度と、誰ともあんなことはしないで、俺は今まで通り生きてゆく。
沈黙に耐え切らず、舌打ちをして視線を外した俺の頭上ででかいため息を吐き、でかい図体を起こしてよっこらせと椅子に腰かけ、でかい手が俺の手を握った。ぎゅっと、力強く。
「なんでそんな風に言うんだ。俺は、お前さんと今後の話をしたいだけだ」
「今後」
「そうだ。お互い仕事がある。お互い、ここに住んでいるわけじゃねぇ。なあ、俺はお前さんに惚れてる。心底惚れてるよ。夕べは、舞い上がるような気持ちだった。嬉しくて照れくさくて、だけどだからこそ、ちゃんと確かめてから進みてぇんだよ……お前さん、俺のことどう思うんだ」
「……別に」
「俺はお前さんよりはおしゃべりで、結構一生懸命必死になって自分の考えとか気持ちを伝えてきたつもりだ。お前さんはそれにほだされてくれて、この村を救ってくれて、俺と一晩寝てくれた。そんなお前さんの気持ちを、今の正直な考えを知りてぇんだ」
「……よくわからん」
「俺が好きか?」
「……よく、わからん」
「俺はお前さんとの縁を切りたくねぇんだ。領主としても、一個人としても」
「……」
「……ってのは、きれいに言いすぎだな。好きだ、カイル。ずっと一緒にいたい。こころも身体もつながっていたい。夕べお前さんを抱かなけりゃ我慢できたかもしれんが、もう無理だ。独り占めしたい。閉じ込めたい。あーだこーだ指図して、俺の気に入らねぇ連中とは手を切らせたい。わかるか?お前さんの人生と生活に干渉したいってことだ。うざってぇと思われるかもしんねぇが」
「な」
「かっこわりいだろ、ああもちろんわかってる。かっこわりいし情けねぇしみっともねぇ。お前さんが言ったとおりだ。余裕なんかカケラもねぇし、ひと思いに掻っ攫ってしまおうかとさえ思う。夕べ、俺は最高にしあわせで満たされたけど、お前さんはそうじゃないかもしれない。俺にしてみれば、一回寝たんだし、俺に情を感じて欲しい、俺だけにこころを開いて欲しい、俺のこと好きじゃなかったらあんなこと許さんだろう、そうだよな?って言いたいけど、お前さんに全然そんなことない、脈もない、諦めろって返されるのが怖い。でも、一個一個確認しねぇことには、あやふやなままじゃ、加減が分からなくてお前さんを困らせるかもしれん。それは嫌なんだ。だから」
「……落ち着け」
「はは……俺は、別に」
「わかったから、落ち着け」
すごく色々聞かされたように思うが、その勢いにちょっと驚いて半分ほどしか頭に入らなかった。耳に残っている言葉をゆっくり受け取り、その中には俺が投げつけられるかもしれないと身構えていたようなものは一つもないと知る。握られている手から、少しだけ力が抜ける。
「……俺のこと、まだ好きなのか」
「好きだ」
「どうしたいんだ」
「連れていきたい」
「それは無理だ」
「わかってる。言ってみただけだ、本音を」
「ああ」
「……たまには遊びに来いよ。いろいろ忙しいだろうが」
「遊ぶ?何をして遊ぶんだ」
「……俺に会いに来てくれっつってんの」
「ふん。最初からそう言え」
「来てくれるか?」
「ああ」
「いつ?」
「いつでも。貴様が呼べばいい」
「俺が呼んだら来てくれんの?」
「ああ」
「マジか」
頬を赤くして、目を細めて嬉しそうに言うけれど、貴様こそこの先、俺に会いに来いと呼びつけるつもりがあるのかと驚かされる。家に戻ればそれなりの生活が続くんだろう。酒も女も仕事もある、華やかな生活が。それでも俺にそのこころを渡すのか。俺が、必要なのか。
「俺は、お前さんの特別でありたいんだ。俺にとってお前さんはもう、なにものにも代えがたい特別な存在で、俺もできれば同じようになりたい」
「よく、わからない」
「はは、だよな。あー、どう言えば、いいんだろうな」
「……俺の世界は、あの土地だ。俺はあそこから出ない。あそこでしか生きていかない」
「……そうだな」
「でも、あそこには貴様の座る椅子が、もうある」
「……」
