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余り仕事に身が入らないような一日を過ごし、反省しながら帰宅した多岐を、ミハナは笑顔で出迎えた。
「おかえりなさーい」
「た、ただいま」
いまだにこういうことに慣れなくて、多岐は少し戸惑う。しかし、もちろん嬉しい。ミハナはにこにこと多岐に寒くなかったかと声をかけて気遣い、多岐はそれに頷く。もうミハナを匿う必要はなくなったらしいが、長く多岐の自宅にいたので、自分の家に戻るのはまだ支度が整わない。だから今しばらく。別に急ぐ必要はないのだし。昨晩二人はそのような話をした。
「孔雀屋さんから、仕出しが届いてるんです」
「へぇ」
「お珠さんから手紙をもらって、旦那が元気ないから、おいしいものでも食べなさいって。旦那、元気ないですか?大丈夫?」
「大丈夫だよ。元気だよ。仕出しはありがたいね」
「ね。なんだかすごく豪勢でした」
「そうか」
「お風呂先に入ります?俺はもう済ませたんですけど」
「ああ、じゃあ、そうしよう」
「はい、ごゆっくり」
多岐は、今朝の自分の振る舞いが珠の進に心配をかけたのだと思って、また反省した。動揺したのだ。長い付き合いの家族同然の男の変化に、動揺した。変化の先にあるものが、良いことなのか悪いことなのかが判断できないから、いまだにそれは収まらない。でも、珠の進にとって、あの変化は待ちわびたものだったのだ。たとえ傷ついたとしても、受け入れるほかない。オオクマが珠の進を傷つければ、それはそれで片を付けたい話ではあるが。
多岐を風呂に見送って、ミハナはため息をついた。珠の進からの手紙には、昨晩は気を使ってくれてありがとうということと、多岐は何にも気づいていなかったから、今朝こちらへ来て驚いたみたいだということと、とにかくおなか一杯おいしいものを食べて落ち着いて欲しいということが書かれていた。
「そんなに驚くこと?お珠さんに初恋が訪れたってことが?」
少々遅めではあるが、決して悪いことではない。珠の進は恋に落ちてみたいと常々言っていたのだ。オオクマが珠の進を相手にするかというのはさておき、叶わなかったとしても、素敵なことだとミハナは思う。自分が今素敵な恋をしているからだというのもある。それにオオクマは、昨日の様子では色恋に長けていて経験豊富で少々のことには動じないだろうし、何より珠の進という美術品のような男娼を目の当たりにしても、多岐やミハナに対するのと態度を変えずに接していた。それだけで、珠の進の初恋のお相手としては不足のない人物なのではないだろうか。オオクマ個人のことをほとんど知らないけれど、まともな職に就き、十分に働き、あとは彼に配偶者や恋人がいなければ、何の障害もなさそうだ。
「孔雀屋さん、辞めちゃうのかな」
珠の進は年季も明けていて、孔雀屋にいる必要はない。出ていく理由がないだけだ。特にやることがないから、恩返しのようなつもりでまだそこにいて働いている。珠の進が孔雀屋を辞めるのを止めることはできないが、防犯上の問題は普通の人よりも重大だ。なにせ、昼日中のコトの街さえ一人で歩かない男だ。この恋が叶わなかったり、交際が始まってもそれが終わった時に、珠の進が一人になることを考えれば、きっと多分、孔雀屋にいた方がいいだろう。でもああいう仕事と、恋人との営みを、お互い切り離して考えられるのだろうか。ミハナはおせっかいとはわかっていても、珠の進のことが心配でしょうがなかった。どうやら自分もおなか一杯おいしいものを食べて落ち着いた方がいいようだ。どんな時でも、珠の進は正しい。そんな珠の進の計らいで、予期せずとても豪華な食卓となり、多岐とミハナはゆっくりと時間をかけてそれらに舌鼓を打った。
「おいしー!!これ、なんでしょうね?」
「うん?なんだろう」
「あ、おいしい。ちょっと辛い。おいしー!!」
「ふふ」
「この、一緒に届いたお酒にもぴったりですね」
「そうだな。どれも美味い」
