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第一章 五月上旬~五月中旬 8
8
「西野さんは、これまで普通のサラリーマンの経験がない人だからね。君から営業活動といっしょにサラリーマンとして常識的なことを教えてあげて欲しいんだ。相談にも乗ってあげて欲しい」
「年齢が同じだったよな?」
三田部長が木川課長に視線を投げる。
「ええ、同学年です。子守り役にはドンピシャです」
木川課長が答える。
「はあ。来週から、すぐに、営業活動に同行の形になるんでしょうか?」
「いや、一週間の研修は予定している。工場や配送センターの人達への紹介とか仕事の流れについて勉強する必要があるから。それは、僕が段取りする。どこを引き継いでもらうかは、吉村係長の意見も入れて研修期間中に印刷物で渡します」
「だから、この人と営業活動するのは。再来週からだよね?」
「そうなりますね」
「面接の印象では、非常に素直そうだったけどね」
三田部長の言葉に、木川課長が、微笑みながら首を傾げた。優しい微笑みではなく、皮肉の成分がたっぷり混ざっているように春夫には思えた。
「とにかく、問屋さんとか販売店さんとかにフェルシアーノ株式会社としての変なイメージを与えて信用を落とさないよう西野さんを教育して欲しいわけよ。勘違いして欲しくないけど、僕は、差別意識を持ってるわけじゃないからね。西野さんは、ただ女性の心を持って生まれたというだけのことだと思っている」
木川課長の言葉には熱がこもっていた。
「誰も、課長が、偏見を持っているなんて考えちゃいないよ。まあ、そういうことで、よろしくね」
三田部長が、にこやかに言い、繰り返し頷いた。春夫には、「はい」しかないのだった。
「営業同行中、西野さんのことは、出来る限り、ひとりの女性と考えて接するようにしてください。慣れるまでは、西野なんて呼び捨てにしないように」
木川課長がだめ押しをする。
「分かりました」
春夫は、答えたが、難しい注文のようにも思えた。一緒に活動していれば、どこかで、男性の顔を覗かせるのではないだろうか。そんな時でも、ひとりの女性として扱えるだろうか。自信がなかった。
それにしても、どうして、ニューハーフのクラブから普通の会社に勤める気持ちになったのか。そこが、聞きたいところだ。春夫は、目の前のふたりの上司に聞いてみたが、三田部長も木川課長も本当に知らないようだった。
西野明美は男性トイレを使用であっさり決着がつくに違いないと思った春夫の予想は裏切られる結果になった。
佐和子が席に戻ったのは、春夫が席に戻って三十分も過ぎた頃だった。既に、日報も書きあがっていた。
「揉めたの?」
「別に揉めはしませんでしたよ。やけに頑張る人はいましたけどね。それに刈谷係長の質問の件だけじゃないですよ。他にも話し合いました」
佐和子は、答え「日報、急いで書かなくちゃ」と書類を広げた。もう、何も聞かれても答えませんからね、の姿勢に感じられた。
女子トイレ使用についてやけに頑張る人がいた?驚きである。誰なのか、春夫には、まるで、想像がつかなかった。
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