「貴様はこっちの広い世界に、俺を連れ出してくれて、居場所を作ってくれた。感謝してる。おかげで俺は、ここに来られるし、ここに居てもいいと言ってもらえる」
「……」
「俺にとっては、とても特別な状況だ。貴様は、どう思う」
「……お前さんの環境をいい方へ変えられたのだとしたら、すごく嬉しいし、俺は特別なのかもしれないと、思う」
「そういうことだ。今更どうこうと足掻く状況じゃない。確認など無意味だ」
「でも俺は、俺だけがお前さんの特別でいたいから、俺以外に、そうさせるなとも思う」
「うん?」
「椅子は、俺のとお前さんのがあればいい。いずれ弟子もできるだろう。でも、情を交わすのは俺だけだと言って欲しい。隣の領地の人間をつけ上がらせるな。二度と触らせるな」
「結局それか。貴様はそればかり気にして、あんなことは」
「当たり前だろうが!」
「大きな声を出すな」
「すまん」
「……貴様が最初にこの村に連れてきてくれて以降、もうああいうことはしてない。それは自分の意志だし、貴様の作ってくれたこの状況がそれを助けてくれた」
「え?」
「この村の人が良くしてくれるから、日用品も食料も余るほどだ。隣の領地に必要な薬を提供するのは続けているが、患者と状況がはっきりした時しか渡さない。今は物資と引き換えに余分を求められても断っている。その薬を売って金に換えている節があるから。本当は以前から薄々気づいていたのに、俺がだらしなかった。性行為と引き換えに何かを得ることもしてない。必要がなくなったから。一度、二度と断れば、彼らはもう言ってこない。食い下がったりもしない。その程度の執着だから」
「……」
「満足か」
「……わからん」
「ほかにどうしろというんだ。今まで問題があったかもしれないが、俺は」
「お前さんにしたことをなかったことになどできん。無体を強いた人間全員に天誅が下ればいいと思っている。むしろ俺が下したいね」
「その結果、俺の薬が必要になるのか」
「もったいねぇだろう、死ぬまで放っておけばいい」
「……」
「呆れたか」
「困ったやつだと思っただけだ」
困ったやつだ。なぜ性行為に、昨晩のはともかく、そこまでこだわるのか。褒められたことではないかもしれないが、薬のほかに差し出せるものが自分の身体しかない状況では致し方ない部分があったのだ。それをわざわざ説明する必要は感じない。きっと言ってもわからない。ああいうことをする人間性や、その対象となった俺の身体を心配しているのだろうか。だからといって、誰かを傷つけていい理由にはならないし、俺はあの行為の代償に必要なもの得ていたのだ。
「それほどああいうことを毛嫌いするのなら、そうしていた俺を軽蔑したり嫌ったりしないのか」
「は?」
ちょっと背筋がひやりとするほどの低い声だった。黒い目が、虚ろに光る。気に障ったらしい。何気ない問いかけのつもりだったが、想定外の反応だ。気をつけようと思った。迂闊な言葉は、どうやらこの男に火をつける。一言も発さずじっとみつめられて、顔が引きつる。
「……いや、自分を卑下しているわけじゃない。ただ貴様はああいうことを気にするのになぜ」
「お前さんのお師匠さんは、病気や怪我で困っている人に付け込むなと教えた。だから作った薬を売買するなと」
「ああ」
「それを忠実に守るお前さんに助けてもらいながら、困りごとに付け込んだクズは万死に値する。ところでお前さんは、あいつらとお前さんの事情の違いを、俺が理解できねぇと思うか?」
「……いや」
「もっといろいろ言って聞かせてぇところだが、頭に血が上る。俺の気持ちが理解できないのはしょうがねぇとしても、そういうことは言ってくれるな」
「わかった。もう、言わない」
「お前さんは、俺にとってもこの村の連中にとっても、お前さんの親御さんやお師匠さんやこの先知り合ういろんな人にとっても、大事なんだ」
「……そうか」
「そうだ。ああ、そうか、そこだな。そうなんだ、お前さんは大事なんだ。賢くて優しくてかわいくて最高で、大事すぎて撫でまわして俺の懐に匿いてぇくらいだ」