仕出しは孔雀屋が宴席の時などに使っている料理屋のものだった。こちらも、コトでは知らぬ者のいない老舗だ。孔雀屋の料理も美味いが、やはり全然違う。美味しいし手が込んでいるし、見た目も美しい。多岐が感心しながら箸と口を動かしていると、ふと視線を感じた。顔を上げれば、向かいに座るミハナが多岐を見ていた。目が合い、我に返ったように、曖昧に笑う。
「あー……」
「心配ない。俺は元気だよ」
「……はい。ごめんなさい。探り入れてるみたいでしたね、今、俺」
「そんなのかまわないさ。珠のが、その、……オオクマに懐いたようだから」
ちょっと違うな。多岐は言葉を探しながら箸を置いてお猪口を手に取る。オオクマの方はともかく、珠の進はオオクマを好きになったんだと思う。自分の様にいつの間にか気づいたら、ではなく、もしかしたら出逢った瞬間に。そんな強い衝動を、感情を、他人に対して持ったことがないから、珠の進に起こったこの度の変化が理解しきれなくて少し塞いでいる。彼はどこまで変わるんだろうかと。想像できないのは、自分に当てはめられないから。多岐は肩を竦めた。
「経験不足で、オロオロしているだけさ。珠の進にかける言葉も見つけられない。情けないことだ」
「情けなくなんてないです。お珠さんのことを、ずっと大事にしてこられたからでしょう」
「……」
「この食事は、お珠さんが多岐の旦那を心配したから。いい関係だと思います。情けなくなんてない。旦那は、すごく優しいです」
俺の自慢の恋人です。
ミハナはその言葉を言わずに、笑みを浮かべた。そんなミハナを見て、多岐はまた思い出す。彼の変化を見たい、と。
「ふー、お腹いっぱい。おいしかったですね」
「ああ」
すっかり全部平らげて、夜も更けて、二人はとても満たされていた。主にお腹が。
「星がきれいだよ」
多岐は時々、雲のない夜にミハナにそう声をかける。出かけるわけではなく、多岐の寝室の窓から一緒に空を眺める。たいていは就寝の前。大きな窓の前に長椅子を置いて、二人で並んで腰かける。
「わー本当ですね。今夜はまた格別です」
「うん。星座が少し変わったな」
「全然わかりません!」
「あそこの、大きな木の右側にあった星が、もっと天中に近くなっただろう?」
「全然わかりません!」
「つまらないかな」
「楽しいです!!」
とても楽しい。自分の知らないことを教えてもらうのも、多岐の知らない面を知ることができるのも、楽しい。星座に詳しいなんて、すごい。ミハナは満面の笑みで窓越しの空を見上げ、指をさしていろいろと教えてくれる多岐に相槌を打つ。多岐の声は耳に心地よくて、すぐ隣にある体温は、安心できる。
「あ、今の」
「なんです?」
「流れ星……かな」
「え!俺見たことない!どこ!?」
「もう一個来るかな。あそこ、よく見ててみて」
「どこ!?」
多岐の指さす方向を正確に視界に入れようと、ミハナは鼻息荒く多岐に身体を寄せた。はからずも、今までで一番。我に返った二人は、気まずいような照れくさいような気持ちで、黙り込んだ。距離を取ることはしなかったけれど。
「……」
「……」
離れなければと思うのに、離れられない。覗き込んだお互いの目がきれいだ。夜空に輝く星よりもきれいな目。見上げた夜空よりもきれいな目。これ程近く見つめたことはなかった。
口づけとか、したら。
多岐は自分でも思いもよらなかった発想にびっくりした。そんなことをしたいのか。性的に不能のくせに?それに、例え交際相手であったとしても、そういう行為は相手の了承を都度得るべきだ。してもいいかと、確認をしなければいけない。じゃないと、一歩間違えば暴行にだってなりかねない。だから、聞かないと。したいのだけど、いいだろうかと。