「貴様があんまりそういうことを誰彼構わず言って回るから、村の人に"領主さまの言う通り、いい人だね"などと言われる。返事に困るからよせ」
「おお、さすが俺の領民の皆さん。理解が早くて助かる」
「何を馬鹿なことを」
「好きだ、カイル。お前さんは、俺を好きか?今話したようなことを、俺はまったく偽りなく本気で考えている。それをお前さんは許せるか?他の誰でもなく、俺だけが、お前さんの本心を知り、甘えてもらえる存在でありたい」
「……」
「弱みは見せたくないもんだ。でも俺には弱みを見せて、悩みを聞かせて、嬉しい時も俺に真っ先に教えて欲しい」
「……」
「そうしたくない?」
「……それで貴様に何の得がある」
「得か。得なぁ。俺だけがお前さんの特別なんだというその事実は、俺を世界で一番しあわせにする。それ以上にお得な話ってあるか?」
「……」
「それでもって、俺に惚れられているお前さんが、それって悪くない話かもなって、そう思ってくれたら、それは相思相愛じゃねぇかな」
「……」
「どうだ?」
「……悪くない、と、思う」
ぱっと黒い目が見開かれ、そしてまた嬉しそうに細められる。言葉はとても大事だと思う。相手に伝えたいことがあるのなら、応えたいのなら、できるだけ素直に率直に、言葉にしなければ。それがきっと誠意というものだ。
「よく、聞け」
「ん」
「……俺が貴様に惚れているのかどうかは、何度考えてもよくわからない」
「そうか」
「でも昨日、久しぶりに顔を見て、相変わらずで、なんだかほっとした」
「そうか」
「……夕べ、は」
「違いがわかった?」
「え?」
「違いを、同じ行為でも違うんじゃないかって、確認したいって言ってただろう」
「……違った」
「気持ちよかった?」
なぜこうも揃いも揃って、突っ込む側は気持ちいいか聞くのだろうか。自分の快楽のための行為に付き合わせておいて、こちらの都合など斟酌するつもりもなく、まあ夕べのこの男はそうではなかったけれど、気持ちいいか、気持ちいいだろうと問うくせに返事なんか聞きもしない。気持ちいいわけがあるか。不自然で強引な行為に快楽などない。彼らは、お前も気持ちいいのだから、楽しんでいるのだから、これはおあいこだと言いたいのだろうと思っていた。なけなしの罪悪感を潰したいのだろうと。理解ができなくてイライラして、じろりと黒い目を睨み上げる。黒い目は、穏やかにそれを受け止めて細められた。
「あえて聞いてる。カイル、気持ちよかった?」
「……なぜ聞く、わざわざ」
「ああいうことをして、片方だけがいい気持ちなんて不公平だからだ」
「公平である必要があるのか」
「ある。一番大事だと思う」
「夕べは聞かないでいてくれた」
「最中は、だ」
そうだ。確かに俺は最中にそういうことを聞かれたくないと言った。聞いてどうするんだ。彼らとこの男は違うとわかっているが、なぜ同じことを聞くんだ。罪悪感があるのか。俺が気持ちいいと言えば満足か。気持ちよくないと言えばやめるのか。惚れているから抱きたいと言ったくせに、そんなことで何が変わるというんだろう。
「……」
「言いたくねぇか?んじゃ」
「変な、感じだった」
「うん」
「……悪くなかった」
「そうか」
「だから、貴様は別に俺を抱くのをやめる必要はない」
「そうか、そういうね、そうじゃねぇんだよなぁ」
「何が不満だ」
「俺は満足。びっくりするほどにな。カイルはどうか聞きたかったんだよ。気持ちいいからまたしたいって、お前さんも思ってくれてたらいいなって」
「……俺が、またしたいと」
「そう」
「……」
そんなことは考えもしなかった。ああいうことは、俺の意志と無関係に行われるものだ。俺はできればやりたくなくて、でも生活のために我慢は必要だと割り切っていた。そう、我慢していた。あの時間は苦痛で、実際怪我もしたし、何もかも汚らしく思えて、早く終わればいいとそればかり考えていた。
「貴様は俺が嫌だと言えばそれをしないから、別に、またしても構わない」
「ん。そうか」
「……いや、言い直す」
「ん?」
「貴様がしたいなら、……いや、ちょっと待て」
「うん」
「……貴様は、ああいうことが好きな性分だから」
「え。んー、まあいいや、うん」
「だから、俺としなくとも領土中から女を集めて侍らすんだろうから」
「うーん」
「……だから、そう、……俺は別に、我慢をしていないし」
「カイル」
「なんだっちょっと今」
「一言でいい。頷くだけでもいい。俺として、嫌じゃなかった?」
どう言えばいいのかわからず混乱する俺の手を握り直し、親指でするりと俺の手の甲を撫でる。俺は、小さく頷いた。嫌じゃなかった、全然。何一つ、嫌じゃなかった。
「気持ちよかった?」
「……よくわからない、が、多分。なんか、だから、変な感じだった」
「またしてもいい?」
「……ああ」
「多分もっと気持ちよくなると思うんだよな。そうなれるように、俺に協力してくれるか?」
「気持ちいい方が、いいのか」
「うん」
「気持ちよければ、なんでも、誰でもいいのか」
「まあ、極言すればそうだな。でもお前さんは俺としか気持ちよくならないから、誰でもってのは無理な話だが」
「……そういうものなのか」
「そういうものなんだ。俺もそう。お前さんとしか、あんなに気持ちよくなれない。だからお前さんを抱きたくてたまらない」
「……」
「なんでかわかるか?」
「……いちいちうるさい。好きだからだろう」
「そう。俺もお前さんも、お互いが好きなんだ」
「それは」
「疑問が残るか?」
疑問はないけれど、ピンとこないというのが正直なところだ。あと、落ち着かない。好きな人がいる、という状況が。なんだかものすごく、心もとなくて、不安を覚えてしまう。好きなものにいつか手が届かなくなることを想像してしまう。
「……いつまで?」
「何が?」
「いつまで俺が好きだ」
「難しい質問だな……いつまで、うーん……そうね、ずっとだけど、何か不安があるのか」
「……別に。ただの確認だ」
「お前さんが俺を好きでいてくれる間はずっとって答えじゃ不十分か?」
「……いや、それなら、それでいい」
「ああ。だから、ずっとだな」
「貴様は少し自信過剰だと思うが」
「それって、お前さんが俺を好きじゃなくなる日が来るって話か?」
「何が起きるかわからないという話だ」
「ああ、起きてから考えるわ。俺ぁ今、お前さんのことしか考えられんからなぁ」
俺の手を握ったままにこにこと笑うこの領主は、時々わからないことを言う。でも、嘘は言わない。それに、世間一般については俺よりよほど見識がある。俺の仕事の腕を買ってくれていて、俺の考えを否定しない。だから信用して大丈夫だ。
「納得できそうか?」
「ああ。あまり考えても、仕方がないし。貴様の話を聞いていると、確かに俺は貴様が好き、なのか、だろうかと、そういう気がするから」
「カイルは俺が好き。最高だなぁ」
「知らん」
「よし、じゃあ、まあ、飯も食ってお茶も飲んで、まだしばらくは雨が降る」
「ああ」
「夕べの続きをしねぇか」
「は?」
「嫌か?」
「なぜ?」
なぜこの男はたった今俺が納得して安心したのに、新たにわけのわからないことを言い出すのだろう。続きってなんだ。昨日は昨日で終わっただろうが。胡乱げに睨む俺に、殊更にこにこと笑って見せ、妙な恥じらいを滲ませつつ、それでも話を引っ込めることはしない。
「なぜときたか。なぜってお前さん、そりゃ」
「夕べ、貴様も出したよな?」
「え?そうね」
「そんなにすぐはたまらないだろう。無尽蔵に出るものでもなし。……出してないのか?俺が勝手に」
「出した。ちょっとお恥ずかしいくらい出しました。でも、ああいうのは、出す出すねぇってのは結果であって、出しゃいいってもんでもねぇし、出さなくったって触ってるだけで満足というか」
「触るだけでいいのか」
「いいわけあるか」
「さっぱりわからん。結局、昨晩の行為は不満足だったということか」
「最高だったから、もう一回したいってお誘いだ」