ミハナは、これは完全に性行為へ繋がる流れの雰囲気では?ここは寝室だし?と思いつつも、多岐の告白を思い出して自分を戒め踏み止まっていた。何度も何度も、想像した。彼と寝ることを。身体を繋げられなくとも、触りたい、触られたいと。もし良かったら、俺のを使って、俺を受け入れてもらえないかと提案することも考えた。でも、当たり前だけれどそんなことは口にできない。多岐は、こうなったのは、そういうことをしたいと思わないからだと言っていた。実際、今まで一度も多岐から性的な視線をもらったこともないし、言葉さえない。だから、そういうのは全部、多岐にとってはご法度なのだ。だから、早く、離れないと。
「……だ、旦那、くるし……」
「───!あ、すまん、すまない!」
ミハナに口づけしたいという気持ちを抑えられなくて、多岐はとっさにミハナを抱きしめていた。ギュッと腕の中に閉じ込めて、そうすればミハナの顔は自分の肩口にあって、口づけなどしなくて済む。全部無意識の行動だったから力加減が雑だったらしい、ミハナに寝間着を引っ張られてようやく自分の暴挙に気がつく。慌ててミハナの肩を掴んで自分から引き剥がし、腕の長さだけ距離を取った。
「すまない、不快にさせたな、その」
「不快じゃないです、びっくりして、ちょっと、旦那って結構力強いんだなって思っただけです」
「そ、そうか。えっと、あー……」
「なんで俺のことギュってしたんですか?」
「え?それは、君……」
「なんで?」
ミハナは両肩を掴まれたまま多岐をまっすぐに見つめる。言い逃れは難しい。ミハナは正直で、だからこそ時々めっぽう強い。
「……ちょっと、君と距離が、近くて、なんだ、その、目が、すごく綺麗だなって思って、そしたら、なんだか、く、ちづけ、しそうになってしまって、危ないところだった、思わずそう、でもだから、それを避けようと」
ミハナはスパンと多岐の両手を弾いて尻を滑らせて一気に距離を戻した。目と目を間近に見つめ合えるほどの距離に。そして今度はミハナが両手で、多岐のがっしりした肩を掴んでさらに引き寄せた。
「俺に、俺と、口づけしたかった?」
「……うん」
ミハナは手を多岐の肩から離して、逞しい首に回したかと思うと、身体を伸ばして多岐の唇に自分の唇を押しつけた。ああ、同じ気持ちだった。俺も、したかった。それを聞かされて、ミハナに遠慮などする理由がない。しかし多岐はびっくりした。あっという間にミハナに唇を奪われてしまった。彼の行動力に感心さえする。そして、したかったのだ、彼もだというのなら、存分にしたい。
「ん……」
隣に座るミハナの腰に腕を回して、身体を引き寄せる。お互いの唇を押し付け合い、どちらからともなく食み、吸い、口を開けてお互いの舌を絡め合う。多岐はまだこの状況に驚いていてどこか冷静で、頭の中に孔雀屋の男娼たちの言葉が浮かぶ。こういう口吸いは最悪だとか、こうされると嬉しいとか、ああいうのって頭ん中が溶けちゃうとか。孔雀屋の子が珠の進と話しているのが聞こえているだけだから具体的には覚えていないのだけれど、異口同音に嫌われる行為と好かれる行為もある。耳年増も悪くない。こういう咄嗟の時に、いくら不慣れでもミハナの嫌がるようにはしたくないから。できることなら、気持ち良くなって欲しい。ああ、口づけって、こんなに気持ちいいのか。
「旦那、って」
「ん?すまない、嫌だった?」
「すごく、じょうずで、気持ちいい、です」
「それは良かった。俺もだ」
今まで何人かと付き合ってきて、ミハナにはそれなりの経験がある。それらと比べるわけではないけれど、多岐のやり方はとてもとても紳士的で情熱的で、すごく、夢中にさせられる。もっとたくさんして欲しい。ミハナは多岐の金色の目をじっと見つめ、目を軽く伏せては小さな音を立てて多岐の唇を吸い、もう一度多岐の目を見つめる。もっとしようと、伝えたくて。
「抑えが、効かんな……」
多岐は独り言のようにそう呟いて、ミハナを抱え直して唇を塞いだ。抑えるなんて、嫌だし、させませんよと、ミハナは後でちゃんと言おうと思った。今は、とてもそれどころではない。流れ星を待つ余裕がないほど。
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