「……」
「雨はまだ降る」
「……いい、けど」
「うん」
「……股関節が痛いから、あまり股を広げさせるな」
「すまんっ!……てか、本当に身体かてぇんだな」
「そうらしい」
「教えてくれてよかった。気を付ける」
「ああ」
「じゃあ、いいか?」
「……ああ」
「ほかは?」
「何が」
昨晩と同じように、俺の手を握って寝室に連れていく大きな背中。思わずべちんと叩きたくなるような大きさだ。薄い寝間着越しに浮き上がる筋肉と、肩のあたりに揺れる波打つ黒い髪。なぜ俺は、この男に抱かれるのか、よくわからない。惚れているから抱きたいと言われて、そういうものなのか、まあ、減るものでなし、嫌いでもないし、恩も感じるからと好きにさせたのが昨晩で、想像と違うことばかりで大変だった。一番の違いは、この男が、ものすごく優しかったことかもしれない。終始俺のことを気遣い、名を呼び、好きだと囁き、行為が終わってからもずっとそうだった。優しい。それは、俺に惚れているからなのだと、予想はするけれど、それだけで説明できないほどの優しさだった。そばにいると心地よくて、そう、行為も、痛くてみじめでつらいだけのはずが、とても心地よかった。それは俺もこの男が、好きだから、らしい。またするのか。耐えられるだろうか。俺はこれ以上、あんな居心地の良さに、耐えられるのか。思わず縋りつきたくなるような、あの気分に。
「ほかに、痛いところとか、俺にされて不愉快だったこととか、あれば教えて欲しい」
「ない」
「ん、そうか」
「……疑っているな、貴様」
「え?いやぁ……」
「俺がないと言ったらない。文句あるのか」
「舞い上がっちゃうね、嬉しくて」
「ふん。信用している、そういう部分は。貴様は、俺の嫌がることをしない」
「ああ」
寂しそうに一枚残された書類を退かせて、さっき起きたばかりの寝床に二人して転がる。そう言えば寝具が変わっている。洗濯が得意なのは本当だったのか。雨の日に洗濯など非効率な話だ。
「好きだ、カイル」
「……もう、わかった」
「俺もって言って欲しいなぁ」
「俺も?」
「……あー、やっべぇ……」
ギュッと抱きしめられて、暖かいなと目を閉じた。手際良く脱がされて弄られて、何度も名を呼ばれて、痛くないか辛くないかと気遣われて、挿入されたら身体が震えた。夕べよりもよくわかる。これ、気持ちいい、多分。
「脚開いてるお前さんもそそるけど、脚閉じてるお前さんもたまんねぇな。かわいいよ」
股関節が痛いという俺の負担を考えてか、俺を背中から抱き抱えて横になって挿入されたから、脚を開かないで済む。耳元で吐息まじりに囁かれれば、なんとも言えない何かが腹の奥で重く蟠る。肌が泡立つような感覚に、伸ばしていた身体が少し丸くなる。ちょっと、変だ。夕べより変な感じがする。
「ん?嫌か?しんどい?」
「べつ、に」
「かわいいな、カイル。好きだ」
体格差があるから、後ろにいるのにこの男は俺の顔を肩越しに覗き込んでくる。気づかわし気で口調は穏やかだけれど、両手は俺の腹やら胸やら股間やらを撫でまわしているし、黒い波打つ髪が肌にくすぐったいし、届く範囲あちこちに唇で触れてくる。余裕綽々でムカつくなと思うけれど、よく見ると額に汗がにじんでいて、やせ我慢なのだろうと知る。乱暴に雑に好きに腰を振れば、貴様の満足に早く近づくだろうがと、もちろん言わない。そんなことを、この男が望まないと、今は理解しているからだ。緩く息を吐き、どうにか得も言われぬ感覚をやり過ごそうとしたが、大きな足がするりと俺のふくらはぎを撫で上げて、何一つうまくいかない。
「ん、う」
「ああ、ちょっと待ってくれ」
夕べもそうだけれど、強く腰をぶつけられるような激しいことはされない。ゆるゆるとじっくりと抱かれてもう気をやる直前になっている俺の様子を察して、懐紙を取るために大きな身体が離れる。たっぷりと塗りこめられた潤滑油のおかげで痛みなく受け入れたものを抜かれれば、その大きな体積が除かれて腹の中の苦しいようなたまらなさがなくなる。そうしたら、念入りに広げられた奥からゆっくりと、さっきまでの強い圧迫を欲しがるように締まっていくのが自分でもわかった。それを止めるのに力を入れればいいのか抜けばいいのか、焦っていたら急激に射精感がせりあがってきて混乱する。待て、今は、挿入されてない。揺さぶられてない。触られてない。それなのに、身体が何度も跳ねる。歯を食いしばっても、声を上げるのを我慢できない。目の前が白いのは敷布を見ているからなのか自失しそうなのか、もうわからなくて、俺はそのまま射精してしまった。何もされていないのに、ただ、寝台に横になっているだけで、余韻だけで。
「すまん!あー、悪い、ごめん、カイル」
「あ、う」
「俺の手際が悪かった、せっかく気持ちよかったのにな、水を差したな、すまん」
慌てて大きな手が懐紙で俺の腹の辺りを拭ってくれる。どうしよう。汚した。汚いと思われる。謝らないと、始末を自分でしないとって思うのに、熱が落ち着かなくて、動けない。初めてこの男との行為の最中につらくて涙が滲んだ。どうしよう。
「カイル?洗えばいい。あと、お前さんがどう思うか知らんが、汚いとは思わん。でも、悪かった」
「す、まない、汚した、汚い、から」
「謝んなよ。気持ちいいから出るんだろ。俺としてはむしろ嬉しいね」
「うれしい、なんか、おかしい」
「ん?おかしいか?他人のならまあ、あれだけど、お前さんのはいい。なんでかわかるか?」
「俺が、かわいいから」
「ふ。そう、そうだ。わかってるじゃねぇか。カイルはかわいいから、いいんだよ、こんなこと全然かまわん」
「俺が、かわいいわけ、あるか」
「かわいいね、お前さんは。俺にとっては最高に」
馬鹿馬鹿しい。でも、この男にとっては本気の本音で、こんなことを本心から言える馬鹿な男を、俺は好き、らしい。だからきっと、俺も馬鹿なんだ。涙は止まった。まだ心臓がバクバクとうるさい。身体が熱い。俺の粗相の後始末を済ませて、俺をあお向けにして、大きな手が俺の頬を撫でる。
「……貴様も、出せ。俺の中に、出していい。それであいこだ」
「あいこでは、ねぇな、それ」
「じゃあどこに」
「別に、お前さんは俺に借りも何もないわけでな」
「だから」
「かわいいな、カイル。かわいいことを、あんまり言ってくれるな。本気にするぞ」
「俺は、本気だ」
「お前さんは俺相手に、どんな状況にあっても我慢したり妥協したり譲歩したりしなくていい」
「貴様に」
「カイル、もっと気持ちいいことしようぜ。付き合えよ。出しちゃったとか、そんなのどうでも良くなるくらい、夢中にさせてぇな」
この男は、普段俺の話をちゃんと聞いてくれるくせに、今は酔っているのかと思うほど話が通じない。黒い目にじっと見つめられて、ドキドキする。これは、まださっきの粗相の衝撃が収まっていないからだ。俺さえよければ世の中の半分くらいはどうでもいいと言う男。どうでも良くなることなんか、俺の世界には一つもなくて、まったく俺と釣り合わない男。だから、この男とまぐわっている間は、何もかもどうでもよくなるほど、気持ちよくなれば。そうすれば、少し近づけるのだろうか。この男の感情や、優しさに。無精髭のざらつきを感じながら、両手で精悍な顔を包み、引き寄せて唇を触れ合わせる。触れた唇が気持ちよくて、ぺろりと舐める。ああ、もう、どうでもいい。
「カイル」
「もう、いろいろ、やめだ。俺は汚いと思うけど、貴様はそうでもないと言うし、だったらそうかもしれない。口吸いなんか、気持ち悪いと思うけど、そうでもないかもしれない。だから」
「おお、付き合うぜ」
「……うん」
「やならやめような」
「やじゃない、ような気が、しないでも、ないかも、しれない」
「そうか」
「……貴様が、言うから、試してみた方が、いいのかもしれんと」
「うん。かわいいな、カイル。股痛ぇの、我慢できるか?」
「なぜ」
「顔見てしてぇんだけど」
「違う」
「え?」
なぜ俺が言おうとしたことを先に言うのか。いつも後ろから抱かれていた。木だとか壁だとか地面に手をついて自分を支えて、背後から蹂躙されて、身体を汚される。それが普通で、俺にとっては受け入れるしかない日常だった。正面から抱き合うことも、寝室ですることも、俺にとっては未知の行為で、教えてくれたのがこの男でよかったと心底思う。多分これが、好きという感情への俺の答えだ。今までできなかったことができるようになる。嫌なことを嫌だと言える。辛かったことを変えてくれる。この男に背中からぎゅっと抱きしめられて、耳朶に唇で触れられたまま甘言を流し込まれれば、居心地の良さを感じる。どれだけ俺が暴れても、触れ合う肌が離れない。全然嫌じゃなかった。気持ちよかった。でも、俺を抱くこの男の顔は格別で、眺められるのは俺だけだから、多少無理をしてでも顔を見ながらしたい。
「俺は、我慢しない。痛くても構わないと思うだけだ。貴様もするな」
「うん」
「好きにしていい」
「俺だけだな?」
「貴様だけだ、俺を好きにしていいのは」
過去の経験などどうでもいい。痛みなんかもっとどうでもいい。この男が我慢なく好きに俺を扱ったらどうなるのかを知りたい。手足を目いっぱい伸ばして、やたらと図体のでかい、優しい色男にしがみつく。すぐさま太い腕が背中に回って、強く抱きしめられ、唇を塞がれた。柔らかくて大きな舌が入ってきて、口の中を舐られて、頭の奥が痺れてくる。白く霞む頭で、この男にかかれば身体中どこもかしこもおかしい程気持ちよくなっていくんだなと考えた。気持ちいい。もっとされたい。
「……俺だけ、だ」
「ん?」
「貴様が、こういうことを、するのは」
「そうだな。俺はカイルにしかこういうことはしない」
「うん」
「気持ちいいな。夕べより」
「うん」
「かわいいな、カイル。好きだ。惚れてる。これ以上、ないくらい」
「貴様も、かわいいぞ」
「ほんとか?そうか。初めて言われたなぁ、そんなこと」
「俺だけだ」
「そうだな。嬉しいよ」
「俺も」
「ふふ」
甘くて重くて激しい性行為は、嫉妬心さえどうでもよくさせた。逃げたい、解放されたいと思うのに、永遠に続いて欲しいような気がする。溺れるかと思うほどの強烈な快感の嵐の中で、一瞬この男さえいればいいと、そんな感傷が過るほどだった。
◆
「惚れ薬ってのはできねぇのか?」
「できなくはない。作り方はある。ただ、貴様をはじめほとんどの人は惚れ薬を誤解していると思うが」
「相手を自分に惚れさせる薬だろ?」
「そのきっかけを作るものだったり、錯覚させるものだったり、そういう薬だ。薬というのもどうかと思うが、とにかく飲んでたちまち相手に惚れるわけじゃない」
「へえ」
「薬の力で多少は事が進みやすくなるかもしれない、という程度のものだ。……必要か」
「さあ、どうだろう。どう思う?」
黒い目が俺を見る。どこかに惚れ薬を使いたい相手がいるのだろうかと、俺に考える余地さえ与えないほど、俺ばかりを見つめる目だ。
「……要らんと、思うが」
「そうか」
「ああ」
「ふふ。あー、昔の俺に言ってやりてぇな、頑張れ、いいことあるぞってな」
「俺もだ」
「人生捨てたもんじゃない。こんなにも、いいことがある」
「そうだな」
人生捨てたもんじゃない。過去の俺は、きっとこの言葉を信じないだろう。でも、これは現実だ。安心できる場所が、相手が、ちゃんと見つかる。喉が枯れるほどの情交を結んだあと、恥ずかしいほどやさしく甘やかしてくれる相手が。どんなときも、意志を尊重してくれる相手が。
「……おなかがすいた」
「お?いいねぇ、俺もそう思ってたところだ」
「雨は止んだか?」
「んーどうだろうな。止んでいても、いいだろう、たまには。のんびりしようぜ」
「まあ、それも悪くない」
「だろう?雨の音に守られて、まるで世界にお前さんと二人きりみたいだ」
それも、悪くない。
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